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会員の声

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人生途上 80年

                                     宮原 昰中
 

 敗戦の際は国民学校の4年生だった。入学は分校で、1、2年が一つの教室で授業を受ける複式学級、中山間部(現広島県府中市)の田舎だったので、B29が家の真上に飛来するも、爆弾の1つを落とすでもなく、のんびりした村だった。原爆投下の8/6(府中市は広島から70㎞で、原爆の直接の影響はない)も、8/15も雲ひとつない快晴の日だった。当日は川で魚を追う日々だった。しかし、翌月9月17日には枕崎台風が襲来、大災害を蒙ることになった(広島県の死者3000人超)。橋はすべて流失し、学校へは行けなくなった。仮橋で復旧するまで、約2ヶ月自主休校とあいなった。5年生からは本校でまともな授業を受けたが、教科書は墨を塗り使ったように思う。

 中学校は新制の2期で、教科書は1枚の紙を32枚に折り畳んだものを自分で切り、本の形として使った。地元の高校に入り、その2年生の9月17日の体育祭の日、バスケットの代表として出場のため登校中、何を間違えたか自動車と相撲をとり、6m下の川に「突き落とし」をくらった。骨折ひとつせず、「幸いに…」と自分では思ったが、医者は「生きている中では最悪の結果で、骨折した方がよかった」と宣もうた。そのとおり、年内いっぱいは内出血多量のため歩行不能で難儀をした。
12月会報野球1

 以後はろくに運動することもなく6年が過ぎた。社会人になって、早速草野球のチームを結成して、2番ショートでプレーし、年間約30試合こなした。20歳代の終わりには、このチームの監督になったが、1年で他へ転勤と相なった。
                     12月会報テニス1

 新天地ではテニスに打ちこみ、夏は箱根の山中で炎天下1日8時間休みなく打つこと連続4日、体力証明の青春だった。40歳代になり、サッカーに魅力を感じ転向、60歳までプレーした。この間、小学校のコーチを(土日祭の全てを捧げて)5年間やった。サッカーをやめた還暦からは、非積極的(消極的とは言いたくない)運動として、バス・エレベータ・エスカレータには乗らない大原則を貫いて生活している。
                                   12月会報サッカー1

 本業の仕事の方は、本職の化学研究からスタート。青化ソーダ(猛毒)のプロセス開発に従事、九死に一生の経験もしたが、プロセスの開発が終了して、企業化できた(化学研究丁度100ヶ月)。これを機に草創期のコンピュータ部門に移った。最初は技術計算と称して、プロセスフローシミュレータを開発した。これは本邦では最先端を行くものであると自負していた。続いて全社システムの構築も手がけた。 この間、裁判専属のスタッフも2年間勤めた。

 還暦で会社を定年退職して、続く10年間は若い人に教えてもらうことを楽しんだ。こちらも古希で定年退職して、いよいよ毎日が日曜日ということになった。その後については既に記した。(欅友会会報№284(2014.6.4)p.7)半寿間近だが、とに角生誕三萬日。米寿、卒寿、白寿、茶寿、皇寿とどこまで迎えることが出来るかよりも、PPKで逝くことを念じている今日この頃である。


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