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学習会要旨

◎ 7月8日(土) 学習会の要旨 
 

日 時:7月8日(土) 13:30~15:30                             
場 所:東京経済大学 5号館 E102教室  
テーマ:「戦場の現実からみたアジア・太平洋戦争」                                          
講 師:吉田 裕 先生(一橋大学大学院社会学研究科教授)
出席者:184名(会員:男性122名、女性:48名、
非会員:男性11名、女性3名)
8月会報吉田先生1

【講演要旨】

序:戦場のリアルな現実に対する想像力の衰弱?

1983年以来34年間一橋大学で教えている最古参の教員となってしまった。授業はパワーポイントは使わず、レジメと資料に沿って話す方法で行っているので、今日もその形で話したい。

今日のテーマについて最近感じることは、戦争・戦場のリアルな現実に対する想像力が衰えており、その背景には戦争の実態そのものが知られていない現実があると感じる。2008年の人口推計では、戦後生まれが全人口の75.5%、戦中派と重なる大正生まれが4.4%、戦争を体験した人の割合も10%を切り、軍隊経験者も数十万人(それも低い方)に減少している模様で、日本傷痍軍人会も4年前に解散した。戦争の体験とその記憶を持つ世代がいま消えてゆこうとしている。

1980年代の半ばには、自衛隊も実戦の経験者を持たない軍事組織となってしまった。第20代航空幕僚長鈴木昭雄氏は、防衛大学時代の上官から、「負けた国の軍隊が社会に正常に復帰するには、百年かかる。長い時間であり、君たちの時代には来ない。でも今から信頼を一つ一つ積み上げていかないと、その百年もない」との重い言葉を聞かされたと回想している。
敗戦に対する旧軍人の負い目や痛覚から、戦争の実態が若い世代に必ずしも正確に伝えられていない現実もあり、生身の人間が殺し殺される関係に投げ込まれる戦場への想像力は期待出来ない。
 
戦後、戦時の政治史や外交史はそれなりに研究されたものの、研究者の間では戦争や軍隊に対する忌避感から、軍事史の研究はとかく回避される傾向が強く、軍事史研究の中心になった防衛庁防衛研修所戦史室の「戦史叢書」全102巻も、数少ない戦史として貴重な記録でありながら、司令部が上から俯瞰した形の戦史であり、戦場の現場からの視点を欠いた記録である。しかも作戦中心の記述で、補給、情報、衛生などは全く無視されている。また、戦中の陸海軍間の対立が戦後の戦史研究にもそのまま受け継がれ、戦争の記録もすべて陸海軍別々に編集されている。

1. アジア・太平洋戦争、その戦局の展開

「アジア・太平洋戦争」としたが、あの戦争をどう呼ぶか、戦争の名称自体にも種々議論がある。
                               8月会報真珠湾攻撃2

第一期:開戦から1942年5月まで、日中戦争以来予算面も含めて戦争体制の整っていた日本軍の戦略的攻勢期であり、太平洋地域では未だ戦争準備の整わない米・英・蘭を圧倒して東南アジアから太平洋にかけての広大な地域を占領した。
8月会報ミッドウェイ海戦1

第二期:1942年6月から1943年2月まで、連合軍が反撃に転じ日本軍と激しいつばぜり合いを演じた戦略的対峙の時期。42年6月ミッドウェイ海戦で日本は虎の子の空母4隻とその艦載機を失い、8月ソロモン諸島のガダルカナル島に米軍が上陸し、翌43年2月日本軍が敗北して撤退し、同時に多数の新鋭輸送船や、航空機と熟練した搭乗員も失う。ただし、この時期でも太平洋での米軍の軍備は未だ十分ではなく、その弱点はオーストラリア軍によって補われ、ニューギニアなどでの戦闘は日豪間で戦われたことは、従来日本では余り知られていなかった。しかしオーストラリアは戦後東京裁判で天皇訴追を主張したり、中国と共に日本憲法に「すべて大臣は文民たるべし」との文民規定を挿入させるなど、日本に対して終始厳しい態度で接したのは、その対日戦争体験によるものである。

第三期:43年3月から44年7月まで、米軍の戦略的攻勢期で、日本の戦略的守勢期。アメリカの戦争経済が本格的に稼働、多数の空母が就航し、新鋭航空機の開発・量産により、日米の戦力比が逆転し、格差が急速に拡大。米軍は44年6月マリアナ諸島のサイパン島に上陸、日本海軍はマリアナ沖海戦で完敗し、機動部隊は事実上壊滅する。8月にはマリアナ諸島の喪失で、日本本土の大部分をカバーできる航空基地が建設され、新鋭爆撃機B29の本土爆撃体制が整備される。サイパン島の陥落では、初めて1万人規模の民間人の戦死者が発生する。
                             8月会報沖縄上陸2

第四期:44年8月から45年8月敗戦までの、敗戦必至になりながら、なお抵抗を続けた絶望的抗戦期。米軍は44年10月フィリピンのレイテ島に、45年1月にはルソン島に上陸。3月小笠原諸島硫黄島の日本守備隊を全滅せしめ、4月沖縄本島に上陸して6月までに日本軍守備隊の組織的抵抗を排除。
8月会報本土空襲1

それに先立つ44年11月からB29による日本本土の軍事目標への空襲が開始され、3月10日未明の東京大空襲を皮切りに、都市部への無差別絨毯爆撃が本格化して中小都市に至るまで壊滅、他方44年以降、陸海軍に輸送船として徴用された商船が潜水艦や航空機などの攻撃で予想を大幅に上回る損害を受けて原材料の輸送が途絶し、日本の戦争経済は壊滅状態に陥る。
                                   8月会報ポツダム宣言1

その状況下で、45年7月、米・英・ソ三国首脳のポツダム宣言が発表され、8月6日広島への原爆投下、8日のソ連対日参戦(日ソ中立条約違反)、9日長崎への原爆投下を経て、8月14日の御前会議でポツダム宣言受諾を決定し、9月2日ミズーリ号艦上で降伏文書に調印。

この間、全四期を通じて中国が大きな打撃を受けながらも対日抗戦を継続し、このため日本は多数の兵力を中国戦線に配備せざるを得ず、また46万人もの戦死者を出した点で、日本にとっては有史以来の大戦争だったにも拘わらず、戦後日本人の記憶の中では、真珠湾攻撃や、広島・長崎への原爆投下に象徴される太平洋戦争と、それに続く6年間の占領統治の陰に隠れて、日中戦争そのものが忘れ去られてしまったように見えると指摘する専門家もいる。

2. アジア・太平洋戦争における戦場の現実

戦没者数:総数310万人-1937年7月勃発の日中戦争以降の戦没者-(軍人・軍属230万人、うち朝鮮人・台湾人5万人、民間人80万人)
ただし、日本では、戦没者の年次別数字が公表されていないため、唯一、年次別戦没者数を公表している岩手県の統計を参考にして、日本全体の1944年1月1日以降の軍人、軍属の戦没者を推計すると、約201万人となり、民間人の戦没者80万人も大部分この時期の戦没として加算すると、281万人、即ち全体の91%が、44年1月以降の絶望的抗戦期のものと考えられる。

何故戦争終結の決断が遅れたのかについては、軍部、政府、天皇の責任、明治憲法の欠陥など種々の理由があり得る。

死の異常なありよう:アジア諸国の戦争犠牲者のことを忘れてはならないが
①餓死:戦死者に占める餓死の割合は、藤原彰氏は60%、秦郁彦氏は37%と人によって異なるが、何れにしても内外の戦史に類を見ない異常な高率で、国力無視の戦線拡大、補給軽視の軍事思想、マラリヤ対策など軍事医学の立ち遅れ、兵力動員の拡大による弱兵・老兵の増加などがその原因として指摘される。

②海没死:船舶の沈没による死没、船員の死没が35万人と多く海上護衛戦の軽視も一因とみられる。
8月会報神風特攻機1

③特攻:当初は空母の飛行甲板を一時的に使用不能にするなど、限定的目的だったが、次第に陸海軍とも航空部隊の主要戦法になり、4,000人が戦死したが命中率は10%程度と低かった。

④自殺や自殺の強要、友軍による殺害:過酷な戦闘や行軍に耐えきれぬ自殺、投降阻止、退却・万歳突撃時の自殺、人肉食のための自軍兵士の殺害などが目立つ。  

おわりに - 少年兵のこと

学童疎開や勤労動員だけではなく、予科練、少年飛行兵、少年戦車兵、海軍特別少年兵など満14歳から志願し、15歳、16歳で戦死した少年もおり、また満14歳で3か月の速成教育をうけて乗船した少年船員もいた。

【質疑応答】

                        8月会報吉田先生風景2

Q1. 特攻に関する天皇の責任と、特攻の命中率は?
A1. 部隊の編制は天皇の大権に属するが、陸軍は天皇の裁可を得ない形で既存の部隊に特攻機と特攻兵を派遣したが、海軍は天皇の裁可を得て「桜花」などの特攻隊を編成したので天皇の責任問題は生じ得る。命中率は、急降下で浮力が付くため意外に低く、10%程度とみられる。

Q2. 戦争に対する想像力の衰弱を話されたが、中国の最近の好戦的な拡張主義や、韓国の反日感情にはのように対応すれば良いのか、ご意見を伺いたい。
A2. 中国はある時期から、階級教育から愛国教育に切り替えた。共産党の指導で階級闘争に勝利できたと教えてきたが、愛国教育では共産党の正当性を抗日戦の勝利に求めるようになった。
昨年、30年ぶりに南京を訪れてその近代化に驚いたが、南京虐殺記念館の展示の結論が中国の国力が弱かったから侮られたとなっているのには違和感を覚えた。南京事件の被害者数についても、最近中国側に30数万人は多すぎるとして、せいぜい十数万ではないかとの研究も出てきているが、未だ国際会議などで議論できる段階ではなく、これにどう対応すべきかはなかなか難しい。韓国との関係も複雑だが、今韓国の若い研究者の中ではヴェトナム戦争に参加した韓国兵の現地での悪行(多くのヴェトナム女性のレイプ)や戦争犯罪に対する反省や研究が始まっているので、共に話し合える共通の土俵も出来始めたと感じている。

Q3. 戦争終結が遅れたのは、当時の国際環境の中で戦争終結の仲介を依頼出来る国がなかったからとも考えられるがどう思うか?
A3. 色々な議論もあるが、私は満州事変以後の軍の暴走を抑えきれなかった明治憲法の欠陥が最大の 問題だと考えている。
明治憲法そのものについては、一方で絶対主義的憲法とみる見方も多い中で、最近の研究ではむしろ立憲主義的憲法として
評価し直す意見も出ているが、私自身は戦争を防げず、終結も長引かせたところに、明治憲法の制度上の欠陥があった
と考えている。

Q4. 敗戦記念日を「終戦記念日」と名付けた経緯を知りたい。
A4. 戦没者の追悼をどうするかの政府方針は資料がなくてはっきりしないが、1952年サンフランシスコ講和条約が発効した後に1回だけ全国戦没者追悼記念式典が開催され、その後何も行われないままで、1963年に初めて終戦記念日が設定され、戦没者の追悼が行われるようになった。なお、1993年の8月15日に細川首相が初めて日本の戦没者のみならず、全世界の戦没者に追悼の誠を捧げると挨拶して以来、第1次安倍内閣も含めてすべての首相がアジア諸国への日本の加害責任に言及してきたが、それが第2次安倍内閣では言及されなくなり、「過去の歴史の教訓に学ぶ」との言葉も2015年から消えてしまい、明仁天皇のお言葉との違いも出始めている。
                                       (文責:天野 肇)



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