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学習会の要旨

1月会報片山先生4


◎ 1月21日(土)学習会の要旨                              


日 時:1月21日(土) 13:30~15:30                             
場 所:東京経済大学 1号館A405教室 
テーマ:「クラシック音楽の聴き方、楽しみ方」                                         
講 師:片山 杜秀 先生

(慶應義塾大学法学部教授・音楽評論家)                                       
 出席者:227名(会員:男性152名、女性 61名、
          非会員:男性7名、女性7名)

【講演要旨】


「クラシック音楽の聴き方、楽しみ方」と題したが、そもそも2時間でそれを語り尽くすのは至難であり、さりとてバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンなどの有名作について話してみても、ご存知の方には退屈の限りなので、今日は日本に於ける西洋音楽受容史を概観し、そこからクラシック音楽全般についても考えていただけるようにしたい。

西洋クラシック音楽の入り口―山田耕作をタテ糸として

古典音楽は、民謡などの大衆の音楽と異なり、日本でも雅楽、能楽など、時の権力者や富裕層に支えられて発展したが、西洋のクラシック音楽も18世紀初めのバロック時代までは、キリスト教の下で教会や王侯貴族、富裕階級などの経済的支援により発達した。

 1月会報ハイドン1

例えばハイドンは、ハンガリー貴族のエステルハージ侯爵家の楽長として30年間も働いたが、フランス革命やナポレオン戦争などによる市民社会の発達に伴い特権階級の没落が始まると、最早やエステルハージ家には留まれず、市民階級の台頭するロンドンで、楽譜を売ったり演奏会を開いたりして新たな収入の道を求めざるをえなかった。
                  1月会報モーツアルト1

モーツァルトの後半生も同様であり、ウィ-ンの市民相手に演奏会を開催して生計を立てた。
ベートーヴェンの時代には、クラシック音楽は最早や上層階級だけの特権的芸術ではなくなり、中間市民層の教養として演奏会などで広く浸透し、それが資本主義社会の発展と共にレコードやCDで今日まで続いて来た。
                                    1月会報ベートーベン1

日本でも、戦後の高度成長期には、サラリーマン家庭でも生活水準の向上とともに、レコード付きの家庭名曲全集が百科事典と共にその家庭の教養度を示す必需品のように売れる時代が来て、クラシック音楽が一般市民に浸透した。しかし最近は、米国でも中間層の生活環境の変化に伴って、クラシック音楽を取り巻く環境も厳しくなり、オーケストラやコンサートの運営も難しくなって、聴衆を確保するために純クラシックよりもセミ・クラシック的な演奏がより一般化し始めている。

「そもそも人が飽きずに音楽を聴けるのはせいぜい3分が限度だ」とは、かつて私が評論家としてインタービューをしたことのあるイタリアの作曲家ルチアーノ・ベリオの言だが、時間と余裕のある富裕層及び中間層の教養としてのクラシック音楽は、余り短く判り易いものは芸術的価値が低く見なされがちなため、高い教養を満足させるために、適当に長くまた難しくするのは文学でも音楽でも同じであり、3分の易しい音楽が、交響曲などで30分~1時間、オペラなら3~4時間と次第に長く、かつ難しく作られるのが一般的な傾向である。
                 8月会報レオ・シロタ2

西洋音楽の三要素と形式

メロディ、リズム、ハーモニーが西洋では音楽の三要素と呼ばれてきた。ハーモニー(和音)は日本の伝統音楽では軽視されてきたが、西洋音楽では特に重要であり、コード進行などポピュラー音楽でも親しまれている。メロディがあれば基本的にはリズムもあるので、この三要素を使って適当な長さに伸ばし、適当な複雑さを増すために種々の形式が生まれたのがクラシック音楽というものなので、ポピュラー音楽に比べ、ある種の難しさと複雑さのあるのが当然である。

日本人と西洋音楽との出会い

                                                     1月会報黒船1

戦国時代の鎖国以前にキリスト教の布教と南蛮貿易に伴って日本に紹介され、鎖国後も長崎の出島ではオランダ商館などで西洋音楽が限定的ではあるものの演奏され続けた。それが再度大規模に入って来たのは幕末19世紀の中頃で、浦賀に上陸したペリーの軍楽隊によってアメリカの軍歌「ヘイル・コロンビア」(CD演奏)などが吹奏楽で演奏され、維新直後には官軍の「行進曲」(CD演奏)から俗に云う「維新マーチ」(先生が歌う)などに展開する。

幕末には、従来の用兵に比べてより組織的・合理的西洋式の用兵や戦闘訓練、命令伝達の為に、太鼓やラッパなど音量やリズムのある西洋楽器や西洋音楽が採用され、学校でも将来の兵隊予備軍たる子供たちの音感教育の為にも西洋音楽を教えるようになる。このような実用目的の為に日本では音楽学校以前に陸海軍の軍楽隊が発足し、兵隊の慰安の目的も含めて、比較的短く繰り返しの多い軽い行進曲などがしばしば演奏された。

しかしながら、ドレミファソラシの七音音階で出来ている西洋音楽に対して、民謡、謡曲、長唄などの伝統音楽は基本的に五音音階であるため、日本人が西洋的なメロディ・ラインに馴染むのには、多くの困難が伴った。例えば「むすんでひらいて」や「蛍の光」(明治14 年に教科書掲載)のような今日も歌い継がれる有名唱歌でも、いきなり親しまれ、広く歌われるようになったとは考えられない。子供たちの生活環境には、都会でも地方でも謡曲や三味線音楽、民謡、仏教声明、祭礼囃子などが満ち満ちており、七音音階の旋律は、日本人には縁遠く覚えにくい状態が長く続いた。音楽の「文明開化」は容易ではなかった。

お雇い外国人、ねなしふしなし時代、抜刀隊とノルマントン号沈没の歌

                            2 月会報ノルマントン号1

明治10年代に日本で流行った音楽に「抜刀隊」(陸軍軍楽隊の指導者として招かれたお雇い外国人のフランス人音楽家、シャルル・ルルーが作曲)(CD演奏)がある。しかし、ルルーが作曲した通りに当時の日本人が歌っていなかったことが、作曲家の本居長世(本居宣長の子孫で山田耕筰と東京音楽学校で同期生)の書き取って残した「ノルマントン号沈没の歌」の譜面からうかがい知れる。同歌は「抜刀隊」の替え歌として大流行したものだが、歌詞のみならず旋律も、日本の五音音階に乗るかたちに歌い崩されていたようだ。日本人にとって西洋音楽の受け入れが如何に容易でなかったかが判る。

明治33年パリで川上音二郎一座が吹き込んだ「オッペケペー節」(CD演奏)は明治20年代の流行歌だが、それは歌といっても実際には旋律の高低がない。早口言葉のようなリズムだけの音楽である。つまりこの時代の日本人は、西洋音楽に馴染めず、さりとて小唄、端唄などの江戸時代調では「文明開化」の世に適合せぬということで、時代にかなうメロディを失ってしまった。「オッペケペー節」の流行時代は「ねなしふしなし時代」とも呼ばれる。近代日本人は「歌を忘れたカナリア」と化した。その後にようやく、日本人が西洋音楽を積極的に受け入れようとする時代が来る。

2月会報軍歌1
軍歌・寮歌・校歌・社歌

大きな契機となったのは日清戦争である。この戦争は両国の西洋式軍隊の激突だった。日本人にとっては国家の存亡がかかっていた。国民は手に汗握り、遠い戦場の模様を追体験したがった。しかしまだ映画や放送はない。伝える媒体として、絵画や芝居などと共に西洋風の軍歌(「敵は幾万」「元寇」「勇敢なる水兵」「雪の進軍」などCD演奏)が全国で爆発的に歌われるようになると、日本人の西洋音楽に対する抵抗感も薄れる時代になる。その後、日露戦争にかけて「嗚呼玉杯に花うけて」など旧制高校の寮歌が流行って、その延長線上で、皆が肩を組んで一緒に歌う校歌、応援歌、社歌などが日本特有の文化として一般化する。

瀬戸口藤吉、滝廉太郎、山田耕筰

                                    1月会報滝廉太郎1

この頃、行進曲を数多く作った瀬戸口藤吉や、日本人としてクラシック音楽の先駆者たる滝廉太郎が現れ、日露戦争の後に山田耕作が世に出る。滝の作品として有名な「荒城の月」は、寮歌的なリズムで作られたが、それを山田が日本人的で抒情的な音調に変えたものが今日に伝わっており、更に山田はそれをピアノの変奏曲にも編曲した(CD演奏と先生の歌)。滝は若死にしたため歌曲以外の作品は少ないが、山田は日露戦争のあとの日本社会の安定・成長期にパイオニアとして西洋音楽の普及に努める。

山田耕筰の業績-規模の大きな曲、充実した器楽作品を目指して

1月会報山田耕作1

バッハの曲も、教会で人々に歌わせるため、比較的覚えやすいメロディを多く含むが、ハイドンはロンドンに出て、演奏会で聴衆を飽きさせないための工夫で「驚愕」などを作曲、ベートーヴェンはより大規模な楽器編成での交響曲などに覚え易いメロディや大音響をちりばめた。

西洋クラシック音楽では、テーマになる旋律を拡大発展させて長い時間をもたせるための形式が幾つかあり、カノン(一つのメロディをタイミングを少しずつずらして重ねてゆく)、フーガ(カノンに基本は似るが繰り返すメロディを自由に変化させる)、変奏曲、ソナタ形式などがそれである。

山田耕筰はそれらを自家薬籠中のものにしてゆきながら、先輩滝廉太郎が若死にして出来なかった大規模なクラシック音楽作品(オペラや交響曲)を作るべく、岩崎小弥太の資金支援を受けてベルリンで足かけ5年学び、第一次大戦直前に帰国した。ベルリンでは提示部・展開部・再現部をもつソナタ形式の曲や、アレグロ・アダージョ・メヌエット・フィナーレの四楽章からなる本格的交響曲「かちどきと平和」を作る一方で、日本人の美意識にはドイツ音楽の余りにも理詰めな作曲法よりもフランスやロシアのもっと自由なスタイルがかなうと考え、フランスのドビュッシーやロシアのスクリャービンの影響を受けた交響詩「曼陀羅の華」や、交響曲と交響詩の形式を融合し、さらに雅楽の楽器をオーケストラに含めるなどの創意工夫を凝らして、幕末から明治天皇崩御までを描く「明治頌歌」などを作曲する。
                  1月会報五線譜2

また「からたちの花」「この道」「赤とんぼ」などの歌曲を作った後、皇紀2600年(1940年)に自作の集大成として歌曲や交響詩で試してきた音楽語法をグランド・オペラに集大成した「黒船」を発表した。「黒船」は必ずしも日本近代音楽の傑作としての評価は得ていないが、それは不当と私は考えている。ともかく、山田耕筰の歩みは、日本人が西洋音楽にどう向き合って、どう受け入れたかの歴史を一身で表現しており。とてつもなく重要である。
1月会報片山先生聴講2

質疑応答

Q 古典音楽と古典派音楽の違いは?

A 前者はポピュラー音楽に対する広い意味での古典(クラシック)音楽の総称、後者は古典音楽
の歴史の中で、バロックとロマン派に挟まれた時代の音楽であり、18世紀(1730年頃)から19世紀初頭(1810年頃)にかけて、ソナタ形式や四楽章の交響曲の形式が定まった時代で、ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェンなどが主たる担い手の作曲家である。   (文責:天野 肇)
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