欅の木3余白削除70 3/9 赤坂 憲雄先生 - 欅友会
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学習会の要旨

◎3月9日学習会の要旨  

日 時:2019年3月9日(土)13:30~15:30 
会 場:東京経済大学 5号館 E102教室
テーマ:「国木田独歩の『武蔵野』を読む」
講 師:赤坂 憲雄 先生(学習院大学 文学部教授)                              2019年4月赤坂先生3
  
出席者:259名(会員:男性167名、女性63名、
        非会員:男性11名、女性18名、)                                   

【講演要旨】


(1)東北から武蔵野へ

昨年秋、岩波新書より国木田独歩の「武蔵野」という短編をテクストにして「武蔵野をよむ」という本を刊行した。もともとは、岩波書店の「図書」というPR紙に1年半連載していたもの。並行して学習院大学大学院の演習で「武蔵野」を取り上げた。
学生たちの参加と協力のおかげで、自分では納得のいく本ができた。今日はその一端ではあるがご紹介したいと思う。
                           2019年4月会報国木田独歩2

20年間東北で暮らしていた。様々な理由から勤務していた大学を辞めたのは2011年の元旦であった。実は、私の父が福島の出身で、父の人生をたどり直したいと思い、山形の大学から誘われたときに直ぐに応じた。そして、「東北学」を提唱し東北各地を訪ね歩いて、いろいろな方々からお話を伺ってきた。しかし実は、東北に生まれ育った人々の語りには、いわば実感としてうまく掴めないもどかしさが残った。

いずれ東京に戻る、その時には自分の半ばふるさとであるこの「武蔵野」をフィールドとして歩いたり、見たり、聞いたりそして調べてみたいと思っていた。

だから、「ハケ」のところに土地を買い求め家を建てた。武蔵野に囲まれたその場所で「武蔵野学」を始めようと考えていたが、東日本大震災が起こってしばらく東北に引き戻された。その中でも、少しずつ武蔵野に関する本や資料などを買い集め、勉強を始めていた。連載を始めたのが2014年5月、ようやく去年の7月にこの本『武蔵野をよむ』を脱稿した。

(2)渋谷から府中へ、さらに所沢へ

我が家族は、昭和30年、私が2歳の時に、四谷のあたりから府中へ、関東医療少年院の直ぐそばの都営住宅に引っ越してきた。都営住宅ができたときに原野が切り開かれて初めて人が暮らせるようになった場所であることは、のちに確認した。
雑木林と野原と畑の世界は、楽しい遊び場であった。そこはきっと、東京という大都市が開発によって武蔵野をどんどん飲み込んでゆく、その最前線だったのだと思う。

だから、国木田独歩に繋がっていく。昭和30年代の府中というのは東京の周縁部であり、街外れであり郊外である。そうした昭和30年代の府中の記憶を手がかりにして、国木田独歩を読み始めた。
    2019年4月会報甲武鉄道12019年4月会報玉川上水1


独歩の「武蔵野」が明治30年代前半に出てから、若者たちの間には「武蔵野趣味」が大流行した。独歩が明治28年に玉川上水縁を歩いたときも、当時甲武鉄道と呼ばれた中央線が飯田橋から八王子まで、その年の4月に開通していた。その鉄道網というものが明治の若者たちの散歩熱というか「武蔵野趣味」をかき立てて、たくさんの人たちが独歩の「武蔵野」を読んで歩き始めた。

旅人たちが残した歌や随筆とかを眺めてみると、武蔵野は古代・中世はつねに「草」に彩られていた。「いにしえの草のゆかり」といい、ひたすら「草」の武蔵野が語られてきた。なぜ旅人たちは「武蔵野」というと「草」を詠んだのか。一面に草原があったのか。
                   2019年4月会報武蔵野1

江戸時代の新田開発のなかで、玉川上水が引かれ、その分水が武蔵野台地に張り巡らされてくると、初めて新田が開発され村ができてくる。真っ先に必要とされたのは、実は雑木林であった。それは、平野部で暮らす農民たちにとっては、かつて山ぎわに暮らし、薪や炭にする材を採り、山菜やキノコや木の実を採るために利用していた里山と繋がる暮らしを、平野部の新田の村で展開するためには絶対に必要なものだった。雑木林は武蔵野台地に暮らす人々の「里山」であったと思う。
2019年4月会報武蔵野2

独歩は、明治30年前後の渋谷に暮らしていた。その住居跡は今、渋谷のNHKの大きな通りを挟んだ向かいの歩道に立っている標柱によって知られる。独歩の「武蔵野」を読む人たちは、そこにほとんど地名が出てこないことに気づかれたかもしれない。つまり、独歩はよそ者であった。

今、道玄坂とかセンター街と言われているあたりの渋谷であるが、学生たちと何度も歩いているのだが、120年前の独歩がいた武蔵野との変わりように、本当にびっくりさせられる。
                           2019年4月会報渋谷センター街1

急激な都市化や近代化の中で消えていく武蔵野の後ろ姿を、独歩は目撃したのだと思う。自然と生活とが、あるいは独歩の言葉で言うと、「社会の縮図」のようなものがここにはあった。明治30年の渋谷は、独歩にとってはそうした都市と田舎が混ざり合うような、そして様々な悲しい、笑ってしまうような物語がたくさん埋もれている場所であった。それを独歩は『武蔵野』という単行本に納められた他の作品の中でも、繰り返し取り上げている。
2019年4月会報独歩の武蔵野

独歩の「武蔵野」は、武蔵野の葉っぱを落とす「落葉林の美」を、いわば「雑木林」の美しさを発見した書物と言われている。雑木林とは何か、それがまず一つ目の問いになる。
古代から中世の和歌や紀行文の中で、武蔵野はひたすら「草のゆかり」ということで語られている。ところが、独歩は、近代になって渋谷の地で「武蔵野」を発見し、その時の独歩にとっての「武蔵野」は草ではなく、雑木林だった。

では雑木林とは何か。民俗学者の柳田国男は独歩と付き合いのあった人でもあるが、後に「あの雑木林は近世の人作であって、武蔵野の名残といったものではない」と批判している。武蔵野は、放っておくと時間をかけて照葉樹林帯に戻っていく気候風土だと言われている。それを焼いたり伐採したりした後に生まれてくる二次林を、15年くらいのサイクルで更新、利用してきたいわば人為的に管理された森である。
もう一人の民俗学者の宮本常一もまた、武蔵野の風景というのは「単なる自然ではない。人の手によって生み出された自然だ。人が作ってきた自然だ」と言っている。

いずれにしても、独歩の発見した武蔵野は近世になって生まれて、近代の明治30年代に独歩の目の前から消えゆこうとしていた風景であった。

(3)武蔵野は移民の大地である

次に語りたいのは、独歩がよそ者だったことに関わる。

柳田国男も西の方の人で東京に来て、最後には世田ヶ谷の成城に住んで、成城の周りに残っている武蔵野を丹念に散策し記録している。そして宮本常一は、瀬戸内海の周防大島の出身で、そこから東京にきて、転々としながら府中に居を定め、そこを拠点にして武蔵野を散策した。つまり、「武蔵野」について語ってきた人たちは、だれもがよそ者である、移民であったと言えるのかもしれない。これはとても大切な手がかりになるのかもしれない、と考え始めている。

「武蔵野は移民の大地である」という論文を、『東京人』という雑誌の2018年11月号に書いた。独歩も柳田も宮本もみんなよそ者だった。わたしの父もまた、福島から流れ流れてきたよそ者であり移民だった。
東京、とりわけ郊外に暮らす人たちの大半は、地方出身者かその子供たちで、もしこの土地から「武蔵野学」という地域学が生まれてくるとしたら、その主役はよそ者であり、移住者であり、移民である。これは私にとって、大切な気づきであった。
「武蔵野学というものがこれから造られていくとしたら、その主役はよそ者である」と書いた。

故郷を追われた人々の眼差しを抱え込んだ東北というのが、私の中でもう一度語られるべきなのかもしれない。故郷に生きることの自明性とか幸福といったものを疑わない。それゆえに、故郷を持つことの残酷さに気づかない。そういう地域学は、武蔵野では育っていかないだろう。暗示的にしかいえないが、そんなことを考えている。

「汝の足元を深く掘れ。そこに泉あり。」沖縄学を創った伊波普猷が座右の銘にしていた言葉である。地域学を支える、励ましのメッセージだと思ってきたが、ふと思ったのは、そこで呼びかけられている「汝」の中にはその土地に生まれ育った人だけではなく、よその土地から移ってきた人たち、移民たちが含まれているのかもしれない。私にとっては、「土地に根ざすことのない民俗学は可能か」といった問いかけにも繋がっていくような気がする。

(4)あらためて武蔵野とは何か

もしかしたら、今、武蔵野は改めて発見されようとしているのかもしれない。たとえば、独歩の「武蔵野」の冒頭には、小手指とか久米川の名前が出てきて、今はそのあたりに武蔵野の面影がもっとも色濃く残っているかもしれないという風に、独歩は書いている。

その120年後に生きる我々は気づこうとしている、雑木林が豊かに残っていて、とりわけ狭山丘陵の周辺は、まさに武蔵野の原風景が残っている土地なのではないか、と。武蔵野は今、北に向けて拡張しようとしている。だから、明治30年の渋谷、昭和30年の府中、平成30年の所沢を繋ぐような知のラインが可能になるのかもしれない。

「武蔵野とは何か」と言われたときに、ひと言ではとても答えられない。武蔵野が指しているエリアはどこか。これも人によって違っている。その広がり方を曖昧にして、国名としての「武蔵」とは関係なく、広大な武蔵野台地を包摂するようなエリアとして考えてみたいと思っている。

武蔵野は、近世以来、巨大な人口を擁する江戸や東京に対して、人や水や食料や燃料を供給する「郊外」であり続けてきた。むしろ江戸、東京こそが、武蔵野に抱かれた大都市だったのではないか。数万年を遡る昔から、旧石器、縄文、弥生へと人々が、とりわけ水の豊かな川筋とかに暮らしの場を築いていた。そして、中世、「草の武蔵野」が発見され開発とともに生まれてきた雑木林が、近代になって武蔵野の原風景の一つとして発見される。いわば武蔵野は、それぞれの時代ごとに発見されてきたのかもしれない。

繰り返すが「江戸は、東京は、武蔵野に抱かれた大都市であった」といった読み直しが可能ではないかと思い始めている。
「武蔵野学」は、色々なところに芽生え始めているが、まだ形になっていない。その「武蔵野学」がゆっくりと育っていく。今日は、独歩の「武蔵野」を手がかりにその一端をお話しさせていただいた。
           2019年4月赤坂先生風景2

【質疑応答】

Q1:ネットで独歩の石碑について調べたら、なぜか武蔵境駅の北の方にある桜橋のところにあった。また、三鷹の駅の北口にあるとあったが、独歩にとっては、桜橋とか三鷹は、何か特別なものであったのか。

A1:話の中でも触れたが、明治28年8月11日と26日の2度、信子さんという若い女性と桜橋のあたりをデートしている。これは「武蔵野」の6章に書かれているが、この章にはとても幸福な匂いがする場所として描かれており、そこからとった言葉が石碑に刻まれている。「武蔵野」全体の流れとは少し違っているが、あの章があることによって、「武蔵野」は水と武蔵野というテーマに繋がり、江戸というものを考える非常に大切な手がかりを与えてくれると思っている。渋谷の周りだけではなく、玉川上水が挿入されることによって、また違う武蔵野の原風景のようなものが描かれる端緒になったと思う。

Q2:私は、もともと武蔵村山の岸という狭山丘陵で言えば南側の真ん中より西側に寄るところの出であるが、前はそこでは稲が採れた。今は公園みたいになっているが、昔はそこから流れ出る水で農機具なんかを洗っていた。今行けばもう水は無くなってしまった。先生のお話を聞いてなるほどと考えていた。

A2:武蔵野台地の中で水田風景というのは、ほとんどが川そばである。武蔵野台地の中では、畑作の方が原風景として広がっていたのかと思う。人口は右肩下がりの時代に入っていく。自然とか風景も大きく変り、どこにでも狸がいるようなそういうものになっていく。遠ざかっていた自然がどんどん我々の足元に近づいてきている。唐突ではあるが、人口問題とは、そういうことを意味していると思う。それをマイナスと捉えるのか、あるいは新しく生まれてきた生態環境と、うまく付き合っていくことができるのか、という問いでもあるように思う。武蔵野はそういう最前線になっていく、と勝手に思っている。残念ながらこの目でみることはできないと思うが。

Q3:地理的な範囲の話であるが、武蔵野の資源の一つとして、江戸時代の人糞が大きな資源だったかと思う。当時も水運、物流と100万都市の人糞があってこそ、大きな農業集積ができていると思う。西の方は多摩川が一つの論点といわれたが、東の方は荒川ではないかと考えている、このことについてのお考えをお聞かせ願いたい。

A3:私は2歳まで四谷に住んでいたらしいが、その時代の四谷には練馬の方から荷車に野菜を積んで運んできて、その対価として人糞を集めて載せて帰ったようだ。武蔵野の農業を支えた人糞の問題は、たいへん重要だと思う。そして荒川といういわば「東の武蔵野」が重要なのは、あきらかにご指摘の通りだと思う。「西の武蔵野」で掘り起こされたことを再確認しながら「東の武蔵野」を読み直していくと、江戸という都市がどのような、東西南北の武蔵野によって支えられていたのかということが見えてきそうだなと思う。(文責:橋本 滋)











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