欅の木3余白削除70 5/25 米山 高生 先生 - 欅友会
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学習会の要旨

◎学習会の要旨

日 時:2019年5月25日(土)13:30~15:30 
会 場:東京経済大学 2号館 B301教室
テーマ:「画像で読み解く保険の歴史」 
講 師:米山 高生 先生(東京経済大学経営学部教授)                               
出席者:197名(会員:男性150名、女性41名、
         非会員:男性3名、女性3名) 

2019年6月会報米山先生1

【講演要旨】


保険は目に見えない商品であるので、戦前において保険募集のために多くの図版が利用されていた。歴史を調査するためには現在残されている文書・契約書・宣伝ビラなどの画像資料が参考になる。日本の伝統的な社会においてもリスク管理の意識があり、いわゆる「自家保険」の事例がみられる。江戸末期には火災のための復興資金を毎年一定額積み立てていた事例があった。明治期には融通頼母子講のように組織化された保険・庶民金融制度が存続していた。

明治期に入り三大保険会社により、養老保険を中心とし、富裕層を顧客とした事業が始まった。その後五大保険会社に増加して人口の増加・産業の発展・戦争・災害などの社会的環境とリスク内容の変遷に応じて、それらに適した死亡保険・養老保険・生存保険等の保険商品が生まれ、一般庶民など加入者層の広がりとともに保険市場が拡大し、保険業が発展した。対応する法整備もなされてきた。

戦時には保険会社の保有する資産が国債の原資とされ、戦後この価値が毀損したため、会社と加入者は大きな痛手を被った。特に加入者はインフレによる債権の毀損も加わり損失が大きかった。高額契約の保険金支払いの棚上げとインフレなどにより保険会社は破綻の危機を脱した。戦後は法整備も進み、新会社の下で核家族化の進んだ市場に対応した商品などが開発され、保険会社も発展している。


1.伝統的な「保険」

① 江戸時代のリスクマネジメント

江戸時代は身分が厳重に定まり人の移動も制限されていて、生活に伴うリスクは小さいと感じられるが、米その他の物流も盛んであり先物取引も存在した。そこには一定のリスクが存在し、リスクマネジメント意識もあったと考えられる。江戸末期の商家に残されている資料(嘉永元年1848年の資料)があるが、ここには2年前に発生した江戸の大火災の状況と、火災に備えて一定の金額を毎年積み立てておくことを定めた事が記されている。これはいわゆる「自家保険」であり、リスクを分散するという考えは無い。

② 無尽・庶民金融

伝統的な無尽・頼母子講などの庶民金融組織が明治時代にも存続し、庶民の間で広まっていた。この組織はコミュニティにおける金銭的助け合いの仕組みで、急に必要となった資金を融通するといった機能を持つ。十分な保険機能は無かったが、コミュニティの信頼によって維持され、一定の役割を果たした。全国で各地に小規模な組織が編成され、数は多くあったと考えられるが、経済的な規模はそれほど大きくはなかったと推定される。
昭和期に入ると無尽業法(昭和6年)が制定され、同法のもとで無尽会社が展開した。ここでも十分な保険機能はなく、社員になると特別な融資を受けることができる庶民金融機関であった。無尽会社はその後第二地銀(元相互銀行)へ発展する。

2.近代保険業の導入と発展
      
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                     (米山講師所蔵の資料)

明治時代に入って大規模な保険会社が発足した。日本で最初の近代的保険会社は、海上保険会社(東京海上)で明治12年に設立された。大規模な法人顧客を相手にしており、鉄筋造りのオフィスビルにスーツを着用した社員が勤める当時の先進的企業であった。次に生命保険会社である明治生命が明治14年、そして火災保険会社である東京火災保険が明治20年に設立された。ここには損害保険会社と生命保険会社が含まれるが、この講演では生命保険を中心に話を進める。

① 生命保険商品の構造

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生命保険は我々にとって身近であり、会社の預り金である保険料積立金が長期資金であるので、社会経済に与える影響も大きく重要である。生命保険で主として販売されている商品は、養老保険・定期保険・終身保険の三種類である。

・定期保険では、一定期間内に自分が死亡した場合に、他の契約者の危険保険料から支払われる死亡保障部分とわずかではあるが自分の積立部分を合算した死亡保険金が支払われる。いわゆる「掛け捨て」保険と呼ばれるものであり、保険期間終了時に保険料積立金がゼロとなるように商品設計されている。

・養老保険と終身保険は、いわゆる「掛け捨て」ではない。養老保険において満期日以前に死亡した場合および終身保険で死亡した場合に支払われる死亡保険金は、他の契約者の危険保険料から支払われる死亡保障部分と自分が積み立てた貯蓄保険料部分を合算したものである。その意味では長生きすればするほど、他の契約者の危険保険料から支払われる死亡保障部分は減少し、みずから積み立てた貯蓄保険料部分が死亡保険金の大半を占めるようになる。

・定期保険以外の養老保険・終身保険は長期に亘る契約が多く、このような負債の性質から生命保険会社の資産運用は長期の金融商品(国債など)に投資することができる。この点において、他の金融機関と異なる性格を持つ。

② 三大生命保険会社の誕生

・明治生命は、明治14年に近代的な生命保険会社として日本で最初に創業した。丸の内に豪華なビルを建設し主に実業家や専門職を顧客として事業展開した。

・帝国生命(現朝日生命)が第二番目に設立された。同社は軍人や役人を中心に募集を展開した。当時の募集広告には、保険加入した場合に「子孫繁栄商売繁盛」するのに対し、非加入の場合一家が不幸になり、「後悔を先にたたせて後より見れば、杖を突いたり転んだり」と漫画を交えて対比させている。

・日本生命は明治22年に大阪のいくつかの有力な銀行家の協力を得て大阪で開業した。同社の特徴は地方の有力者を通じてその紹介で行われる募集にあった。プリゼンに掲載した初期募集史料では、養老保険金受け取りの祝宴の漫画が描かれており、お金の面での満足を強調し、死亡保険金よりも満期金を強調した。

③ 五大生命保険会社への発展

1900年に制定された保険業法において、保険会社を営むことのできる企業形態を株式会社および相互会社と規定されたことから、明治後期に相互会社として第一生命(最初に設立された相互会社)および千代田生命が発足した。
第一生命・千代田生命は大正期になって国の工業化推進に伴い都市化が進む市場の拡大を捉えて成長した。相互会社が提供する「高料高配」商品である利益配当付保険が伸長し、比較的高額な養老保険が販売された

④ 明治期から大正期にかけての生命保険市場成長の要因

・人口増加:明治維新当時の人口3,300万人が第二次大戦終戦時には7,199万人にまで増加し、生命保険市場が大きく成長した。

・工業化都市化:工業化政策が推進され、ブルーカラー・ホワイトカラーが都市に移住し、特にホワイトカラー層の富裕化に伴い都市に集中する中産階級の人口が増加した。結果、都市中心の中産階級をターゲットとした2社が成長した。特に養老保険の成長が大きかった。

⑤ 中小生保・外国生保の果たした役割

・中小保険会社(有隣生命の保険申込書=画像掲示)
五大生命保険会社を追って中小保険会社が多く設立された。一例として有隣生命(1943年明治生命と合併)の初期契約者を見ると、商業・農業・製造業(裁縫工・印刷工など)・サービス業(車夫・芸者・小料理店)従事者・専門職(僧侶・教員・医師等)・地方自治体職員・学生が多く、既存の大保険会社の市場と異なリ幅広い市場に展開していることが分かる。

・海外保険会社(加奈陀サン生命・マニュファクチャラーズ生命・ニューヨーク生命・エクイテブル生命などの資料=画像掲示)
明治末期、第一生命・千代田生命などが設立された時期には既に海外の保険会社が日本に進出していた。海外会社の主市場は日本の富裕層であり、富裕層が信頼性の高い海外会社の高額保険に加入していた。

3.保険商品の開発・市場の発展 生存保険

養老保険を中心とした生命保険によって近代保険業が発足したが、明治30年前後になると保険期間の終期に生存することを条件として保険金が受け取れる生存保険を利用したこども保険・徴兵保険などが開発され、市場の拡大および中小生保の業績の拡大に寄与した。

① こども保険 (日本教育生命保険・日本生存保険などの資料=画像掲示)

被保険者をこどもにする保険であり、死亡保険金が目的ではなく、成長後の諸資金を賄うための生存保険である。学資・結婚資金の調達を目的とし、下記の特徴がある。

・生存保険として生存を理由に保険金を支払う。
・死亡した場合は既払いの保険料を返還する。
・解約の場合は既払い保険料の一部を返還する。

こども保険には、法的見地から未成年者を被保険者にすることの是非を問う声もあるが(保険金犯罪防止上の観点から)、現在は保険会社がガイドラインを設けて法外な金額の保険契約を排除するなどの対策を講じている。

② 徴兵保険(徴兵保険株式会社・富国徴兵相互保険会社の資料=画像掲示)
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                                   (米山講師所蔵の資料)
当時の日本は国民皆兵制であるが、実際に徴兵されるか否かは分からない。この保険は徴兵された場合の事態に備えるための保険であり、死亡保険ではなく生存保険の一形態である。次のような特徴がある。

・徴兵された時点で保険金が支払われる。
・徴兵時に失われる働き手の補償をする。
・徴兵の準備として加入する。

③ 簡易生命保険の小児保険

大正期には簡易保険事業が始まっているが、こども保険には参入していなかった。基本的には養老保険であり、貯蓄性を重視した商品である。満期保険金は通常の養老保険と同じだが、早期死亡については死亡保険金が減額されている。

4.戦時期の生命保険:国民貯蓄運動

保険会社の保険料積立金が戦時国債の市中消化に貢献した。保険業の管轄が商工省から大蔵省に代わると保険会社経営の画一化が図られ、産業合理化のための企業合併が進められ、会社の自主的経営が損なわれた。国民貯蓄運動の一環として生命保険や徴兵保険が利用されたが、戦後のインフレにより庶民の貯蓄はほとんど無価値となった。

5.戦後の生命保険Ⅰ

終戦時の保険業界の状況は次のように危機的であった。
・在外資産を喪失した。
・戦時期の投資(戦時国債を含む)は不良債権となった。
・国民に生命保険に加入する余裕がなく、一時的に生命保険市場が縮小した。
・このため保険会社間の競争が激化し、経営が困難となった。

この解決のため次のような施策が実行された。

・金融機関再建のため債権整理を強行、不良資産と高額保険契約を旧勘定として分離し、一方で不良資産の整理を進めるとともに、他方で高額契約の保険金支払いを棚上げとした。

・健全な資産と少額契約の保険負債を新勘定とし、新規契約を新勘定で引き受けた。最終的に、旧勘定を整理し、新勘定により新会社を設立して再建を行った。新会社の多くは相互会社形態で設立された。
戦後の急激なインフレは保険金の実質価値を大きく減価させた。その結果、すべての保険会社が再建を果たしたが、他方において保険加入者である庶民は損害を被った。特に棚上げにされた高額契約者は大きな損失を被った。

・同一商品同一価格がおおむね一般的となり、過当競争が排除され、監督官庁は、保険会社の破綻により保険契約者が被害を受けないように配慮した。

・旧経営陣の退陣・旧株式会社の解散と新相互会社の設立・財閥機能が減退。

6.戦後の生命保険Ⅱ

戦後になって社会の状況も変わり、保険会社の営業方針も大きく変化した
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        (米山講師所蔵の資料)
・当初富裕層を中心とした顧客層は中間層にも拡大していたが、年払いを月払いとすること、満期を加入者が決められる保険などの新商品の開発により、ますます広い層からの加入を図った。

・核家族化が進展し、そうした世帯に対して定期付養老保険が考案された。



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【質疑応答】

Q1:保険という用語は誰が最初に用いたのか、またどのような組織に用いたのか。保険に関する最古の資料とはどのようなものなのか。
A1:明治初期の岩倉使節団の一員である若山儀一が米国の保険会社を学んで「日東保生会社」を設立したが短期に頓挫した。この会社は、「生保」でなく「保生」という用語を使っているが、その直後明治生命保険が発足したので「保険」という用語は実務的には明治生命が最初である。資料としては明治期に作成された版画のチラシがある。
 
Q2:保険会社の資産運用について伺いたい。
A2:運用資産の規模では銀行の方が保険会社よりも大きい。また、損保の資産は生保の1/5~1/6の規模である。保険は長期に金を預かる商品なので、資産運用における投資物件については貸出期間が長期でも対応できる。運用の実態は会社によってまちまちであり、株・国債など投資先は多岐にわたるが、保険会社自体も全社的リスクマネジメント(ERM)により、リスクをふまえて経営を行っている。
                                   (文責:中島 巖)

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