学習会要旨


◎6月2日(土)学習会の要旨    
                       
2018年7月会報大久保先生1

 日 時:6月2日(土) 13:30~15:30                             
 場 所:東京経済大学 2号館 B301教室  
テーマ:「浮世絵風景画二巨匠 北斎と広重」                                          
 講 師:大久保 純一先生(総合研究大学院大学教授)
 出席者:218名(会員:男性143名、女性54名、
 非会員:男性11名、女性10名)


はじめに

世界で最も有名な日本人画家であり、19世紀以降普及してきた名所絵(風景画)の立役者でもある葛飾北斎と歌川広重について、相違点にも触れつつ話します。

1.浮世絵の風景表現の歴史

浮絵の流行
17世紀後半の江戸時代人の現世の関心事を対象に描いた絵、即ち浮世絵では、役者絵や歌麿に代表される美人画に人気があり、風景画への関心は薄かった。1678年刊行の吉原ガイド本、菱川師宣画『吉原恋の道引』の人物の背景の風景画はまだ初歩の段階で、「洛中洛外図屏風」にみられるように高所から俯瞰した形で描かれている。

18世紀前半に中国絵画等を通じてヨーロッパの透視図法(線遠近法)が流入した。これは遠方を小さく描くことからくぼみ絵、あるいは大きく描いた前方の景色が浮いて見えることから浮絵とも言われたが、それまで日本には無かった図法であった。日本人はこれを室内や都市の大通りなどの直線で構成される風景には適用できたが、複雑な曲線で構成される自然景に関しては対応できず、従来の俯瞰図のままに描いた。

一例をあげると、奥村政信の「唐人館之図」は空間構成こそ蘇州版画の影響を受けているが、建物の内部は透視図法、外部は従来の俯瞰法で描かれている。

歌川豊春はヨーロッパの版画から学んで、建物内外の遠近感をより自然に表現した。彼の「江戸名所・品川之図」を見ると、未だ不合理ではあるが複雑な自然景を透視図法でとらえようとする意図が見える。18世紀後半以降、鳥居清長の「三囲(みめぐり)の夕立」に見られるように、美人画の背景画も自然な形で透視図法的空間の捉え方で描かれるようになっていく。

2.浮世絵風景画を生む背景要因と富士山という画題
 
浮世絵風景完成の諸要因
時代の流れの中で行楽や旅行に対する関心が高まり、1770年代『都名所図会(みやこめいしょずえ)』が大当たりした後は各地の名所図会が次々と刊行され、貸本屋で借りてバーチャルな旅を楽しむ人が増加した。
―「あきらめた妻が見ている名所図会」

1797年『東海道名所図会』が刊行されるに及び、出版界を巻き込んでのツーリズムへの関心が高まり、人々の風景を見る目も成熟して空間の認識が変化した。浮世絵風景画はこのような風潮の中で確立していく。その立役者となったのが葛飾北斎(1760年~1849年)である。

江戸の山、富士
17世紀初期の江戸市街地および近郊の景観を描いた「江戸図屏風」、19世紀の鍬形(くわがた)蕙(けい)斎(さい)の「江戸名所之図」などに富士山が描かれている。当時は庶民の富士信仰が盛んで方々に富士塚が造営されるなど江戸人は富士に対し特別な思いを抱いており、富士山が無ければ江戸ではなかったのである。富士山は日本橋、江戸城と並ぶ江戸の象徴であった。
―「日本橋絵にかく時は富士をかき」(川柳評万句合(まんくあわせ))
―「名山と名城晴る日本橋」(誹風(はいふう)柳多留(やなぎだる))

3.北斎の「冨嶽三十六景」の成立
2018年7月会報北斎自画像2

冨嶽三十六景への過程

北斎は当初美人画でスタートしたが、1797年刊行の狂歌本『柳の絲』の挿絵「江島春望」、『山(やま)満(ま)多(た)山(やま)』などの美人の背景部分に後年風景画家として成長する素質の一部を見せている。彼は19世紀初期の「たかはしのふじ」「くだんうしがふち」ではヨーロッパの版画や油絵の雰囲気を真似て横書きの署名をする、陰影をつけて立体表現を試みるなど洋風趣味の風景版画を大量に描いた。
                              2018年7月会報葛飾北斎(富士)

又、櫛と煙管(きせる)の図案集『今様櫛キン雛形』では四季晴雨風雪霧、天の造化によって異なる富士の姿を多く描いた。北斎の富士の図には様々な構図・気象状況・場所、さらに全体のモティーフの組み合わせも、アマチュアながらアイディアに優れた河村岷(みん)雪(せつ)の『百富士』(1771)の影響と思われる個所が多々見られる。

冨嶽三十六景の成立と影響

「冨嶽三十六景」(全46枚)は文政(1818~30)末頃~天保4年(1834)頃に数年間をかけ、北斎と大手の版元西村屋与八(永寿堂)のコラボレーションで出版された。当時人気の無い名所絵をシリーズで36枚も出すことはリスキーなことだったが、すでに高名であった70歳の画家が老舗版元と組んでの大事業であった。十数枚が江戸、残りが東海道と甲信越などを題材にしている。
描かれた順番は不明だが、1930年の少し前に描かれた最初の10枚の中に最も有名な「凱風(がいふう)快晴(かいせい)」「神奈川沖浪裏」「山下(さんか)白雨(はくう)」が含まれている。             
2018年7月会報葛飾北斎(富獄36景)

次の10枚グループが爆発的評判を呼んだのは、伝統的植物性の藍に加えて舶来の合成顔料であるベロリン(べロ藍:プルシアンブルー)の多用によるところが大きい。シリーズ中、天地に藍を配した「武陽佃嶌(ぶようつくだじま)」や「甲州石班沢(かじかざわ)」など、藍一色で空間の深みをよく出している。しかし、藍摺りのブームは一時的なもので、第3グループ以降は藍の使用は減ってい
く。

「深川万年橋下」「尾州不二見原(ふじみがはら)」「東都浅艸(あさくさ)本願寺」「御厩川岸(おんまやがし)より両國橋夕陽(ゆうひ)見(み)」「東海道程ヶ谷」「常州牛堀」などは構図に河村岷雪の影響が見られる。奇抜な構図でわざとらしさが見られるのも北斎の特徴のひとつである。「冨嶽三十六景」の成功は浮世絵の規模の大きいセット物の生まれる原動力となった。

4.広重の保永堂版「東海道五拾三次」
2018年7月会報歌川広重1

広重の名所絵(風景画)への進出

北斎の「冨嶽三十六景」の成功により名所絵は美人画、役者絵に次ぐ市場を確立し、刺激を受けた他の版元が名所絵に本格的に参入し、歌川広重や歌川国芳らに風景画の作画を促す結果となった。また、大規模一括揃物の成立は幕末の錦絵揃物の画帖化への道を開いた。

歌川広重(1797~1858)は北斎より一世代以上若い絵師である。美人画では芽が出なかったが、1831年頃の川口屋版「東都名所」で資質が開花し、豊かな季節感と繊細な情感がただよう画風で人を魅了した。ベロ藍の効果を熟知している広重は、「東都名所」では10枚の内9枚まで水辺風景を選び、ベロ藍をたっぷり使用して効果を高めた。「両国之宵月(りょうごくのよいづき)」でも同様に水と空の深みを見事に表現している。

人気画題の東海道
 
江戸後期ツーリズム憧れの舞台である東海道は浮世絵の人気画題であった。名所図会ブームの中で『東海道名所図会』の刊行、十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』のヒットなどで、出版文化界に
〝東海道の商品化〟の動きが大きくなった。広重の「東海道五拾三次」以前に葛飾北斎、歌川豊広、喜多川歌麿らの先行作があったが、それらは風俗画的な要素が強く、風景描写は概念的なものにすぎなかった。

保永堂版「東海道五拾三次」の新しさ

1833年頃、保永堂版「東海道五拾三次」の刊行が始まる。広重は事前に構図などを十分練った上でこれに参入したとみられる。広重の絵は従来の東海道物に無いリアリティ豊かな風景描写、さまざまな遠近法の駆使(透視図法⦅線遠近法⦆や空気遠近法)に加え、繊細な情趣性、雨雪霧月光など四季折々の気象状況の設定、円山四条派の作風を摂取した斬新な対角線構図の導入や余白を多用した時の経過・季節の移りなどの表現を含めて、清新で旅情豊かな画面をつくりあげたのが成功の基であった。

保永堂版「東海道五拾三次」は実景写生か〈文中の〇数字は出発点からの順番〉
「東海道五拾三次」は53枚の宿場に加えて、出発点の日本橋と終点の三条大橋を加えた55枚から成る。
①「日本橋・朝之景」では大名行列早朝の出立を描くと同時に、このシリーズの始まりを示す。
                              2018年7月会報歌川広重大潮宿

②「品川・日之出」では行列の後部を描き、日本橋からの時間の経過を表現。⑧「平塚・縄手道」の山は今も同じ形を見せているのでリアル感が濃く、色の使い方も巧み。⑨「大磯・虎ヶ雨」は私がこのシリーズ中第一位と思う作品で、曽我物語の虎御前の悲しみの涙のような雨を描きながらも厚い雲の向こうに太陽を感じさせる。全体が灰色と茶色の中でベロ藍に塗られた海面が光を受けて、梅雨時の風情をよくとらえている。            

⑨「大磯・虎ヶ雨」⑯「蒲原(かんばら)・夜之(よるの)雪(ゆき)」は評判第一位の絵。雪が深々と降る夜の街道を近在の人が歩む姿を完成度の高い構図で描いている。

この辺りまでの図は空間表現が豊かで臨場感あるが、⑪「箱根・湖水図」⑭「原・朝之富士」㉑「丸子・名物茶店」などはモティーフのデフォルメや風俗画的な要素が強くなるなどの変化が認められる。㊵「池鯉鮒(ちりゅう)・首夏馬市(しゅかうまいち)」は日本画には珍しく波打つ草原で自然現象の風を表現している。

㊼「亀山・雪晴」は左下から右上がりに街道を描き、1830年代にブームとなった四條派の河村文鳳(ぶんぽう)に見られる対角線を活かした構図を採り入れている。評価の高い㊻「庄野・白雨(はくう)」は突然の雨に慌てる人々を四條派的対角線構図で描き、藁葺屋根、竹林を添えて奥行を表現している。
2018年7月会報広重(庄野)

最初に描かれた十数枚の絵は構図を練り上げた上での作品であったが、それ以降の絵には変化が認められる。広重は上洛したことがあるので東海道が描けたという説は疑わしい。例えば、㊴「岡崎・矢矧之橋」○52「石部・目川ノ里」などは『東海道名所図会』の挿絵をもとに作画している。
                              2018年7月会報広重(三条大橋)

京都に近づくほど名所図会の挿絵の利用が増えているが、挿絵の俯瞰的で説明性の強い図を、広重が頭の中に蓄えていた風情・現象を認識する感覚の鋭さと巧みな遠近法を用いて奥行と臨場感ある絵に変容させているのはさすがである。 

  
保永堂版東海道の意義
 
「東海道五拾三次」の長期にわたる良好な売り上げにより北斎の「冨嶽三十六景」が喚起した名所絵ブームは永続化し、浮世絵の名所絵のジャンルは確固たるものとなった。広重自身による「江戸近郊八景」「京都名所之内」「近江八景」、広重と渓斎(けいさい)英泉(えいせん)による「木曽海道六拾九次」などが次々と刊行された。広重晩年の作「六十余州名所図会」「名所江戸百景」等は縦型に作成され、綴じて画帖化した揃物の嚆矢となり、幕末の揃物の出版と鑑賞形態に影響を与えた。

5.広重に見る江戸名所絵の「定型」

名所絵に対する世間の関心は徐々に北斎から広重へと移って行った。北斎が自分の造形的関心に則り、風景のリアリティにはあまり注意を払わなかったのに対し、広重の方は豊かな臨場感・リアリティを重視し、なんといっても当時の人の名所ごとの共通イメージ‐江戸の繁栄を象徴する場所である日本橋には、背景に江戸城と富士山を描き加える、といったような‐を大事にしたことが成功に繋がったと言える。

広重は同一の名所は近似する構図やモティーフを繰り返し描いているためマンネリとの批判があったが、彼は当時の人が望むものを知って敢えてそうしているのである。名所であればここをこう描くもの・・・商品としての名所絵の要件を理解したことが、名所絵師としての成功の一因であった。これが風景画二巨匠の絵作りの違いであった。

【質疑応答】

            2018年7月会報大久保先生講聴風景1

Q:ジャポニスムが西洋に与えた影響についてお願いします。
A:西洋画の専門家ではないのですが、「冨嶽三十六景」や「東海道五拾三次」などで、手前を大きく、後ろを小さく描く手法、つまり近景、遠景の極端な対比のダイナミックさが、西洋の正統な遠近法とは違うところがヨーロッパに強い影響を与えた。私は専門ではないので、詳しくはジャポニスムの本を読んでみてください。                          (文責:大崎尚子)

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