欅の木3余白削除70 6月会報(2019年) - 欅友会
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6月会報(2019年)

                      

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6月会報(2019年)       






「ご報告とお知らせ」


①会員懇親会のご報告 


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5月25日(土)15:50より東京経済大学葵陵会館1F食堂(TERIA)において、令和元年会員懇親会が開催されました。真夏日の暑さの中、東京経済大学から後藤理事長、岡本学長、米山教授、岡田総合企画部長を、国分寺市から井澤市長、古屋教育長、千葉社会教育課長を来賓としてお迎えし、総勢82名が集いました。
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久々の立食形式で乾杯後一気に盛り上がり、あちこちに歓談の輪が広がる中、東京経済大学管弦楽団が登場し、木管による「魔女の宅急便メドレー」の優しい調べ、金管による「文明開化の鐘」、そして「宇宙戦艦ヤマト」の迫力ある演奏はアンコールの声が上がる出来栄えでした。
       2019年6月会報懇親会弥吉さん2019年6月会報懇親会抽選会


続いて、彌吉会員の尺八伴奏により「紅萌ゆる丘の花」と「北帰行」を全員で合唱し、会場が一つにまとまったところで抽選会が始まり、皆さん固唾を呑んで見守る中、浅香さん、上原さん、泊さん、西野さん、原田さんの5名の方が当選されました。学習会では味わえない先生方との懇談もあり、暑さを吹き飛ばす熱気溢れる懇親の場でありました。(川崎守)
                                         





②6月の学習会のお知らせ 
※下記学習会は会報5月号でご案内済ですが、再度ご案内します。

日 時:6月8日(土) 13:30~15:30                             
会 場:東京経済大学 2号館 B301教室                                 
テーマ:「福祉コミュニティと災害―要援護者を地域で支えるしくみ」             
講 師:尾崎 寛直(おざき ひろなお)先生(東京経済大学 経済学部准教授)
2019年6月会報尾崎先生

(講師のプロフィール)
1975年生まれ。東京農工大学農学部卒業。2001年東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得。2004年東京経済大学に着任、2008年同大学准教授。専門は環境政策、環境福祉論、コミュニティ福祉論。公害を経験した各地の環境再生の研究プロジェクトに関わる。
著書に『放射能汚染はなぜくりかえされるのか』(東信堂2018年)、『「環境を守る」とはどういうことか―環境思想入門』(岩波書店2016年)、共編書に「岐路に立つ震災復興―地域の再生か消滅か」(東京大学出版会2016年)など。






◎学習会の要旨

日 時:2019年5月25日(土)13:30~15:30 
会 場:東京経済大学 2号館 B301教室
テーマ:「画像で読み解く保険の歴史」 
講 師:米山 高生 先生(東京経済大学経営学部教授)                               
出席者:197名(会員:男性150名、女性41名、
         非会員:男性3名、女性3名) 

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【講演要旨】


保険は目に見えない商品であるので、戦前において保険募集のために多くの図版が利用されていた。歴史を調査するためには現在残されている文書・契約書・宣伝ビラなどの画像資料が参考になる。日本の伝統的な社会においてもリスク管理の意識があり、いわゆる「自家保険」の事例がみられる。江戸末期には火災のための復興資金を毎年一定額積み立てていた事例があった。明治期には融通頼母子講のように組織化された保険・庶民金融制度が存続していた。

明治期に入り三大保険会社により、養老保険を中心とし、富裕層を顧客とした事業が始まった。その後五大保険会社に増加して人口の増加・産業の発展・戦争・災害などの社会的環境とリスク内容の変遷に応じて、それらに適した死亡保険・養老保険・生存保険等の保険商品が生まれ、一般庶民など加入者層の広がりとともに保険市場が拡大し、保険業が発展した。対応する法整備もなされてきた。

戦時には保険会社の保有する資産が国債の原資とされ、戦後この価値が毀損したため、会社と加入者は大きな痛手を被った。特に加入者はインフレによる債権の毀損も加わり損失が大きかった。高額契約の保険金支払いの棚上げとインフレなどにより保険会社は破綻の危機を脱した。戦後は法整備も進み、新会社の下で核家族化の進んだ市場に対応した商品などが開発され、保険会社も発展している。


1.伝統的な「保険」

① 江戸時代のリスクマネジメント

江戸時代は身分が厳重に定まり人の移動も制限されていて、生活に伴うリスクは小さいと感じられるが、米その他の物流も盛んであり先物取引も存在した。そこには一定のリスクが存在し、リスクマネジメント意識もあったと考えられる。江戸末期の商家に残されている資料(嘉永元年1848年の資料)があるが、ここには2年前に発生した江戸の大火災の状況と、火災に備えて一定の金額を毎年積み立てておくことを定めた事が記されている。これはいわゆる「自家保険」であり、リスクを分散するという考えは無い。

② 無尽・庶民金融

伝統的な無尽・頼母子講などの庶民金融組織が明治時代にも存続し、庶民の間で広まっていた。この組織はコミュニティにおける金銭的助け合いの仕組みで、急に必要となった資金を融通するといった機能を持つ。十分な保険機能は無かったが、コミュニティの信頼によって維持され、一定の役割を果たした。全国で各地に小規模な組織が編成され、数は多くあったと考えられるが、経済的な規模はそれほど大きくはなかったと推定される。
昭和期に入ると無尽業法(昭和6年)が制定され、同法のもとで無尽会社が展開した。ここでも十分な保険機能はなく、社員になると特別な融資を受けることができる庶民金融機関であった。無尽会社はその後第二地銀(元相互銀行)へ発展する。

2.近代保険業の導入と発展
      
2019年6月会報保険12019年6月会報保険2
                     (米山講師所蔵の資料)

明治時代に入って大規模な保険会社が発足した。日本で最初の近代的保険会社は、海上保険会社(東京海上)で明治12年に設立された。大規模な法人顧客を相手にしており、鉄筋造りのオフィスビルにスーツを着用した社員が勤める当時の先進的企業であった。次に生命保険会社である明治生命が明治14年、そして火災保険会社である東京火災保険が明治20年に設立された。ここには損害保険会社と生命保険会社が含まれるが、この講演では生命保険を中心に話を進める。

① 生命保険商品の構造

  2019年6月会報保険4

生命保険は我々にとって身近であり、会社の預り金である保険料積立金が長期資金であるので、社会経済に与える影響も大きく重要である。生命保険で主として販売されている商品は、養老保険・定期保険・終身保険の三種類である。

・定期保険では、一定期間内に自分が死亡した場合に、他の契約者の危険保険料から支払われる死亡保障部分とわずかではあるが自分の積立部分を合算した死亡保険金が支払われる。いわゆる「掛け捨て」保険と呼ばれるものであり、保険期間終了時に保険料積立金がゼロとなるように商品設計されている。

・養老保険と終身保険は、いわゆる「掛け捨て」ではない。養老保険において満期日以前に死亡した場合および終身保険で死亡した場合に支払われる死亡保険金は、他の契約者の危険保険料から支払われる死亡保障部分と自分が積み立てた貯蓄保険料部分を合算したものである。その意味では長生きすればするほど、他の契約者の危険保険料から支払われる死亡保障部分は減少し、みずから積み立てた貯蓄保険料部分が死亡保険金の大半を占めるようになる。

・定期保険以外の養老保険・終身保険は長期に亘る契約が多く、このような負債の性質から生命保険会社の資産運用は長期の金融商品(国債など)に投資することができる。この点において、他の金融機関と異なる性格を持つ。

② 三大生命保険会社の誕生

・明治生命は、明治14年に近代的な生命保険会社として日本で最初に創業した。丸の内に豪華なビルを建設し主に実業家や専門職を顧客として事業展開した。

・帝国生命(現朝日生命)が第二番目に設立された。同社は軍人や役人を中心に募集を展開した。当時の募集広告には、保険加入した場合に「子孫繁栄商売繁盛」するのに対し、非加入の場合一家が不幸になり、「後悔を先にたたせて後より見れば、杖を突いたり転んだり」と漫画を交えて対比させている。

・日本生命は明治22年に大阪のいくつかの有力な銀行家の協力を得て大阪で開業した。同社の特徴は地方の有力者を通じてその紹介で行われる募集にあった。プリゼンに掲載した初期募集史料では、養老保険金受け取りの祝宴の漫画が描かれており、お金の面での満足を強調し、死亡保険金よりも満期金を強調した。

③ 五大生命保険会社への発展

1900年に制定された保険業法において、保険会社を営むことのできる企業形態を株式会社および相互会社と規定されたことから、明治後期に相互会社として第一生命(最初に設立された相互会社)および千代田生命が発足した。
第一生命・千代田生命は大正期になって国の工業化推進に伴い都市化が進む市場の拡大を捉えて成長した。相互会社が提供する「高料高配」商品である利益配当付保険が伸長し、比較的高額な養老保険が販売された

④ 明治期から大正期にかけての生命保険市場成長の要因

・人口増加:明治維新当時の人口3,300万人が第二次大戦終戦時には7,199万人にまで増加し、生命保険市場が大きく成長した。

・工業化都市化:工業化政策が推進され、ブルーカラー・ホワイトカラーが都市に移住し、特にホワイトカラー層の富裕化に伴い都市に集中する中産階級の人口が増加した。結果、都市中心の中産階級をターゲットとした2社が成長した。特に養老保険の成長が大きかった。

⑤ 中小生保・外国生保の果たした役割

・中小保険会社(有隣生命の保険申込書=画像掲示)
五大生命保険会社を追って中小保険会社が多く設立された。一例として有隣生命(1943年明治生命と合併)の初期契約者を見ると、商業・農業・製造業(裁縫工・印刷工など)・サービス業(車夫・芸者・小料理店)従事者・専門職(僧侶・教員・医師等)・地方自治体職員・学生が多く、既存の大保険会社の市場と異なリ幅広い市場に展開していることが分かる。

・海外保険会社(加奈陀サン生命・マニュファクチャラーズ生命・ニューヨーク生命・エクイテブル生命などの資料=画像掲示)
明治末期、第一生命・千代田生命などが設立された時期には既に海外の保険会社が日本に進出していた。海外会社の主市場は日本の富裕層であり、富裕層が信頼性の高い海外会社の高額保険に加入していた。

3.保険商品の開発・市場の発展 生存保険

養老保険を中心とした生命保険によって近代保険業が発足したが、明治30年前後になると保険期間の終期に生存することを条件として保険金が受け取れる生存保険を利用したこども保険・徴兵保険などが開発され、市場の拡大および中小生保の業績の拡大に寄与した。

① こども保険 (日本教育生命保険・日本生存保険などの資料=画像掲示)

被保険者をこどもにする保険であり、死亡保険金が目的ではなく、成長後の諸資金を賄うための生存保険である。学資・結婚資金の調達を目的とし、下記の特徴がある。

・生存保険として生存を理由に保険金を支払う。
・死亡した場合は既払いの保険料を返還する。
・解約の場合は既払い保険料の一部を返還する。

こども保険には、法的見地から未成年者を被保険者にすることの是非を問う声もあるが(保険金犯罪防止上の観点から)、現在は保険会社がガイドラインを設けて法外な金額の保険契約を排除するなどの対策を講じている。

② 徴兵保険(徴兵保険株式会社・富国徴兵相互保険会社の資料=画像掲示)
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                                   (米山講師所蔵の資料)
当時の日本は国民皆兵制であるが、実際に徴兵されるか否かは分からない。この保険は徴兵された場合の事態に備えるための保険であり、死亡保険ではなく生存保険の一形態である。次のような特徴がある。

・徴兵された時点で保険金が支払われる。
・徴兵時に失われる働き手の補償をする。
・徴兵の準備として加入する。

③ 簡易生命保険の小児保険

大正期には簡易保険事業が始まっているが、こども保険には参入していなかった。基本的には養老保険であり、貯蓄性を重視した商品である。満期保険金は通常の養老保険と同じだが、早期死亡については死亡保険金が減額されている。

4.戦時期の生命保険:国民貯蓄運動

保険会社の保険料積立金が戦時国債の市中消化に貢献した。保険業の管轄が商工省から大蔵省に代わると保険会社経営の画一化が図られ、産業合理化のための企業合併が進められ、会社の自主的経営が損なわれた。国民貯蓄運動の一環として生命保険や徴兵保険が利用されたが、戦後のインフレにより庶民の貯蓄はほとんど無価値となった。

5.戦後の生命保険Ⅰ

終戦時の保険業界の状況は次のように危機的であった。
・在外資産を喪失した。
・戦時期の投資(戦時国債を含む)は不良債権となった。
・国民に生命保険に加入する余裕がなく、一時的に生命保険市場が縮小した。
・このため保険会社間の競争が激化し、経営が困難となった。

この解決のため次のような施策が実行された。

・金融機関再建のため債権整理を強行、不良資産と高額保険契約を旧勘定として分離し、一方で不良資産の整理を進めるとともに、他方で高額契約の保険金支払いを棚上げとした。

・健全な資産と少額契約の保険負債を新勘定とし、新規契約を新勘定で引き受けた。最終的に、旧勘定を整理し、新勘定により新会社を設立して再建を行った。新会社の多くは相互会社形態で設立された。
戦後の急激なインフレは保険金の実質価値を大きく減価させた。その結果、すべての保険会社が再建を果たしたが、他方において保険加入者である庶民は損害を被った。特に棚上げにされた高額契約者は大きな損失を被った。

・同一商品同一価格がおおむね一般的となり、過当競争が排除され、監督官庁は、保険会社の破綻により保険契約者が被害を受けないように配慮した。

・旧経営陣の退陣・旧株式会社の解散と新相互会社の設立・財閥機能が減退。

6.戦後の生命保険Ⅱ

戦後になって社会の状況も変わり、保険会社の営業方針も大きく変化した
       2019年6月会報保険7
        (米山講師所蔵の資料)
・当初富裕層を中心とした顧客層は中間層にも拡大していたが、年払いを月払いとすること、満期を加入者が決められる保険などの新商品の開発により、ますます広い層からの加入を図った。

・核家族化が進展し、そうした世帯に対して定期付養老保険が考案された。



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【質疑応答】

Q1:保険という用語は誰が最初に用いたのか、またどのような組織に用いたのか。保険に関する最古の資料とはどのようなものなのか。
A1:明治初期の岩倉使節団の一員である若山儀一が米国の保険会社を学んで「日東保生会社」を設立したが短期に頓挫した。この会社は、「生保」でなく「保生」という用語を使っているが、その直後明治生命保険が発足したので「保険」という用語は実務的には明治生命が最初である。資料としては明治期に作成された版画のチラシがある。
 
Q2:保険会社の資産運用について伺いたい。
A2:運用資産の規模では銀行の方が保険会社よりも大きい。また、損保の資産は生保の1/5~1/6の規模である。保険は長期に金を預かる商品なので、資産運用における投資物件については貸出期間が長期でも対応できる。運用の実態は会社によってまちまちであり、株・国債など投資先は多岐にわたるが、保険会社自体も全社的リスクマネジメント(ERM)により、リスクをふまえて経営を行っている。
                                   (文責:中島 巖)







◎会員の声①




「ウズベキスタン8日間の旅」
                 2015年4月24日~5月1日

                              織井 恵美子




何世紀もの間、東西南北を繋いだシルクロードの一端でも訪れてみたいという思いを予てより抱いていたところ、「ウズベキスタンの旅」という機会に恵まれました。
2019年6月会報天山山脈

成田を出発した飛行機は、首都タシケントを目指して飛行、眼下には天山山脈の雪に覆われた山々が連なり、白銀に輝く山々の姿は「神々が住む」としか言いようがない荘厳な姿でした。

タシケントは古来、東西の国々の貿易中継都市として発展してきましたが、一方数々の侵略を受けました。1991年ソ連から独立し、人口250万人の中央アジア最大の近代都市です。夕刻到着しバスでホテルへ移動中に眺める風景は、広い道路と街路樹の奇麗な街で欧米の街を連想しました。ここではイスラムの民族衣装を着た人、へジャブを被る人は殆ど見かけませんでした。ガイドの女性のご主人はアルメニア人、ロシア人、ユダヤ人のミックスで、彼女の分も含めて息子は五つの血が混じっているとのことでした。
                                  2019年6月会報ティムール像1

夕食後ホテル前アムール・ティムール広場にティムール像(一代で中央アジアを統一した人。1966年直下型大地震後再建した新市街の中心地に立つ)の見学に行きましたが、広場を横切る地下道の出入りにはガイドさんのみバックの中まで調べられました。地下鉄に直結しているからだそうです。

二日目、早朝国内線でウルゲンチへ(1時間40分)、バスに乗り換えヒヴァへ(一時間半)。ヒヴァはアムダリア河下流のオアシス。古代ペルシャ時代からカラクム砂漠への出入り口として繁栄、砂漠に囲まれたヒヴァの中央に大きな城砦が残り、城内と城外がはっきりと分かれ、城内のイチャンカラは中世にタイムスリップした気分に浸れました。

今4000人が住んでいるそうです。観光客もいるでしょうが、みんながカラフルな民族衣装へジャブを被っていました。たまに真っ黒なイスラムの衣装を着た人も見かけました。人々は陽気で気持ちよく私たちに接してくれました。モスクと神学校、ミナレット(塔)や古い住居など見学しました。城外のホテルに泊まりましたが、その夜、嵐の様な強風で街全体が停電、持参した電池が役にたちました。

三日目、バスでウルグンチを通り抜け、キジルムク砂漠を走りブハラへ(7時間)。途中カラカルパクスタン共和国を少し通り、2011年建設された橋でアムダリア河を渡りました。この河はアラル海の縮小の原因になっています(後書きで説明する)。遠くに見えた対岸はトルクメニスタンでした。

砂漠の中、一軒家の食堂で昼食(ナンとシシカバブ)をとりましたが、その折、可愛らしい親切な少年に会いました。食堂の裏のトイレに行ったときのことです。手を洗っていると20メートルくらい離れた所で手を振っている少年がいました。手振り身振りで「こちらへ来て」という感じでした。

その頃、他の国でISの事件が頻繁に報道されていたので、友人と私は瞬間迷いました。「ここで事件に巻き込まれたらみんなに迷惑がかかる」と、私たちの思いとは裏腹に笑顔の少年は一生懸命手を振るのです。迷いつつも少年の方に行った私たちに食堂の裏で兄さんらしき青年が肉を焼いている所を見せてくれたのです。身振りで「昼に食べた肉は美味しかったですか」と問われたので、覚えたての言葉で「ラフマト」と応じると、一段と笑顔が輝きました。自分たちの仕事に誇りを持った兄弟の顔に、イスラムの世界を垣間見た様な気がしました。
2019年6月会報アルク城1

四日目、ブハラはシルクロードの大切な十字路として中央アジアやイスラム世界全体の文化的中心地として繁栄。他の場所では「光は天から差し地を照らす」、ブハラでは「光は地から差し天を照らす」とその威光が讃えられたそうです。アルク城、ウルグベク・メドレス、イスマイール・メドレセなど見学しましたが、反面「馬小屋の下に牢屋があり糞尿が下に流れる」、「処刑広場」などを見ると侵略を繰り返したこの地の歴史の凄さを思い知らされました。賑やかなバザールを散策、買い物も楽しみました。

昼食時に突然賑やかな音楽とともにバスケットに入れた赤ちゃんを先頭に若い女性が入ってきました。30人くらいの女性(若い人も年配者もいた)がカラフルな正装でお出迎え、赤ちゃんを親戚にお披露目する祝宴でした。日本のお宮参り(誕生後30日の赤ちゃんのお祝い)を思い出しました。賑やかな笑顔いっぱいの楽しそうな宴でした。私たちもちょっと参加させてもらいました。
       2019年6月会報サマルカンド地図

五日目、シャブリサーブス経由サマルカンドへ。
シャブリサーブスへは草原の丘陵地を4時間のバスの旅でしたが、途中休憩した農家に一人の若い日本人女性が機織りをしていました。見渡す限り草原だけの何も無い地で、機織りにのみ専念している姿は印象深かったです。
シャブリサーブスはこの国の英雄アムール・ティムールの故郷です。ティムールゆかりの建物は残っていますが、街の改造計画で古い民家を壊して新しいビルや公園などの工事の真最中でした。若い女性がカラフルな民族衣装で一輪車で砂を運んでいましたが、ボランティアとのこと、笑い声を立ておしゃべりをしながらの楽しそうな作業風景でした。
2019年6月会報サマルカンド広場12019年6月会報サマルカンド青のドーム1


六日目、サマルカンド。青空にブルーのドームが映える「青の都」、人々が出会う場所、商人が集まる人口密集地の交差点を意味するサマルカンド。アレキサンダー大王を始め征服者たちの侵略と興亡の歴史が繰り返された所です。有名な廟、モスク、ウスグベク天文台などを見学、青のドームが目に焼き付きました。レギスタン広場で一休みしていた私たちは沢山の人々に囲まれました。日本人が珍しいらしく一生懸命話しかけ写真を撮るのです。(何やらスターになったみたいね)と私たちの感想でした。
サマルカンドからウズベク新幹線アフラジャブ号でタシケントへ(3時間半)。スペインのタルゴ特急と同じ時速150キロメートルでした。

七日目、タシケント市内観光。アライスクバザールまで地下鉄に乗りましたが、私たちを見ると中学生たちはさっと席を譲ってくれました。独立広場、バラクハーン神学校などを見学、ナヴォイ・オペラバレー劇場は、第二次世界大戦後ソ連の捕虜になりタシケントに抑留された旧日本兵が強制労働により建てた劇場で、堅牢で、地震の時にもびくともしなかったそうです。ムスリニ墓地の一角にソ連の捕虜となりこの地で亡くなった79名の墓標があり、氏名や出身県が刻まれていました。イスラム教の家族が代々墓守をしており、きれいに清掃されていました。

<後書き>
バスで移動中運河が沢山あるのに気がつきました。帰国後、友人に話したところ、かつて日本の東北地方とほぼ同じ湖面積があったが、旧ソ連時代の無謀な水資源計画のために、半世紀で4分の1までに干上がってしまった。縮小の原因はアラル海北部に注ぐカザフスタンのミルダリア河と、アラル海南部に注ぎ込むウズベキスタンのアムダリア河から綿花や水稲の灌漑用水を沢山造ったためとのことでした。今環境破壊問題として大きく報道されています。

食事はウズベキスタン料理、中央アジアの代表的な料理(フロウ)、ロシア料理(ボルシチ)など多彩で、シルクロードを行き交った人々の名残を感じました。どこに行っても人懐っこい子どもたちや人々の笑顔が満ちていました。昔シルクロードを行き交ったラクダの隊商が想像でき、異文化の世界を垣間見ることができ、いつまでも印象に残る旅でした。 



◎会員の声②





「短歌と私」
                            川村 僖壹(よしかず)

2019年6月会報短歌2


短歌と私ほどミスマッチなものは他にないというのが私の実感である。と言ってもそうですかとは簡単に信用する人は少ないかもしれない。短歌らしきものを始めて5年になる。その間に1万首以上の短歌らしきものが積み上がっており、今も日々増え続けていることを知る人たちはなおのことと思う。

短歌を始めたきっかけは友人に誘われたというか、けしかけられたからである。それが5年前72歳の時である。小さい時から国語関連が大の苦手で、特に詩的なものにはセンスが欠如している。中学校の先生からもそう太鼓判を押されていた人間だから、当然拒絶反応であった。話をしているうちに、「俺は短歌は苦手だしセンスもない。いい歌なんか作れるはずはない。ということは下手でいいのだ。無茶苦茶でも許されるだろう。」と根がのんきな性格が顔を出したのである。

俳句を選ばなかった理由は、和歌からの歴史が長いこと、季語が不要で自由度が高い、俳句では文字数が少なすぎる、など単純な理由である。というふうに書いてきてふと思ったのは、私が短歌にチャレンジすることは、数学が苦手だった人が高齢者になって数学にチャレンジすることに似ているのじゃないか? そうだとすれば敷居の高さ、無謀さを理解されるのではないだろうか?
                                2019年6月会報手帳1

とにかくそんなことで始めたので、その日の出来事、見たこと、感じたことなどをとにかく31文字にまとめることにした。心がけたのは、31文字にまとまったら手帳に書き留める。そしてその日の終りにメモをした短歌もどきの31文字を全てPC(パソコン)に日付と番号を付して保存することとした。最初に感じたことは、31文字にまとまったら即メモすること。あとでメモをしようとしても跡形もなく消え去っているということ。したがって手帳は常に必携とした。そしてPCに移し替えるとき表現が変えられる、そこで一度推敲ができること、などである。

歌集や新聞の投稿歌、短歌関連記事などを読み始める。そんな中カルチャーショックを受けた短歌に出会った。次の一首である。
  ・次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く   奥田晃
なんだこれ、これで歌? あたりまえのことを表現しただけじゃないか?これで良ければ俺だって、と気持ちが楽になった記憶がある。それが甘かったことになるのだか。ただ、短歌はそれくらい自由なんだ。

我流もいいとこなので、始めて1年後ころに月1回の初心者向けの講座をカルチャーセンターに見つけて受講することとした。受講者が提出した一首を先生が講評し添削する。それによって短歌を学ぶという教室である。当然ながら原形をとどめないほど真っ赤に添削される。生徒15人位で最も下手な部類である。指摘されたことは、

・散文的です。
・説明的です。
・慣用語は使用しないように。
・楽しいとは言わずにどう楽しいのかを。
などなど。しかし、指摘されれば直るほど簡単ではない。散文と韻文との差なんてわからない。そんな状態が今も続いている。
               2019年6月会報若山牧水12019年6月会報石川啄木1


やはり、世にいう名歌に接しなければならないだろうと、牧水や啄木、現代歌人の歌集を読んだり書き留めたりしてみる。牧水には酒の歌が多く、共感できる歌も少なくない。そういう出会いが最近では楽しくなってきている。人生のあらゆることが題材となって詠まれている。理解できると嬉しくなる。例えば女性歌人の若いころの作品に次のような一首があり、これに出会った時も、その奔放さに驚いた。

・たとえば君 ガサッと落ち葉すくふやう私をさらつて行つてはくれぬか  河野裕子

高齢者であっても遠い青春時代に思いを馳せざるを得ない。短歌をやっていて良かったと思えることが少しずつだが実感できるようになってきた。
                                  2019年6月会報ウオーキング1

リタイア後健康維持のため朝1時間ほどウォーキングを行っているが、天候であったり、季節であったり、行きかう人などささいなことに感情移入し歌を詠むようになってきた。実は現役時は一貫して技術畑を通してきた。技術は現象やデータに対して極めて冷静に向き合い、〇×が明確なデジタルの世界である。短歌の世界はこれとは全くの正反対。ささいなことにも感情を動かしドキドキするアナログ的な世界である。

短歌の影響か今までの無機的な無味乾燥の心に少し湿り気というか豊かさのようなものが芽生えてきている気がする。天秤が技術の方へ一方的に傾いていたのが、水平とまではいかないものの傾きがゆるやかになってきたような。

とはいえ、短歌教室では未だに真っ赤に添削される状態が続いている。ひところはがっかり落ち込むこともあったが、最近は割り切って添削されるから勉強になる、反省もする。「いい一首です。」では何も得るものがないのだと添削されることに快感を覚えるようになった。5年目に入っている短歌教室、その間褒められたのは1度だけ、いや1度あったことが望外のこと。励みになっている。

先日、ドキュメンタリー映画「えんとこの歌」を観た。数年前欅友会でいせフィルムのドキュメンタリー映画「大丈夫」を観て以来、いせフィルムのファンになった。そのいせフィルムの最新作である。脳性麻痺で35年間寝たきりの70歳の男性の姿を追ったものである。体はどこも動かせない。介助者に頼り切って生きている。その懸命な姿に打たれるが、彼が10年ほど前から短歌を詠みだした。彼の状況から彼しか詠めない歌、そして恋の歌をも少なからず詠んでいる。彼には短歌が生きる力になっている、エネルギーになっていることを強く感じた。短歌にはそんな力があることを。

最後に小生の駄作数首を披露させていただき雑文を閉じる。恥を忍んで。

・亡き母の店の名前の懐かしき昭和の匂う「リリー洋装店」
・冬ざれの小さな森の散歩道葉は落ち尽くし陽射しやさしき
・青森は近くて遠い聖地なり初恋の人住む地なればなお
・「災」じゃない俺には「裕」と言いたいが「窮」を飲み込む大晦日の酒
・嘆くよりその趣を楽しまん濃霧立ちこめる我が風景を (緑内障進行中)

皆さん、短歌を始めませんか? 数学が苦手な方数学をやり直してみませんか?きっと新しい世界に出会えます。苦手に挑戦することの効用です。




2019年(令和元年)学習会スケジュール

2019年6月会報スケジュール2
★スケジュールは事情により変更、中止する場合があります。予めご了承ください。
○学習場会場 東京経済大学の教室                                
○各学習日とも土曜日 13:30~15:30 (受付開始は12:30より)
○下記の学習会は映画上映のため終了時間が1時間遅くなります。
★ 7月20日(映画を読む会)  13:30~16:30 



(編集後記)
5月学習会の日の暑かったこと! 体調を考えて外出を断念された方がいらっしゃったのではないでしょうか。太陽が照り付ける東経大の長くて急な坂道を物ともせず、キラキラ輝く表情で来場される皆様からは、いつも元気をいただきます。会場は12:30には準備が整っています。早めに来場し、涼しい教室内で体を休めてから受講されてはいかがですか。 (編集長:大崎尚子)

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