わたしと「食」

◎わたしと「食」      その2

“食物を愛するよりも誠実な愛はない。”    バーナード・ショー

先月に引き続きご投稿文を紹介します




指の食文化と箸の食文化            窪田 寛

アジア地域では、食事をするときに箸を使う食文化の国と、箸を使わず右手で食べる指の食文化の国がある。
歴史的に、中国文化を多く受けたタイ、ベトナム、ラオスなどは、ほとんどの人が箸を使って食事をしている。
しかし、タイからすぐ隣の国、ミャンマー(ビルマ)、インドネシアなど、インド文化の影響を受けた国々では、箸を使わず、右手の5本の指を使って食事をしている。
                   11月会報(5本指)
私が10年間駐在したインドネシアでも、多くのインドネシアの友人の自宅に招待されると、家族の皆さん全員で楽しく夕食時に、右手の5本の指を上手に使いながら食べていた。私も初めはかなり抵抗があったが、家族の皆さんと一緒に指で食べることができるようになってからは、指で食事をすることのすばらしさと楽しさをしみじみと感じることができた。
11月会報(フォーク)

手の5本の指をよく見てみると、親指の形はスプーンの丸形に似ており、他の4本の指はフォークの先の4本に似ているように思える。縄文時代には、箸などなかったことであろうし、人々は指を使って食事をしていたことであろうし、指の食文化が原点となり、箸の食文化が生れ、そしてフォーク、スプーン、ナイフの西洋の食文化が生まれたのではないかと独断と偏見で自分勝手に考えている。


「食」の味覚                       内古閑 徹


「食」の味覚で忘れられないのは 幼少の頃、畑で栽培されている赤いトマトを食べたあの青臭い匂いは、現在簡単に味わえない貴重な味覚です。また 無造作に林に転がっている大きな栗、たわわに実った大きな形の良い富有柿、どれも随分身近に感じられました。
                                    11月会報栗2

現在は、「食」の環境は豊かになりました。けれども何か尊い味覚を失っていないかと感じます。グルメ探訪で、華やかさを強調して楽しみですが、ここでも「食」に対する深みが足りない気がします。

今から三十数年前、腸閉塞を手術して食べ物を始めて咽喉を通した時の格別の喜びは忘れられません。あたかも咽喉から手が出てきて吸い込んでもらった感じでした。飲み込む感じではありません。これが食欲なのだと何とも神々しい思いをしました。健康で食欲があれば、どんな粗食であれ感謝して、本当の味覚を覚醒し満喫して味わうことができるのではないでしょうか。


家に食が宿るとき              名取 瑞穂

家は一代、服は二代、食は三代。この言葉は私の父が生前折に触れ「衣食住」では食が一番大切と子供に伝える言葉でした。家は一代で建つ、服装のセンスや諸々の美的感覚は二代かかり、食は生きるために一番大切で、嗜好的な好み、香味など楽しむ心、食から心の豊かさにつながるものがある。その家の味覚は代々受け継いだ味が存在し、三代かかる。
11月会報(家族団らん)

このような事を言われ育ったように思えるのです。私にとっての食は、家庭の味、おふくろの味を意味します。外食で使う一流の名店、ミシュラン・ガイドブックの星印の数でもなく、仲間と居酒屋で飲むおいしい酒でもなく、私にとっての食とは家族揃って食卓を囲む食事のことです。時間をかけて楽しく食事をする夕食は、母の手作り料理が並び、父は晩酌を楽しみながら、一日の仕事の疲れを取り、一杯の美酒に笑顔があって、この姿は食を主体として家族が回ると言えるかもしれません。家に食が宿るのです。


学校給食の思い出             望月 温

私が小学校に入学した昭和25年は、戦後の混乱は落ち着いて来たとは言え、未だ食糧事情は厳しい状況であったが、翌年2年生から私の学校給食が始まった。当時のメニューは、脱脂粉乳にジャムかマーガリンが付いたコッペパンが常食で、時にはポタージュスープや鯨肉のカツに刻みキャベツが付いていた事もあった。当時食べた白いコッペパンの味はこの上なく美味しくて、母親に半分持って帰った事を今でも懐かしく思い出す。給食の昼食が楽しい時間であった。
                                 11月会報(学校給食)

米国政府と国民から無償で供与された脱脂粉乳と小麦粉によるこの学校給食のお陰で、育ち盛りの私たちは空腹を感じる事もなく栄養失調を免れた世代であり、後に何人かの米国人に出会う度に、お礼の気持ちを私なりに一生懸命伝えてきた。平成28年12月ハワイ・オアフ島での安倍首相の米国民向けの演説の中で、私の気持ちそのものを代弁して下さった事に、安堵とともにとても感謝している。

「食」は心               松元 俊夫

若い頃から土いじりよりも包丁を握る方が好きだったが、外食で美味しかった料理のレシピをカウンター越しに仕入れて真似たり、或いは自己流で作ったりしているうちに、俺にできないわけがないとばかりに、つい出しゃばって1年の半分以上は台所に立つようになってしまった。 
11月会報(ジャム)

また、近所のお宅から、無農薬の甘夏みかんや無花果などを毎年頂くので、これもいつの間にか6月はいちご、8月は無花果、11月はりんご、暮れからマーマレードといった具合にジャム作りに励むようになった。
自分で食べたいから作るのに、周りから美味しいなどと言われると、つい調子に乗ってしまうようで単純極まりない。最近は「・・・そうした工夫は、相手を想う気持がなければ生まれない。

飲むひとのことを心から大事に想う、その情が味わいを一層深めているのだろう。」というある小説の一節を思い出し、以前にも増して手間暇かけてひとのために作ることに悦びを感じる次第である。
とはいえ、1人で昼を過ごす時など、面倒くさくなってカップラーメンで済ますこともあるフツーの男である。


伊勢の赤福                 内山 晴信 

日本は物産に恵まれ、全国各地に銘菓・銘品など多々あり、「京都の銘品」に心が引かれるが、私としては10歳まで過ごした三重県伊勢市の逸品「赤福」を挙げたい。
                               11月会報(赤福)

東京勤務の父が戦後の物資不足の中での生活は大変として、勤務先に申し出て伊勢に移住した。昭和34年、東京都が「インフラ整備が追い付かない」として流入規制実施の動きあり、昭和34年7月、人事異動で一家は東京に復帰となった。(伊勢湾台風はこの翌月)。

赤福は、求肥餅に小豆の漉し餡を加えた簡素な構成であるが故に材料に拘わり、餡は香りが良く、食べて胸やけすることもない。また、神宮(内宮)を流れる清流・五十鈴川を象徴する波が施され「神宮の赤福」を印象付けている。餅も一種独特なねっとり感があり、「これぞ赤福」と感激する。
神宮参拝後に「おかげ横丁」で、新幹線や近鉄の駅で、東京のデパートで「先着200個限定」で買うのも良し、機会を見て故郷の味を楽しんでいる。

乏しかった食の思い出          近藤 裕

戦争の最後の頃、食糧の配給が大豆しかなく、毎日それを喰べて下痢が続いていました。疎開先の鳥取県で、両親は死亡してすでになく、病弱な姉の提案で、隣村の豆腐屋に持って行って豆腐に変えてもらおうということになり、中学生の私と小学生の妹と二人で数粁歩いて頼みに行きました。

日本海を眺めて何時間か待ち、夕方出来上がったので、バケツ三つに水を張って豆腐を入れ、持ち帰りました。
村はずれの小高い丘の上で一休みした時、昼食を喰べていないので空腹に堪え切れず、二人で生の豆腐を何丁かつまみ喰いしました。日暮れ頃、やっと家に辿り着いたら、今日の夕飯はこの豆腐だと言われました。
11月会報(豆腐)
 
生の豆腐の臭いが鼻について、とても喰べられませんでした。つまみ喰いがバレて恥ずかしい思いをしましたが、それ以来、生の豆腐は大の苦手となりました。


中村屋カリーライス           増田 保武

どなたもがご存知の中村屋カリーライス。私が初めて出会ったのは昭和二十年代の半ば、両親に連れられ新宿本店で食した時である。以来60数年間、中村屋のチキンカリーとピクルスの組合せの虜になっている。
                                 11月会報(カリーライス)

今時、美味しいカレーなど何処にでもありそうだが、私にとってこのインドカリーに勝るものはない。今でも新宿本店へ行くと往時の雰囲気が感じられ味わいも格別だが、新宿まで足を運ばなくても中村屋の出店には、表には出ていないものの、必ずインドカリーの缶詰が置いてある。店員に「缶詰を」と申し出ると、奥の方から取り出し手渡してくれる。この缶詰がまた大変美味で、これさえあれば家内が留守でも、一人で食事を大いに楽しめるのだ。

どうして、こんなに美味なインドカリーが出来たのか? それは創業者の娘がインドの革命家と結婚した事を機に本格的なカリー調理を学び、昭和2年6月12日に販売を開始したから。当時のキャッチフレーズは「恋と革命の味」だそうだ。これからもこのインドカリーの味が変わらないで欲しいと切に願っている。
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