特集 私の忘れえぬ言葉(1)

   10月会報「わたしの」
         7月会報忘れ得ぬ言葉1
                             (Ⅱ)



「今も心の内にある大切な言葉 」       関塚 恵子         
11月会報(忘れえぬ言葉1)

 吉川英治さんは私のすきな作家の一人です。「我以外皆教師なり」と言う言葉を残しています。私も同様、似たような気持があります。その時々によって、恩師、先輩、同輩、後輩の人達の言葉に、どれだけ助けられ、又、励まされてきたことでしょう!
 
息子たちが小学生中学年になった頃のことです。PTAの父母会でクラスの委員をした翌年、執行部の一人として書記をさせて頂くことになりました。計算に強いと自負していた私は、会計だったら良いのにと心の内で思いました。そしてまるで私の心を見透かすかのように、K会長は得意なことはよいのでは…不得意なことを得意にしてみてはの言葉に、頭が下がる思いでした。又、国分寺市P連の会合で、「今自分がどんな生き方をしているかが大切。そして継続することが…」のA会長の言葉に納得。今もそれらのことを心掛けるようにしています。今日迄生きてきて、本当に良き人達に恵まれ、出会えたことに感謝です。


「わたしの忘れ得ぬ言葉」              上原 祥孝  

                                    11月会報(忘れえぬ言葉2)

 振り返れば、昭和21年8月、父が殉職(女学校の教員)した為、私ども兄弟4人、祖母と母の女手で育てられた。その関係か、忘れ得ぬ言葉、二つ共、女性の言葉である。

その1. 退職後は音楽に親しむ事も多いが、思春期の頃、高知県須崎中学校の音楽の時間、40代の女性の重松先生が私の教科書のすれ破れを見て“傷んだ物”こそ大切にしてやらなくてはと、優しく諭された事、白いブラウスの上品で綺麗な先生が、山奥の檮原(ゆすはら)村初瀬という所へ転任された事を高校生の春、新聞で知った事でした。

その2. 高校を卒業し大手菓子メーカーに入社、地元勤務となり、或る日、市内の有力パチンコ店の交換景品受注に廻っていた二十歳過ぎの頃、営業職に自信が持てず悩んでいた折、景品発注の中年女性が“地のままの、まじめな固さでいい”と騒音の中で云ってくれた事が忘れられない。転勤で研鑚を重ねた営業職、管理職の人生は家族の支えもあり胸を張って生きている。 


「自由と規律」                          鶴野 哲夫              
11月会報(忘れえぬ言葉3)

 私は昭和一桁生まれの所謂戦中派の端くれである。敗戦前は軍国主義教育で鍛えられ、戦後はにわか自由主義、民主主義の時代に様変わりし中味を良く理解せずに高校を卒業し社会に出た。当時の風潮や行動は戦争・軍人・修身など旧制度は悪であり、自己主張・権利主張のみが大手を振っていたように思う。

 昭和26年10月転職、代官町にあった警視庁警察学校に警察官の卵として入校した。6ヶ月の教育期間は自由などとは縁遠い厳しい訓練とルールに拘束された団体生活である。在校中、諸先輩警察官から指導教育を受けたが、朝礼で訓示をされた警視 並木教頭の「自由と規律」の語句は未だに忘れられない。自由の意味を放縦とはき違えている若者が多い時代でもあり、自由には前提として守るべき規律があるとの趣旨を特に警察組織であるが故に話されたと思う。官民を問わず国家間も含め組織の行動にはルール(内規・規則・法律・条約etc.)があり、現在でも充分通用する正論と信じる。

「菊根分けあとは自分の土で咲け」          岡安 隆 

                                      11月会報(忘れえぬ言葉)
                
 入社5年目にお世話になった先輩が家業を継ぐことになり退社することになった。7月の会議の最後に挨拶をした。「吉川英治が最愛の娘が嫁ぐ朝に『菊根分けあとは自分の土で咲け』と一句詠んだ。私はこの会社で諸先輩から教わり、勉強させてもらってしっかりとした根ができました。これからは故郷の町で新しい人生を切り開いていきます。永きにわたりお世話になりました。」と話した。

 「菊根分け」は当時の結婚式で花嫁の父が贈る言葉の定番であった。父親がとつとつと話し、隣の母親が感極まって涙をぬぐっている、いつの時代でも親は子の幸せを願っている、そして新婦も涙ぐむ、ほほえましい光景です。先輩は吉川英治の句を引き合いに出して、感謝の言葉と将来の決意を述べた。その後、私が結婚式に列席した時は先輩の言葉を思い出し、新郎新婦、頑張れと心の中でエールを贈った。                    


「銀行の土台は腐っていませんでした。経営陣の一部に問題がありました」                        内山 晴信

11月会報(忘れえぬ言葉4)

 平成2年頃金融機関で不祥事発覚。私の勤務先も同様。翌年日本銀行(考査局)から「銀行以外に直系ノンバンクも調査対象とする」旨の通告あり。本部内で協議し「前代未聞乍ら、この際きちんと当局に説明しよう」との結論。所管外ではあるが私が説明を引き受け。

 個々の貸出先に関する各種資料を集め所定報告書に取り纏め(約2か月間)、案件すべて頭に入れ準備万端。平成3年7月朝9時過ぎから夜7時頃まで(時には9時)約1か月間、主席考査官に貸出残高の大きい先から順次500社まで説明。
 不正や不適切な融資案件は無く、「自分の融資・審査案件でもないが自身の問題として逃げずに対応する人物の存在」、「関連会社の役員・部長他が顧客から的確な資料集めを行う体制の存在」を見て、最終日に冒頭の言葉が出た。私としては、困難と思われることも完徹する自信をつけ、また誠意をもって対応すれば相手の信用・信頼感を得られると実感し現在に至る。



「歴史(れきし)は囈(げい)語(ご)に非(あら)ず警策(けいさく)にして次(じ)世(せい)の指針(ししん)たり」  
                                       木村 稔    
     
                                  11月会報(忘れえぬ言葉5)

 戦後、社会党を代表し黒田寿男・佐々木更三が2度毛沢東に謝罪した。毛は「日本軍の侵略に感謝する」幾度も話す皇軍なしに現政権は不可能と継いだ◆インド~東南アジア独立はこの戦争によるプラスの成果だと◆日露戦争大勝利を喧伝した軍の驕りが第二次大戦を誘引した◆帝政崩壊はレーニン革命蜂起で失意した皇帝による◆革命を後方支援した陸軍諜報部明石大佐の銃器供与に触れず、東郷・乃木を過大評価◆戦費穴埋めでアラスカを捨値3百万円で入手 漁夫の利に喜ぶ米国は講和を取り持ち 日本と革命勢力有利に条件提示 帝政破滅を露日米3国で追い込んだ史実は隠蔽 東郷・乃木神社を祀る。◆ブラジル五輪・聖火最終走者デリマがアテネ大会で五輪史上唯一クーベルタン章付き銅メダルを受賞した美談やTV観戦の小泉総理がデリマに面会 号泣した話は語られず閉幕◆学制改革で校舎無し机無しの新制校を避け大学付属に入学 教授的伊藤先生に常々教えられた言葉です。



「俺は寒くない、外へ出てみろ!」      松元 俊夫                 
11月会報(忘れえぬ言葉6)

 50年近く前に、ロンドンのホテルでコンシェルジュと喋っていて、「今日は寒そうですね、コートを着て行った方がよいかな」と言ったところ、「私は寒くない、外へ出てみてはどうですか」という返事。自分では「そうですね、雨も降りそうですから、コートをお持ちになった方がよいかもしれませんね」といった反応を期待していたのかもしれない。暑いか寒いか、美味いか不味いかなどは、個々人が感じることであるから、確かに彼の言うとおりであった。

 大袈裟に言えば、英国人と日本人の文化の違いの一面に触れたように感じたものである。言いふるされたことであるが、とかく日本人は、相手の気持を慮って曖昧な返事をしたり、周りの人の様子を窺ってから行動したりするのは今でも変らないと思う。以後、日本人はシャイであるなんてことは、私には通用しなくなって日々図々しさが増すばかりで、興味があればどこへでも出かけて行き、誰にでも声をかけてしまうわけである。
テレビの天気予報で「もう冬物でよいでしょう」とか、「折り畳み傘を持ってお出かけ下さい」などと聞いて、大きなお世話だと文句を言いながら・・・
 

「Persuade or Perish 」          小笠原 正文              

 一寸キザなタイトルで申し訳ないが、学生時代に読んだ「クリオの顔」の最初の部分に書かれていた言葉で、確か「説得せよ、さもなくば破滅あるのみ」と訳されていたと思う。著者のハーバート・ノーマンは外交官兼歴史学者であったが、1950年代にアメリカで吹き荒れたマッカーシー旋風(赤狩り)の犠牲となり、カイロで自殺した。その人の言葉だけに、この言葉を知った時は大きな衝撃を受けた。

 その後この言葉に匹敵するような事態に陥った経験もなく、人生の指針となった訳でも無いが時々思い出している。特に現役時代、話の通じ難い近隣の某国に駐在の折は商売のみならず、いろいろのことで折り合いが難しく、「破滅」とはいかなくてもここで「負けたら」とこの言葉を思い出しながら、一生懸命こちらの主張を試みたものである。


「実るほど頭を垂れる稲穂かな」       飯沼 直躬

                                 11月会報(忘れえぬ言葉7)

 私が中学生のころ今は亡きお袋が折に触れてこんな箴言を教えてくれた。「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな、と昔から言い伝えられてきたが人間も同じだ、稲穂は人生の生き写しだ。お前もこの稲穂のような実りある人生を送りなさい。そのためにはこの言葉の意味するところをしっかり理解しなさい。」

 しかし、当時の私はこんな言葉の意味など分かるはずもなく、単に聞き流していた。そして、サラリーマン生活の最中に時々思い出してはいたものの、その場の応対に忙しく、ゆっくり考えることもなかった。
今こうして職から解放され、静かな生活を送る身になると、なぜか昔のお袋の言葉を思い出す。
また、その意味も多少分かりかけて来たものの、なかなか諺のようにはいかないことを痛感しています。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    2回にわたり掲載した特集「わたしの忘れ得ぬ言葉」、お楽しみいただけたでしょうか。
ご投稿くださった18名の方々に、心からお礼申し上げます。
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