欅の木3余白削除70 会員の声①(2020年1月) - 欅友会
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会員の声


                           2020年1月会報水仙挿絵




◎会員の声①



『二つの入間川』
                     
渡邉 尚

何年か前のこと、たまたま首都圏の水系図を眺めていたとき、私は目を疑った。なんと、多摩川下流域のさる支川に入間川と記されているではないか。入間川は荒川の支川、武蔵野台地の北限を画す川である。武蔵野の南を流れているはずがない。これこそ入間詞(いるまことば)というものではないか。
2020年1月会報入間川2

もしも、この川名を東北地方や中部地方の地図で見かけたのだったら(後になって、両地域に同名の川が存在することが判った)、日本には同名の川があるものだと知って、むしろ地理的関心をそそられたかもしれない。しかし、そのときは詮索する気持ちに先だって、何やら厭わしい感に襲われたのだ。

「もう一つの入間川」の実在を私が受けいれがたかったのは、入間川の名に私は少年時代から格別の思いをこめてきたからである。私にとり聖なる川の名を騙る川の存在は許しがたい。そこで私は、これは誤植であるにちがいないと思いこむことにした。

ところが、それからしばらくしてまた別の地誌を眺めていると、これにも多摩川水系に入間川の名が出ているではないか。こうなるともう放っておけない。そこで、私は手持ちの地名辞典や各種地図を点検したのだが、多摩川水系に同定できる入間川を見いだせない。いったいどういうことなのだ?それ以来、この疑問が頭にこびりついてしまった。

転機は今夏おとずれた。多摩川水系にかかるさる論考で、「入間川」に「いりまがわ」と仮名が振ってあるのだ(和田文雄「「仙川・つつじヶ丘」凹凸まち歩きへの誘い」『多摩のあゆみ』第175号)。そうだったか、漢字は同じでも読みが違うのだと判って、ようやく腑に落ちた。

この論考によると、入間川は調布市東つつじヶ丘の上流端から野川に合流するまで2㎞弱の、野川支川の一級河川であり、上流端より上流は中仙川と呼ばれ、暗渠になっているという。『ゼンリン住宅地図』でこれを確かめると、京王線の仙川駅とつつじヶ丘駅との間を南流し、入間公園の西側をなぞって野川に注いでいる。合流点は調布市と狛江市との境界を成す。

上流に眼を転ずると、甲州街道の入間橋より上流は暗渠になり、三鷹市中原で明渠に戻って深大寺東町に達している。一級河川とはいえ、延長65㎞の入間川(いるまがわ)とは較べるべくもない細流である。これが本物の入間川と紛らわしい名を僭称するとはおこがましい、さりながら入間川(いるまがわ)はやはり一つしかないと判って、私はようやく安心することができた。

しかし、すぐ新しい疑問がわいてきた。いったい、だれが、なぜ多摩川の支川の野川の、そのまた支川にこんな紛らわしい名をつけたのか。こうなると、好奇心が目を覚ます。幸い、地誌、地図、地名辞(事)典が揃っている東経大の図書館でかたっぱしから検索した結果、しだいに解ってきたのは以下のことである。

調布市の南端に入間町(いりまちょう)1~3丁目という町がある。中世の15世紀初の古文書に入間上野入道道久の名がみえ、入間氏はこの地を本拠とする在地武士であったらしい。他方で、入間町の旧名の入間村の隣が旧金子村で、中世の武蔵七党のうち調布市域に進出した村山党金子氏の本拠が、入間郡金子郷であったという(『東京都の地名』2002年)。

つつじヶ丘駅の旧名は金子駅である。そこで、入間(いりま)の地(川)名の語源として、入間氏と金子氏の所領の二つが考えられるが、まずは在地の入間氏の所領から由来するとみるのが妥当であろう。しかも、「入間」の語源は崖線を湧水が侵食して谷を形成する開析谷の意味のようだから、「谷」(やつ、やと、やち)や「はけ」の類語ということになる。事実、調布市の入間町は東側で国分寺崖線に接している。
                2020年1月会報国分寺崖線図1

そうなると、たまたま二つの入間川があるのでなく、「入間」(いるま、いりま)の地(川)名は「落合」や「小川」などと同じく、全国各地にあったのではないかと推測されるにいたった。そこで『新日本地名索引』(1993年)を検索してみると、「いりま」の町名は調布市のほか、山形、岐阜、島根の各県に、「いるま」の町名は千葉、静岡、岡山の各県にあり、「いりまがわ」は岐阜県にも、「いるまがわ」は新潟県にも流れていることが判った。

こうなると、入間川は固有名詞というよりも、むしろ普通名詞と言うほかはない。藪をつついて蛇を出してしまったようだと、思い込みが正された満足感と、思い入れがはぐらかされた幻滅とを、私は同時に味わわされるはめに陥ったのである。
ところが、これまで、とはならなかった。思いもよらず、私の入間川の方で普通名詞への降格を拒んだからである。

 2020年1月会報独歩の武蔵野
と言うのは、こうである。少年時代から何度も読み返した獨歩の「武蔵野」にあらためて眼をとおしているうちに、ここには入間川の名が一度も出てこないことに、いまにして初めて気がついた。入間郡が三度出てくるだけである。他方、多摩川の語は五度も出てくる。武蔵野の代表的な川として獨歩の念頭にあったのが多摩川水系であったことは、疑いをいれない。

「武蔵野」に続いて同年のうちに発表された「忘れえぬ人々」の場面が溝の口であったことも、この推定を裏書きする。それにも拘らず、なぜ私は入間川の名を「武蔵野」で初めて知ったように思いこんできたのだろう。なぜ私は、「武蔵野」の読み違えに今まで気がつかなかったのだろう。おそらく、冒頭に続く第二文の「小手指原久米川は古戦場なり」との『太平記』からの引用と「入間郡」の地名との連想複合から、私は「入間川」という川を勝手に思いえがき、「入間郡に」の語を「入間川のほとりに」と、読み変えてしまったのだ(久米川はいま所沢市の町名「久米」に名残をとどめている)。

それでは、なぜかかる連想がはたらいたのか。
川のほとりで孔子が言った、逝く者はかくのごときか、と。たしかに、人生は川の流れに似ている。しかし、「逝く」のではない。「来た」のだ。人は川下に背を向け、しだいに遠ざかる人生の川上の風景を追憶のなかに凝縮し、いずこより来たりし者ぞと、自らに問いかけながら、川を下ってゆく。だから、人生を投影する心象風景には川が流れていなければならない。川によって心象風景は初めて四次元の世界となり、歴史的風土性を帯び、これに人は安んじて己の来し方を合流させることができるのだ。

もちろん、少年時代の私にかかる自覚があったはずはない。しかし、どうやら私は幼い直感で、このことを感知していたようなのだ。「「武蔵野の俤は今わずかに入間郡に残れり」と自分は文政年間に出来た地図で見た事がある」という「武蔵野」の書き出しは、三層の過去を重ねることにより、武蔵野の風景の遠い昔に私をいざなう。

戦時体験のトラウマからの癒しに飢えていた少年時代の私は、この心象風景に身をおくことにより安らぎを得ることができたのだ。それは、獨歩の「武蔵野」の模写により、入間川の名を知ることなく「入間川のほとり」を私の武蔵野として描きだすことでもあった。
                   2020年1月会報入間川1

獨歩がツルゲーネフの描くロシアの樺林の模写により、かれの「武蔵野」を描きだしたように、である。私の入間川は幼い私の創作だったのだ。それでよい。もう一つの入間川の存在を知った今となっても、私の入間川はかけがえのない瀬音を絶やさずに、少年時代の思い出をひそかに奏でつづけてくれているのだから。                                                       (欅友会顧問)
 
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