FC2ブログ

会員の声

◎会員の声①


<小津寅之助(父)―小津安二郎(息子)>
                                   岡安 隆


私の家の近くに文化センターがあります。その中に約100㎡位の広さの小津安二郎・展示コーナーがあります。深川で生まれ、下町の人情豊かな親子、家族を描いた映画作品等が紹介されております。年に
2回ほど小津の作品を上映しておりました。私は小津の作品を鑑賞しました。「父ありき」「晩春」「東京物語」が印象に残っております。そんな縁で小津のルーツを調べました。

(父・小津寅之助)
安二郎が生まれた時は、父、寅之助は干鰯問屋・湯浅屋の支配人でした。深川の店は伊勢松阪の海産物肥料問屋、小津与右衛門家の江戸の店です。代々の当主は与右衛門と名のっておりました。房総沖でとった鰯を砂浜で干して乾燥させた乾燥肥料。江戸時代を通じて農業にはなくてはならない肥料であった。干鰯は房総方面から水運で運ばれ、深川の特定の場所に陸揚げされ、取引されました。銚子場(深川西町)江川場(深川蛤町)永代場(深川西永代町)元場(深川小松町)と4か所あった。小津は江川場の有力問屋。
    2018年10月会報稲荷神社1
                      2018年10月会報稲荷神社2

湯浅屋金兵衛は深川の富岡八満宮の境内の永昌五社稲荷神社に狛犬一対を宝暦13年(1763年)に仲間
の問屋と奉納しました。嘉永7年(1854年)幕府の御用金徴収者氏名に湯浅屋700両、多田屋50両と記載されております。湯浅屋は江戸時代から深川で手広く商いをしておりました。明治18年には仲間の肥料問屋と組合を作りました。組合員は17名です。事務所は小津与右衛門の湯浅屋です。寅之助は分家、支配人として店を仕切っておりました。古石場文化センターの近くの古石場川親水公園に「小津橋」という名前の橋があります。川の両岸にある倉庫に荷を運ぶために造りました。

組合結成時の組合員17名のうち干鰯問屋は約半分で、米穀問屋を兼業するものも多かった。安二郎が生まれた明治36年頃から、北海道の鰊魚粕、満州産の大豆粕へ、そして化学肥料が登場し、普及したので大正期まで残った問屋はわずか8店となった。明治44年(1911年)には旧中川と堅川との合流地点を中心に日本化学工業・東京硫酸・全国肥料取次所製肥・東京魚商組合肥料・佐々木肥料・大日本人造肥料(大島、小松川)等の化学工場が肥料を製造していた。日東化学は大正6年に過燐酸石灰、化成肥料、硫酸を生産した。

寅之助は関東大震災後に問屋業はやめ、松阪小津家が深川の店舗、倉庫他広大な土地を所有していたので、資産を管理する不動産業に商売替えをした。1923年安二郎が深川にもどったが、父は商売を継いでほしいと願っていたが、安二郎は松竹キネマ蒲田撮影所の撮影助手として、映画界への第一歩を踏み出した。

(息子・小津安二郎) 
1903年(明治36年)12月12日、東京市深川区亀住町(現在の深川一丁目)で、兄と妹2人と弟の
         5人兄弟妹。
1910年 明治尋常小学校入学 
1913年 兄・妹2人・弟5人と母は松阪で過ごしました。寅之助は深川と松阪とを半々に往来をして
    おりました。
1923年に深川に戻り、松竹蒲田撮影所に撮影助手として入社。
1927年「懺悔の刃」時代劇・監督第一作目
1933年(昭和8年)「出来ごころ」この作品は深川を舞台にしたドラマで「喜八もの」と呼ばれている
          人情ドラマ。これをシリーズとして発表する。      
1934年(昭和9年)父、寅之助死去。(享年68才)
1949年(昭和24年)「晩春」脚本家:野田高悟、出演者:原節子、笠智衆

嫁ぐ日に高島田の原節子が三つ指ついて「おとうさま長い間お世話になりました。」と感謝の気持ちを直に表現している。46才の小津監督、笠智衆は45歳で初老の父親役、ほのぼのとした心温まる映画であった。
2018年10月会報東京物語

1953年(昭和28年)に「東京物語」では、家族の在り方を問うた作品で高い評価を受けております。それぞれの家庭の事情が優先されて、上京した両親のお世話がないがしろになってしまった。原節子(死んだ三男のお嫁さん)が休暇を取り東京を案内してくれた。母親の葬儀の際も葬儀が終わったらそそくさと帰京してしまった兄姉に対して末妹が原節子に、「兄や姉は自分達の都合ばかり優先している。」と言ったら、「家族の事情が優先されてしまうのは仕方がない」と返答をした。この状況は現在の家族でも当てはまるようです。

後年、昭和56年英国サザランド賞を受賞。国際的に評価されました。後年山田洋二監督が「東京家族」という作品でリメイクし、話題となりました。1962年11月 芸術院会員に選出された。映画界からは初めてです。

しかし、1958年に観客数は11億2700万人が、1962年には6億6000万人へと激減した。娯楽の主役は映画からテレビへと。1962年「秋刀魚の味」が遺作となり、1963年12月12日に亡くなりました。その日は60才の誕生日。小津の死後、テレビに押されて、観客数はさらに減少して、各映画会社は制作本数を縮小することになり、倒産した映画会社もありました。
父親の寅之助は商人として、安二郎は文化人として深川・下町に大きな足跡を残しました。私は小津安二郎と深川に愛着を感じました(2018.5.9)


メニュー
アクセスカウンター
リンク