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(会報第300号)





「会報300号発刊に思うこと」    
                         欅友会 会長 増田 保武

 1984年4月に手書き1ページだけの会報第一号を発刊してから34年、ついに記念すべき300号を発刊することとなった。過去の会報を改めて紐解いてみると、それは講演内容の変遷・会員の声・特集寄稿・野外学習会など数々の思い出と時代の移り変わりの様子が詰まったまさに欅友会の宝物である。この先500号、1000号の会報が発刊される時の世の中は、どうなっているのか期待が膨らむ。

 最近の会報は会員の皆様からのご寄稿も多く、また講演要旨の充実によりページ数も8~10ページと増え、小冊子の様相を呈している。この講演要旨取纏めについては歴代の役員が苦労を重ねてきた。印刷枚数の圧縮目的から1講座5000字程度の要旨取纏めを目指しているが、最近の講演は学術発表のように内容が濃く、説明される項目も多いので中々その範疇に収まらない。加えて先生方に校正をお願いすると、これまた丁寧なる校正が加わることが多く、担当役員の大いに苦慮するところである。

 何れにせよ、今後もさらに内容を充実させ、手作り感の溢れる会報作りに努めたいと、気持ちを新たに思うところである。



「会報300号を記念して」                   
                               天野 肇
                      
 欅友会に参加して今年で19年目になる。入会した翌年から講演会の要旨を取り纏めて、会報に記録する作業を年に2~3回担当し、今年で46回の講演要旨を纏めた。この間の講演回数は180回に上るので、平均4回に一度、要旨を纏めたことになる。
  
 旧制中学4年で敗戦を迎えたが、2年間は勤労動員と都心の焼け跡整理で殆ど勉強できず、戦後の占領時代は食糧難と超インフレの生活難で勉強が手に付かなかった私にとって、欅友会での18年間は、教室で学べる貴重な生涯学習である。特に講演要旨の記録は、講演内容を咀嚼して要点を纏め、それを如何に判り易く表現するかを学ぶ場であり、今読み返して反省する点を多々見出すものの、この得難い機会を与えて頂いたことに唯々感謝するばかりである。又、会報に寄稿される多士済々の会員の方々のご意見や随想を読んで、多様な人生観を教えられることも多い。

 学校を出て実業の世界で働いた43年間、大学のキャンパスや先生方との接触が皆無に近い生活だっただけに、欅友会で大学の緑豊かなキャンパスを訪れるだけでも心の平穏を得ることが出来、教室で講演に聴き入る2時間は、俗事を忘れることの出来る貴重な時間であることが何よりも有り難い。

 又、会員懇親会や野外学習会も、日頃顔だけは知り合い乍ら話す機会の少ない会員の皆さんとの得難い接触の場で、特に後者は一人ではなかなか行く機会の少ない場所をバスで訪れ、終日行動を共にしながら色々な新知識を得られる欅友会の伝統行事であり、今後も種々の企画を盛り込んで継続されることを期待したい。

佐藤一斎の言志晩録に言う。
少にして学べば即ち壮にして為すことあり、
壮にして学べば即ち老いて衰えず、
老いて学べば即ち死して朽ちず   
少にして学ぶことの少なかった私にとって、特に肝に銘ずべき後段の二句である。

★天野 肇さん: 会報142号(2002年5月)から194号(2007年4月)まで編集を担当。元会長。





「会報300号刊行おめでとう!!」             
                                  三宅良一
 
 
 1983年(昭和58年)3月欅友会が産声をあげ、手書きの第1号会報が創刊されて以降、1998年(平成10年)4月に100号を、2007年(平成19年)11月には200号をと続刊し、ついにこの12月に300号を刊行するに至りました。
輝かしい会報刊行の履歴のなかで、2007年(平成19年)5月の195号から2013年(平成25年)1月の257号まで、約6年間会報作成に当たらせて頂いたことは大変光栄なことでした。ご協力頂いた会員の皆さまに御礼申し上げます。  

 2007年(平成19年)4月、副会長を仰せつかり事務全般を担当することとなりました。会報の作成も担当の一つということで、これは大変、どんな会報を作ったらよいのかと悩みましたが、会員の皆様に読んでいただける、楽しんでいただける会報を作ってみようと割り切って会報作りを始めました。 

 パソコン操作は自信をもっていましたので、文中にカラークリップやイラスト等を季節に応じたものを選びながら掲載し、少しでも明るい会報をと努力した次第です。アンケートに「会報を読んでいる」、「所用あり欠席したが会報があって良かった」等と書いてあるのを見て大いに励まされました。 

 しかし、会報作成には種々苦しいこともありました。何事も期限が迫らないと腰を上げない性分のため、会報の作成も編集会議の数日前から開始することも多々あり、担当当初の頃は「学習会の要旨」や「会員の声」など、タイピングもやっと終える頃になってキータッチを間違えて、アッという間に全部を消してしまい、泣く泣くまた最初から打ち直しで深夜まで掛かり切りのこともありました。また、誤字や横文字のスペルの間違いなど、ご指摘を受けることもあり冷や汗をかいたことも思い出の一つです。

 現在は大崎副会長が益々立派な会報を作成しておられます。この先400号を目指して会員の皆様のさらなるご協力をお願い致します。

★三宅良一さん:会報195号(2007年5月)から257号(2013年1月)まで編集を担当。元副会長。
「欅友会創立30周年記念誌」(2012年9月)の編集責任者。



「河野平八郎さんの挿絵」  
12月会報挿入絵1
 

 忘れてはならないのが愛らしいネコ、ネズミ、イヌのキャラクター。会員の河野平八郎さんの挿絵です。この度も呼びかけに応えて、記念の絵を描いてくださいました。

 河野さんの作品が初めて登場したのは182号(2008年3月)です。それ以降、常に新しい絵を提供して下さるので、会報では選り取り見取り、季節や場面に合ったものを使わせていただいています。
最近、紙面の都合でご紹介する機会が減っていますが、会報の強い味方です。



◆会の名称が決まるまで◆ 
会報第2号(1984年5月)の冒頭に会の名前の由来が載っています。
12月会報第1号1


◆会報雑話◆


会報は1号(1984年4月)から13号(1986年11月)までの手書き期間を経て、ワープロ・パソコンによる作成へと移行していきます。2003年にはホームページを開設し、会と会報の紹介が始まりました。現在はブログに変わりましたが、当初から会報の題字の下にURLを載せて、会の内外に向けて発信しています。235号(2011年1月)からは、創刊時からの手配り・郵送に加えて、会報のメール配信を開始しました。

題字は34年の間に数回書体を変えました。現在の題字を書いたのは会員の藤田治良さん、180号(2005年1月)が初出です。縁飾りは148号(2003年1月)に始まり、199号(2007年10月)から現在の縁飾りを使用しています。題字を縁飾りで囲み、傍に発行日を示す図を配置したのは天野 肇さん、発行日の下に季節のイラストを添えて、明るく親しみやすい雰囲気を加えたのは三宅良一さんです。現在もそのスタイルを継承して、皆様に手に取って読んでいただける会報を目指しています。

会報の重要な位置を占める「学習会の要旨」は、「○○先生の講義を拝聴して」のような、講義の感想文から始まりました。回を重ねるごとに内容が充実し、現在の形になりました。会員から寄せられる随想等に「会員の声」という見出しを付けたのは、会報119号(2000年2月)が始まりのようです。

初期の会報の用紙サイズはまちまち、また、会報58号(1993年10月)から128号(2001年1月)までは、白色のほかに青、緑、赤、黄など、色とりどりの紙に印刷されていました。なぜ用紙を白に統一しないのかという質問に対し、111号(1999年4月)で『経費節減のため、用紙は国分寺市から余ったもの(殆ど色物)を頂き、利用しています』と答えています。当時は国分寺市から用紙を頂いたり、野外学習会に市のバスを利用させていただく等の支援を受けていました。

300号は、当時にちなみ、特別にカラー用紙に印刷しました。メール配信の方にも同じ色でお届けします。パソコンの画面で、当時の雰囲気を偲んでいただければと思います。

会報は第一に会からの連絡事項を告知すること、第二に会員の交流の場であることを役目としています。今後も引き続き講座などのご案内と皆様方のご投稿を中心に、楽しい会報作りに励んでいきたいと思います。(大崎尚子)



〈題字のいろいろ〉


12月会報欅友会1

             12月会報欅友会2
                    
                        12月会報欅友会3

12月会報


12月会報くす玉1
           
      
         
12月会報                                                                                                                      
第300号
             
 
                                12月会報欅の木1

     


「会報300号発刊に思うこと」    
                         欅友会 会長 増田 保武

 1984年4月に手書き1ページだけの会報第一号を発刊してから34年、ついに記念すべき300号を発刊することとなった。過去の会報を改めて紐解いてみると、それは講演内容の変遷・会員の声・特集寄稿・野外学習会など数々の思い出と時代の移り変わりの様子が詰まったまさに欅友会の宝物である。この先500号、1000号の会報が発刊される時の世の中は、どうなっているのか期待が膨らむ。

 最近の会報は会員の皆様からのご寄稿も多く、また講演要旨の充実によりページ数も8~10ページと増え、小冊子の様相を呈している。この講演要旨取纏めについては歴代の役員が苦労を重ねてきた。印刷枚数の圧縮目的から1講座5000字程度の要旨取纏めを目指しているが、最近の講演は学術発表のように内容が濃く、説明される項目も多いので中々その範疇に収まらない。加えて先生方に校正をお願いすると、これまた丁寧なる校正が加わることが多く、担当役員の大いに苦慮するところである。

 何れにせよ、今後もさらに内容を充実させ、手作り感の溢れる会報作りに努めたいと、気持ちを新たに思うところである。



「会報300号を記念して」                   
                               天野 肇
                      
 欅友会に参加して今年で19年目になる。入会した翌年から講演会の要旨を取り纏めて、会報に記録する作業を年に2~3回担当し、今年で46回の講演要旨を纏めた。この間の講演回数は180回に上るので、平均4回に一度、要旨を纏めたことになる。
  
 旧制中学4年で敗戦を迎えたが、2年間は勤労動員と都心の焼け跡整理で殆ど勉強できず、戦後の占領時代は食糧難と超インフレの生活難で勉強が手に付かなかった私にとって、欅友会での18年間は、教室で学べる貴重な生涯学習である。特に講演要旨の記録は、講演内容を咀嚼して要点を纏め、それを如何に判り易く表現するかを学ぶ場であり、今読み返して反省する点を多々見出すものの、この得難い機会を与えて頂いたことに唯々感謝するばかりである。又、会報に寄稿される多士済々の会員の方々のご意見や随想を読んで、多様な人生観を教えられることも多い。

 学校を出て実業の世界で働いた43年間、大学のキャンパスや先生方との接触が皆無に近い生活だっただけに、欅友会で大学の緑豊かなキャンパスを訪れるだけでも心の平穏を得ることが出来、教室で講演に聴き入る2時間は、俗事を忘れることの出来る貴重な時間であることが何よりも有り難い。

 又、会員懇親会や野外学習会も、日頃顔だけは知り合い乍ら話す機会の少ない会員の皆さんとの得難い接触の場で、特に後者は一人ではなかなか行く機会の少ない場所をバスで訪れ、終日行動を共にしながら色々な新知識を得られる欅友会の伝統行事であり、今後も種々の企画を盛り込んで継続されることを期待したい。

佐藤一斎の言志晩録に言う。
少にして学べば即ち壮にして為すことあり、
壮にして学べば即ち老いて衰えず、
老いて学べば即ち死して朽ちず   
少にして学ぶことの少なかった私にとって、特に肝に銘ずべき後段の二句である。

★天野 肇さん: 会報142号(2002年5月)から194号(2007年4月)まで編集を担当。元会長。





「会報300号刊行おめでとう!!」             
                                  三宅良一
 
 
 1983年(昭和58年)3月欅友会が産声をあげ、手書きの第1号会報が創刊されて以降、1998年(平成10年)4月に100号を、2007年(平成19年)11月には200号をと続刊し、ついにこの12月に300号を刊行するに至りました。
輝かしい会報刊行の履歴のなかで、2007年(平成19年)5月の195号から2013年(平成25年)1月の257号まで、約6年間会報作成に当たらせて頂いたことは大変光栄なことでした。ご協力頂いた会員の皆さまに御礼申し上げます。  

 2007年(平成19年)4月、副会長を仰せつかり事務全般を担当することとなりました。会報の作成も担当の一つということで、これは大変、どんな会報を作ったらよいのかと悩みましたが、会員の皆様に読んでいただける、楽しんでいただける会報を作ってみようと割り切って会報作りを始めました。 

 パソコン操作は自信をもっていましたので、文中にカラークリップやイラスト等を季節に応じたものを選びながら掲載し、少しでも明るい会報をと努力した次第です。アンケートに「会報を読んでいる」、「所用あり欠席したが会報があって良かった」等と書いてあるのを見て大いに励まされました。 

 しかし、会報作成には種々苦しいこともありました。何事も期限が迫らないと腰を上げない性分のため、会報の作成も編集会議の数日前から開始することも多々あり、担当当初の頃は「学習会の要旨」や「会員の声」など、タイピングもやっと終える頃になってキータッチを間違えて、アッという間に全部を消してしまい、泣く泣くまた最初から打ち直しで深夜まで掛かり切りのこともありました。また、誤字や横文字のスペルの間違いなど、ご指摘を受けることもあり冷や汗をかいたことも思い出の一つです。

 現在は大崎副会長が益々立派な会報を作成しておられます。この先400号を目指して会員の皆様のさらなるご協力をお願い致します。

★三宅良一さん:会報195号(2007年5月)から257号(2013年1月)まで編集を担当。元副会長。
「欅友会創立30周年記念誌」(2012年9月)の編集責任者。



「河野平八郎さんの挿絵」  
12月会報挿入絵1
 

 忘れてはならないのが愛らしいネコ、ネズミ、イヌのキャラクター。会員の河野平八郎さんの挿絵です。この度も呼びかけに応えて、記念の絵を描いてくださいました。

 河野さんの作品が初めて登場したのは182号(2008年3月)です。それ以降、常に新しい絵を提供して下さるので、会報では選り取り見取り、季節や場面に合ったものを使わせていただいています。
最近、紙面の都合でご紹介する機会が減っていますが、会報の強い味方です。



◆会の名称が決まるまで◆ 
会報第2号(1984年5月)の冒頭に会の名前の由来が載っています。
12月会報第1号1


◆会報雑話◆


会報は1号(1984年4月)から13号(1986年11月)までの手書き期間を経て、ワープロ・パソコンによる作成へと移行していきます。2003年にはホームページを開設し、会と会報の紹介が始まりました。現在はブログに変わりましたが、当初から会報の題字の下にURLを載せて、会の内外に向けて発信しています。235号(2011年1月)からは、創刊時からの手配り・郵送に加えて、会報のメール配信を開始しました。

題字は34年の間に数回書体を変えました。現在の題字を書いたのは会員の藤田治良さん、180号(2005年1月)が初出です。縁飾りは148号(2003年1月)に始まり、199号(2007年10月)から現在の縁飾りを使用しています。題字を縁飾りで囲み、傍に発行日を示す図を配置したのは天野 肇さん、発行日の下に季節のイラストを添えて、明るく親しみやすい雰囲気を加えたのは三宅良一さんです。現在もそのスタイルを継承して、皆様に手に取って読んでいただける会報を目指しています。

会報の重要な位置を占める「学習会の要旨」は、「○○先生の講義を拝聴して」のような、講義の感想文から始まりました。回を重ねるごとに内容が充実し、現在の形になりました。会員から寄せられる随想等に「会員の声」という見出しを付けたのは、会報119号(2000年2月)が始まりのようです。

初期の会報の用紙サイズはまちまち、また、会報58号(1993年10月)から128号(2001年1月)までは、白色のほかに青、緑、赤、黄など、色とりどりの紙に印刷されていました。なぜ用紙を白に統一しないのかという質問に対し、111号(1999年4月)で『経費節減のため、用紙は国分寺市から余ったもの(殆ど色物)を頂き、利用しています』と答えています。当時は国分寺市から用紙を頂いたり、野外学習会に市のバスを利用させていただく等の支援を受けていました。

300号は、当時にちなみ、特別にカラー用紙に印刷しました。メール配信の方にも同じ色でお届けします。パソコンの画面で、当時の雰囲気を偲んでいただければと思います。

会報は第一に会からの連絡事項を告知すること、第二に会員の交流の場であることを役目としています。今後も引き続き講座などのご案内と皆様方のご投稿を中心に、楽しい会報作りに励んでいきたいと思います。(大崎尚子)



〈題字のいろいろ〉


12月会報欅友会1

             12月会報欅友会2
                    
                        12月会報欅友会3



~わたしと会報~


会報に対する思い出や感想をご投稿いただきました。ご協力ありがとうございました。



「人生で最大なる喜び」と「欅友会会報」 
                                           
                                     窪田 寛

 45年前に、私は製薬会社の駐在員として台湾に駐在していた。3年間が過ぎて日本へ帰国したいと考えていた時、本社から再びインドネシアへの駐在を命じられ、どうしようか悩んでいた。その時、親しくしていた台湾のある病院長先生からいただいた言葉が、私のインドネシア駐在を決意させた。その言葉は、「人生で最大なる喜びは、一つでも新しいことを知り得ることである。君は今、また新しいことを知りえる機会であり、喜んでインドネシア駐在を受けなさい」という励ましの言葉であった。

 あれから海外駐在を通じて、多くの新しいことを体験してきたが、今年で80歳を迎え、年々、新しいことを知りえる機会が少なくなってきた。しかし現在は、毎月、自宅に送っていただく欅友会の会報を通じて、著名な先生方の講演会、会員の皆様のいろいろな情報をいただき、昨日よりも今日、今日よりも明日と、一つでも新しいことを勉強させていただいています。この会報は、「私の人生の最大なる喜び」を与えてくれています。毎月、心から感謝して会報を拝読しています。



「欅友会第3代永沼直行会長(1924~2012)の想いを継ぐ新企画」

                                  神尾 龍三郎

 私は2013年欅友会に入会していますから、永沼さんとの直接の接点はありません。会報で文章に出会ったのは、2008年8月・題名「玉川上水と私」。以下流れるような名文が2012年4月・題名「健康に感謝」まで続いてます。会の拡充と会報の熟成を願う情熱が、投稿文からも十分に拝察できて、いつの間にか文を書くことの楽しさを教示されました。書く煩わしさを乗り越えれば若さが保てる、が所感です。

 昨年から、会報には本流(「会員の声」)とは異なった表情をみせる分流(「わたしの戦後70年」「新春俳句」「わたしの忘れ得ぬ言葉」)が生まれ、多くの会員の登場となり、紙面に花が咲きました。永沼さんの夢の実現とも受け止められる、欅友会会報史に残る大きな企画だったと思います。   

30余年の会報誌の流れを僅か10年弱遡るだけで、「文を綴る楽しみ、新しいことを創(はじ)める喜び」に触れることができました。会報第300号特集は新しい歴史をつくる基となると確信します。


「わたしと会報」 

                                    内古閑 徹

 欅友会会報300号発行おめでとうございます。歴代編集担当を支えてきた見事な会報組織運営の賜物です。私が初めて会報に接したのは第128号2001年新年号です。黄色のB4用紙を二つ折りにして会報8枚を包んであります。おそらくこの年に入会したものと思われます。爾来今日に至るまで学習して参りました。

 会報には学習会の講義録が掲載され、貴重な文献です。執筆役員の並々ならぬご努力を忘れてはなりません。創立20周年、30周年記念誌に応募して掲載して頂いたのは良い思い出です。2004年からその年の話題について「年頭予測問題」が発足し、頭を捻って参加していますが、2007年予測では12問正解で1等になったのは、青天の霹靂でした。会報には造詣深く品格ある会員諸氏の貴重な投稿が数多くあり、浅学非才の私には啓発される有難い拠り所になっています。これからも会員に親しまれる会報に期待致します。


「私と会報」                    
                              小田切 豊雄(絵も)

12月会報山の絵1
 

私は49年前の東経大の卒業生であり、懐旧と愛校心に駆られ、2014年2月に入会した。以来、会報を毎号楽しみに愛読している。同年12月の279号に東経大校訓「進一層」「退一歩」の寄稿文と挿絵を投稿してから、節々の斬新な企画に興味を惹かれ、「俳句」「短歌」「私の戦後70年」にも拙文の類を投稿してきた。

 短期間で完全に投稿常連組になった感があるが、大崎編集長の見事な企画力と編集力に感嘆して、少しでも協力したいとの思いと、好奇心旺盛人間の発露であり、何卆ご容赦頂きたいと思う。「文は人なり」と云うが、会報から作者の温かい人柄との出会いを実感するのは実に嬉しいことである。私は読書と書く事が好きで、現在も東経大市民講座も受講しており、加齢に伴う頭脳の老化防止に努めている。会報300号の歴史の重みを噛みしめ、役員の皆様のご苦労に感謝しながら、今後も熟読させて頂くつもりである。

「わたしと会報」 

                                     鶴野 哲夫
 
 私は友人の紹介で欅友会に入会して4年になる。興味ある学習テーマや野外活動など、シニアの私にとって最良の生涯学習の場となり、満足感は大である。運営に無報酬で携わる役員の皆さまと会場提供の東経大には感謝に堪えない。毎号会報には諸先生の講演記録と共に会員の投稿文も載せられ、何よりの会報と思いながら味読している。
 
 仕事を離れ文書作成の機会もなく、用事は電話で済ますためか、文字を忘れ語彙減少を痛感する近年である。入会間もなく会報編集の大崎さんに強く勧められ、会員の声に「追憶の大連を訪ねて」を投稿し掲載された。わが苦心作は満更でもないと思った。ある日ITで欅友会を検索し、偶然拙文を発見し一驚を喫する。友人にも伝え賛辞を貰う。会報投稿の努力は脳力回復に役立つことを実感している。作家の情景描写など意識して読むようになり、類語辞典を脇にテーマを選択し作文するのはボケ防止の最高の薬である。折を見てこれからも挑戦のつもりである。


「会報300号を迎えて」                    
                                     高根 佳子

 会報は大変役に立っています。私が欅友会に入会したのは、もう30年も前のことですが、三十周年記念誌で昔の役員さんの名前を色々思い出しました。10年も前の暑い夏の午後、国立に自転車で行ったときに車と接触をし、膝を痛めたその場に役員のYさんが居合わせて介抱して頂き、チョコレートを下さったのが忘れられません。
 
東経大とのご縁は、石丸先生の万葉集の講義を友達と一緒に聴いたのが最初でした。あれからもう何十年も経ちました。三十周年記念誌に載ったNさんの「遺稿」は繰り返し読んでいます。また、欅友会が会員の協力で某財団からの寄付金を得て蘇生したことも思い出しました。皆様のお力添えで、今後も欅友会の会報を楽しませて頂きとうございます。


「欅友会の会報について」    
                                    内山 晴信

 欅友会に参加したのは10年ほど前なので、会の発足当時からの会員や会運営に携わる幹事の方々に比べて新参者ではあるが、「多様性」の観点から本稿を提出する。

 会報を見て学習会の内容で「頭に残っていること」、逆に「忘れていること」を思い出すと共に「テーマの幅広さ」「講師の多様さ・レベルの高さ」を再認識。良い生涯学習会に巡り合えたと感謝している。7月恒例となった映画上映分では「菓子の包装紙を集める戦時中の兵隊」「小津安二郎の映画」「ベアテの憲法」「フェルメール・首飾りの少女」は今も記憶に残り、また、映画では無いが今年度4月の「思いがけない日本美術史」は、収録してある「絵巻・図の一部」が記憶を鮮明に呼び起こしてくれた。

 これからも会報を読むことで「忘れかかっている情報の再入力」に役立たせ、反復することの大切さを認識し、「良きご縁」を大事にして生活していきたい。
                                   12月会報松1
                                    (欅友会とこしえに)



◎特別寄稿



鉄を踏む

                             欅友会顧問 渡邉 尚
 

 今秋の野外学習会は、国土地理院科学館で星埜由尚・元院長が案内役を務めてくださるという、思わぬ福を授かりました。星埜先生を紹介したのは私です。ところが、4カ月前までそのお名前さえ存じあげなかったのです。それがなぜ?そのいきさつをこぼれ話までに記しておきます。
 12月会報鉄道1
 
今年6月、札幌で学会が開かれた折、乗り鉄の私は往復とも北海道新幹線を利用しました。車内で目に触れたJR北海道の広報誌に、初めて知る星埜先生の談話が載っており、先生が伊能忠敬の研究家であることも知りました。私は軽井沢夏期大学の世話人も務めており、日本地図史の専門家の出講を仰ぎたいと念じておりましたので、帰京後すぐ見ず知らずの星埜先生に依頼状を出しました。

すると、折返し快諾のお返事が届いたばかりか、自分は高校の後輩ですと書き添えられておりました。この奇遇に驚いた私は、お礼状で欅友会の科学館見学の予定に触れたところ、また折返し、なんなりとお手伝いをしますとの、願ってもないお返事、この朗報をただちに増田会長にお伝えした次第です。

もしも私が乗り鉄でなかったら、星埜先生のお名前を知る由もなかったことを思い、私は今後とも鉄を踏み続けるつもりです。
                           12月会報鉄道2

★300号の記念に、顧問の渡邉 尚先生にご寄稿をお願いいたしました。先生には学習会のテーマ
選定をはじめ、欅友会運営の諸場面でご助言をいただいています。



◎会員の声




人生途上 80年

                                     宮原 昰中
 

 敗戦の際は国民学校の4年生だった。入学は分校で、1、2年が一つの教室で授業を受ける複式学級、中山間部(現広島県府中市)の田舎だったので、B29が家の真上に飛来するも、爆弾の1つを落とすでもなく、のんびりした村だった。原爆投下の8/6(府中市は広島から70㎞で、原爆の直接の影響はない)も、8/15も雲ひとつない快晴の日だった。当日は川で魚を追う日々だった。しかし、翌月9月17日には枕崎台風が襲来、大災害を蒙ることになった(広島県の死者3000人超)。橋はすべて流失し、学校へは行けなくなった。仮橋で復旧するまで、約2ヶ月自主休校とあいなった。5年生からは本校でまともな授業を受けたが、教科書は墨を塗り使ったように思う。

 中学校は新制の2期で、教科書は1枚の紙を32枚に折り畳んだものを自分で切り、本の形として使った。地元の高校に入り、その2年生の9月17日の体育祭の日、バスケットの代表として出場のため登校中、何を間違えたか自動車と相撲をとり、6m下の川に「突き落とし」をくらった。骨折ひとつせず、「幸いに…」と自分では思ったが、医者は「生きている中では最悪の結果で、骨折した方がよかった」と宣もうた。そのとおり、年内いっぱいは内出血多量のため歩行不能で難儀をした。
12月会報野球1

 以後はろくに運動することもなく6年が過ぎた。社会人になって、早速草野球のチームを結成して、2番ショートでプレーし、年間約30試合こなした。20歳代の終わりには、このチームの監督になったが、1年で他へ転勤と相なった。
                     12月会報テニス1

 新天地ではテニスに打ちこみ、夏は箱根の山中で炎天下1日8時間休みなく打つこと連続4日、体力証明の青春だった。40歳代になり、サッカーに魅力を感じ転向、60歳までプレーした。この間、小学校のコーチを(土日祭の全てを捧げて)5年間やった。サッカーをやめた還暦からは、非積極的(消極的とは言いたくない)運動として、バス・エレベータ・エスカレータには乗らない大原則を貫いて生活している。
                                   12月会報サッカー1

 本業の仕事の方は、本職の化学研究からスタート。青化ソーダ(猛毒)のプロセス開発に従事、九死に一生の経験もしたが、プロセスの開発が終了して、企業化できた(化学研究丁度100ヶ月)。これを機に草創期のコンピュータ部門に移った。最初は技術計算と称して、プロセスフローシミュレータを開発した。これは本邦では最先端を行くものであると自負していた。続いて全社システムの構築も手がけた。 この間、裁判専属のスタッフも2年間勤めた。

 還暦で会社を定年退職して、続く10年間は若い人に教えてもらうことを楽しんだ。こちらも古希で定年退職して、いよいよ毎日が日曜日ということになった。その後については既に記した。(欅友会会報№284(2014.6.4)p.7)半寿間近だが、とに角生誕三萬日。米寿、卒寿、白寿、茶寿、皇寿とどこまで迎えることが出来るかよりも、PPKで逝くことを念じている今日この頃である。


◎来年の会費を納付されましたか                       
           
会費の払い込みはもうお済みですか。来年1月の学習会までに会員を確定させる必要があります。
なるべく年内早めに、遅くとも12月末までに、11月に郵送した専用の払込取扱票を使って、
郵便局からお振り込みください。会費金額が二本立てになっていますので、会報11月号で確認し、
間違いないようお振込みください。
新たに入会希望される方には振込用紙をお送りします。このページ下の連絡先までお知らせください。



(編集後記)
12月会学習会風景1

上は今年1月の学習会の写真です。この熱意溢れる光景を見たくて、役員一同は来年度の開講準備に勤しんでいます。皆様には会員登録をお忘れなく。知り合いの方々を誘ってお申し込みください。
来年もまた、学習会でお会いしましょう。
大崎尚子


                            12月会報東経大銀杏
                                 (東経大大銀杏)
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11月会報


                              11月の会報(花3)
     
      
 11月会報         
                      
                                    



◎10月26日 野外学習会に参加して
                                
                                         山田 健
 昨日までの鬱陶しい秋雨が嘘のように晴れ上がり、爽やかな青空の下、参加者51名を乗せたバスが予定より少し早く午前7時20分国分寺駅南口を出発した。今回のテーマは「筑波で先端文化に親しむ」。外環道から常磐道を経てサイエンスの街つくばへ。

 最初に訪れたのは国土地理院「地図と測量の科学館。元国土地理院院長星埜由尚様の直々のご案内という特典付き。まず屋外にある20万分の1の日本列島球体模型を見学した。竹島や尖閣諸島、南鳥島、沖ノ鳥島など東西南北の領土・領海の広さを実感できた。また地球の丸さも体感でき、ここだけでも地図の好きな方は見飽きることを知らない。近くにはGPS電子基準点も設置されており、また室内で三角点が今はほとんど使われていないというお話を伺って、地図の世界の時代の変遷を感じた。

 次に「宇宙航空研究開発機構(JAXA)筑波宇宙センター」に移動、職員食堂を使わせていただいて昼食。昼食後は記念撮影の後フリータイムで展示館「スペースドーム」の見学、ミュージアムショップでの買い物等で過ごした。
 午後はJAXA構内見学ツアー。全員名簿通り整列いただき、身分証明書との照合検査を受けた。紹介ビデオを見た後、バスで構内へ。衛星試験棟保管庫と宇宙飛行士養成棟の2か所をガイド付きで見学した。ロシアの衛星実物や宇宙メダカ、宇宙服、宇宙食、宇宙飛行士訓練施設等を見ることができた。

     11月会報(野外学習会2)

                         11月会報(帰還したカプセル)

 JAXAを後にし「筑波実験植物園」に向かった。ここは国立科学博物館が植物の研究を推進するために作ったという。季節によってさまざまな珍しい植物が観察できる植物好きには垂涎の施設であろう。屋外の展示はもとより温室も充実しており、ヤシやバナナ、サボテン、ベゴニア、水生植物等見どころ一杯。屋外は今の時期なのであまり華やかな花々は少なかったようだが、セコイアの巨木やニッケイ(ニッキ、シナモン)の木などが見られた。

 予定通り16時ちょうどに植物園を出発して帰路に。途中高速道路の渋滞に巻き込まれたが19時に出発地に戻ることができた。お疲れ様でした。

   (記念写真は最終ページをごらんください)




◎「お知らせ」


①会費値上げのお知らせと会員更新手続きのお願い

 欅友会の運営に関しましては日頃よりご理解とご支援を賜り、誠に有り難く、厚く御礼を申し上げます。来年はお陰様で35年目を迎えることとなります。 
        
<会費値上げのお知らせ>

 会費につきましては23年間2000円に据え置きのまま運営をして来ておりますが、昨今の会員数増加による事務用品費の増加、郵便料値上げを含めた会報郵送費の増加などを主因に、予算の逼迫が予想され、次年度以降もこの傾向が続くものと予測されます。

 そこで、今後の会の安定的な運営を図るため、下記の通り会費の値上げをお願いし収支の安定化を図りたく、ご理解とご協力をお願い申し上げます。
 なお、年会費につきましては、これまで一律の設定にして参りましたが、会報を郵送している会員とメール配信をしている会員の実コストの差が大きいため、下記の通り2本立ての会費設定とさせて頂きたく、これを機会に可能な方はメールでの配信に切り替えをして頂きますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。

   「2017年度会費」
    ○会報のメール配信希望  年間2500円(現状2000円)
    ○会報の郵送配信希望   年間3000円(現状2000円)


<更新手続きのお願い>

会費振込の期限は12月末とさせて頂きます。

来年1月の第一回学習会までに会員を確定させる必要があります。なるべく年内早めに、遅くとも12月末までに同封の専用振込用紙にて郵便局より金額をご確認の上、お振り込みください。よろしくお願い申し上げます。

※なお、2017年度会報から役員による手配りは、配布時の交通リスク増加などを勘案し、全面的に取りやめる事としましたので、ご理解頂きたくお願いいたします。




②会報300号記念投稿募集…「わたしと会報」

先月号でお知らせしましたが、会報300号を記念して、「わたしと会報」というテーマで原稿
を募集しています。昔の会報のこと、投稿の思い出、会報を読んで思うこと、会報をこのよう
に利用しているなど、会報にまつわる話題全般について400字以内で書いて下の送付先までお
送りください。締切日を11月25日(金)まで延期して、ご投稿をお待ちしています。




③2017年(平成29年)学習会スケジュール

      来年の学習会の講師・テーマ・日程が固まりましたので、お知らせいたします。
      多彩な内容となっておりますので、多くの皆様のご参加を期待しております。
11月会報スケデュール


★スケジュールは事情により変更、中止する場合があります。予めご了承ください。
○学習場所 東京経済大学の教室  4月以降の教室は決定次第お知らせします。                              
○各学習日とも土曜日 13:30~15:30 (受付開始は12:30より))
○下記の学習会は映画上映のため終了時間が1時間遅くなります。
      ★ 7月29日  13:30~16:30 



 

   10月会報「わたしの」
         7月会報忘れ得ぬ言葉1
                             (Ⅱ)



「今も心の内にある大切な言葉 」       関塚 恵子         
11月会報(忘れえぬ言葉1)

 吉川英治さんは私のすきな作家の一人です。「我以外皆教師なり」と言う言葉を残しています。私も同様、似たような気持があります。その時々によって、恩師、先輩、同輩、後輩の人達の言葉に、どれだけ助けられ、又、励まされてきたことでしょう!
 
息子たちが小学生中学年になった頃のことです。PTAの父母会でクラスの委員をした翌年、執行部の一人として書記をさせて頂くことになりました。計算に強いと自負していた私は、会計だったら良いのにと心の内で思いました。そしてまるで私の心を見透かすかのように、K会長は得意なことはよいのでは…不得意なことを得意にしてみてはの言葉に、頭が下がる思いでした。又、国分寺市P連の会合で、「今自分がどんな生き方をしているかが大切。そして継続することが…」のA会長の言葉に納得。今もそれらのことを心掛けるようにしています。今日迄生きてきて、本当に良き人達に恵まれ、出会えたことに感謝です。


「わたしの忘れ得ぬ言葉」              上原 祥孝  

                                    11月会報(忘れえぬ言葉2)

 振り返れば、昭和21年8月、父が殉職(女学校の教員)した為、私ども兄弟4人、祖母と母の女手で育てられた。その関係か、忘れ得ぬ言葉、二つ共、女性の言葉である。

その1. 退職後は音楽に親しむ事も多いが、思春期の頃、高知県須崎中学校の音楽の時間、40代の女性の重松先生が私の教科書のすれ破れを見て“傷んだ物”こそ大切にしてやらなくてはと、優しく諭された事、白いブラウスの上品で綺麗な先生が、山奥の檮原(ゆすはら)村初瀬という所へ転任された事を高校生の春、新聞で知った事でした。

その2. 高校を卒業し大手菓子メーカーに入社、地元勤務となり、或る日、市内の有力パチンコ店の交換景品受注に廻っていた二十歳過ぎの頃、営業職に自信が持てず悩んでいた折、景品発注の中年女性が“地のままの、まじめな固さでいい”と騒音の中で云ってくれた事が忘れられない。転勤で研鑚を重ねた営業職、管理職の人生は家族の支えもあり胸を張って生きている。 


「自由と規律」                          鶴野 哲夫              
11月会報(忘れえぬ言葉3)

 私は昭和一桁生まれの所謂戦中派の端くれである。敗戦前は軍国主義教育で鍛えられ、戦後はにわか自由主義、民主主義の時代に様変わりし中味を良く理解せずに高校を卒業し社会に出た。当時の風潮や行動は戦争・軍人・修身など旧制度は悪であり、自己主張・権利主張のみが大手を振っていたように思う。

 昭和26年10月転職、代官町にあった警視庁警察学校に警察官の卵として入校した。6ヶ月の教育期間は自由などとは縁遠い厳しい訓練とルールに拘束された団体生活である。在校中、諸先輩警察官から指導教育を受けたが、朝礼で訓示をされた警視 並木教頭の「自由と規律」の語句は未だに忘れられない。自由の意味を放縦とはき違えている若者が多い時代でもあり、自由には前提として守るべき規律があるとの趣旨を特に警察組織であるが故に話されたと思う。官民を問わず国家間も含め組織の行動にはルール(内規・規則・法律・条約etc.)があり、現在でも充分通用する正論と信じる。

「菊根分けあとは自分の土で咲け」          岡安 隆 

                                      11月会報(忘れえぬ言葉)
                
 入社5年目にお世話になった先輩が家業を継ぐことになり退社することになった。7月の会議の最後に挨拶をした。「吉川英治が最愛の娘が嫁ぐ朝に『菊根分けあとは自分の土で咲け』と一句詠んだ。私はこの会社で諸先輩から教わり、勉強させてもらってしっかりとした根ができました。これからは故郷の町で新しい人生を切り開いていきます。永きにわたりお世話になりました。」と話した。

 「菊根分け」は当時の結婚式で花嫁の父が贈る言葉の定番であった。父親がとつとつと話し、隣の母親が感極まって涙をぬぐっている、いつの時代でも親は子の幸せを願っている、そして新婦も涙ぐむ、ほほえましい光景です。先輩は吉川英治の句を引き合いに出して、感謝の言葉と将来の決意を述べた。その後、私が結婚式に列席した時は先輩の言葉を思い出し、新郎新婦、頑張れと心の中でエールを贈った。                    


「銀行の土台は腐っていませんでした。経営陣の一部に問題がありました」                        内山 晴信

11月会報(忘れえぬ言葉4)

 平成2年頃金融機関で不祥事発覚。私の勤務先も同様。翌年日本銀行(考査局)から「銀行以外に直系ノンバンクも調査対象とする」旨の通告あり。本部内で協議し「前代未聞乍ら、この際きちんと当局に説明しよう」との結論。所管外ではあるが私が説明を引き受け。

 個々の貸出先に関する各種資料を集め所定報告書に取り纏め(約2か月間)、案件すべて頭に入れ準備万端。平成3年7月朝9時過ぎから夜7時頃まで(時には9時)約1か月間、主席考査官に貸出残高の大きい先から順次500社まで説明。
 不正や不適切な融資案件は無く、「自分の融資・審査案件でもないが自身の問題として逃げずに対応する人物の存在」、「関連会社の役員・部長他が顧客から的確な資料集めを行う体制の存在」を見て、最終日に冒頭の言葉が出た。私としては、困難と思われることも完徹する自信をつけ、また誠意をもって対応すれば相手の信用・信頼感を得られると実感し現在に至る。



「歴史(れきし)は囈(げい)語(ご)に非(あら)ず警策(けいさく)にして次(じ)世(せい)の指針(ししん)たり」  
                                       木村 稔    
     
                                  11月会報(忘れえぬ言葉5)

 戦後、社会党を代表し黒田寿男・佐々木更三が2度毛沢東に謝罪した。毛は「日本軍の侵略に感謝する」幾度も話す皇軍なしに現政権は不可能と継いだ◆インド~東南アジア独立はこの戦争によるプラスの成果だと◆日露戦争大勝利を喧伝した軍の驕りが第二次大戦を誘引した◆帝政崩壊はレーニン革命蜂起で失意した皇帝による◆革命を後方支援した陸軍諜報部明石大佐の銃器供与に触れず、東郷・乃木を過大評価◆戦費穴埋めでアラスカを捨値3百万円で入手 漁夫の利に喜ぶ米国は講和を取り持ち 日本と革命勢力有利に条件提示 帝政破滅を露日米3国で追い込んだ史実は隠蔽 東郷・乃木神社を祀る。◆ブラジル五輪・聖火最終走者デリマがアテネ大会で五輪史上唯一クーベルタン章付き銅メダルを受賞した美談やTV観戦の小泉総理がデリマに面会 号泣した話は語られず閉幕◆学制改革で校舎無し机無しの新制校を避け大学付属に入学 教授的伊藤先生に常々教えられた言葉です。



「俺は寒くない、外へ出てみろ!」      松元 俊夫                 
11月会報(忘れえぬ言葉6)

 50年近く前に、ロンドンのホテルでコンシェルジュと喋っていて、「今日は寒そうですね、コートを着て行った方がよいかな」と言ったところ、「私は寒くない、外へ出てみてはどうですか」という返事。自分では「そうですね、雨も降りそうですから、コートをお持ちになった方がよいかもしれませんね」といった反応を期待していたのかもしれない。暑いか寒いか、美味いか不味いかなどは、個々人が感じることであるから、確かに彼の言うとおりであった。

 大袈裟に言えば、英国人と日本人の文化の違いの一面に触れたように感じたものである。言いふるされたことであるが、とかく日本人は、相手の気持を慮って曖昧な返事をしたり、周りの人の様子を窺ってから行動したりするのは今でも変らないと思う。以後、日本人はシャイであるなんてことは、私には通用しなくなって日々図々しさが増すばかりで、興味があればどこへでも出かけて行き、誰にでも声をかけてしまうわけである。
テレビの天気予報で「もう冬物でよいでしょう」とか、「折り畳み傘を持ってお出かけ下さい」などと聞いて、大きなお世話だと文句を言いながら・・・
 

「Persuade or Perish 」          小笠原 正文              

 一寸キザなタイトルで申し訳ないが、学生時代に読んだ「クリオの顔」の最初の部分に書かれていた言葉で、確か「説得せよ、さもなくば破滅あるのみ」と訳されていたと思う。著者のハーバート・ノーマンは外交官兼歴史学者であったが、1950年代にアメリカで吹き荒れたマッカーシー旋風(赤狩り)の犠牲となり、カイロで自殺した。その人の言葉だけに、この言葉を知った時は大きな衝撃を受けた。

 その後この言葉に匹敵するような事態に陥った経験もなく、人生の指針となった訳でも無いが時々思い出している。特に現役時代、話の通じ難い近隣の某国に駐在の折は商売のみならず、いろいろのことで折り合いが難しく、「破滅」とはいかなくてもここで「負けたら」とこの言葉を思い出しながら、一生懸命こちらの主張を試みたものである。


「実るほど頭を垂れる稲穂かな」       飯沼 直躬

                                 11月会報(忘れえぬ言葉7)

 私が中学生のころ今は亡きお袋が折に触れてこんな箴言を教えてくれた。「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな、と昔から言い伝えられてきたが人間も同じだ、稲穂は人生の生き写しだ。お前もこの稲穂のような実りある人生を送りなさい。そのためにはこの言葉の意味するところをしっかり理解しなさい。」

 しかし、当時の私はこんな言葉の意味など分かるはずもなく、単に聞き流していた。そして、サラリーマン生活の最中に時々思い出してはいたものの、その場の応対に忙しく、ゆっくり考えることもなかった。
今こうして職から解放され、静かな生活を送る身になると、なぜか昔のお袋の言葉を思い出す。
また、その意味も多少分かりかけて来たものの、なかなか諺のようにはいかないことを痛感しています。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    2回にわたり掲載した特集「わたしの忘れ得ぬ言葉」、お楽しみいただけたでしょうか。
ご投稿くださった18名の方々に、心からお礼申し上げます。





◎会員の声


山と俳句紀行 キリマンジャロ登頂
                                     川越 尚子


 憧れであったキリマンジャロへ行った。
11月会報(ナイロビ空港)

 ローマに一泊し、翌日ナイロビの空港におりたったのは夜の帳もおりる頃であった。 
 翌朝、車はひたすら南へと突っ走る。両側には鋭い棘を持つテーブルツリーと呼ばれるアカシアの木があり、その傍らには一抱えもあるような蟻塚があちこちに見られ、番いのダチョウやラクダが悠々と歩き、アフリカの広さを目のあたりにした感があった。

赤道の真下影さす鰯雲

 ケニアからタンザニアへと国境を越える。幅広いまっすぐな道の両側にはジャカランダの街路樹が薄紫色の花をいっぱいつけて、青く澄んだ空にマッチして見事であった。日本で云えば桜に例えられようか、葉をつけず枝という枝に花が満開でよい季節に来たものだと思う。砂漠の彼方に覆っていた雲を払いのけてキリマンジャロ山が姿を現した時には、大歓声を上げた。数日後に登頂する予定の山の頂には万年雪を置いて穏やかに端正な山容を見せていた。

               11月会報ジャカランタ2

雲切れてキリマンジャロの爽やかに

 
いくつかのマサイ族の部落を過ぎ、今夜の宿に着く。カンナ、アジサイ、ナデシコなど日本でお馴染みの花々にかこまれたホテルは山懐に囲まれたリゾートホテルであった。
翌日、迎えの車で登山基地に到着、手続きを済ませるといよいよ本格的な登山開始だ。熱帯特有の森林に囲まれた道は快適だった。
 我々6名、現地のガイド3名、ポーター11名、総勢20名での出発だ。

 約2700mにある小屋に到着したのは、まだ日も高い時刻である。荷物を置いて更に高い所に行き小屋に戻る。これは高山病対策として高度順応の重要な作業なのだ。この行動は登りの小屋泊まりの四日間毎日行う。

 翌日は約3720mの山小屋まで登る。標高が上がるにしたがって樹林帯から灌木帯に移り、美しい草原に代わっていく。ほとんど雨らしい雨が降らないのにアフリカ独特のドライフラワーのような花が一面に咲いていて美しい。まじかに5000m級の山が見える。見通しの良い道では、すれ違うポーターたちが「オハヨウ」「コンニチワ」「サヨナラ」「ガンバッテ」と知っている限りの日本語で挨拶する。私たちも「ジャンボ」とスワヒリ語で返す。各国の人との挨拶でさえ「ハロー」より「ジャンボ」だ。この言葉の響きがなんとも言えないやさしさと暖か味があって私は好きだ。

                                11月会報キリマンジャロ1

秋晴やジャンボの声のあふれゐて

 
富士山と同程度の高度にある小屋はメインロッジをはじめ個々のバンガローが多くあり、ソーラーシステムによる電灯もあり、窓にはカーテンもついていて清潔感があった。尾根越しにキリマンジャロがくっきりと見え、いよいよ目的の山が身近に感じられる。空気が希薄になっていることが感じられるが、体調は全員快調である。夜の外気はさすがに冷たいが、満天の空に降るような星が異国にいることを認識させる。
 
 二日間泊まって高度順応を試みたロッジを後に最終の4700mのロッジまで登る。もう完全なサドル
(砂漠帯)で、灰白色の世界である。

 仮眠ののち0時30分ポーターに起こされ万全の装備をして軽食を取る。突然一人のメンバーが戻してしまった。高山病の現象である。一瞬不安がよぎるが、1時25分全員で出発する。ヘッドランプで足元を照らし黙々と歩く。体調によってばらばらになったがそれぞれにガイドが付きそう。私は一歩一歩深呼吸をしながらツアーリーダーと行動を共にする。昨日まで見上げていた岩峰を見下ろせるようになったところでその岩峰の頂から空が茜色に染まり始める。その美しさはなんと表現したら良いのだろうか。神々しいまでの輝きにうっとりして、束の間疲れを忘れた。汚れのない澄んだ大気の中の光は、日本では到底見ることのできないものであろう。
 
 山頂が見えていながらなかなか到着しない。午前7時20分、約6時間の厳しいアルバイトの末辿り着いた山頂のアイスフィールドは息を飲むほど素晴らしいものだった。

 厳しい登攀をした者のみが見ることのできる大自然の現象である。「登ってよかった」の感しきり。居合わせた各国の方々と喜びを分かち合い、後続の仲間を待たずに8時に下山を始める。岩場は慎重に、そして砂礫帯は私一人で一気に駆け下りる。まるで富士山の砂礫帯みたいと思いながら。
 
 小屋に戻るとポーターが笑顔で迎えてくれオレンジジュースを差し出してくれる。その美味しかったこと、すぐに飲み干してしまった。小春日和の小屋のテラスで穏やかな温かい日差しを浴び、汗やほこりまみれの上着を干して後続の仲間を待つ。全員揃ったところで軽い食事をして下山の途につく。時折振り返り、何事もなかったように青空の中、頂に雪を残してゆったりと腰を据えた堂々たる山に名残を惜しむ。
 
 一昨日泊まったロッジに着き、ポーターが沸かしてくれたお湯で体をふき、改めて皆で生暖かいビールで乾杯。ブラボー。
 往路に宿泊した小屋に泊まりながら草原、灌木帯、樹林帯を抜けて登山基地に到着、迎えのバスに乗ってリゾートホテルに到着し、ゆっくり湯船につかったり洗濯をしたりした。
 
 俳句を作る余裕もないほど緊張と不安の連続であったが、思い通りやり遂げた満足感で充実した登山であった。

                            11月会報(野外学習会記念写真)



編集後記:

今月も大勢の方のご協力を得て会報をまとめることが出来ました。川越さんに「会員の声」にキリマンジャロ登山の思い出を書いていただきました。80歳過ぎてもこの元気、すばらしいと思います。
ところで11月14日は68年ぶり特大のスーパームーン。普段の月より最大で14%も大きく、明るさは30%明るいとか。ときには窓を開けて夜空を見上げてみてはいかがでしょうか。(大崎尚子)

10月会報

                           10月会報花3
                                                            

                                                                                  10月会報                              


◎お知らせ



◎野外学習会の最終案内(10月26日 水曜日 実施) 


今年度の野外学習会は参加希望者が多く(67名)、一部の方にはご要望に応じることが出来ず、先着53名の方に参加いただくことになりました。誠に申し訳ございません。ご理解とご協力をお願いします。 

[参加メンバー]                             (敬称略、五十音順)
10月会報バス旅行参加者リスト2


☆参加取り消しの場合は、10月21日(金)午後3時までに、ご連絡をお願いします。
これ以降の(当日含む)キャンセルは費用の全額又は、一部を負担して頂く場合があります。

【連絡先: 渡辺 義広  電話:090-7243-2050】

《概略スケジュールと見学場所》

7:30 出発――→(外環道、常磐道)―→(9:00 守谷SA)――→10:00 地図と測量の科学館――→
11:20 JAXA(食事、ツアー) ―→15:00 筑波実験植物園―→(16:45 守谷SA)―→国分寺着解散18:30

《ご注意下さい》

 集合時間:10月26日(水)午前7時15分集合(厳守ください) 全員揃い次第出発します。
 集合場所:JR国分寺駅南口 正面通り、南町都営アパート西側の「画材 次男坊」前
      「いずみ観光」大型バスが駐車しています。当日国分寺南口にて案内もあります。
 会  費:4,500円(バス代、交通費、昼食代、入場料、JAXAツアー費用、交通傷害保険料等) 
      当日、バス乗車時に徴収いたします。

必ず携帯:① 顔写真付きの本人確認書類「運転免許証」「パスポート」「住民基本台帳カード」等一点、
       ただし、65歳以上の方で免許証等のない方は「健康保険証」で結構です。
       当日携行されてない方は JAXAの見学ツアーには参加できません。
        なお、健康保険証は上記にかかわらず携行頂くよう願います。                
        (本件につき不明な点は 渡辺まで問合わせ下さい)            

       ② 名札(学習会で使用しているもの)・・・・裏面の記入をお忘れなく。    

緊急連絡先: 増田 保武(090‐8017‐5163)、 渡辺 義広(090‐7243‐2050)




         10月会報300号記念募集投稿


欅友会創立の翌年、1984年(昭和59年)4月17日、B5の紙1枚に手書きの会報が創刊されました。下がその縮小版です。第1号では『国分市民大学同窓会報』と仮称しましたが、会の名称が「欅友会」に決定した第2号からは『欅友会会報』に改めました。
会報は年数回の不定期刊行から年7回、年10回と回数を増やし、2004年からは年11回発行しています。創立34年目の今年12月には第300号に達します。

そこで、ささやな記念に「わたしと会報」というテーマで原稿を募集いたします。投稿の思い出、印象に残っている記事、その他会報を読んでこられて思い出すあれこれを、400字以内で書いてお送りください。多数の方々のご投稿を期待しております。なお、タイトルと名前は文字数に含みません。
締切は11月15日です。原稿は8ページ下部の連絡先までファックス、メール、郵便でお送りください。
  
      ↓会報第一号
     会報1号2

  

◎アンケート集計結果    


前ページの会報第1号にもありますように、欅友会(第1号では市民大学同窓会)は最初の学習会からアンケートで皆様のご意見等をお聞きしてきました。現在も寄せられたご意見・ご要望については早急に対処するよう努め、学習会テーマに関するご提案等は次年度からの企画を考える際の資料にしています。

今年度の(野外学習会を除く)学習会参加者のべ人数は2,077人、そのうちアンケートにご協力下さった方は1,050人。出席率については2013年が41.9%、2014年が40.1%、、2015年が43.4%、2016年(今年)が49.1%と上昇しています。また、本年度全講座に出席された方は(役員を除き)12名です。ご出席ありがとうございました。

〔2016年度学習会出席者数及びアンケート提出数〕
10月会報アンケート纏め



7月会報わたしの1

7月会報忘れ得ぬ言葉1
(1)



花森安治の言葉                      宮武 光吉
10月会報「花守安治」

「君たちのやろうとしていることは、交通事故に遇いそうな人に対して注意するようなもので、交通事故に遇った人の手当てをするより地味であり、世間からは余り認められないかも知れないが、とても大事なことだと思う。」

この言葉は、学生時代に農村の保健予防活動に出かける資金集めに、顧問教授の紹介を貰って、暮らしの手帖社を訪問し、なにがしかの寄付を依頼した時に、花森安治さんから直接聞いた言葉です。「とと姉ちゃん」の花山編集長とは違って、温顔でしたが鋭い目つきで話されたのが、印象に残り、私にとって「忘れ得ぬ言葉」の一つになっています

。爾来40年余り、主として保健予防・公衆衛生行政に従事してきましたが、一昨年の暮れに脳梗塞を発症、頸動脈内膜剥離術を受けることになり、担当医から、「この手術は、再発予防のためです。」と説明され、自分自身のこととして、この言葉を思い出し、施術を承諾したのでした。

「大切なものは目に見えない、心で見る」  広瀬 義隆
                                   10月会報「星の王子さま」

いまから50年ほど前、学生時代のドイツ語の講義ではアントワーヌ・ド・サン=テクジュペリ著の「星の王子さま」のドイツ語訳が教科書でした。原著はフランス語で「Le Petit Prince」で1945年11月に出版、日本語版は内藤濯訳で1953年3月に出版されています。

日本語訳版、英訳版など何度も読み、著者のサンテクがこの「星の王子さま」から伝えたかったことは何だったのか?そこにはパイロット(サンテク自身)と星の王子さまとの会話を通して、著者サンテクから地球人への強いメッセージがありました。

「心で見なくちゃ、ものごとは良く見えないのさ、肝心なことは目に見えない」というセリフを繰り返しています。「大切なものは、目には見えない、心で見る」
これが、私の忘れ得ぬ言葉になっています。そして、九歳になる孫に「星の王子さま」のお話をヒツジの絵などを、描かせながら、この言葉を伝えました。

幻の「初心貫徹」            内古閑 徹 
10月会報「学校」
 小学校の先生が、中学校入学を祝して生徒各人に色紙を書いて下さった。小生には、墨痕鮮やかに“初心貫徹”と書いていただいた。入学を果たした喜びで、将来に向かって初々しい決意を、忘れるべからず、やり遂げようと己を引き締めた。同時に小生の名前の一字を選んでくださったことに、大変勇気づけられたことが、忘れられない。

 この四字熟語の格言を、現在の今まで、節目節目で、あの時の決意を心に想い浮かべて、心の糧に過ごしてきた。
 最近ふと気になり、辞書を引いたところ、この言葉がない。あるのは、“初志貫徹”“初意貫徹”“初心一徹”“初志一貫”など。残念なことに、その色紙は今、もう手許にない。

私が、今日まで“初心貫徹”と思っていたのは、幻であったのか。はたまた、先生の造語であったのか。先生にお聴きしたら、「そんなこともありましたかな」とはにかみながら微笑まれるかも。

「文章はその人の知性を表す、文字はその人の人柄を表す」                    望月 温
                                10月会報「文字文章」
社会人になった頃、会社の上司や先輩には戦前軍の学校を卒業した職業軍人の方が何人かおられた。この先輩の皆さんは大変優秀であるだけでなく、人間的にも魅力のある人が多かった。

当時はワープロなどと云う便利な機械が存在せず、毎月提出する業務報告書はカーボン紙を挿んだ薄い報告用紙にボールペンで書いて提出する為、この作業が元来悪筆の私の悩みであった。月報は、自分の上司から研究所長に回り、最終には図書室に保存される仕組みになっていた。

入社後暫らくしてから、職業軍人であった上司から「文章はその人の知性を表す、文字はその人の人柄を表すと言われる。将来恥をかかない為にも文字を書く練習をするように」。併せて「昔、軍の学校で陛下と言う文字を階下と書いて退校になった生徒がいた。退校理由は不敬と云う事ではなく、字を間違えるような上官は部下を殺すと云う事であった。

緊張感を持って文章を書き誤字には気を付ける事」と言われた。私の生涯忘れ得ぬ有り難い言葉であった。

わたしの忘れ得ぬ言葉            内田 豊

10月会報「雑草」

私は高校時代、文科系の或るクラブに所属し部活をしておりましたが、そこで厳しくも思いやりのある素晴らしい顧問の先生に巡り合い指導を受けることが出来ました。

そして卒業を迎えた時、先生から贈られた言葉が「踏まれても根強くしのべ道芝のやがて花咲く春は来るらむ」でした。
これを「道の辺りに生えている道芝は、いつも踏まれているのに耐えて春になると青く茂り花を咲かせる」人生の歩みもこれを範としなければならない。と説かれていました。

つまり、長い人生においては決してバラ色で楽なことばかりではない。困難なこと、辛いことの方が多いかもしれないが、辛抱強く真面目にコツコツと努力すれば必ず報われる。と諭されたものと思っています。

以来、私はこの言葉を「座右の銘」と心得、自分に対する戒めとして来ました。
そして、結婚式等で祝辞を述べる際にも、また現役時代には社員に対して様々な機会にこの言葉を引用して話をして来ました。
これからも機会あるごとに世代を超えて、この言葉の意とするところを話し伝えて行きたいと思っています。


「動けば変わる」             名取 瑞穂

                                      10月会報「動けが変わるハト」

平成2年子供が都立全寮制秋川高校へ入学。問題が多く親たちが改善運動を始めた。合言葉は「動けば変わる。闘いは楽しみながら」この言葉を常に糧として闘った。
都立高へ初の勧告を弁護士会から出す事に成功し閉校へ。

当時情報公開の開示請求は1枚40円。事実を知りたいが真黒塗り。学校日誌、教頭日誌、舎監日誌365
日3年分他で10万円近い支出。10円にならぬかと運動。情報連絡室長から40円は妥当と公文書で回答。課長会議で検討が始まり議会で通る迄数年かかるとの事。実際10円になるのに4年近くかかった。

三宅島噴火で児童が親元を離れ、秋川高校の空き寮へ入居。1棟に1台の公衆電話で不便だった時、私個人でNTT多摩中支店公衆電話部へ交渉、各寮1台ずつと売店へ、計4台増設。教頭先生から三宅島の子供が助かったと感謝の言葉。携帯電話のない時代のこと。先生とは今も賀状の挨拶は続いている。動けば変わる‼ 私にとって忘れ得ぬ言葉となっている。


「山川草木悉(ことごとく)有仏性」と共に 
              神尾 龍三郎 (写真も)

10月会報「神尾さん写真」

私の読経は、定年後わが家に残されていた江戸時代からの経本に触れたときから始まる。その頃、無性に仏教本を漁っていて掲題の言葉と出会った。

登山が趣味から自然との触れ合いが多く、今夏も花の名山・加賀白山に出掛けた。その道のりで心に残ったのは、下山途中に見つけた花の終わったチングルマ(稚児車)の美しい群生で、不思議な仏性(あわれ)を感じ思わず足が止まった。

この想いは、十一面観世音菩薩立像が明治の廃仏毀釈のため白山山頂から山麓の寺に降ろされた事実を知ったときにも生じた。仏性のはたらきと信じる。日本人の信仰は、自然崇拝から神仏習合の時代を経て今日に至っている。いま私の心は、神・仏・自然そして社会との融合ができ、霧があがった山のように輝いている。

地図と写真を見ながら、思わぬ副産物(思考の時間)をいただいたことを謹んで霊峰白山に感謝する。

「近藤君、声のトーンが低くなったね」    近藤 裕
                                  10月会報「白山」

昭和10年、私が5歳の時父は病死しました。昭和20年3月、故郷鳥取県の極貧の中で母が急死、7月に次兄が戦死、8月敗戦、姉たちは満州、年末に長兄が準戦病死しました。中学3年の私と小学5年の妹との二人は孤児同様の身の上となり、私は学校の中退を迫られ、何度か自殺しようと思いました。

そんなある日、尊敬していた大阪の中学の先輩が、心配して訪ねて来て下さいました。涙が出るほど嬉しく、大雪の中を駅まで迎えに行きました。終日いろいろと励まして頂き、翌日駅まで送って行きました。

その時先輩が言われました。「近藤君、きみ、声のトーンが低くなったね」。一瞬なんのことかと思いましたが、すぐに気がつきました。この一年、悲しいことばかり続いたので、声が暗くなったのだと。
それからはいつも明るい声で話すように心掛け、その結果人生が開けて、現在の幸せを呼び込んだのだと思います。私の終生忘れ得ぬ言葉です。

私の人生の指針になっている言葉や好きな言葉等 
                      倉田 晃

                                    10月会報「本言葉」

1. 人生常に前向きに~サミエル-ウルマンの詩「青春とは」~岡田義夫訳 
青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。<中略>人は信念と共に若く、疑惑と共に老いる。人は自信と共に若く 恐怖と共に老いる。希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる。<以下省略>             

2. 心の持ち方~
人に接する時は、暖かい春の心、仕事をする時は、燃える夏の心、考える時は、澄んだ秋の心、自分に向かう時は、厳しい冬の心            
3. 「人貧乏」は駄目~人生学の師‐森 信三 
友人が多いのは、人生を豊かにする 心友-親友-真友-畏友-遊び友だち…. 一生つきあえる友だちを多く持ちなさい。「人貧乏」では、老後が暮らせません   

4. 物事の解決の為の対処法は~着眼大局、着手小局~。







◎会員の声



音楽雑感(その1)            内山 晴信

私が「組織運営」に興味を持ち出したのは学生時代の体験が大きく係わっている。

昭和40年代、レコードが結構高く、あらかじめ「レコード芸術」「Stereo」「音楽の友」などのクラシック音楽関係の雑誌を読んで、個々の演奏の特徴や収録状況(音域・音の伸び・各楽器のバランスなど)を頭に入れ「相場感」を養うことが大切なことであった。
加えて、FM放送で(NHKやFM東京)流される演奏を聴き、「そのレコードを買うかどうか」を判断していた。これは、多くの愛好家がやっていたことで、資金には限りあり「新発売されるレコードを片端から買うことは不節操」「学の無い下品な行為」と馬鹿にする風潮があった。また、この「選別過程」を通じて、「正当な論評をする評論家か否か」「企画・制作するレコード会社の真剣度合は如何に」「国内で販売権を有する日本のレコード会社のやる気度合」を検証。良いもの・悪いものを峻別する能力を養う効果もあった。

そのような時期のある夜(1970~1971年頃)、中学校時代に親に買ってもらった高性能のFMラジオをつけた。途中からであったので、曲名、指揮者やオーケストラ名は不明。

「第一ヴァイオリンの伸びやかな音と音量・音質の安定感」「地味な音域担当の第二ヴァイオリンやビオラの音もきちんと拾えている」「金管楽器も派手にどぎつくならず、伸びのある音」「全般にどっしりとしてはいるが暗い音色では無く、適度な明るさもある」「余裕を持って楽々演奏しており、相当な腕前のオーケストラ」。いったいどこだ・・・「ベルリン・フィルか」「ヴィーン・フィルか」いや違う。

「コンセルトヘボウの、ほんわか・親しみやすい音色とも異なる」「ロンドンのフィルハーモニア管弦楽団や米ボストン交響楽団でも無い」「余裕綽綽の腕前といえばフィラデルフィア管弦楽団ながら、あそことも違う」「幻のオーケストラといわれ、めったに聴く機会のないレニングラード・フィルか?(ソ連の中でも洗練された楽団)」など思い巡らせている内に演奏が終了。

アナウンサーが「ただ今の曲はマーラーの交響曲第6番(当時は、あまりなじみのない曲)、ゲオルグ・ショルティ指揮シカゴ交響楽団の演奏でお送りしました」と告げた。
私は咄嗟に「これがあのゴツゴツしたシカゴ響か?」と疑問を持つと同時に「数年前、立て直しのためにショルティが音楽監督に就任した」ことも知っていたので、「早期に立て直し・梃子入れ効果が出た」と納得。
10月会報「ショルティ」

 また、ショルティならば、当然レコード会社は英デッカ。第二次大戦でドイツの潜水艦のスクリュー音を捉える軍事技術を、戦後にレコード制作に転用。音域の広さ・音の伸び・音の分離も抜群。低音から高音まできちんと収録。メイン・テーマで掻き消され殆ど聴き取れない中音域の楽器や音量の小さな楽器の音もマルチマイク方式で収録。指揮台に上がってオーケストラを指揮している状態が再現される。

レコード業界随一の会社。
シカゴといえば、「アル・カポネなどが暗躍していたギャングの街」「中西部から放牧牛をカウボーイが運び込み、屠殺・食肉加工する街」「独墺からの移民が多くドイツ語新聞が発行されている」「現在全米第二の都市」など言われてはいたが、日本人にとって馴染みの薄い地域。全米五大オーケストラの一つではあるが、1960年前後のフリッツ・ライナー指揮のRCA録音は音域狭く、音の分離や伸びが無く録音が下手。(同じRCAでもボストン響はすっきり収録。結局シカゴ響担当録音チームが二流)。その後の常任指揮者がパッとせず低迷。
そのような状況をショルティが短期間に再建したので、「組織活性化」の実例を見た。

それ以降、「旧大陸はベルリン・フィルハーモニー、新大陸はシカゴ交響楽団(フィラデルフィア管弦楽団に代わり)」と表現力・演奏技巧で世界一二を争う実力楽団として世界中から称賛された。・・・しかし、日本では「アメリカのオーケストラ」と軽視する風潮あり・・・「組織運営とはやり方次第。大幅に悪化することもあるが大幅に改善することもある」「個々人の能力を引き出すのは指導者の役目」「人生送るならば有意義に過ごそう」など、社会人となってからも今に至るまで、私の行動指針となっている。 
                                   

<参考1> ゲオルグ・ショルティ(1912~1997年)について
                                           10月会報「ショルティ2」

オーストリー・ハンガリー帝国に生まれた。ユダヤ系であったのでナチスの迫害を避けるため、二次大戦中はスイスに亡命。戦後、ドイツ・ミュンヘンのバイエルン国立歌劇場を振り出しに、フランクフルト国立歌劇場、ロンドンのコヴェント・ガーデン王
立歌劇場(いわゆる「ロイヤル・オペラ」)の音楽監督。10年以上に亘るロンドンでの活躍と1972年にドイツ国籍からイギリス国籍に変えたこともあり、エリザベス女王から「ナイト」(一代限りの貴族)の称号を受ける。1969~1991年シカゴ響の音楽監督、その後「桂冠指揮者」の名誉称号を受けた。

<参考2> 全米五大オーケストラ  設立年代順
①ニューヨーク・フィルハーモニック (1842年)
②ボストン交響楽団 (1881年)   ③シカゴ交響楽団 (1891年)
④フィラデルフィア管弦楽団 (1900年) 
⑤クリーヴランド管弦楽団 (1918年)   

(※「音楽雑感」は「その4」までを随時掲載します)

 
                               10月会報「河野さん挿絵」

                                 (挿絵:河野平八郎会員)

≪お知らせ≫
★欅友会会員対象の東京経済大学図書館利用カード、秋の申込期間は10月31日で終了します。ご希望の方は図書館カウンターまでお急ぎください。

★月の半ばを過ぎても会報が届かないときには、下の連絡先までお知らせください。

≪訂正とお詫び≫  
★7月号掲載の芳賀先生の要旨中、3ページ国分寺の簡単な年表と地形のなかに『1854年 玉川上水通水』とあ
りますが、これは『1654年 玉川上水通水』の誤りです。お詫びして訂正いたします。

8月会報

                  
                          8月会報さるすべり1
                                                                                                                




8月会報 
 



         
◎ご案内とお知らせ

◎ 野外学習会のご案内

今年の学習会は「筑波で先端文化に親しむ」をテーマに、筑波市にあるJAXA、国土地理院、植物園
を見学し、わが国の研究開発の先端分野を学習できればと企画いたしました。 奮ってご参加下さい。
なお、見学施設では本人確認、年齢の確認が行われます。運転免許証、健康保険証などを提示できる
よう準備が必要となりますので、ご承知おき下さい。 

【実施内容】

1. 日  時 : 10月26日(水) 午前7時30分 国分寺出発(7時15分までに集合)
2. 集合場所 : 国分寺駅南口正面通り「都営住宅前(旧はやし屋文具店前)」南口より徒歩1分
3. 会  費 : 4,500円(交通費、入館見学料、昼食代、保険料を含む)当日徴収します
4. 募集人員 : 50名

【見学場所】

国土地理院(地図と測量の科学館)
 地図や測量に関する歴史、原理や仕組み、新しい技術などを総合的に展示する施設です。日本列島の空中
 散歩を疑似体験、古地図の展示、新旧の地図比較など、日本の地図、地理に関する展示が豊富にあり、日
 本の国土への知見が豊富になります。
JAXA(筑波宇宙センター)  
 日本における宇宙開発の拠点です。人口衛星などの追跡管制、宇宙飛行士の訓練、ロケットや人工
 衛星の試験を通じ宇宙開発の新しい技術や機器の開発などを行っています。
 今回は、各施設の一部ですが、ガイド付きで「見学ツアー」をご用意いたしました(約70分)。
 なお、当所にて昼食を準備しております
植物園(日本国立科学博物館・筑波実験植物園)
 14万平方メートルの敷地に、国内外の樹木、草花3万5千種、10万株が栽培されています。また、屋内にはサ
 バンナ温室と熱帯雨林温室があり、世界最大規模といわれ、一見の価値があります。

【参加の申し込み】<例年通り電話による先着順受付とします>
申込み受付日時
   8月27日(土)午前9時~正午
   渡辺 義広 0422-56-0934

①入館、見学時の割引、セキュリティの関係で年齢の申告が必要なため、年齢をお伺いたします。
②会員の受付を優先し、家族・友人等で参加を希望される場合は会員受付時にその旨申し出て下さい。
 会員受付後、空きがある場合は会員受付時の順番にて受付の可否を連絡いたします。  

◎お知らせ

◆東京経済大学図書館利用を希望される欅友会会員に対し、秋の申込受付が実施されます。
 身分証明書を持参して図書館で申請してください。受付期間は9月1日~10月31日です。
◆会報9月号は例年通り夏休みとさせていただきます。ご了承ください。


◎お願い
 
7月会報わたしの18月会報忘れえぬ言葉
    
    引き続き上記テーマで原稿を募集しています
    忘れ得ぬ言葉と、それにまつわるエピソード等を書いてご投稿ください。
    初めての方も自由に書いてご参加ください。詳しくは7月号をお読みください。
    なお、ご要望により締切日を9月20日まで延期します。
    用紙は原稿用紙でなくても結構ですが、400字以内でお願いします。
    なお、タイトルと氏名は文字数に含みません。
    原稿はファックス、メール、郵送でお送りください。
   





 





8月会芳賀先生1

◎ 7月9日(土) 学習会の要旨 
 
 日 時:7月9日(土) 13:30~15:30                             
 場 所:東京経済大学 2号館 B301教室  
 テーマ:「古地図で見る国分寺と東京経済大学キャンパス
       ――地形と水環境を中心に」                                          
 講 師:芳賀 啓(ひらく) 先生
      (東京経済大学客員教授、日本国際地図学会評議員)
 出席者:146名(会員:男性97名、女性:39名、
        非会員:男性6名、女性4名)

【講演要旨】


地図と古地図

数年前、「地図男」と言う本が出た時は、自分のことか?と少しどきっとしたが、永年都市の地図と地形を研究している。2008年神田神保町を歩く「ぶらタモリ」への出演を要請されたが、NHKの都合で急にロバート・キャンベル氏(アメリカ出身の日本文学者で東大教授)に交代させられたこともある。テレビでは三井文庫に保管された大量の江戸古地図を紹介したこともある。―ここで自著「江戸の崖、東京の崖―講談社」、「江戸東京地形の謎―二見書房」等を聴講者の回覧に廻す。―

「地図に残る仕事」と言うテレビのキャッチコピーを持つ大成建設(旧大倉土木)と、東京経済大学(旧大倉商業)は共に大倉喜八郎によって創設された組織で、大正6年の地図にある。

赤坂葵町の大倉商業学校(明治33年創設)や大倉邸が1945年の戦災で焼失したため、学校は翌年国分寺にあった大倉系の南部中央工業(銃砲会社)と地続きの地に移転、1949年に大学に昇格して新たに東京経済大学となり現在に至る。大倉財閥の事業は幕末から明治初年にかけての鉄砲などの武器商としての成功にあった。

古地図とは一般には江戸時代の地図を指すが、自分は新しい地図以外は全て古地図といっている。古地図にも本物と偽物があり、太田道灌時代の絵図に当時未だ無かった神田川などが載っているような偽物も多い。また、偽物とまで言わずとも、推定による不確かな地図も散見される。
例えば、国分寺附近の地図でも甲武鉄道の線路だけを削除して、北口に駅前集落をそのままにし、初版図らしくしている偽装商品が古地図として売られている。

地図と地形図

現在の地図によると、東京経済大学が小金井市との境、国分寺市の東端にあることが判る。明治10年代の2万分の1の古地図で標高74.95mの地点が現在の東経大の場所である。戦争末期の陸地測量部の作った3千分の1の極秘地図には、今の東経大の南に国分寺崖線(国分寺cliff-line)が極めて明瞭に示されている。

           8月会報くらほね坂

新しい地図は建物に囲まれていて地形が判り難いが、古い地図は建物がまばらで等高線などから地形を読み取ることが出来る。東経大の東側の道路の坂下に「くらぼね坂」の標識があるが、坂に名前があるのは日本だけで、名前のある坂は江戸時代以前からの道が多く、また隣村との境界線であることが多い。くらぼね坂は国分寺村と貫井村との境界線である。勾配8%とあるのは、水平に100m行った先が平均で垂直に8m高くなることを意味する。

                            8月会報国分寺崖線1

崖とハケは混同されているが、崖の一部が崖下の湧水で浸食されて後退し、瓢箪型にえぐれた部分がハケである。新次郎池(北沢新次郎学長の名にちなむ)や真姿の池、貫井神社などがまさにハケである。海や川の水の流れは時代と共に自然の力で変るもので、それがコンクリートなどで固定されるのは近々50~100年来のことである。地形図で重要なのは傾斜を表す等高線である。"map it up"と言う英語は、“図にして考えろ”との意味で、図に描けば物事が良く見えてくるとの意味である。

童話作家浜田広介の童話で、「狛犬の目が赤くなったら島は沈む」との僧の予言を悪用した海賊が、狛犬の目を赤く塗って島民を追い払い、その留守宅を荒らし回って酒盛りをしていた時、津波で島は沈んでしまったとの阿波の昔話があるが、この島が「おかめ島」と呼ばれたのは、島民が島の形がおかめに似ていると想像したからで、実際には真上からみることは出来なかった筈。明治10年、島津製作所の創業者が気球で空中に上がるまでは、日本では誰も空から地形を見たものはいない。にもかかわらず伊能忠敬以来地図は作られて来た。人間には空想で頭の中に地図を思い描く能力がある。地図はあらゆる場所を真上から垂直視線で見るが、絵図は真横から水平視線で見たものである。

与謝蕪村の”春の水山なき国を流れけり”の句を、正岡子規は「山なき国」などある筈がないと絵画的観念で批判したのに対して、内藤鳴雪は地図的観念ではありうると擁護して論争になった。日本列島は細長い島国で山脈が走っている。どこでも川の上流を見れば必ず山が見える。

最古の江戸全図

三代将軍家光の時代の寛永年間に最も古い精密な江戸全図が作られた。2012年、この地図が大分県の臼杵市で発見されたことが東京新聞で報じられ、早速行って3m×3mの複製を作ることができた。この地図は傾斜地が緑色で示された地形図で、中野の三重塔、神田川、淀橋、柏木、新宿追分、代々木、幡ヶ谷、青山通り、渋谷、宮益坂、高田馬場、早稲田など江戸の全図が詳細に示されている。

              8月会報武蔵国古地図1

国分寺の簡単な年表と地形

西暦  760年 武蔵国分寺建立
    1603年 徳川幕府開府
    1654年 玉川上水通水
    1889年 近隣9か村が合併して国分寺村となり、甲武鉄道が開通、国分寺停車場が出来る
    1940年 町制施行
    1942年 日立中央研究所設立     
    1944年 小林理研(リオン)設立   
    1946年 大倉経済専門学校国分寺に移転
    1964年 市政施行

さて、江戸時代の国分寺は江戸ではなく、武蔵国多摩郡であり、武蔵国の国府は府中にあった。「江戸」の名称は古いがそれはあくまでも俗称であり、行政地域の正式な名称ではなかった。江戸の中心は御府内と言われ、それは江戸城の外堀を中心とした地域だった。
江戸時代初期、正保の武蔵国絵図には、国分寺、恋ヶ窪、貫井などの村や、街道筋の一里塚、国分寺崖線や狭山丘陵を示す山などが描かれていて、等高線など無い時代でも高低差を的確に表現している。

伊能図と国絵図の違い

伊能図は天体測量と歩測とで作られたが、その武蔵野の地図には、江戸城の築城に必要な石灰を運んだ青梅街道が描かれていない。その理由は、歩いて測量した場所以外は描かれていないのである。伊能図は基本的には海岸線に重点を置き、内陸は歩いて測量した輪郭だけを描いた地図であった。他方、国絵図は全国の村々をくまなく描いている。国分寺市史に掲載されている江戸時代の村絵図には、この辺りの田、畠、野川やその分水なども描かれている。

人間と水

近代水道が普及する以前、人間の住まいは水場から離れることが出来なかった。それ故国分寺村の起源も崖線に沿った元町からスタートしており、深井戸を掘る技術の無かった時代は水の得られない台地の上には住めなかった。玉川上水が引かれた後も、水を自由に使えない台地には多くのひとが住まなかった。江戸時代の終わり頃からようやく上総掘りという深井戸掘削の技術が開発されたが、それも高価で普及せず、近代水道が引かれるまでは水源の無い場所には人は住めなかった。水道が普及する以前、国分寺に移転して来た東京経済大学の水は、今でも全て単独の地下水源であり、災害時には貴重である。

(ここで1906年―明治39年―の2万分の1の国分寺の地図を、3本の等高線と野川の流れ、府中街道や国分寺街道を含む4種類の道路などを色塗りして、国分寺崖線で特徴づけられた町の地形や田、畑、林、甲武鉄道を通すために掘り下げたり盛り土した姿を実感し、地図・地形図の読み方を学ぶ作業を聴講者全員で行った。同じような作業を1999年の1万分の1の地図でも行った。)

何処までが海だったか?

縄文時代に海だった場所は標高がせいぜい2~3mまでの場所で、60~80mの国分寺は勿論、新宿あたりも海ではなかった。

              8月会報国分寺崖線と湧き水1

国分寺崖線
 
1952年に地質学者(福田 理と羽鳥謙三)が命名した学術用語で、立川の砂川から世田谷の成城まで約20kmの10~20mの標高差のある崖が、武蔵野台地を武蔵野面と立川面に分けている。崖線の形成は2万年前の氷河期と考えられる。
                                              
ライフライン

災害時に貰える飲用水は一人2リットルだが生活用水としては最少5リットルは必要。現在の水道はコンピューター制御で電気が止まれば全て止まってしまい、首都圏3500万人分の水は全国の給水車を集めても賄えない。地震災害を考えると水は井戸、便所は汲み取り、燃料はプロパンガスが理想的で、井戸程貴重なものはない。国分寺は人口12万人だが、手漕ぎ井戸が15基しかない。但し、東京経済大学は地下250mから電動ポンプで汲み上げた地下水で全て賄っている。併しそれとは別に、創立120周年事業として手漕ぎ井戸の掘削を提言している。

      8月会報芳賀先生5
                         8月会報芳賀先生地図

(質疑応答)

Q1 国分寺村と恋ヶ窪村とどちらが古いか?
A1 恋ヶ窪の方が古いと思われる。

Q2 国分寺北口の第2小学校の裏手は川の浸食によるハケか?            
A2 国分寺駅の北口一帯には谷地形が入りこんでいるが、ハケではない。ドンキホーテの裏にも窪地があ
  る。窪地は水による浸食地形で、すり鉢地形という人がいるが、浸食の場合どこかに必ず流出口があ
  るから、それは間違い。

Q3 国分寺市は新田開発で出来た村か?
A3 元町の古い村と、新田開発で人が住みついた部分との二つにより出来た町である。

Q4  本多新田の水は玉川上水から引いた水か?
A4 その通りだが、水田ではなく畑地である。               
                                 (文責:天野 肇)



  


8月会報白井先生1

◎ 7月23日(土) 学習会の要旨


 日 時:7月23日(土) 13:30~16:30                             
 場 所:東京経済大学 2号館 B301教室  
 テーマ:映画を読む会―「シロタ家の20世紀」                                          
 講 師:白井 堯(たか)子 先生
       (慶應義塾福沢研究センター客員研究員)
 出席者:192名(会員:男性115名、女性:62名、
          非会員:男性7名、女性8名)


【Ⅰ】映画概要

「シロタ家の20世紀」(2008年キエフ国際ドキュメンタリー映画祭審査員大賞受賞作)
監督・脚本: 藤原智子
製作: レオ・シロタ製作委員会 大和史明
企画: 藤原智子 富田玲子 白井堯子
撮影: 海老根務 宮内一徳
編集: 田中啓
出演: ベアテ・シロタ・ゴードン   アリーヌ・カラッソ  他

2005年パリ日本文化会館で上映されたドキュメンタリー映画「ベアテの贈りもの」で紹介され、日本国憲法に男女平等を書き加えた女性として知られるベアテ・シロタ・ゴードンさんだが、その家族の歴史には戦争に翻弄され続けた波乱と悲劇に満ちた物語があった。そんなロシア出身のユダヤ人一家、シロタ家が辿った20世紀の光と影を描くとともに、シロタ家の人々が願う平和の尊さを改めて見つめ直すドキュメンタリーがこの「シロタ家の20世紀」である。


【Ⅱ】白井先生による映画紹介


この映画は、ユダヤ人の高名なピアニスト、レオ・シロタとその一家を描いたドキュメンタリー作品です。20世紀初頭のユダヤ人差別、迫害を受けた悲劇と平和を強く希求する姿を描いた作品です。全篇を流れるピアノ曲はほとんどレオ・シロタの演奏です。バックグラウンドミュージックではなく、演奏も作品の一部として聴いていただきたい。

また、こうした悲劇を通じて改めて平和の大切さを考えていただくきっかけにしていただければ幸いです。多くの人名が出てきますので、予め主な登場人物について簡単に紹介しておきます。

レオ・シロタ:ウクライナ出身のユダヤ人で、日本ともきわめて関係が深い高名なピアニスト。
ベアテ・シロタ・ゴードン:レオの娘で日本国憲法草案作成に携わった。
ピエール:レオの弟、パリで音楽プロデューサーとして名を成した。アウシュヴィッツに送られる。
ヴィクトル:レオの兄、ポーランドで指揮者として活躍していたが、ワルシャワで政治犯として収監
     され以後消息不明。
イゴール:ヴィクトルの息子。ポーランド義勇軍としてノルマンディ上陸作戦に参加するも戦死。
アリーヌ・カラッソ:ピエールの孫娘。この映画の語り部として登場。

姉=姉=兄 ヴィクトル(政治犯)=レオ・シロタ=弟 ピエール(アウシュヴィッツ)
       |         |        |
      イゴール(戦死)   ベアテ       ティナ
   (ノルマンディ上陸作戦)(新憲法)      |
                        アリーヌ(パリ在)


【Ⅲ】あらすじ


日本国憲法に男女平等の条文(24条)を書いたベアテ・シロタ・ゴードンの祖父母シロタ家は、ロシア領だったウクライナのカミェニェツ・ポドルスキの出身であった。そこには、かつて多くのユダヤ人が住んでいたが、度重なるユダヤ人迫害(ポグロム)と第2次世界大戦中のホロコーストによって、今はかつての8割がいなくなった(ディアスポラ)と言われている。衣料商をしていたレオの両親は、19世紀末、ユダヤ人迫害を逃れキエフに移った。そこで5人の子供たちは、皆音楽家を志し、史料館に残された100年以上前の音楽学校の学籍簿は、彼らが非常に優秀だったことを物語っている。

彼らは、卒業後ワルシャワで、ウイーンで、パリでとそれぞれ大都会で目覚ましい活躍をした。
特にベアテの父レオは、ブゾーニに認められヨーロッパの楽壇で世界的ピアニストとして大活躍、「リストの再来」と言われた。山田耕筰に請われて日本で演奏会を開いた翌年1929年からは日本で17年間ピアニストの育成と演奏活動を行い、日本の楽壇に貢献している。後の大家園田高弘、藤田晴子等を育成した。

レオの弟のピエールは、サンクトペテルブルクの音楽院で学んだが、舞台に立つと上がってしまう性格だったので, ピアニストを断念。音楽プロデユーサーとしてパリで活躍。近代音楽とロシアのバレエやオペラをヨーロッパに紹介したり、フランスの俳優モーリス・シュヴァリエやシャンソン歌手ミスタンゲットなど、有名な芸術家のマネージャーを務め名声を得た。

      8月会報シロタ家の⒛世紀1
                  8月会報シロタ家20世紀2
                              8月会報シロタ家の⒛世紀2

だがヨーロッパに残ったシロタ一族は、ナチの台頭と第2次世界大戦で、悲劇的な最期を遂げる。ピエールはアウシュヴィッツに連行され、命を落とす。長兄ヴィクトルはポーランドで指揮者として活躍していたが、1942年ワルシャワで政治犯として収監され、以後行方不明となった。その息子イゴールはポーランドの義勇軍として連合国とともに戦ったが、ノルマンディ上陸作戦で勝利を目前に戦死。第2次大戦中日本にいたレオは、軽井沢に軟禁され、官憲の目が光る中で不自由な生活を余儀なくされた。
                           
しかし戦時中アメリカに留学し、戦後GHQのメンバーとして来日して両親と再会したベアテは、日本の新憲法の草案作成に関わり、男女平等の条文(第24条)を書いた。そして、父のレオは、戦後間もなく日本を去りアメリカのセントルイス音楽院の教授となる。1963年再び懐かしい日本で演奏会を催した。そして1965年79歳で他界した。

ベアテは、晩年、日本女性の地位向上と新憲法に込められた世界平和への理念を訴えるべく、毎年のように来日。その間には、父レオの高弟で幼馴染みのピアニスト園田高弘の記念コンサートも聞き、旧交を温める。
そしてベアテの願いを受け継ぐかのように、スペインのカナリア諸島、グラン・カナリアのテルデ市にあるヒロシマ・ナガサキ広場には、スペイン語で書かれた日本国憲法9条全文の碑が掲げられ、市長は「あの条文は世界の希望です」と語る。
(ベアテは、2012年の暮に89歳で他界。)

【Ⅳ】白井先生による解説


映画をご覧いただいた方はそれぞれの感動、安らぎ、思いなどを感じていらっしゃるので、その皆様の気持ちを傷つけないように映画終了直後に私がお話することは難しいのですが、この機会に映画に関してお話しさせていただきます。
私は小さい頃藤田晴子先生にピアノを習いました(レオの孫弟子です)。藤田先生はレオの高弟でピアニストでありながら、後に東大法学部の女子1回生として学び、国会図書館に勤務いたしました。2001年に亡くなりましたが、そのご遺産を文化事業に使ってほしいとの遺志がおありで、我々弟子たちが考えあぐねているちょうどその時に、藤原智子さん(この映画の監督)と出会い、この映画に携わることになりました。
「シロタ家の20世紀」は、戦争と迫害の20世紀の縮図であったシロタ家を、次の五つの物語で描いています。

1.人種差別

・シロタ家の出身地カミェニェツ・ポドルスキには18世紀半ばからユダヤ人が増え、19世紀半ばには多く
 のユダヤ人がこの地からア メリカのニューヨークへ移る。
 だが第2次世界大戦前まではこの地の人口の40%がユダヤ人。ロシア帝国はユダヤ人の居住地にも教育
 にも差別。ヒトラーはカミェニェツ・ポドルスキで「最終的解決」として1941年8月の2日間で10
 万人のユダヤ人を殺害した。
・シロタ家の三男ピエールはアウシュヴィッツで死去。
・次男レオの娘ベアテは、日本のドイツ人学校で差別を受けアメリカ人学校へ移る。
・ジューイッシュ・マザーとは、日本でいう「教育ママ」だが、地位や財産をいくら持っていても迫害を
 受ける宿命のユダヤ人の母親 は、子供に何か能力・技術を身に着けさせることに必死だった。レオの母
 もまさにそうだった。
8月会報レオ・シロタ2

2.音楽

・シロタ家の長兄ヴィクトルは指揮者、三男ピエールは音楽マネジャーになる。
・次男レオは世界的なピアニストになる。「ヨーロッパ最高のピアニスト」「真の芸術的ピアニスト」
 「魔王的ピアニスト」「リストの再来」と称賛された。
・レオはハルビンで出会った山田耕筰の強い要請を受けて1928年43歳で来日し、同年11月15日の
 最初のリサイタルを開いたが、「日本で初めて本物のピアノの音が鳴り響いた日」として称賛された。
・レオは1929年一家を帯同して再来日。以後17年間演奏活動と教育活動(東京音楽学校・・現在の東京
 芸術大学)に専心。ナチスの台頭でヨーロッパは政情不安定、日本は平穏と思われた。
・「レオ・シロタが来日していなかったら日本のピアノ界・音楽界の成長は数十年遅れたであろう」。
 この映画の中に流れるピアノ演奏のほとんどがレオの演奏。
・レオ、外来の音楽家のサポート。「日本は音楽的に未開の国。しかしレオがいる国、希望の国」として
 シャリアピンやルービンシュタイン来日。

3.戦争
・日独伊三国軍事同盟成立(1941年9月)、第2次世界大戦勃発。
・長男ヴィクトルは、ナチス・ドイツ占領下のワルシャワで政治犯収容所に収監され、消息を絶つ(1942
 年)。
・ヴィクトルの息子イゴールは、ポーランド軍として、ノルマンディ作戦に参戦(1944年8月20日戦死)
・三男ピエールもアウシュヴィッツで死去(1944年)。
・次男レオは妻と共に、1944年敵性外国人として軽井沢で憲兵が見張るなか軟禁され、寒さと飢えに苦し
 む。また、日本人にピアノを教えることは禁じられた。ある日、食べ物に困ったレオがあるお百姓を訪
 ねる。お百姓はしげしげとレオの顔を見て部屋に招き入れる。そこにレオの東京での演奏会のポスター
 が貼ってあった。そのお百姓はたまたま上京して日比谷公会堂に入ってピアノの演奏を聴き、感動して
 壁に貼ってあったポスターを譲ってもらった。以後レオはこのお百姓に大変助けてもらったという。
                                                  8月会報日本国憲法1

4.フェミニズム
・レオの娘ベアテはGHQ(連合国軍総司令部)の一員として日本国憲法の草案作りに携わる(人権の条
 項)。
・憲法第24条、即ち、家庭生活における個人の尊厳と両性の本質的平等を定めた条文の草案作り。
 ①婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力
 により、維持されなければならない。
 ②配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関して
 は、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

・ベアテは日本にいる頃お手伝いさんから、日本の女性の地位が極めて低いこと(お妾さんのこと等)を
 聞いていたので、特別の感情を持ち男女平等を憲法に織り込んだ。ちなみにいまだ米国憲法にもこの条
 項はない。
・草案作りに携わったことは当時極秘にするよう指示されたので、1990年に公表されるまでわからなかっ
 た。ベアテは最後の生き証人としてそのことを公表すると同時に、女性の地位向上、平和を希求してい
 く活動を続けた。

5.平和
・ベアテの言葉「日本国憲法9条は世界のモデル」
 憲法第9条「戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認」 
 ①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による
 威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 ②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認め
 ない。
               8月会報憲法9条カナリア諸島

・スペインのフランコ政権下において大きな弾圧を体験したカナリヤ諸島のグラン・カナリアにあるテル
 デ市のヒロシマ・ナガサキ広場には、スペイン語で書かれた日本国憲法9条全文の碑が掲げられている。
 スペインがNATOに加盟する際、大反対運動が起きて日本国憲法に学ぼうということを契機に碑が建て
 られた。このことは映画が完成した後知るところとなり、あわてて取材し、無理やりこの場面を挿入し
 た。
・20世紀は迫害、差別、戦争の歴史だった。シロタ家はまさに20世紀の縮図のような歴史をたどってき
 た。皆様それぞれの方が味わった悲劇とシロタ家の悲劇と重ね合わせ、平和がいかに大切か、これから
 どうあるべきか、どのように生きていくべきかを考えていただきたい。この映画がそうしたきっかけに
 なることを切に願っている。
8月会報白井先生風景2
                            8月会報平和の鳩1

最後に質疑応答の中で、中米コスタリカも日本国同様憲法で常備軍の廃止をうたっていることも披露された。白井先生から「9条を北極星に例えたご発言は大変参考になった」とのコメントがあった。
また、2012年に亡くなったベアテさんの遺骨の一部が、富士山が良く見える霊園に安置されているという紹介があった。ベアテさんは亡くなる直前まで、日本を愛し、平和の大切さを強く訴えていたという。
                                     (文責:山田 健)



 
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