11月会報(2017)



                           11月の会報(花2)
      
      
      
          
 11月会報(2017)
                                            



◎会員更新手続きのお願い


現在会員の更新を受け付けています。

会費は昨年度と同様、会報のメール配信希望と郵送希望の2本立ての設定とさせていただきます。
この機会に可能な方はメールでの配信に切り替えをしていただきますようお願い申し上げます。
     
○会報のメール配信希望の方  年間会費2500円(現状通り)
○会報の郵送希望の方     年間会費3000円(現状通り)

★来年1月の第一回学習会までに会員を確定させる必要がありますので、なるべく年内早めに、10月にお送りした払込取扱票を使用し、郵便局よりお払い込みください。払込取扱票には住所、お名前のほか、性別、年齢などをご記入ください。
なお、会費振込の期限は12月末です。これを過ぎますとお引き受けできませんので、ご了承ください。

★払込票を紛失された方は、郵便局の払込票で下の口座にお払い込みください。
◆口座記号…00160-0    ◆口座番号…265588    ◆加入者名…欅友会
※通信欄に①住所・お名前②「継続」あるいは「新規」の別、③「性別・年齢」(例…女性、68歳)
④会報のメール配信をご希望の方は、メールアドレスをお書き添え下さい。
なお、メールアドレス登録済でその後変更がない方は、お書きいただかなくても結構です。

★新たに入会を希望される方がいらっしゃいましたら、下記の受付責任者まで電話でお知らせください。
会費払込票をお送りします。なお、新規会員の申込受付期限は12月20日です。
     受付責任者      増田 保武      中村 俊雄

★10月14日に小金井市内の郵便局から2500円お振込みくださった方がいらっしゃいますが、払込票に
お名前がありませんでした。お心当たりの方は、8ページの連絡先(大崎)までメールでお知らせくださ
い。

★11月6日までの会費納付者は256名です。


10月の会報(バス旅行)

◎10月24日野外学習会に参加して  芦川 洋

台風の速度が早まり当日は天候に恵まれ、学習会初めてバス2台で午前7時30分に国分寺駅南口を出発し、途中談合坂の小休止を経て10時に本日の目玉の「平山郁夫シルクロード美術館」に到着した。説明の都合で赤・緑・黄の3グループに分れて館内に入り、平山夫妻が収集したシルクロードの美術品と平山画伯の絵画作品を鑑賞した。
     11月会報シルクロード5
                       11月会報シルクロード1

ガンダーラ地方で初めて作られた仏像の顔がシルクロードを経て変化していった様子は興味深かった。絵画での圧巻は「古代ローマのエフェソス遺跡」で、その上部にアレキサンダーの東征軍が金色で描かれており、写実と史実が融合した素晴らしい作品であった。また、最晩年に、聖路加病院の病室をアトリエとして過ごされ、天然の顔料が戸棚一杯に並んだ中で、日野原院長からの見舞の花を描写中に絶筆になっている作品(?)が展示されていた。平山画伯の絵画に対する執念のようなものを感じた。

 次にお楽しみの「おいしい学校」での昼食に向かった。「昭和館」で3カ所に分かれて懐かしいアルマイトの食器で炊き込みご飯、ハムカツ、瓶入り牛乳などの給食であった。男性は和室での食事であったが、廊下に脱いだ会員の靴が整然と並んでいたことには感心した、さすが欅友会会員の面目躍如たるものである。昼食後は体験教室の「大正館」は閉まっていたので、「明治館」(津金學校)を見学した。1階・2階・3階は木製の机椅子や各種オルガン等が陳列されており、最上階は太鼓楼で、西洋の教会を模したもので、ベル(チャイム)の代わりに太鼓で時間を告げたとのことであった。
     11月会報八ヶ岳1
                       11月会報大村美術館1

3カ所目は韮崎大村美術館である。まず、入り口の美術館の名前が電気抵抗の単位を表す「オームΩ」に大村博士の名前「智」のSを組み合わせたデザインにRAをつけて「おおむら」と表していたのは面白かった。1階は女流作家の作品が中心の展示で、開館十年目の企画展として「女性作家の華やぎ」が開催されている。2階は鈴木信太郎の作品が展示されている。最近改装された部屋には、博士のいろいろな業績を表すメダル・表彰状の展示の中にノーベル賞のメダルも展示されており、部屋は見学の人で溢れていた。
    
  11月会報おいしい学校3

          11月会報おいしい学校2
最後の見学地はワイナリーで、甲州産のワインの試飲に酔いしれた。その後中央高速を国分寺への帰途についた。見どころが多くて、予定の時間を1時間遅れてバス2台全員が無事国分寺に到着した。                                   





◎会員の声
 

【その1】 短歌の記憶を呼び覚ますはたらきについて
     
                                鬼塚 邦子
         
11月会報和歌3
 

 古来、この国の風土とそこで生き死にを繰り返した人々は一体どのような暮らしをしてどのような情感をもっていたか、その思いを短詩系文学によって窺い知ることができます。紀元759年4500首もの詩歌が万葉集として編まれ、その大らかな調子は現代でも好まれ研究され続けています。その後勅撰和歌集である古今和歌集が900年代に、さらに1205年には新古今和歌集が編まれました。中世期に至っても数多くの和歌集が編まれ続けてきました。王朝文化が華やかな時代に政治の世界でも事あるごとに詠まれた和歌は、単に貴族の遊びや教養だけに留まらないはたらきがあったということです。
 
大きく時代が変化した現代になると、正岡子規1867‐1902(慶応3-明治35)による短詩系の改革と後に続く主にアララギ派と呼ばれる人々の努力と熱意で繋がれてきました。

それ以後も安定した短詩系文学の位置が揺るぎ無いものとしてあったわけではなく、72年前の敗戦によりすっかり自信を無くした人々の目には古来受け継がれてきた文化も色褪せて見え、短詩系の文学そのものが否定され消滅してしまいそうな時期もあったようです。

しかし、また現在は口語短歌もほぼ容認され、この30年ほどの間には俵万智を始めとして短歌で自身の思いを自在に表現する若い世代の出現も相次いでいます。ネット社会となり様々な人、特に若者が自由に発信するようになった時代背景もあるからでしょう。
                                   11月会報短歌1

普段短歌に関心がなく、鑑賞する機会も少ない方に戦中戦後に詠まれた短歌、また東日本大震災とその地震による原発崩壊後に詠まれた短歌をご紹介したいと思います。私自身戦後生まれなので、非常事態にある社会でこのような短歌も詠まれていたことを今回知って、改めて衝撃を受けました。どちらかと言えば忘れ去り葬りたい体験であっても、書き残されたことはこの上なく意味深く感じられます。
 
《戦中、戦後に詠まれた短歌》
 

 自爆する飛行機が見え遠ければ海にいたるまでにいとまありけり     佐藤佐太郎
   (自爆機を沖合に見つめながら、その飛行機が実際に海に突っ込むまでの切なさを詠んだ)

 東京の焼野を跨ぐ大虹の立ちたる脚のまさやかに見ゆ          窪田章一郎
 
 独房に狂わんとするを支えては若き兵らが詠みし歌はも          同
 
 自爆せし敵のむくろの若かるを哀れみつつは振り返り見ず        宮 柊二
 
 猫も食ひ鼠も食ひし野(や)のいくさこころ痛みて吾は語らなく       同
 
 新しき国興るさまをラヂオ伝ふ亡ぶるよりもあはれなるかな       土屋文明
 
 弾痕がつらぬきし一冊の絵本ありねむらむとしてしばしば開く      斎藤 史
 
 濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ          同                               

《2011年3月11日以降に詠まれた短歌》


なきがらを捜索する人、搬ぶ人、検死する人、記録する人          伊藤一彦

暖房も電灯もなき避難所にいのち誕生の記事は小さき           石川良一

強制退避の集落は闇となり果てて見捨てられたる牛の尻写る        大平修身

子を連れて西へ西へと逃げてゆく愚かな母と言うならば言え        俵 万智

三十キロを歩き明け方の帰宅なり地震・津波のニュースを視つむ      平山公一

                 ―2013年3月11日 現代歌人協会選「東日本大震災歌集」より

被災地で震災を体験していなくても、ほぼ時を同じくしてTVなどの映像によりあの未曽有の災害を私たちは追体験しました。話として或いは書かれた記録として伝わった大正12年の震災とは異なる点です。その時の恐怖、大切なものが奪われていった喪失感を言葉にとどめることで忘れない、短歌には一瞬にして記憶を呼び覚ますはたらきがあるのではないでしょうか。

私自身は市の公民館で「短歌入門」という講座を受講し、ちょうどその頃初孫の誕生もあったのでそれをきっかけに短歌を詠んでみたいと始めたのでした。ところが10年以上たっても作った短歌の数は一向に増えません。飽きっぽい性格は変わらないことと、詠むための努力を続けることの難しさを痛感しています。次の短歌は平成17年に亡くなった父を、また平成28年に亡くなった母を詠んだものです。これらは私の個人的な体験ですが、読み返すと父の穏やかな笑顔、母の介護に通っていた日々が一瞬で思い出されるのです。
  
   在りし日の父の未来を語る時眼尻の皺の懐かしき
   
   未来とは明るいものと疑わず穏やかなりし父の晩年
   
   この月は無人となりし母の家朽ちてゆくもの積もりゆくもの
   
   厨房の網戸の蝉の抜殻が私の季節は終わったと告ぐ
      
   もう誰もいなくなるこの家の庭人を頼みて夏草を刈る
   
   こどもらに追われることもなくなりてあまりに軽き蝉の亡躯
  
   一粒の土さえあれば芽吹く草窓あけ放ち今日のはじまり
 
この5首は月刊誌「短歌研究」平成26年11月号で佐佐木幸綱先生が採って下さったものです。唯一私にとって記念となりました。 



【その2】    忘却とは…                 
                                 山田 敏

3月16日の朝日新聞の「天声人語」に、こんな件(り)がありました。
「子供の頃の日常生活を鮮明に覚えている。楽しいことばかりなら良いが、侮辱された記憶や悲しみがこと細かに再生される。胸がえぐられるような思いを何度も繰り返すのは、本当につらい。」これはアメリカのジル・プライスさんという人の「忘れられない脳」に書かれているものです。
11月会報(脳)

これは記憶力が良いというものではなく、「超記憶症候群」という病気だそうです。
私も喜寿となり、もの忘れが顕著になりました。この病気のことを考えれば私は極めて健康ということになります。

話は変わりますが、もの忘れは人生の楽しみにもなっていることに最近気付きました。昔見た映画をケーブルテレビなどで再び見て、あたかも初めて見る様な感動を覚えるのです。悲しい場面では涙が出ます。悪人には腹が立ち、自分を陥れた者には強い復讐心がわきます。こんな感覚は若い頃のものとほとんど変わっていません。

この年齢になって初めてわかる新しい発見もあります。老人力から来る楽しみの一つと言えると思います。正に人生二毛作です。
昔のラジオドラマ「君の名は」の冒頭に、こんなナレーションがありました。
「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を思う心のかなしさよ。」
                                   11月会報(君の名は)

私はまだ小学生で、意味はよく理解出来ませんでしたが、今になって初めて、その意味がわかるように
なりました。





◎わたしと「食」      その2

“食物を愛するよりも誠実な愛はない。”    バーナード・ショー

先月に引き続きご投稿文を紹介します




指の食文化と箸の食文化            窪田 寛

アジア地域では、食事をするときに箸を使う食文化の国と、箸を使わず右手で食べる指の食文化の国がある。
歴史的に、中国文化を多く受けたタイ、ベトナム、ラオスなどは、ほとんどの人が箸を使って食事をしている。
しかし、タイからすぐ隣の国、ミャンマー(ビルマ)、インドネシアなど、インド文化の影響を受けた国々では、箸を使わず、右手の5本の指を使って食事をしている。
                   11月会報(5本指)
私が10年間駐在したインドネシアでも、多くのインドネシアの友人の自宅に招待されると、家族の皆さん全員で楽しく夕食時に、右手の5本の指を上手に使いながら食べていた。私も初めはかなり抵抗があったが、家族の皆さんと一緒に指で食べることができるようになってからは、指で食事をすることのすばらしさと楽しさをしみじみと感じることができた。
11月会報(フォーク)

手の5本の指をよく見てみると、親指の形はスプーンの丸形に似ており、他の4本の指はフォークの先の4本に似ているように思える。縄文時代には、箸などなかったことであろうし、人々は指を使って食事をしていたことであろうし、指の食文化が原点となり、箸の食文化が生れ、そしてフォーク、スプーン、ナイフの西洋の食文化が生まれたのではないかと独断と偏見で自分勝手に考えている。


「食」の味覚                       内古閑 徹


「食」の味覚で忘れられないのは 幼少の頃、畑で栽培されている赤いトマトを食べたあの青臭い匂いは、現在簡単に味わえない貴重な味覚です。また 無造作に林に転がっている大きな栗、たわわに実った大きな形の良い富有柿、どれも随分身近に感じられました。
                                    11月会報栗2

現在は、「食」の環境は豊かになりました。けれども何か尊い味覚を失っていないかと感じます。グルメ探訪で、華やかさを強調して楽しみですが、ここでも「食」に対する深みが足りない気がします。

今から三十数年前、腸閉塞を手術して食べ物を始めて咽喉を通した時の格別の喜びは忘れられません。あたかも咽喉から手が出てきて吸い込んでもらった感じでした。飲み込む感じではありません。これが食欲なのだと何とも神々しい思いをしました。健康で食欲があれば、どんな粗食であれ感謝して、本当の味覚を覚醒し満喫して味わうことができるのではないでしょうか。


家に食が宿るとき              名取 瑞穂

家は一代、服は二代、食は三代。この言葉は私の父が生前折に触れ「衣食住」では食が一番大切と子供に伝える言葉でした。家は一代で建つ、服装のセンスや諸々の美的感覚は二代かかり、食は生きるために一番大切で、嗜好的な好み、香味など楽しむ心、食から心の豊かさにつながるものがある。その家の味覚は代々受け継いだ味が存在し、三代かかる。
11月会報(家族団らん)

このような事を言われ育ったように思えるのです。私にとっての食は、家庭の味、おふくろの味を意味します。外食で使う一流の名店、ミシュラン・ガイドブックの星印の数でもなく、仲間と居酒屋で飲むおいしい酒でもなく、私にとっての食とは家族揃って食卓を囲む食事のことです。時間をかけて楽しく食事をする夕食は、母の手作り料理が並び、父は晩酌を楽しみながら、一日の仕事の疲れを取り、一杯の美酒に笑顔があって、この姿は食を主体として家族が回ると言えるかもしれません。家に食が宿るのです。


学校給食の思い出             望月 温

私が小学校に入学した昭和25年は、戦後の混乱は落ち着いて来たとは言え、未だ食糧事情は厳しい状況であったが、翌年2年生から私の学校給食が始まった。当時のメニューは、脱脂粉乳にジャムかマーガリンが付いたコッペパンが常食で、時にはポタージュスープや鯨肉のカツに刻みキャベツが付いていた事もあった。当時食べた白いコッペパンの味はこの上なく美味しくて、母親に半分持って帰った事を今でも懐かしく思い出す。給食の昼食が楽しい時間であった。
                                 11月会報(学校給食)

米国政府と国民から無償で供与された脱脂粉乳と小麦粉によるこの学校給食のお陰で、育ち盛りの私たちは空腹を感じる事もなく栄養失調を免れた世代であり、後に何人かの米国人に出会う度に、お礼の気持ちを私なりに一生懸命伝えてきた。平成28年12月ハワイ・オアフ島での安倍首相の米国民向けの演説の中で、私の気持ちそのものを代弁して下さった事に、安堵とともにとても感謝している。

「食」は心               松元 俊夫

若い頃から土いじりよりも包丁を握る方が好きだったが、外食で美味しかった料理のレシピをカウンター越しに仕入れて真似たり、或いは自己流で作ったりしているうちに、俺にできないわけがないとばかりに、つい出しゃばって1年の半分以上は台所に立つようになってしまった。 
11月会報(ジャム)

また、近所のお宅から、無農薬の甘夏みかんや無花果などを毎年頂くので、これもいつの間にか6月はいちご、8月は無花果、11月はりんご、暮れからマーマレードといった具合にジャム作りに励むようになった。
自分で食べたいから作るのに、周りから美味しいなどと言われると、つい調子に乗ってしまうようで単純極まりない。最近は「・・・そうした工夫は、相手を想う気持がなければ生まれない。

飲むひとのことを心から大事に想う、その情が味わいを一層深めているのだろう。」というある小説の一節を思い出し、以前にも増して手間暇かけてひとのために作ることに悦びを感じる次第である。
とはいえ、1人で昼を過ごす時など、面倒くさくなってカップラーメンで済ますこともあるフツーの男である。


伊勢の赤福                 内山 晴信 

日本は物産に恵まれ、全国各地に銘菓・銘品など多々あり、「京都の銘品」に心が引かれるが、私としては10歳まで過ごした三重県伊勢市の逸品「赤福」を挙げたい。
                               11月会報(赤福)

東京勤務の父が戦後の物資不足の中での生活は大変として、勤務先に申し出て伊勢に移住した。昭和34年、東京都が「インフラ整備が追い付かない」として流入規制実施の動きあり、昭和34年7月、人事異動で一家は東京に復帰となった。(伊勢湾台風はこの翌月)。

赤福は、求肥餅に小豆の漉し餡を加えた簡素な構成であるが故に材料に拘わり、餡は香りが良く、食べて胸やけすることもない。また、神宮(内宮)を流れる清流・五十鈴川を象徴する波が施され「神宮の赤福」を印象付けている。餅も一種独特なねっとり感があり、「これぞ赤福」と感激する。
神宮参拝後に「おかげ横丁」で、新幹線や近鉄の駅で、東京のデパートで「先着200個限定」で買うのも良し、機会を見て故郷の味を楽しんでいる。

乏しかった食の思い出          近藤 裕

戦争の最後の頃、食糧の配給が大豆しかなく、毎日それを喰べて下痢が続いていました。疎開先の鳥取県で、両親は死亡してすでになく、病弱な姉の提案で、隣村の豆腐屋に持って行って豆腐に変えてもらおうということになり、中学生の私と小学生の妹と二人で数粁歩いて頼みに行きました。

日本海を眺めて何時間か待ち、夕方出来上がったので、バケツ三つに水を張って豆腐を入れ、持ち帰りました。
村はずれの小高い丘の上で一休みした時、昼食を喰べていないので空腹に堪え切れず、二人で生の豆腐を何丁かつまみ喰いしました。日暮れ頃、やっと家に辿り着いたら、今日の夕飯はこの豆腐だと言われました。
11月会報(豆腐)
 
生の豆腐の臭いが鼻について、とても喰べられませんでした。つまみ喰いがバレて恥ずかしい思いをしましたが、それ以来、生の豆腐は大の苦手となりました。


中村屋カリーライス           増田 保武

どなたもがご存知の中村屋カリーライス。私が初めて出会ったのは昭和二十年代の半ば、両親に連れられ新宿本店で食した時である。以来60数年間、中村屋のチキンカリーとピクルスの組合せの虜になっている。
                                 11月会報(カリーライス)

今時、美味しいカレーなど何処にでもありそうだが、私にとってこのインドカリーに勝るものはない。今でも新宿本店へ行くと往時の雰囲気が感じられ味わいも格別だが、新宿まで足を運ばなくても中村屋の出店には、表には出ていないものの、必ずインドカリーの缶詰が置いてある。店員に「缶詰を」と申し出ると、奥の方から取り出し手渡してくれる。この缶詰がまた大変美味で、これさえあれば家内が留守でも、一人で食事を大いに楽しめるのだ。

どうして、こんなに美味なインドカリーが出来たのか? それは創業者の娘がインドの革命家と結婚した事を機に本格的なカリー調理を学び、昭和2年6月12日に販売を開始したから。当時のキャッチフレーズは「恋と革命の味」だそうだ。これからもこのインドカリーの味が変わらないで欲しいと切に願っている。



◎2018年(平成30年)学習会スケジュール

11月会報スケデュール2
         
★スケジュールは事情により変更、中止する場合があります。予めご了承ください。
○学習場所 東京経済大学の教室                            
○各学習日とも土曜日 13:30~15:30 (受付開始は12:30~))

※2月17日の土居先生の講座は、15:00から大倉学術芸術振興会の公演があるため、
13:00~15:00の変則開催となります。


(編集後記)
10月の遅い台風には驚かされましたが、翌30日には早くも木枯らし1号が吹きました。気温の変化が激しい時期ですから、風邪など召しませぬようご用心ください。今月は皆様のご投稿文を満載してお届けしました。お楽しみいただけたでしょうか。「食」の特集は来月号で終了します。   (編集長 大崎尚子)

      
      
      
          
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