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わたしと「食」

◎「わたしと食」  その3

      ”家は洩らぬ程、食事は飢えぬ程にて、足る事なり”   千利休
     
10月号から3回にわたり掲載した特集は今回が最終回です。
ご投稿ありがとうございました。


「食は医なり」                 関塚 恵子

私には年子の妹がいます。社会人三年目の春、両親は「料理は大切である」と、姉妹に料理教室に通うよう勧めました。そして週一度仕事を終えた後、渋谷にある教室に通ったものです。
教室では料理を作る心構えを、作る相手の事を考えるに始まり、栄養、食事の大切さ、バランス、食材の選び方など、多岐に亘って料理に関する基本的なことを教わりました。いつの間にかその週習った料理を、日曜日の夕食に作るのが常でした。
12月会報料理教室1

食材は母が買い求めてくれました。どんな料理が出てくるのか? 味付け、盛り付けなど両親や二人の弟達は、腕を振るう私達の料理を大変楽しみ、喜んでくれました。それぞれに忙しい日々でしたが、食を楽しみ、一週間の出来事を語ったこの週一度の家族団らんの時間は、今でも懐かしく思い出される光景です。私が料理に関心を持つようになったきっかけは、この料理教室に通った二年間が原点です。「食は医なり」を実感したのもこの時です。今は亡き両親に感謝です。

「好きな食べ物 」                加藤 武夫
私は、コッペパンが大好物だ。
人間の味覚は、子供の頃に植えつけられると言うが、正に私のコッペパン好きの原点はそこにある。

戦後の食糧難の時代、我が家は、夏は米、冬は大麦と小麦を作る兼業農家でした。ある時父が収穫したばかりの小麦を袋に入れて、これとパンを交換してこいと私にいいました。パンなど食べたことのない時代でしたから、恐る恐る、街のパン屋へ自転車で30分程かけて行きました。その時、小麦一升と交換できたのはコッペパン2個でした。焼き立てのパンの芳醇な匂いに圧倒されました。子供の私に、小麦一升が、コッペパン2個に見合うものなのか等とは考えも及ぶはずもなく、急いで持ち帰り、兄弟姉妹5人で食べたことを思いだします。世の中にこんなに美味しいものがあるのかと、もうびっくり。その味と香りの記憶が忘れられずに、76歳になる今も食べ続けている。
                                12月会報コッペパン1

父は、子供達の腹を満たすことの他、私に、物々交換を通して社会の仕組、お金の価値、ひいては働くことの貴さなどを教えたかったのかも知れないと今では思っていますが、苺ジャムをたっぷりと塗り込めたコッペパンを食べる至福の時が、これからも続くことを願って止まない。


「「食」の思い出」              天野 肇

黒塗りの木箱の間仕切りに色とりどりの和菓子を並べた「おやつ」のご用聞きを楽しみに待った幼年時代、8歳で迎えた継母の作るインド風カレーやタピオカ等が、少女時代を過ごした天津の外人租界の異国風味で、一年前に亡くなった実母の日本料理とは全く異なる味に驚いた少年時代、日中戦争で徐々に進む食料不足から乾パンやすいとん等の代用食が出始め、米の配給制度も始まった小学生高学年時代、太平洋戦争の戦況悪化と共に深刻化した食料不足で、米に代わる豆や芋で飢えを凌いだ旧制中学時代、敗戦後、荒廃した農地と人手不足で食料は激減、東京では米、肉、魚はおろかまともな野菜も手に入らず、空きっ腹を抱えて取り締まり警官の目を盗みながら、違法なヤミ食料の買い出しに近県を走り廻った大学予科時代の思い出なども今では貴重な体験だ。
12月会報志那ソバ1

貧窮生活の中で、殆ど外食も出来なかった大学卒業直前、友人のおごりで初めて食べた一杯の支那そば(ラーメン)に、こんな美味しい食べ物が日本にあったのかと感激したことも生涯忘れられない。  


「「食」のつらい思い出 」           南波 貞敏

私の食は出来るだけ残さず食べるようにして居る。山奥の貧しい水飲百姓に生まれた父から、幼い頃から厳しく躾けられて来た事が原点ではあるが、自分自身終戦の秋に体験した飢えが身に染み付いてしまった。疎開して母の実家の農家に居た頃は、何とか食糧には事欠かなかったが、学校の事で急遽帰京した東京は、猛烈な食糧難であった。
                                12月会報米軍缶詰2

一日の配給がピーナッツ三つぶ、牛の食べるような草か藁かの入った蒸パンとは云えない様な苦いパン。それでも他に無いので無理やり呑み込んだ。時々配給になる米軍の野戦用缶詰のなんと素晴らしかった事か今でも忘れられない。最後にタバコが出てきたのには驚いた。日本軍の乾パンと比較して、これでは勝てる筈が無いと痛感した。配給食券が必要無くなったのは、昭和31年であった。

疎開先から五日かけ帰京する時担いできた30キロの餅の重さが、今の私の丈夫な体を作った原点と思っている。


「米からつくるには時間が無いのでごはんからでよろしいでしょうか?」
                                 松田 眞

先日、軽井沢のゴルフ場でスタート前に昼食の「お粥」を特別に依頼した食堂の担当者の問いかけでした。私は今まで約3年間に60箇所以上のゴルフ場で「お粥」を食べてきました。私が胃がんを患い手術で胃と食道の接続部が細くなったために(1.5㎜以下)、1時間弱の昼食時間では足りないのと、急ぐと詰まってしまう危険があるため「お粥」にしています。味はどうでも胃にスムーズに入ってくれればよいと思っていましたが、出される「お粥」がお茶づけや雑炊の様なものもあり、差異を感じるようになりました。こんな時、今まで一度もなかったこの質問を受け感動しました。
12月会報お粥1

金婚式と傘寿を元気に迎えた私は、月3のゴルフが出来る達成感を味わい「お粥」批評を続けながらすごしたいと思います。
でも「お粥」は、やはり米から時間を掛けてゆっくりとつくると、なお一層おいしいですよ! 


「育ち盛りの食」                       田中 法親

戦時中~戦後の物資不足時代を生きてきた者の食について以下、4つのことを強烈に思い起こす。
1)本来ならば家畜の餌になるべき大豆の絞り粕
2)コーリャン、門司港沖で触雷した沈没船から引上げた物(船中で発酵し糞臭を発していた)
3)農林百号と称し、嵩ばかり大きく触感パサパサで無味の薩摩芋
4)ヨモギ、ギシギシ、タンポポ等の乾燥野菜入りの小麦粉(従って色は鼠色)
                                12 月会報沖縄100号

以上1~4)等を食べてきた。特に1~3)は喉越しが悪く、飲み込んで腹に流し込んでいた。
しかし、父が三菱石炭勤めで田舎にいたため空き地に畠を作り、芋類・豆類・ソバなどを作り糊口を凌いだ。
以上の如く粗食で育ってきたが、何とか82歳まで生きて来られ、東経大の坂も登れる頑丈な体に育ててくれた両親に感謝している。

  
「食前と食後の言葉 」            小田切 豊雄

12月会報さしえ(家族)

息子2人の家族と週1回は楽しく膳を囲む。
孫4人は同じ幼稚園で、2人は今や小学生、2人が幼稚園児である。我が家の伝統となっているのが、幼稚園で唱えた言葉である。
○ 食前の言葉、・・「われ、ここに食多く、つつしみて、
    大地の恵みと、人々の労に感謝していただきます。」
    「召しあがれ」・・「いただきます。」
○ 食後の言葉、・・「われ、食を終わりて、こころ豊かに、
    おのが努めにいそしみます。」・・「ご馳走さま。」
    全員が手を合わせて感謝する幼稚園の良き習慣が
    続いている。勿論、今後も続けていくつもりである。
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