学習会の要旨


◎6月16日(土)学習会の要旨                         2018年7月会報斉藤先生2
  
 日 時:6月16日(土) 13:30~15:30                             
 場 所:東京経済大学 2号館 B301教室  
テーマ:「日本列島人の起源と成立」                                          
 講 師:斎藤 成也 先生(日本遺伝学研究所教授)
 出席者:221名(会員:男性149名、女性56名、
 非会員:男性11名、女性5名)

【講演要旨】

1.進化の根本

進化の根本は、DNAが自己複製を繰り返しながら突然変異を蓄積してゆくことである。二重らせんがほどけてDNA分子がコピーを作っていく過程でまれに突然変異を生ずる。突然変異で約300万個のDNAの相違を生ずるが、ヒトゲノム全体は32億個なので個人間の相違は0.1%未満ということになる。この一人ひとりの遺伝子の違いをSNP(Single Nucleotide Polymorphism)=単一塩基多型と呼び、研究対象としている。ヒトゲノム全部を調べる研究が進んでいるが、基本はその中から個人間の違いを抽出して調べることである。
                            2018年7月会報DNA2

我々は父親と母親から遺伝子をもらうが、塩基の接合にはホモ接合とヘテロ接合とがある。アデニン(A)とグアニン(G)のヘテロ接合、アデニンとアデニンのホモ接合、グアニンとグアニンのホモ接合及びグアニンとアデニンのヘテロ接合の4種類である。ホモ接合の2種類A/AとG/G、ヘテロ接合のA/Gの3タイプを高速で調べることができる。現在では32億あるヒトゲノム全部を10万円で調べることができる。

父方と母方のすべてのDNAを調べることができるが、男性でも女性でも父方・母方からそれぞれのゲノムをもらっており、それぞれに親がいるので我々には、4人の祖父母、8人の曽祖父母、16人、32人、64、128…と2の倍数の先祖がいる。親からもらう染色体は22本の常染色体とX又はYの性染色体で23本、合計46本である。XXが女性、XYが男性だが、男性のY染色体は父親から、父親のY染色体はその父親からと、Y染色体は父系からしか伝わらない。

これを素晴らしいことのように言う人がいるが、Y染色体には重要な遺伝子は少なく、Y染色体を先祖から伝え持っていても大したことではない。家系を5世代遡ると2の5乗、32人の先祖がいて、その中の一人の遺伝子は確かに伝わっているが、32分の1だけが伝わっているに過ぎず、他人のようなものだ。また、ミトコンドリアも母系にしか伝わらないが、同様に大勢の祖先の中の一人のものが伝わっているに過ぎない。

ところが、ホモ接合とヘテロ接合とがあるゲノムでは、父系・母系の両方から伝わっているDNA全体を調べることができるので、Y染色体やミトコンドリアで捕捉できない部分も調査可能だ。一人の遺伝子は過去何千人もの祖先のDNAを持っているので、一人のゲノムを調べるだけで膨大な情報を得ることができる。

2.ホモ・サピエンスの誕生
        
2018年7月会報人類の起源1

1900年にオーストリアのウイーンでラントシュタイナーがABO式血液型を発見し、人間の遺伝子の研究はABO式血液型から始まった。そこからRh式、MN式などの血液型やタンパク質が調べられ、ミトコンドリアDNA、Y染色体の調査へと進んでいったが、その頃から我々ホモ・サピエンスの祖先は東アフリカで誕生し、全世界へと拡散して行ったことが考えられ始め、現在では、さまざまなDNAデータからこれは間違いない。

日本列島に関しては、南北に長いのでいろいろな経路が考えられる。今から2万年前は、氷河期で海の水が減り、朝鮮半島と日本列島は目と鼻の先で、大陸から山東半島、遼東半島を経て日本列島に渡ることができた。先島諸島と沖縄本島は何百キロと離れているが、文化的交流があるので渡ったことは確かである。間宮海峡、宗谷海峡、千島列島は繋がっていたが、津軽海峡は深いので繋がらなかった。

日本列島にはいろいろな経路で来ることができた。ただし、経路は遺伝子では分からず、考古学的視点が必要となる。だが、南から来たか、北から来たかは重要ではない。1万年~2万年前は、皆、採集狩猟民だったので、東アジア全体で一つの文化圏を構成していたと考えられる。

3.二重構造モデルによる日本人集団の成立

南北に長い日本列島には現在、北海道に数万人のアイヌの人(アイヌ人)がおり、沖縄県には100万人以上の人(オキナワ人)が、それ以外の鹿児島県の南から青森県には、私が提案した名称であるヤマト人がいる。
                                  2018年7月会報縄文土器1

二重構造モデルは、①縄文時代の前の旧石器時代から日本列島に住み、縄文人の名残りが強く残っている北と南の人と、②弥生時代以降の渡来集団が先住民である縄文人の子孫と混血を繰り返し、ヤポネシア中央部全域に居住するヤマト人、の二つから現代日本人集団の主要構成要素を説明するものである。

かつて、渡来は8世紀、奈良時代に終了したと考えられていたが、現在でも渡来は継続している。日本における国際結婚は全婚姻の5%を占め、韓国、中国、ヨーロッパやアフリカ等から人は来ており、渡来は途絶えていない。二重構造モデルはフレームワークとして優れている。第一近似としてよい。

二重構造モデルのきっかけは、アイヌ・オキナワ同系論という考え方である。アイヌ人とオキナワ人は顔が似ていることは、明治時代、東京帝国大学のお雇い外国人教師であったベルツが指摘している。現在ではゲノムの配列だけから、その人の骨格・顔形を予想しようする研究(ゲノムモンタージュ)も進んでいる。

4.ヤポネシア人の二重構造

ヤポネシアとはラテン語で「日本の島々」という意味である。1997年の我々の研究(ABO式血液型等による)では、アイヌ人とオキナワ人とは遺伝的に共通性があり、二重構造モデルを部分的には支持する結果を得た。アイヌ・オキナワ同系説に可能性が出てきた。ミトコンドリアDNAやY染色体の調査では限界があったが、2004年にヒトゲノムが発表されると、常染色体の調査で得られる情報量が数万倍となった。

この調査結果により、アイヌ人とオキナワ人は一体的に捉えられ、ヤマト人とは区分され、アイヌ・オキナワ同系説は証明されたと言える。ヤマト人は、二重構造モデルが言うように縄文人的要素と弥生人的要素を持ち、両者の混血だと言える。アイヌ人は、縄文人のDNAを一番色濃く伝えており、縄文人のゲノムによる調査から、現在のアイヌ人のDNAの6割は縄文人から受け継いだものという推定結果を我々は持っている。

5.東アジア集団の遺伝的関係

ヤマト人に遺伝的に近い民族は、まず地理的に近い韓国人、次に中国北部の少数民族(ホジェン、ダウール、オロチョン、モンゴル)、それから中国南部の少数民族(トウー、ナシ、イ)が北京・台湾・上海の漢民族よりも若干近い。漢民族は北京、台湾、上海で遺伝的に大きく異なり多様性がある。

また、中国の方言の研究では、広東語、北京語、上海語があたかもフランス語、イタリア語、スペイン語に対応するかあるいはもっと異なり、中国語は存在せず、漢字でまとまったに過ぎないという結論を出す予定である。

アイヌ人、オキナワ人、ヤマト人、韓国人、北方中国人及び南方中国人(シンガポールの華僑)の一人ひとりを縄文人と弥生人以降の渡来人との混血だと仮定すると、縄文人の要素は、一部のアイヌ人では100%の人がいる一方、北方中国人及び南方中国人では90%以上がその影響を受けていない。オキナワ人はヤマト人よりも影響を受けている。韓国人はごく僅か影響を受けている。

6.主成分分析法による東アジアの人々の遺伝的関係

主成分分析法(Principal Component Analysis=PCA)による5.と同じデータの分析を行うと、大部分の東アジアの人々には縄文的要素はなく、ウイグル人やヤクート人は西ユーラシア人との混血が推定され、アイヌ人、オキナワ人に次いでヤマト人も縄文的要素を受け継いでいることが類推できる。

7.アイヌ人祖先集団と本土人祖先集団の現代本土人への混血割合の推定

ヤマト人の混血割合は、縄文人のDNAが14~20%以下、弥生時代以降の渡来人のDNAが80%以上である。何時、混血が起こったかについては、58世代前から55世代前である。1世代を25年とすると6世紀から7世紀(古墳時代後半から飛鳥時代)、1世代を30年とすると3世紀から4世紀(古墳時代前半)となる。

縄文の生き残りの人たちは地理的に見て東北地方にいた。東北地方には、「ナイ」・「ベツ」で終わるアイヌ語で理解できる地名が残っている。「サンナイマルヤマ」遺跡、「ヒナイ」地鶏などだ。日本書紀では、阿部比羅夫をはじめ多くの人が白河の関を越えて、多賀城等の城柵を築いたことが知られているが、3世紀から7世紀にかけてヤマト人が東北地方に向かい、一部の人は縄文人と混血した。その後、縄文人は北へ向かった。

蝦夷と書いてエミシ又はエゾと読む。エミシは、ニギエミシ、アラエミシ、ツカルの3種類とされ、エゾとは文化的にも異なっていた。居住地はそれぞれ、東北地方の南、中央、北だとされる。縄文人は少しずつ北に退いて北海道に定着し、「えぞ」(後のアイヌ人につながる)と呼ばれるようになったと考えられる。DNAの調査の結果、現在の東北人にはアイヌ人のDNAがほとんどないと推定される。これから直接、東北ヤマト人のゲノムDNAとアイヌ人のそれとを調べる予定である。

8.古代人DNA(最初のヤポネシア人)
 2018年7月会報三貫地遺跡

1980年代から日本では、縄文人のミトコンドリアDNAの研究が始まった。福島県新地町の三貫地貝塚から出土した縄文人の人骨から得たデータを東北地方縄文人として、北海道縄文人、関東地方縄文人、アイヌ人・ヤマト人・オキナワ人等日本列島周辺の現代人集団と比較すると、北海道と東北の縄文人は明確なグループを形成するが、関東の縄文人は現代の日本列島人と近く、アイヌ人はこれらの縄文人よりもウルチ人(樺太島の対岸大陸地域に居住)、ネギタル人(アムール川河口の西北部に居住)、オホーツク人、ウデゲイ人(ハバロフスクから少し南の中露国境付近に居住)にかなり近い。ウデゲイ人は縄文人のミトコンドリアDNAをある程度受け継いでいる。
                           2018年7月会報縄文人住居

三貫地縄文人の核ゲノムDNA塩基配列決定を、次世代シークエンサーを用いて試みると、28億7,800万塩基から1億1,500万塩基を選び出すことができた。主成分分析法により三貫地縄文人と他の人類集団(アフリカ人、東ユーラシア人、西ユーラシア人)とを比較すると、三貫地縄文人は東ユーラシア人に近く、アフリカ人、東ユーラシア人、西ユーラシア人で構成される三角形の内側に位置し、縄文人が古い系統であることが分かる。

東ユーラシア人と三貫地縄文人だけを比較すると、ヤマト人は三貫地縄文人に近く、我々ヤマト人が縄文人からDNAをもらったことが示されている。三貫地縄文人と他の人類集団のSNPデータとの対立遺伝子共有度を見ると、三貫地縄文人に一番近いのはアイヌ人で、共通なDNAは68%である。次はオキナワ人で66%、そしてヤマト人64.5%(東京周辺)、北部中国人63%(北京)と続く。

系統樹を見ると、三貫地縄文人とアイヌ人が一つのグループとなり、オキナワ人、ヤマト人、北方中国人がこの順に近づいている。
頭骨小変異データによる日本人とその周辺集団の近縁図を見ると、ゲノムDNAの分析結果と一致している。また、ヤマト人に伝えられた縄文人ゲノムの割合は12%と推定される。縄文人とさまざまな現代人とのDNA の共通性を見ると、共通性が一番高いのは68%を超えるヤマト人であるが、カンボジア人も67%を超えており、極めて高い。カンボジアは日本人とよく似ており、縄文人の皮膚の色は黒かったものと推定される。

9.ヤマト人の「うちなる二重構造」
 
2008年の理化学研究所によるヤマト人7,000人のSNPデータに基づくオキナワ人、九州ヤマト人、近畿ヤマト人及び東北ヤマト人の遺伝的関係を見ると、オキナワ人と東北ヤマト人の遺伝的関係は、地理的に近いオキナワ人と近畿ヤマト人との遺伝的関係よりも濃いことが分かる。エミシの子孫である東北ヤマト人に存在するアイヌ人との共通性がオキナワ人と共通性に影響しているのかと、当初は考えられたが、どうもそうではなさそうである。

島根県の出雲ヤマト人のDNAを調べると、地理的に近い朝鮮半島の人々との遺伝的関係は東京ヤマト人よりも薄いものであり、東北ヤマト人との類似性が浮かび上がって来る。遺伝的な多様性が高いHLA遺伝子における地域的な多様性を調べると、オキナワ人は大きく離れ、出雲を含む中国地方のヤマト人と最も近縁なのは東北ヤマト人であった。地理的に離れた出雲ヤマト人と東北ヤマト人とに遺伝的近縁性が認められた。

松本清張のサスペンス小説「砂の器」は出雲弁と東北弁とが類似しているという日本方言学の成果をトリックに用いている。言語に共通性があるのは人の往来があったことを示す。人の往来は人の交流を生み、DNAの共通化へと続く。実際に、日本海側を通して出雲と東北の交流はあった。オキナワ、出雲、東北の共通性とは何か。

九州の北部と南部では顔つきを含め大きく異なることが知られているが、薩摩ヤマト人のDNAは、出雲ヤマト人と同様、朝鮮半島の人々からは東京ヤマト人よりも離れたものであった。
2018年7月会報稲作伝来1

稲作が日本にもたらされたのは、3,000年ほど前の弥生時代の北九州で、当時は博多、博多湾が表玄関だった。ここから大阪、名古屋、横浜、東京まで伸びる「中央軸」とその「周辺部」とに日本列島中央部を分けて考えるべきではないか。この二分された構造が「うちなる二重構造」である。オキナワ、出雲、東北は中央軸ではなく、いずれも周辺部である。中央軸は九州北部の博多、ヤマト地域、大阪・京都、鎌倉、江戸・京都という弥生時代以降現代までの政治・文化の中心地である。弥生時代の前・中期を「博多時代」と呼びたい。

都道府県別のミトコンドリアDNAの系統頻度に基づく主成分分析結果は、東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県、静岡県、愛知県、京都府、大阪府、兵庫県、福岡県という中央軸の府県と周辺部の県の分布とを分離させ、「うちなる二重構造」を示すものとなった。

さらに、ABO式血液型遺伝子頻度の地理的分布は、日本列島ではA型は北が低く南が高い、B型は北が高く南が低いことが昔から知られているが、このデータを分析すると、日本列島の周辺部ではO型の頻度が高いことが分かる。これも「うちなる二重構造」を支持するものである。

世界のO型の頻度は、南アメリカの原住民は100%O型で、日本列島から東ヨーロッパにかけては50~60%である。O型の頻度が高いのはユーラシアの北と東南アジアで、第二段階(稲作を伝えた渡来人よりやや古い)の渡来人は東南アジアの人々と近縁の人々であろう。

10.日本列島への三段階渡来モデル

ヤマト人の中に「うちなる二重構造」があるとすれば、ヤポネシア人全体で二種類ではなく三種類の祖先集団が存在したことになる。二重構造モデルで縄文と弥生に象徴される二つの祖先集団のうち、弥生は二種類に分かれ、このより古い方が第三の祖先集団ではないか。

稲作は3,000年ほど前に、揚子江の中流域、山東半島、朝鮮半島南部を経て、我が国の北九州に伝わり、その後700年かけて本州全域に広まった。関東地方が一番遅れた。この経緯から第三の集団の渡来は弥生時代の前ではないかと考える。

第一段階は40,000年から4,400年前の縄文時代の中期まで、ユーラシアのさまざまな地域から採集狩猟民がやってきた。
第二段階は縄文時代の後期と晩期、4,400年前から3,000年前で、第三の集団。これを海の民と名付けた。
第三段階は3,000年~1,700年前、稲作農耕民が稲作技術を伝え、中央軸に沿って東に拡大して行った(弥生時代)。古墳時代以降(1,700年前~)は、上海に当たる地域からも渡来人が来るようになり、大和朝廷の支配権が東北地方にも及ぶようになると、この地に居住していた第一段階の渡来人の子孫は北海道に移り、アイヌ人の祖先となってゆき、第二段階の渡来人の子孫を中心とする人々が北上して東北地方に居住した。日本列島南部では、第二段階の渡来人の子孫を中心とする人々が、10世紀のグスク時代に九州南部から南下してオキナワ人を形成してゆき、言語もオキナワの言語がヤマト言葉に置き換わった。

また、第二段階は弥生時代に稲作を伝えた集団、第三段階は古墳時代に来た別の系統の集団とも考えられる。稲作を伝えた集団が征服民であれば、今の日本語は大陸のどこかの言葉に似ている(エリート・ドミナンス)はずだが、そうではないので、稲作は平和裏に伝えられた。

11.ヤマトについて

長崎の出島に滞在したシーボルトは、長崎港に近づく船から初めて見る日本の地を、「前を飾るには緑と岡と耕されたる山背とありて、その後には青きやまやまのいただき、はっきりと空に隈どられたり。」と描写している(「核DNA解析でたどる日本人の源流」斎藤成也192頁)。また、4世紀、ヤマトタケルノミコトは、「やまとは くにのまほろば たたなづく あおがき やまごもれる やまとし うるわし」という歌を残した(同)。さらに3世紀の中国で書かれた魏志倭人伝の冒頭には、「倭人、帯方東南大海之中に在り、山島に依る」とある。ヤマトの「ヤマ」は、ほとんどの研究者が「山(mountain)」を意味すると考えている、古くからあったヤマト言葉である。

12.終わりに

現在、文部科学省に考古学、言語学及びゲノム学の研究者によるヤポネシア人のゲノム研究を提案している。これに予算が認められれば、今後5年間に日本人の起源についての研究がゲノムを中心に大きく進展することが期待される。
            2018年7月会報斎藤先生3

【質疑応答】

Q:縄文時代の人々はどの程度、話し言葉として言語を使用していたか。
A:人類は「出アフリカ」の頃には、あらゆる物に名前を付けて、ボキャブラリーは少なかったかもしれないが、言語を使用していた。縄文時代はわずか15,000年ほど前なので、複雑な文法体系下できちんとした言語を使用していた。
(文責:山岸信雄)



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斎藤成也先生の「日本列島人の起源と成立」に関して、斎藤先生の講演会「日本列島人はどこから来たのか~ 先端科学DNA解析でさぐる」が8月13日までNHKラジオらじるらじる(インターネット・ストリーミング)で聴取できます。
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