FC2ブログ

会員の声

◎会員の声


「国立市 国分寺市 府中市」

                               髙橋 和夫
 

私の今までの歩みを振り返ってみると、国立市 国分寺市 府中市が大きくかかわっている事に気が付いた。

私は父の勤め先の関係で国立の一橋大学構内の職員住宅で出生した。当時の大学構内は樹木が多く、のどかな雰囲気をただよわせており、子供にとってはまたとない環境があった。
私が小学校に入学するにあたっては、旧谷保地区に村立小学校はあったが、自宅から3キロ近くで通学も大変という事情から大学隣接の私立国立学園小学校に入学した。太平洋戦争が始まったばかりの昭和17年4月では、まだ戦争も激化していなかったし、国立学園の教育方針も自由なのんびりしたものであった。学級は1クラスで約40人で家族的であり、お蔭で卒業してから70年近くたってもまだ年2回クラス会を続けているのは大変うれしい事である。
12月会報国立駅2

当時の国立駅前ロータリーには円形の大きな鉄柵で作られた鳥籠があり、鳥や小動物が飼われていたのを記憶している。
小学校4年生の8月15日正午、天皇陛下の放送を職員の家で聞き、今後どうなるのか子供心にも不安を強く感じた。
戦後は食糧難で大学の計らいでグランドを職員に貸し出して、米野菜の栽培が出来たのは大いに助かった。
小学校卒業後は国立中学校、更に都立立川高校に進学したが、その間は自宅から通学していた。今でも時々国立へ行き、一橋大学構内の池の辺に佇んでいると幼き日の思い出がよみがえる。
                          12月会報一ツ橋大学3

国分寺市との関係は昭和29年4月、東京経済大学に入学した事によるものである。当時の校内には鉄筋コンクリートの講堂のみで、それ以外は木造二階建ての教室事務室と旧中央工業の工場を改築した建物が数棟あるだけで、最近の大学構内広場に立つと隔世の感を禁じえない。入学後何かアルバイトをと思っていた処、旧国鉄の知人から電車の朝の混雑の対策として、国分寺駅で学生班を募集しているといわれ、応募して幸い採用された。
仕事は朝7時から8時までの1時間、時給は当時のお金で百円であり、毎月約2千円の収入になり大学の授業へのさしつかえもないので2年くらい続けた。
12月会報東京経済大学1

東京経済大学では前期1年2年に一般科目の他、教職課程も受講し、教育についての認識が深められた。
大学3年になりゼミを選択する事になり、学内で評価の高い金融論の依光(よりみつ)良(よし)馨(か)先生のゼミを希望したところ運よく入ることができ、依光先生からはかけがえのない人生への教えをいただいたことは本当に有難い思いである。

昭和32年秋になりいわゆる就活に入り、数社受けたがなかなか内定がもらえず、10月を過ぎてようやく損害保険会社の内定が決まりやっと安心できた。損保会社に入社したものの転勤が多く、昭和61年に府中市新町に家を建て、ようやく落ちついた生活に入れた。72歳で勤務を終わりその後はどのような生活になるかと考えていたところ、府中市シルバー人材センターが定年後の働きを紹介する事がわかり、平成20年4月入会した。シルバー人材センターにも色々な仕事があるが、私が最初に担当したのは就業開拓員で、市内の企業をまわりシルバー人材センターの利用をすすめる事であった。
しかし、各企業とも簡単には応じてくれず、苦労をしたが、府中市の事業のなり立ち、地理的な状況が段々わかるようになったのはよい経験であった。
                          12月会報府中ケヤキ並木2

現在私が担当している業務は、府中市による小学生の放課後子供教室、愛称「けやきッズ」である。これはとも働き等で子供を安全に預かってもらいたい家庭への施策で、時期にもよるが午後1時から5時まで府中市シルバー人材センターのスタッフが見守っている。私は大学で教職課程をとったが、60年後に小学生と接する機会を持つ事になり、少しは役立っていると思っている。

府中市新町は国分寺市と接しており、東京経済大学とは徒歩約20分の近距離である。たまたま数年前依光ゼミの神尾龍三郎氏から欅友会への入会のさそいがあり直ちに入会した。東京経済大学との関係も親密で講座内容も色々な方面に及びかつ講師の方々も充実しており、私にとっては母校を訪れる機会にも恵まれ、府中市に住居をもった事は幸である。

私が生まれ育った国立市、国分寺市の東京経済大学入学から受けた教育人格形成、現在住んでいる府中市での年月は何ごとにも代えがたいものである。これからも出席出来れば何年も欅友会の行事に参加すると共に、母校東京経済大学の行く末を見守って行きたい。
メニュー
アクセスカウンター
リンク