学習会の要旨

8月会報白井先生1

◎ 7月23日(土) 学習会の要旨


 日 時:7月23日(土) 13:30~16:30                             
 場 所:東京経済大学 2号館 B301教室  
 テーマ:映画を読む会―「シロタ家の20世紀」                                          
 講 師:白井 堯(たか)子 先生
       (慶應義塾福沢研究センター客員研究員)
 出席者:192名(会員:男性115名、女性:62名、
          非会員:男性7名、女性8名)


【Ⅰ】映画概要

「シロタ家の20世紀」(2008年キエフ国際ドキュメンタリー映画祭審査員大賞受賞作)
監督・脚本: 藤原智子
製作: レオ・シロタ製作委員会 大和史明
企画: 藤原智子 富田玲子 白井堯子
撮影: 海老根務 宮内一徳
編集: 田中啓
出演: ベアテ・シロタ・ゴードン   アリーヌ・カラッソ  他

2005年パリ日本文化会館で上映されたドキュメンタリー映画「ベアテの贈りもの」で紹介され、日本国憲法に男女平等を書き加えた女性として知られるベアテ・シロタ・ゴードンさんだが、その家族の歴史には戦争に翻弄され続けた波乱と悲劇に満ちた物語があった。そんなロシア出身のユダヤ人一家、シロタ家が辿った20世紀の光と影を描くとともに、シロタ家の人々が願う平和の尊さを改めて見つめ直すドキュメンタリーがこの「シロタ家の20世紀」である。


【Ⅱ】白井先生による映画紹介


この映画は、ユダヤ人の高名なピアニスト、レオ・シロタとその一家を描いたドキュメンタリー作品です。20世紀初頭のユダヤ人差別、迫害を受けた悲劇と平和を強く希求する姿を描いた作品です。全篇を流れるピアノ曲はほとんどレオ・シロタの演奏です。バックグラウンドミュージックではなく、演奏も作品の一部として聴いていただきたい。

また、こうした悲劇を通じて改めて平和の大切さを考えていただくきっかけにしていただければ幸いです。多くの人名が出てきますので、予め主な登場人物について簡単に紹介しておきます。

レオ・シロタ:ウクライナ出身のユダヤ人で、日本ともきわめて関係が深い高名なピアニスト。
ベアテ・シロタ・ゴードン:レオの娘で日本国憲法草案作成に携わった。
ピエール:レオの弟、パリで音楽プロデューサーとして名を成した。アウシュヴィッツに送られる。
ヴィクトル:レオの兄、ポーランドで指揮者として活躍していたが、ワルシャワで政治犯として収監
     され以後消息不明。
イゴール:ヴィクトルの息子。ポーランド義勇軍としてノルマンディ上陸作戦に参加するも戦死。
アリーヌ・カラッソ:ピエールの孫娘。この映画の語り部として登場。

姉=姉=兄 ヴィクトル(政治犯)=レオ・シロタ=弟 ピエール(アウシュヴィッツ)
       |         |        |
      イゴール(戦死)   ベアテ       ティナ
   (ノルマンディ上陸作戦)(新憲法)      |
                        アリーヌ(パリ在)


【Ⅲ】あらすじ


日本国憲法に男女平等の条文(24条)を書いたベアテ・シロタ・ゴードンの祖父母シロタ家は、ロシア領だったウクライナのカミェニェツ・ポドルスキの出身であった。そこには、かつて多くのユダヤ人が住んでいたが、度重なるユダヤ人迫害(ポグロム)と第2次世界大戦中のホロコーストによって、今はかつての8割がいなくなった(ディアスポラ)と言われている。衣料商をしていたレオの両親は、19世紀末、ユダヤ人迫害を逃れキエフに移った。そこで5人の子供たちは、皆音楽家を志し、史料館に残された100年以上前の音楽学校の学籍簿は、彼らが非常に優秀だったことを物語っている。

彼らは、卒業後ワルシャワで、ウイーンで、パリでとそれぞれ大都会で目覚ましい活躍をした。
特にベアテの父レオは、ブゾーニに認められヨーロッパの楽壇で世界的ピアニストとして大活躍、「リストの再来」と言われた。山田耕筰に請われて日本で演奏会を開いた翌年1929年からは日本で17年間ピアニストの育成と演奏活動を行い、日本の楽壇に貢献している。後の大家園田高弘、藤田晴子等を育成した。

レオの弟のピエールは、サンクトペテルブルクの音楽院で学んだが、舞台に立つと上がってしまう性格だったので, ピアニストを断念。音楽プロデユーサーとしてパリで活躍。近代音楽とロシアのバレエやオペラをヨーロッパに紹介したり、フランスの俳優モーリス・シュヴァリエやシャンソン歌手ミスタンゲットなど、有名な芸術家のマネージャーを務め名声を得た。

      8月会報シロタ家の⒛世紀1
                  8月会報シロタ家20世紀2
                              8月会報シロタ家の⒛世紀2

だがヨーロッパに残ったシロタ一族は、ナチの台頭と第2次世界大戦で、悲劇的な最期を遂げる。ピエールはアウシュヴィッツに連行され、命を落とす。長兄ヴィクトルはポーランドで指揮者として活躍していたが、1942年ワルシャワで政治犯として収監され、以後行方不明となった。その息子イゴールはポーランドの義勇軍として連合国とともに戦ったが、ノルマンディ上陸作戦で勝利を目前に戦死。第2次大戦中日本にいたレオは、軽井沢に軟禁され、官憲の目が光る中で不自由な生活を余儀なくされた。
                           
しかし戦時中アメリカに留学し、戦後GHQのメンバーとして来日して両親と再会したベアテは、日本の新憲法の草案作成に関わり、男女平等の条文(第24条)を書いた。そして、父のレオは、戦後間もなく日本を去りアメリカのセントルイス音楽院の教授となる。1963年再び懐かしい日本で演奏会を催した。そして1965年79歳で他界した。

ベアテは、晩年、日本女性の地位向上と新憲法に込められた世界平和への理念を訴えるべく、毎年のように来日。その間には、父レオの高弟で幼馴染みのピアニスト園田高弘の記念コンサートも聞き、旧交を温める。
そしてベアテの願いを受け継ぐかのように、スペインのカナリア諸島、グラン・カナリアのテルデ市にあるヒロシマ・ナガサキ広場には、スペイン語で書かれた日本国憲法9条全文の碑が掲げられ、市長は「あの条文は世界の希望です」と語る。
(ベアテは、2012年の暮に89歳で他界。)

【Ⅳ】白井先生による解説


映画をご覧いただいた方はそれぞれの感動、安らぎ、思いなどを感じていらっしゃるので、その皆様の気持ちを傷つけないように映画終了直後に私がお話することは難しいのですが、この機会に映画に関してお話しさせていただきます。
私は小さい頃藤田晴子先生にピアノを習いました(レオの孫弟子です)。藤田先生はレオの高弟でピアニストでありながら、後に東大法学部の女子1回生として学び、国会図書館に勤務いたしました。2001年に亡くなりましたが、そのご遺産を文化事業に使ってほしいとの遺志がおありで、我々弟子たちが考えあぐねているちょうどその時に、藤原智子さん(この映画の監督)と出会い、この映画に携わることになりました。
「シロタ家の20世紀」は、戦争と迫害の20世紀の縮図であったシロタ家を、次の五つの物語で描いています。

1.人種差別

・シロタ家の出身地カミェニェツ・ポドルスキには18世紀半ばからユダヤ人が増え、19世紀半ばには多く
 のユダヤ人がこの地からア メリカのニューヨークへ移る。
 だが第2次世界大戦前まではこの地の人口の40%がユダヤ人。ロシア帝国はユダヤ人の居住地にも教育
 にも差別。ヒトラーはカミェニェツ・ポドルスキで「最終的解決」として1941年8月の2日間で10
 万人のユダヤ人を殺害した。
・シロタ家の三男ピエールはアウシュヴィッツで死去。
・次男レオの娘ベアテは、日本のドイツ人学校で差別を受けアメリカ人学校へ移る。
・ジューイッシュ・マザーとは、日本でいう「教育ママ」だが、地位や財産をいくら持っていても迫害を
 受ける宿命のユダヤ人の母親 は、子供に何か能力・技術を身に着けさせることに必死だった。レオの母
 もまさにそうだった。
8月会報レオ・シロタ2

2.音楽

・シロタ家の長兄ヴィクトルは指揮者、三男ピエールは音楽マネジャーになる。
・次男レオは世界的なピアニストになる。「ヨーロッパ最高のピアニスト」「真の芸術的ピアニスト」
 「魔王的ピアニスト」「リストの再来」と称賛された。
・レオはハルビンで出会った山田耕筰の強い要請を受けて1928年43歳で来日し、同年11月15日の
 最初のリサイタルを開いたが、「日本で初めて本物のピアノの音が鳴り響いた日」として称賛された。
・レオは1929年一家を帯同して再来日。以後17年間演奏活動と教育活動(東京音楽学校・・現在の東京
 芸術大学)に専心。ナチスの台頭でヨーロッパは政情不安定、日本は平穏と思われた。
・「レオ・シロタが来日していなかったら日本のピアノ界・音楽界の成長は数十年遅れたであろう」。
 この映画の中に流れるピアノ演奏のほとんどがレオの演奏。
・レオ、外来の音楽家のサポート。「日本は音楽的に未開の国。しかしレオがいる国、希望の国」として
 シャリアピンやルービンシュタイン来日。

3.戦争
・日独伊三国軍事同盟成立(1941年9月)、第2次世界大戦勃発。
・長男ヴィクトルは、ナチス・ドイツ占領下のワルシャワで政治犯収容所に収監され、消息を絶つ(1942
 年)。
・ヴィクトルの息子イゴールは、ポーランド軍として、ノルマンディ作戦に参戦(1944年8月20日戦死)
・三男ピエールもアウシュヴィッツで死去(1944年)。
・次男レオは妻と共に、1944年敵性外国人として軽井沢で憲兵が見張るなか軟禁され、寒さと飢えに苦し
 む。また、日本人にピアノを教えることは禁じられた。ある日、食べ物に困ったレオがあるお百姓を訪
 ねる。お百姓はしげしげとレオの顔を見て部屋に招き入れる。そこにレオの東京での演奏会のポスター
 が貼ってあった。そのお百姓はたまたま上京して日比谷公会堂に入ってピアノの演奏を聴き、感動して
 壁に貼ってあったポスターを譲ってもらった。以後レオはこのお百姓に大変助けてもらったという。
8月会報日本国憲法1

4.フェミニズム
・レオの娘ベアテはGHQ(連合国軍総司令部)の一員として日本国憲法の草案作りに携わる(人権の条
 項)。
・憲法第24条、即ち、家庭生活における個人の尊厳と両性の本質的平等を定めた条文の草案作り。
 ①婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力
 により、維持されなければならない。
 ②配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関して
 は、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

・ベアテは日本にいる頃お手伝いさんから、日本の女性の地位が極めて低いこと(お妾さんのこと等)を
 聞いていたので、特別の感情を持ち男女平等を憲法に織り込んだ。ちなみにいまだ米国憲法にもこの条
 項はない。
・草案作りに携わったことは当時極秘にするよう指示されたので、1990年に公表されるまでわからなかっ
 た。ベアテは最後の生き証人としてそのことを公表すると同時に、女性の地位向上、平和を希求してい
 く活動を続けた。

5.平和
・ベアテの言葉「日本国憲法9条は世界のモデル」
 憲法第9条「戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認」 
 ①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による
 威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 ②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認め
 ない。
               8月会報憲法9条カナリア諸島

・スペインのフランコ政権下において大きな弾圧を体験したカナリヤ諸島のグラン・カナリアにあるテル
 デ市のヒロシマ・ナガサキ広場には、スペイン語で書かれた日本国憲法9条全文の碑が掲げられている。
 スペインがNATOに加盟する際、大反対運動が起きて日本国憲法に学ぼうということを契機に碑が建て
 られた。このことは映画が完成した後知るところとなり、あわてて取材し、無理やりこの場面を挿入し
 た。
・20世紀は迫害、差別、戦争の歴史だった。シロタ家はまさに20世紀の縮図のような歴史をたどってき
 た。皆様それぞれの方が味わった悲劇とシロタ家の悲劇と重ね合わせ、平和がいかに大切か、これから
 どうあるべきか、どのように生きていくべきかを考えていただきたい。この映画がそうしたきっかけに
 なることを切に願っている。
8月会報白井先生風景2
                            8月会報平和の鳩1

最後に質疑応答の中で、中米コスタリカも日本国同様憲法で常備軍の廃止をうたっていることも披露された。白井先生から「9条を北極星に例えたご発言は大変参考になった」とのコメントがあった。
また、2012年に亡くなったベアテさんの遺骨の一部が、富士山が良く見える霊園に安置されているという紹介があった。ベアテさんは亡くなる直前まで、日本を愛し、平和の大切さを強く訴えていたという。
                                     (文責:山田 健)

学習会の要旨

8月会芳賀先生1

◎ 7月9日(土) 学習会の要旨 
 
 日 時:7月9日(土) 13:30~15:30                             
 場 所:東京経済大学 2号館 B301教室  
 テーマ:「古地図で見る国分寺と東京経済大学キャンパス
       ――地形と水環境を中心に」                                          
 講 師:芳賀 啓(ひらく) 先生
      (東京経済大学客員教授、日本国際地図学会評議員)
 出席者:146名(会員:男性97名、女性:39名、
        非会員:男性6名、女性4名)

【講演要旨】


地図と古地図

数年前、「地図男」と言う本が出た時は、自分のことか?と少しどきっとしたが、永年都市の地図と地形を研究している。2008年神田神保町を歩く「ぶらタモリ」への出演を要請されたが、NHKの都合で急にロバート・キャンベル氏(アメリカ出身の日本文学者で東大教授)に交代させられたこともある。テレビでは三井文庫に保管された大量の江戸古地図を紹介したこともある。―ここで自著「江戸の崖、東京の崖―講談社」、「江戸東京地形の謎―二見書房」等を聴講者の回覧に廻す。―

「地図に残る仕事」と言うテレビのキャッチコピーを持つ大成建設(旧大倉土木)と、東京経済大学(旧大倉商業)は共に大倉喜八郎によって創設された組織で、大正6年の地図にある。

赤坂葵町の大倉商業学校(明治33年創設)や大倉邸が1945年の戦災で焼失したため、学校は翌年国分寺にあった大倉系の南部中央工業(銃砲会社)と地続きの地に移転、1949年に大学に昇格して新たに東京経済大学となり現在に至る。大倉財閥の事業は幕末から明治初年にかけての鉄砲などの武器商としての成功にあった。

古地図とは一般には江戸時代の地図を指すが、自分は新しい地図以外は全て古地図といっている。古地図にも本物と偽物があり、太田道灌時代の絵図に当時未だ無かった神田川などが載っているような偽物も多い。また、偽物とまで言わずとも、推定による不確かな地図も散見される。
例えば、国分寺附近の地図でも甲武鉄道の線路だけを削除して、北口に駅前集落をそのままにし、初版図らしくしている偽装商品が古地図として売られている。

地図と地形図

現在の地図によると、東京経済大学が小金井市との境、国分寺市の東端にあることが判る。明治10年代の2万分の1の古地図で標高74.95mの地点が現在の東経大の場所である。戦争末期の陸地測量部の作った3千分の1の極秘地図には、今の東経大の南に国分寺崖線(国分寺cliff-line)が極めて明瞭に示されている。

           8月会報くらほね坂

新しい地図は建物に囲まれていて地形が判り難いが、古い地図は建物がまばらで等高線などから地形を読み取ることが出来る。東経大の東側の道路の坂下に「くらぼね坂」の標識があるが、坂に名前があるのは日本だけで、名前のある坂は江戸時代以前からの道が多く、また隣村との境界線であることが多い。くらぼね坂は国分寺村と貫井村との境界線である。勾配8%とあるのは、水平に100m行った先が平均で垂直に8m高くなることを意味する。

                            8月会報国分寺崖線1

崖とハケは混同されているが、崖の一部が崖下の湧水で浸食されて後退し、瓢箪型にえぐれた部分がハケである。新次郎池(北沢新次郎学長の名にちなむ)や真姿の池、貫井神社などがまさにハケである。海や川の水の流れは時代と共に自然の力で変るもので、それがコンクリートなどで固定されるのは近々50~100年来のことである。地形図で重要なのは傾斜を表す等高線である。"map it up"と言う英語は、“図にして考えろ”との意味で、図に描けば物事が良く見えてくるとの意味である。

童話作家浜田広介の童話で、「狛犬の目が赤くなったら島は沈む」との僧の予言を悪用した海賊が、狛犬の目を赤く塗って島民を追い払い、その留守宅を荒らし回って酒盛りをしていた時、津波で島は沈んでしまったとの阿波の昔話があるが、この島が「おかめ島」と呼ばれたのは、島民が島の形がおかめに似ていると想像したからで、実際には真上からみることは出来なかった筈。明治10年、島津製作所の創業者が気球で空中に上がるまでは、日本では誰も空から地形を見たものはいない。にもかかわらず伊能忠敬以来地図は作られて来た。人間には空想で頭の中に地図を思い描く能力がある。地図はあらゆる場所を真上から垂直視線で見るが、絵図は真横から水平視線で見たものである。

与謝蕪村の”春の水山なき国を流れけり”の句を、正岡子規は「山なき国」などある筈がないと絵画的観念で批判したのに対して、内藤鳴雪は地図的観念ではありうると擁護して論争になった。日本列島は細長い島国で山脈が走っている。どこでも川の上流を見れば必ず山が見える。

最古の江戸全図

三代将軍家光の時代の寛永年間に最も古い精密な江戸全図が作られた。2012年、この地図が大分県の臼杵市で発見されたことが東京新聞で報じられ、早速行って3m×3mの複製を作ることができた。この地図は傾斜地が緑色で示された地形図で、中野の三重塔、神田川、淀橋、柏木、新宿追分、代々木、幡ヶ谷、青山通り、渋谷、宮益坂、高田馬場、早稲田など江戸の全図が詳細に示されている。

              8月会報武蔵国古地図1

国分寺の簡単な年表と地形

西暦  760年 武蔵国分寺建立
    1603年 徳川幕府開府
    1654年 玉川上水通水
    1889年 近隣9か村が合併して国分寺村となり、甲武鉄道が開通、国分寺停車場が出来る
    1940年 町制施行
    1942年 日立中央研究所設立     
    1944年 小林理研(リオン)設立   
    1946年 大倉経済専門学校国分寺に移転
    1964年 市政施行

さて、江戸時代の国分寺は江戸ではなく、武蔵国多摩郡であり、武蔵国の国府は府中にあった。「江戸」の名称は古いがそれはあくまでも俗称であり、行政地域の正式な名称ではなかった。江戸の中心は御府内と言われ、それは江戸城の外堀を中心とした地域だった。
江戸時代初期、正保の武蔵国絵図には、国分寺、恋ヶ窪、貫井などの村や、街道筋の一里塚、国分寺崖線や狭山丘陵を示す山などが描かれていて、等高線など無い時代でも高低差を的確に表現している。

伊能図と国絵図の違い

伊能図は天体測量と歩測とで作られたが、その武蔵野の地図には、江戸城の築城に必要な石灰を運んだ青梅街道が描かれていない。その理由は、歩いて測量した場所以外は描かれていないのである。伊能図は基本的には海岸線に重点を置き、内陸は歩いて測量した輪郭だけを描いた地図であった。他方、国絵図は全国の村々をくまなく描いている。国分寺市史に掲載されている江戸時代の村絵図には、この辺りの田、畠、野川やその分水なども描かれている。

人間と水

近代水道が普及する以前、人間の住まいは水場から離れることが出来なかった。それ故国分寺村の起源も崖線に沿った元町からスタートしており、深井戸を掘る技術の無かった時代は水の得られない台地の上には住めなかった。玉川上水が引かれた後も、水を自由に使えない台地には多くのひとが住まなかった。江戸時代の終わり頃からようやく上総掘りという深井戸掘削の技術が開発されたが、それも高価で普及せず、近代水道が引かれるまでは水源の無い場所には人は住めなかった。水道が普及する以前、国分寺に移転して来た東京経済大学の水は、今でも全て単独の地下水源であり、災害時には貴重である。

(ここで1906年―明治39年―の2万分の1の国分寺の地図を、3本の等高線と野川の流れ、府中街道や国分寺街道を含む4種類の道路などを色塗りして、国分寺崖線で特徴づけられた町の地形や田、畑、林、甲武鉄道を通すために掘り下げたり盛り土した姿を実感し、地図・地形図の読み方を学ぶ作業を聴講者全員で行った。同じような作業を1999年の1万分の1の地図でも行った。)

何処までが海だったか?

縄文時代に海だった場所は標高がせいぜい2~3mまでの場所で、60~80mの国分寺は勿論、新宿あたりも海ではなかった。

              8月会報国分寺崖線と湧き水1

国分寺崖線
 
1952年に地質学者(福田 理と羽鳥謙三)が命名した学術用語で、立川の砂川から世田谷の成城まで約20kmの10~20mの標高差のある崖が、武蔵野台地を武蔵野面と立川面に分けている。崖線の形成は2万年前の氷河期と考えられる。
                                              
ライフライン

災害時に貰える飲用水は一人2リットルだが生活用水としては最少5リットルは必要。現在の水道はコンピューター制御で電気が止まれば全て止まってしまい、首都圏3500万人分の水は全国の給水車を集めても賄えない。地震災害を考えると水は井戸、便所は汲み取り、燃料はプロパンガスが理想的で、井戸程貴重なものはない。国分寺は人口12万人だが、手漕ぎ井戸が15基しかない。但し、東京経済大学は地下250mから電動ポンプで汲み上げた地下水で全て賄っている。併しそれとは別に、創立120周年事業として手漕ぎ井戸の掘削を提言している。

      8月会報芳賀先生5
                         8月会報芳賀先生地図

(質疑応答)

Q1 国分寺村と恋ヶ窪村とどちらが古いか?
A1 恋ヶ窪の方が古いと思われる。

Q2 国分寺北口の第2小学校の裏手は川の浸食によるハケか?            
A2 国分寺駅の北口一帯には谷地形が入りこんでいるが、ハケではない。ドンキホーテの裏にも窪地があ
  る。窪地は水による浸食地形で、すり鉢地形という人がいるが、浸食の場合どこかに必ず流出口があ
  るから、それは間違い。

Q3 国分寺市は新田開発で出来た村か?
A3 元町の古い村と、新田開発で人が住みついた部分との二つにより出来た町である。

Q4  本多新田の水は玉川上水から引いた水か?
A4 その通りだが、水田ではなく畑地である。               
                                 (文責:天野 肇)



学習会の要旨

7月会報余部先生3

◎6月25日(土)学習会の要旨
 

日 時:6月25日(土) 13:30~15:30                              
場 所:東京経済大学 2号館 B301教室  
テーマ:「イスラームの歴史から今日を読む」                                          
講 師:余部(あまべ) 福三 先生(東京経済大学経営学部教授)
出席者:195名(会員:男性142名、女性:49名
          非会員:男性3名、女性1名)

【講演要旨】

(はじめに)

中東におけるイスラームはキリスト教・ユダヤ教と切り離せない関係にある。本日のテーマは大変なテーマなのでなるべく分かり易く説明したいが、難解なのは事実である。世界の歴史や現在の世界情勢は日本人には分かりにくい。中東とヨーロッパとの関係も分かりにくいが、簡単に言うと、ヨーロッパは中東の周辺地域として始まった。本日は三つの大きな項目に分けてお話する。
                        
                        7月中東地図2

1.中東とはどういう地域か 歴史的に

中東は、古代文明の発祥地エジプト・イラクを中心として、西はシリア、イラン、トルコ、ギリシアなど西地中海から東地中海のシチリア、チュニジア、アルジェリア、イベリア半島へと拡大、さらに東は中央アジアのウズベキスタン、アフガニスタンにも拡大していった。次に中東の特徴を箇条書きにして下記に述べる。

①肥沃な大農業生産地 

エジプト、イラクは、農業生産性が特に高く、最大で播種量の60倍の生産をあげることができたし、他地域でも生産性が比較的に高い地域が多い。そのため、世界人口に占める割合も古代では非常に高かった。だから都市化が進み、文明が発展した。その後、インド・中国などが発展した結果、中東の人口は相対的に低下した。しかし、現在でも中東は5~6億人と中国・インドの半分程度の人口をもっているし、耕地拡大の余地も残る。

②西洋文明の発祥地・中核地

中東の文明は、イラク、エジプトを中心に中東の周辺地域である小アジア、ギリシア、イタリア半島、シチリア、チュニジア、イランなどへ文明は波及していった。中東は肥沃な農業地域の周辺部に、生産性が非常に低い多くの山岳民、遊牧民を内包する。彼らは日常では結束しないが、事が起きると、先祖が共通することを理由に団結する部族・氏族民である。かれらによる攻撃、殺戮を避けるため、生産性が高い人々は、自由の一部を棄て、一か所に集住し、城壁に囲まれた都市を建設し、城壁外の農地を耕作する。これが都市国家であり、中国、インド、メキシコその他世界に共通した現象である。
7月会報中東都市3

都市国家間の闘争の結果、または異なる部族・氏族民がカリスマ的指導者によって血縁を超えて大きく結束した結果、多くの都市を従える領域国家が現れ、さらに中東全体を統合する帝国が成立する。領域国家・帝国などの大規模国家は官僚制・常備軍を必ず発達させてきた。また、都市の外の山岳民・遊牧民がカリスマ的指導者(異常なほどの能力や魅力をもち人々をひきつける指導者)の下に部族・氏族を越えて結束して大きな征服をなしとげた場合は、その指導者の死後、後継者にカリスマが継承されるか否かに、新しい国家の存続がかかってくる。たとえば、アラブ・イスラーム帝国は預言者ムハンマドというカリスマ的指導者の下で、アラビア半島の都市民、遊牧民、山岳民が結集したが、その死後もかれのカリスマが保存された結果、空前の征服をなしとげ、帝国も永くつづいた。

③統一国家の時代が非常に長いので、中東は一つの国家とも言える 

中東はアッシリアによる統一以来、アケメネス朝ペルシア帝国、アレクサンドロス大王国と統一がつづき、ついでローマ帝国とササン朝ペルシア帝国と東西に二分されたが、イスラーム教徒(ムスリム)となったアラブによる大征服で統合された。アラブ・イスラーム帝国は最初の民主政的な正統カリフ時代から、シリア中心のウマイヤ朝、イラク中心のアッバース朝へとしだいにカリフの指導力が強化されたが、10世紀には解体し、分裂の時代となった。しかし、イランとモロッコを除く中東の大半は16世紀初頭にはオスマン帝国により再統合され、第一次大戦までつづいた。したがって、中東の統合は中国の統合されていた時期よりも長く、中東は一つの国家とも言える。

④都市と周辺部族民(遊牧民・山岳農牧民)との対立 

中東の諸地域はどこも同様であるが、とくにイラクはもっとも古い時代からザグロス山脈の山岳民(イスラーム時代はクルド人、のちスンニー派になる)やアラビア半島北東部の遊牧民(ササン朝以後はアラブ遊牧民で近年は定着してシーア派の農民になった)の侵攻に苦しんできた。都市が繁栄した時期と部族民の侵攻で国家や都市が衰えた時期が交互に繰り返されてきた。サッダーム・フサイン政権後の現在は混乱期にあたる。現在でも部族民は都市や国家を憎む傾向をもつ。

⑤多神教から一神教へ 

世界どこでも古くは多神教であったが、中東で一神教が発展した。その太い流れはエジプト・アメンホテップ4世によるアテン神の宗教改革からアブラハムを「共通の祖」とするユダヤ教・キリスト教・イスラームへという流れである。もう一つの一神教の流れとして、ローマ末期に流行したシリアの太陽神崇拝があり、多くの皇帝が帰依した。

また、イランのゾロアスター教も善神と悪神の闘争に基づく二元論であり一神教に近い。死者の復活・最後の審判などの考え方もここからユダヤ教に入り、キリスト教、イスラームに継承された。キリスト教はイエスの神性、マリア崇拝など、部分的に多神教的要素を含むようになり、教勢拡大に役立った(アリウス派、ネストリウス派はこれを認めず)。また教義上の違いよりも、誰が頂点に立つかという政治問題で、キリスト教主流派はローマ大司教のカトリックとコンスタンティノープル大司教の東方正教に分裂し、イスラームは親アッバース朝のスンニー派(スンナ派)とアリー(ムハンマドのいとこで娘婿)の子孫を正統とするシーア派に分かれて争うようになった。

⑥文化の多様性から統合へ 

中東は元々各地固有の文化があったが、統一国家アッシリアの同化策が失敗した結果、次のアケメネス朝は多様性を許容した。アレクサンドロス大王以後の時代では、ギリシア語とギリシア文化を主体としつつ、各地の文化を取り入れたヘレニズム文化がアフガニスタンに至るまで中東全体で優勢となった。しかし、ササン朝はヘレニズム文化のうち学問などの部分を残しつつ、イラン文化を復興してゾロアスター教を奨励した。イスラーム文化はアラビア語で表現するものの、基本的にヘレニズム文化を中心として、イラン文化など中東各地の文化を吸収した。のち、ペルシア語で表現するイラン・イスラーム文化(インドにも波及)やスペインからモロッコ、アルジェリアに普及したアンダルス文化が発展した。

⑦自然科学・哲学の発達 

古代エジプト、イラクの測地術・幾何学がギリシアに伝わったが、ギリシアでは自然を考察するだけでなく、人間や政治・法をも理論的に考察した。ヘレニズム時代はエジプトのアレクサンドリアがギリシア語による数学・自然科学研究の中心となり、ギリシア哲学、ヘレニズムの科学・数学はことごとくアラビア語に翻訳されてムスリムによる自然科学・数学(三角法、代数学)・哲学へ発展した。アラビア語の数学・科学・哲学書は非常に大量にラテン語に訳されて、西欧に伝わった。西欧独自の発見はようやく17、18世紀の科学革命後のことである。

⑧商工業革命 

古代都市は地主と農民が市民であり、農業が経済の大半を占めた農民都市であるか、または首都などの政治都市であった。9世紀に世界で初めて、中東で他地域への移出を目指した農業・手工業の生産の拡大、商工業の急激な勃興が始まる。都市が職人・商人中心の商工業都市化し、この流れはイラクからたちまち中東全域に拡大した。絹織物、麻織物、陶磁器、真鍮製品、ガラス器、紙などが高度の技術で生産された。同様な発展は中国には宋代の11世紀に(草市)、西欧には12-13世紀(シャンパーニュ、フランドルの大市)へ伝播する。

⑨世界の一体化 

中東文化圏が拡大し、世界の大きい部分が中東化していった。古代のシルクロードは中国を中東・インドと結んでいたが、8世紀以後は衰えた。かわって隊商貿易ではロシア、スウェーデンやサハラ以南の西アフリカにムスリム商人が進出し、海の道では、ササン朝以来イラン人がインド洋に進出しはじめていたが、8世紀以後、アラブ、イラン人がダウ船に乗って大挙インド洋、南シナ海に進出し、高級品を求めた。それとともにイスラームが南インド、東アフリカ、東南アジア、中央アジア、ロシア、西アフリカなどに普及し、中国の港にもムスリムの居留地が成立した。北方ユーラシア草原のトルコ系遊牧民までもイスラームに改宗し、オスマン帝国やムガル帝国(インド)などを建国した。

⑩中東の縮小 

発展途上の西欧による十字軍派遣が始まり、スペイン、シチリア、シリア海岸(これは失敗)が征服された。
                                7月会報十字軍1
⑪近代西欧帝国主義

 西欧諸国がオスマン帝国、カージャール朝(イラン)、アラウィー朝(モロッコ)を従属国化する。ムスリムに西欧に対する怨念が生じる。これが現在のテロなどの遠因の一つ。


2.宗教としてのイスラーム

①イスラームの起源 

ローマ末期・ササン朝時代に中東の人々は急速にキリスト教・ユダヤ教に改宗した。エジプト、イラク、シリア、チュニジアはキリスト教の中心地になり、初期の高名な僧もほとんどこの地域出身である。キリスト教・ユダヤ教は中東の辺境にあたるアラビア半島西部にも普及し、メッカやメディーナというオアシス都市部でも、多神教の習俗を残しながら一神教的な理解がかなり一般化した。この中でメッカの商人ムハンマドは神や宗教は一つと理解し、神がときどき預言者(使者)を人々に派遣してメッセージを伝えると考えた。したがって、モーセが伝えた『旧約モーセ5書(トーラー)』やダヴィデ王の『詩編』、イエスが伝えた『福音書』、自らの『クルアーン』も同じ内容のはず。その教えも、過度の自己愛を排して神に感謝すること(礼拝)や、恵まれない人への温かい思いやりと援助(喜捨)、死者の復活と最後の審判が中心であり、キリスト教・ユダヤ教と共通する部分が多い。偶像崇拝・利子・豚食の禁止なども同様である(のちローマ教会では利子容認)。

ムハンマドと信者はメッカ市民のクライシュ族の迫害からメディーナに逃れ、メッカと戦争状態になった。この移住はヒジュラと呼ばれ、622年がイスラーム暦元年とされる。このクライシュ族の移住者がムハージルーン、かれらを援助したメディーナ市民がアンサールとよばれる。実際の戦闘はごく少なく、おもに外交(アラブ遊牧民諸部族を味方につける)でクライシュ族に勝利し、メッカを無血で降伏させた。この戦争中、メディーナに多いユダヤ教徒はムハンマドが指導する都市国家設立に参加したが、しだいにメッカと通じていると見られ、付近のオアシスに追放された。
7月会報メッカの広場2

ムハンマドはこのユダヤ教徒との対立を通じ、自らの宗教のある程度の独自性を理解し、これをイスラーム、信徒をムスリムと命名した。それでも、3宗教その他の信徒は啓典の民とされ、基本的に姉妹宗教と理解された。一方、ユダヤ教と差別化するため、アラブの伝統にも配慮し、メッカのカァバ神殿の方向へ礼拝すること、カァバへの巡礼(ハッジ)を義務化した。断食もユダヤ教の贖罪の日に替えて、ラマダーン月に定められた。

②イスラームの完成(古典イスラーム)

ムハンマドの死後、後継者(カリフ)の指導下に結束したアラブ・ムスリムが南フランスからパキスタンに至る空前の大帝国を建設した。政体は、最初、メディーナを中心にカリフ選挙制と有力信徒の合議による民主政であったが、ムスリムの地域間利害対立から2度の内乱が起こり、シリア中心のウマイヤ朝、イラク中心のアッバース朝へと変化した。その結果、カリフ世襲制と、官僚制と常備軍に基づくカリフ専制へと移行し、ローマ帝国末期の体制に近づいていった。

              7月会報アルハンブラ宮殿1

ウマイヤ朝後期からアッバース朝初期にかけてイスラームは一応、完成した。イスラームが類似のキリスト教と一番異なる点は、キリスト教は信じることが重要で、細かく教義を決めようとするのに対し、イスラームは信じることが神・天使・啓典・預言者・来世と少なく、その内容が比較的常識的で受け入れやすいことである。逆に、イスラームは外面的な行為に注目し、法を重視し、皆が同じ儀礼(礼拝・断食・喜捨・巡礼・信仰の宣言)を行うことを定める。ジハード(日常の内面的努力、侵攻されたときの防衛努力)は5つの重要な義務5行には含まれていない。

またイスラーム法(シャリーア)や信仰内容はカリフや政府に解釈権がなく、ウラマーとよばれる民間のイスラーム学者(ウラマー)が解釈権をもつ。その意味でイスラームは政教分離といえる。

法は、はじめ古代の法慣行やローマ法・ペルシア法に基づき、各地で異なっていたが、このような慣行重視(現状追認)、学者の合理的解釈に対する反発がアッバース朝期に興り、極力、信頼できない理性に基づくのではなく、クルアーンや、神の意志を受けているはずのムハンマドのことばや行為(慣行=スンナ)に基づくべきとする人々が台頭した。このスンナはハディースとよばれる伝承に伝えられているので、これを支持する人々を伝承主義者という。結局、両派は歩み寄り、法学は伝承重視という建前と学者の理性容認が組み合わされた4学派が現在まで残っている。学者の理性も、個人的意見より、学者の意見の一致(イジュマー)または多数意見が重視された。4学派のうち不寛容なハンバル派は理性を信用せず、18世紀にアラビア半島でワッハーブ派へと転身し、現在の「過激派」の思想的基盤を提供している。

法学でも実際には合理主義が優越したが、アリストテレスに代表される合理主義と信仰とを調和させるべく、ファーラービー、イブン・シーナー、イブン・ルシュドら天才的な哲学者が輩出し、ラテン語に訳されてカトリックのスコラ哲学へとつながっている。数学や自然科学では、フワーリズミーやビールーニーらが、自然現象は観察と実験に基づき数学的に証明する必要を説き、社会構造や社会現象では、イブン・ハルドゥーンが政治経済社会の変化のメカニズムを歴史に基づいて理論化した。

③神秘主義(スーフィズム)の流行 

過度の合理主義や法の形式主義への反発から、感覚的、直感的に神を認識しようとする神秘主義が勃興した。自我意識を滅却すれば、宇宙の万物は神も含め一体になるとするもので(その境地がファナー)、民衆の強い支持を獲得した。合理主義の立場からウラマーははじめ疑問視したが、大学者ガッザーリーの努力で容認するに至った。民衆が大量に弟子入りし、有力な神秘主義者(スーフィー)が教団を組織するようになったし、その死後も聖墓への巡礼がさかんになり、願い事をかけるようになった。
神秘主義のあまりの行き過ぎに、とくにヒンドゥー教との混淆が進んでいたインドでイスラーム改革運動が、ムガル帝国下でおこり、過激な神秘主義を排して合理的思考を重視し、イスラームを純化しようとした。この運動はメッカ巡礼を通じて中東全土、さらにその周辺部にも普及していった。

④イスラーム復興運動 

19世紀末から世俗化、西欧への従属に対抗し、西欧文化を受容しつつイスラームを合理的に再解釈することによって、「腐敗した」と見た伝統イスラームを大改革し、現代の課題に対応しようとした。その根底には西欧帝国主義からの防衛が大きな課題としてあった。政治的行動的なアフガーニー、近代的クルアーン解釈と教育に専念したムハンマド・アブドゥフを経て、エジプトでムスリム同胞団が、復興運動を知識人の枠内から大衆組織化することに成功し、とくに福祉活動に尽力した。パレスティナのガザ地区を支配しているハマースは、ムスリム同胞団の支部から始まった。穏健なムスリム同胞団とは一線を画して、占領国イスラエルへの闘争を行っていたが、現在は事実上イスラエル国家容認の姿勢をちらつかせている。       

17世紀以来シーア派化したイランでは、ウラマーが民衆指導の伝統をもち、1979年、左翼や親欧米派と結んで革命に成功した。革命の指導者として、法学者ホメイニーが広範な人々を結集し、民衆の支持がホメイニーに集まり、最高学者が最終的に法や政治行為の適法性を判断するイラン・イスラーム共和国が成立した。

7月会報モスク

3.現代の世界政治とイスラーム

①イスラエルとの闘争 

イスラエルは1967年以来イェルサレム・西岸・ガザを占領し、併合を画策している。西欧諸国はパレスティナ人に同情的に変化しているが、国際的な会議などの動きが出ると、イスラエルとアメリカに都合よくテロが起こり邪魔をする。アメリカの特権的支配層である軍産複合体、ネオコン(ユダヤ極右)はイスラエルのイェルサレム・西岸併合を認めさせようと躍起になっている。

②独裁政権とイスラーム運動の過激化・歪曲化 

知識人・大学成績優秀者から犯罪人・無知で暴力的な若者の運動に変化しつつある。根源はエジプトにあり、ソ連とのアフガニスタン戦争参加を通じて、中東全域に拡散し、現在は西欧移民の子孫の一部が過激化している。まずエジプト革命が堕落し、革命軍人が特権化して軍事独裁政権が長期化し、その中で旧特権層(地主・資本家)が復活した。アラブの春で民主主義政権ができたが、軍部クーデターで以前より強化された軍部独裁になった。すでに2代目サーダート大統領時代に絶望した大学成績優秀者が過激化し、「穏健すぎる」ムスリム同胞団を見捨て、独裁政権の武力転覆を図るようになった。

そのイデオロギーはサラフィー・ジハード主義とよばれ、初期イスラームの偉大な先達に学ぶことと、聖戦主義を組み合わせたものである。ジハードが一面的に聖戦と理解され、具体的には遠き敵(米英仏の十字軍)と近き敵(米英仏に従属する世俗主義独裁政権)に対する闘争になった。その中にはタクフィールといって、反宗教的または非宗教的な特権層出身の政治家・芸術家を一方的に棄教者と断定し、命をねらうことも含まれている。

エジプトで弾圧されたあと、一部の若者はアフガニスタン戦争に参加し、共産党政権を助けて侵攻したソ連軍に対し、ゲリラ(ムジャーヒディーン)側に立って戦った。この戦争を通じてサウディ出身のビン・ラーディンら、アラブ諸国からの義勇兵も過激化した。勝利後、帰国した者は近き敵に挑戦したが、ビン・ラーディンはエジプト人のザワーヒリーと結んでアル・カーイダを結成し、アメリカの意図に反してアメリカに挑戦した。

アメリカ軍はこれらのアラブ義勇兵やアル・カーイダを援助しただけでなく、イラク占領後には、イスラーム国創設にも事実上協力し(わざと見逃し)、秘密裏にイスラーム国に様々な援助をしている節がある。教養がなく、犯罪者出身で、これらの策謀に利用される「にわか仕立てのジハード主義」の若者は西欧出身者も含めて多い。もはや宗教とは無関係である。

③アメリカ特権層(軍産複合体、ネオコン)の策謀 

アメリカが中東を混乱させている。イスラエルを助けることが伝統的にアメリカ最大の外交目標であり、産業界・金融界は常に中規模戦争を続行して永続的金儲けを企んでいる。軍は、戦前の日本の関東軍同様、オバマ大統領の命令にも従わず、空爆をするふりだけであり、武器をヌスラ戦線やイスラーム国に供給し、ロシア軍による空爆を妨害しようとした。それでもオバマ大統領はきびしく軍産複合体と対立してきた。次期大統領候補では、トランプは選挙期間中、反軍産の態度をとり、そのため共和党主流に嫌われてきたが、ヒラリーはイスラエルべったりの軍産・ネオコン派である。

                       7月会報余部先生風景1

【質疑応答】

Q1:①イスラームの言葉の意味、定義は何か
   ②イスラーム文化とは何を指すのか

A1-①:イスラームはムハンマドが自ら名付けた言葉。神への服従=帰依=平和を意味する。定義といえば、イスラームは宗教そのものを表す。キリストはメシアを意味し、人を指すので、宗教名としてはキリスト教といわなければならないが、イスラームは教をつける必要は必ずしもない。

A1-②:イスラームに民族という考えはない。民族はヨーロッパ的な考え。フランスなどは本来多様な地域と人々の集まりだが、王政打倒後、フランスの統一を維持するためフランス語教育を徹底して一つの「民族」を創り出した。中東では各地で差異があり、伝統文化が根付いているのは事実である。大きく分けるとバグダードやエジプト中心の東方アラブ文化、スペイン中心のアンダルス文化(西方アラブ文化)、イラン・イスラーム文化、オスマン帝国のトルコ・イスラーム文化などに分かれる。ただ共通性が多く、イスラーム文化と一括することは合理的であろう。

Q2:シーア派とスンニー派は宗教的な違いは少ないと聞いたが、現実には対立が激化している、その原因は何か
A2:両派はムハンマドの後継者をめぐり分かれたもので、教義や儀礼の違いは少ない。あくまで現在の争いは政治的なものである。17~18世紀のサファヴィー朝期にイランがシーア派の国に変わった。イラク南部やレバノンもシーア派である。シリアの政権は山岳民のアラウィー派であり、本来イランのシーア派(12イマーム派)とは非常に違うが、現在は政治的にイランと同盟関係にある。またイランは優秀な人材が多く、周辺国を含めるとイランの勢力が強大化している事実があり、他国が政治的にこれに反発している。スンニー派は歴史的にも今でも、シーア派を仲間に取り込もうとする寛容性がある。

Q3:平和な時代になったと思ったらフランスでの大規模テロや難民問題の発生、先ほどのアメリカの残虐な話や総じて国連も無力化している。先生のお知恵で良い解決策はないものか。
A3:大変難しい問題。第3次中東戦争後、イスラエルによるイェルサレム・西岸占領は現在までつづいており、国際社会に併合を認めさせようとしている。国連が無力なのは5大国が拒否権をもつからで、国連としての積極的な指導は難しいだろう。オバマは反軍産複合体であるが、穏健派で中東和平にも積極的ではない。希望があるとすれば、西欧諸国が中東問題に対する理解を深め、従来のように同じヨーロッパ人としてイスラエルを支持するというのではなく、パレスティナに同情的になってきたこと。それに、トランプが大統領になり、公約通りネオコンと縁を切れれば世界情勢が変わるチャンスはあるが、そうでなければ難しいだろう。                       (文責:増田保武)

学習会の要旨

7月会報周先生1

◎6月11日(土)学習会の要旨                         
  

日 時:6月11日(土) 13:30~15:30                             
場 所:東京経済大学 2号館 B301教室  
テーマ:「中国経済の現状と課題」                                          
講 師:周 牧之 先生(東京経済大学経済学部教授)
出席者:214名(会員:男性165名、女性:43名
          非会員:男性4名、女性2名)

【講演要旨】

はじめに:メインプレーヤーの交代

ここ10数年間中国経済は世界経済を引っ張ってきた(IMF統計による「世界GDP成長率に対する各国・地域の寄与度」)。世界経済の成長に対する貢献度で、中国経済が2007年にアメリカより高くなり、2008〜2009年の金融危機の影響でアメリカをはじめ先進諸国の貢献度が低下する中で、中国経済の貢献度はトップであった。当時滞在していたアメリカでの中国経済に対する関心は非常に高く、中国に対する熱い視線を目の当たりにした。

1.メガロポリス時代の到来(15年前の予測)

(1)グローバルサプライチェーンと「世界の工場化」

IT革命は本来人間しか持たなかった頭脳を機械に持たせ、モジュール(製品を構成する部品あるいは装置)生産方式を可能にした。例えば車に必要なモジュールを何処でも作れる様にしていった。IT化された機械は、頭脳化している故、途上国での工業生産のハードルを低くした。労働者の賃金の高低を争うことになった。また、作られたモジュールを使って、途上国の何処でも製品の組み立てが可能になった。途上国の工業化をもたらした。

                    7月会報上海1

(2)中国でのメガロポリス化

①中国の改革開放とリンクして、地方の広大な用地に工場を建て工業化が進んだ。同時に中国国内に今迄なかった人口移動が起きた。中国は厳格な戸籍制度で人の移動は禁止されていたが、制度と矛盾して都市化がどんどん進んでいった。

②中国政府はこの都市化に対応するためにJICA(日本国際協力事業団)の協力を得てプロジェクトチーム(周牧之先生が責任者)を作り、2000年前後に最終的にレポートをまとめた。このレポートの真髄は、「中国の都市化は避けられない」であり、「メガロポリスも形成される」ことであった。メガロポリスは沢山の大中小都市が集まる都市空間であり、例としてアメリカ東海岸のワシントンからボストン、東海道メガロポリス(東京圏、名古屋圏、近畿圏)でこれは新幹線、高速道路で繋いでいる。

レポートは中国に長江デルタ(上海含む)、珠江デルタ(香港・マカオ・深圳・広州)、北京・天津・翼(河北)の三大メガロポリスが形成されることを予測し、当時多くのシンポジウムが開かれた。日本の専門家にも多数参加して頂いた。

(3)都市化と社会構造の変革

レポートはさらに都市社会にシフトするために4つの社会改革の目標を定めた。
 ①集約社会   ②流動化社会   ③市民社会   ④持続可能な社会  

(4)農業人口と都市人口の逆転


①2007年に都市人口が農業人口を上回る、世界の都市人口でも都市人口が50%増加。

②人口1000万人都市の増加:1970年:3都市(先進都市のみ)、2014年:29都市(発展途上国
23都市=内中国6)。世界経済は低迷期であったが中国は爆発的に成長し、世界経済を牽引した。
この変化はグローバルサプライチェーンがもたらした都市化の成果である。

③労働生産性は格段に向上し、中国が日本を抜いてGDPの第2位になった。
  ⇒『ニューズウイーク』2010年2月10日号カバーストーリー「ジャパン・アズ・ナンバースリー」と題した周牧之先生とボーゲル氏
 との対談で、中国がGDPで世界第2位になった衝撃を世界に伝えた。

2.中国の経済社会の現状を可視化する指標の開発

下記の要領で「中国都市総合発展指標」を作成中。裏付けとなるデータは十分に調査された客観性・信憑性のあるものを用いて、可視化に耐えられる様にしている。

(1)可視化対象地域
 中国上位295地級市及びそれ以上の都市の経済社会環境の総合指標。
 直轄市4(北京、天津、上海、重慶)及び地級市(日本の県に相当)291の合計295。

(2)指標の作り方
 マッキンゼー元社長の横山禎徳氏の提案した3×3×3構造に総合指標。3つの大項目(環境、社会、
経済)を置き、各大項目に3つの中項目を作り、更に各中項目に3項目の小項目を作り、その小項目
に枝葉を付けた。総合評価は大項目から小項目の各項目であり、指標は133。

(3)可視化の例
既に地域別にデータを出し、地図上に優劣をプロットしている。
例えば環境ランキングでみると、気候ランキング(過ごしやすさ)、降雨量(作柄との関係)、 森林カバー率、水資源保有量(一人当たり)等。
                                      7月会報香港1

3.メガロポリス構想の検証(図表による検証説明)


(1)メガロポリスの仮説は正しく、十分な成果も上がってきた。

①3つのメガロポリスに人口が集中している。
②ここ15~30年間に中国の工業生産額は飛躍的に伸びた。伸び率の高いのは三大メガロポリス。

(2)工業化のひずみ

①輸出額(80%は工業製品)の上位30都市で、突出しているのが「長江デルタ」と「珠江デルタ」で、
両エリアは良質の工業化を進めて来たと言える
②工業化は誰でも何処でもやれるが、効率の悪いところは競争力維持のために環境対策への投資を削り、土地代を払わない、労働者の賃金を押さえるなどの無理が進んだ。
③工業化は(特定の地域に)収斂していく。質の悪い工業化は結局無理をしている。
④三大メガロポリスは輸出用のコンテナ港湾をもっている。世界の港湾取扱量上位10港のうち7港は
中国である。

(3)三大メガロポリスは小売り、医療、高等教育、文化スポーツ、科学技術、金融など多くの分野において波及力を持ち、周辺にも良い影響をもたらした。

4.社会改革の諸問題

(1)DID(人口集中地区)の人口率

DID(人口集中地域=Densely Inhabited District)は人口集中度が4,000人/ 1㎢でその
常住人口が5,000人以上の地域、DID人口率は常住人口に対するDID常住人口の百分比
東京のDID人口率は98%(23区は100%)、(衛星の分析で)中国全体では27%台。
同じ様に東海道メガロポリス:83.2%、長江デルタメガロポリス:43.2%。
 東京周辺には4,000万人近い人口。人口の集中はメリットもあればディメリットもある。人が集まっ
てくればインフラの効率も良くなり、都市生活も豊かになる。世界的に巨大都市が増えている。中国
のメガロポリスは東京と比べてまだ余裕があり、発展の可能性が大きい。

(2)自動車社会の弊害
自動車の大きな普及は2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)の影響。公共交通機関の利用を嫌って自家用車が一気に増えた。モータリゼーションは都市を変貌させた。どんどん道路を作っていっても、渋滞は起きる。排気ガスの問題も大きい。

(3)農民戸籍の問題
都会で働く農民工の戸籍は農民のままで、子供の教育、医療、就職等で都市の福利を受けられないな
ど影響がいまだ大きい。現政権は引き続き問題に対処している。

(4)空気汚染の問題(図表で説明)
中国全土のPM2.5の2015年の平均分布である。データはハイテクを駆使して信憑性は高い。質の悪い工業化を進めている地区は競争力で無理しているためで、PM2.5のデータも悪い。

(5)所得格差の問題
ジニ係数:日本は0.32、中国で0.4超(0.4を超えると社会が不安定になると言われる)。習政権は5年以内に貧困を解消すると言っている。財政的には可能なのでやる意思があれば出来る。

5.日中間の課題と提言

(1)2014年IMFの購買力平価でGDPをみると中国が世界第1位となり日本の3.7倍になった。

(2)日本への外国人観光客は年間2,000万人で半分が台湾・香港・マカオ・大陸を含む中国系。
爆買いで日本経済に貢献している。引き続き観光客は増えていく。単なる観光から多目的性を求める滞在へと代わってきており、その点で満足させられるのは東京が世界で一番である。

(3)少子化で日本の各大学は学生の確保を心配している。もっとアジア、東南アジアの学生を積極的に受け入れることを考えたらよい。

(4)中日問題で2005年「北京・東京フォーラム」を立ち上げた。歴史問題で中日間のチャンネルが無い時期に、中日双方の政界、財界、マスメディアのそれぞれトップに参加して貰い、年1回交互に会合をもつことにした。第1次安倍内閣が発足の時、日中関係の回復のきっかけとなった。

(5)これからの日本の経済
これからはライフスタイルを支える生活文化産業が期待できる。2010年に100名程のミッションを
組んで中国で交流会を行ったところ大盛況であった。生活文化産業の輸出に大きな可能性がある。

(6)四大メガロポリスの協力体制
将来の東アジアを発展させるために、中国の三大メガロポリスに東海道を含めた四大メガロポリスの
協働、共生が必要である。            (文責:小笠原正文)               

                        7月会報周先生講聴3

学習会の要旨

6月会報孫崎先生5

◎5月21日(土)学習会の要旨


日 時:2016年5月21日(土)13:30~15:30 
場 所:東京経済大学 2号館 B301教室
テーマ:「日本を取巻く国際環境の行方」 
講 師:孫崎 享 先生(外交評論家)                               
出席者:236名(会員:男性156名、女性60名、           
         非会員:男性13名、女性7名)                                  

【講演要旨】 


報道の自由と原発・TPPの問題点


来週、日本でG7サミットが開催されるが、経済のみならず民主主義の先進国たることを求められるリーダーとして、今の日本は適格だろうか? 民主主義国では、言論、表現、報道などの自由が必要だが、報道の自由度で日本は世界の72番目(数年前は12番目)。秘密保護法の成立、テレビ・キャスターの交代などあり、原発や集団的自衛権などで、自由な発言が封殺されてきている。
原発は、事前に地盤の基準地震動(ガル)を測定するが、熊本地震が1500、新潟中越地震は2300に対して、川内原発や伊方原発は500~600しかない。こう言う大事なことが殆ど議論されていない。

TPPもISD条項(投資国家紛争処理条項)が問題。これは投資家の投資が相手国の責任で損害を被った場合、その損害を相手国に請求できる条項で、米・加・メキシコの北米自由貿易協定でも、米国企業の産業廃棄物から有毒物質が発生し、メキシコの地方公共団体がその操業を差し止めたところ、損害賠償を払わされた。ウルグアイ政府はフィリップ・モーリス社に煙草規制に関する賠償金を支払い、エジプトは最低賃銀を引き上げた法律で米企業の賠償請求を受けた。これがTPPの本質である。2013年のテレビ放送で、与党の某議員が「NHKは何故TPPが国の主権を侵害するなどと発言する孫崎氏を出演させるのか」と非難、その後NHKへの出番はなくなったが、これ以後メデイアでは殆どISD条項が論じられなくなった。

全体主義へ逆戻りの懸念


 ジョージ・オーウェルの「1984年」はソ連共産党を批判した優れた政治小説だが、「2+2=4は必ずしも正しくなく、権力者が5と言えば5、3と言えば3と言える人間が全体主義の求める人材だ」と言うくだりがある。日本はこんな状態になりつつあるのではないか?
 野坂昭如氏は昨年12月7日のTBSラジオに、「、、、、明日は12月8日、昭和16年のこの日、日本は行き詰まりを打破しようと戦争に突っ走った。、、、、戦後の日本は平和国家だというが、たった1日で平和国家に生まれ変わったのだから、同じくたった1日でその平和とやらを守るという名目で軍事国家、つまり戦争をする事にだってなりかねない。、、、昭和16年の12月8日を知る人がごくわずかになった今、また、ヒョイとあの時代に戻っていまいそうな気がしてならない。」と手紙を出し、その翌々日亡くなった。
6月会報横須賀軍港クルーズ1

画家の堀文子さんは、昨年10月NHKで、「、、、今の日本は危険な瀬戸際にいるように見えます。国家権力に反抗するには、相当な勇気と智慧が要ります。下手をすると牢獄に繋がれる。何をするかわかりませんよ。国家が野心を持つと。、、、、戦争の記憶を忘れてしまって、今の政府がもう一度勢いのある日本を取り戻したくなっている気がして・・・非常に危険だと思っています」と話された。2013年12月23日、天皇陛下は80歳の誕生日を迎えて、「戦後、連合国の占領下にあった日本は、平和と民主主義を守るべき大切なものとして憲法を作り、様々な改革を行って今日の日本を築いてきました。、、、、」と話されたが、これを知っている人は殆どいない。
実はこの部分はNHKが事の重要性に気付いて、あえて削除し放送しなかった。


安全保障の在り方


 世界広しと言えども、外国に守って貰っている国がどれだけあるか? 首都の上空を自由に使えず、それをおかしいと言わない国が幾つあるか? ウズベキスタンという国にいたことがある。海に囲まれていない国々に囲まれている国はここしかないが、最初に独立した途端にロシヤ軍に立ち退きを要求した。イラクも戦争が終わった途端に米軍を立ち退かせた。

 外国軍がいなければ、侵略されるだろうか? 2010年頃から考えてみて、他国を侵略した国はない。民族紛争は沢山あるが、領土侵略は最早やあり得ない。国連憲章は国の主権を認め、武力侵略は認めない。国連の影響力は弱いと言うが、今でも9月になると大国の首脳が皆国連を訪れて演説をしている。侵略を認めないとの原則は世界の殆どの国の指導者に支持されている。
第七艦隊の守備範囲は日本だけでなく、東南アジア、インドから遠く中東まで及んでおり、日本に駐留する米軍は日本防衛のためではなく、米国の世界戦略上必要で置かれているのである。
                                    6月会報沖縄問題
集団的自衛権の本質

集団的自衛権の論議で安倍さんは最初、海外で日本人の老人や子供が危険に瀕した時に、それを載せてくれる米艦を自衛隊が助けるのは当然だと言ったが、国務省のテキストは、「米軍の責務は米国人の救助であり、米国籍を持たぬ者はたとえ伴侶でも援助を期待しないで行動せよ」と明記している。次はイランで問題が発生したら石油確保の為にペルシャ湾への出動が必要と言ったが、イランは最早や西側と和解してこの理由にも必然性がない。

然るに何故憲法違反までして集団的自衛権を認める必要があるのか? 最後の理由付けは、北朝鮮や中国の危険云々だが、若し日本が北朝鮮の体制は好ましくはないが、軍事攻撃はしないと宣言すれば、北朝鮮の攻撃を恐れる必要はなくなる。どの国の指導者も自分の政権の安定が第一で、少しでも政権の寿命を長引かせたいと願う。それを攻撃しても何のメリットもない。併し現実には、米韓演習で北鮮の政権打倒の訓練までやっており、意図的に緊張を作り出しているとしか見えない。去年策定された日米防衛協力のガイドラインには、「日本防衛は自衛隊が主体的に行い、米国は必要に応じて援助する」と書かれいる。集団的自衛権は日本の防衛には全く関係がない。


尖閣諸島と日中関係

6月会報尖閣諸島1

隣家との間に土地があって今自分が使っているのに対し、隣人が「この土地は祖父から我が家の土地だと聞かされているが、現在貴方が使っているのでそのまま使って結構です」と言った時、貴方は何と答えるか?「とんでもない、この土地は私のもので、貴方もそれを認めるべきだ」と言うのか、それとも「有難うございます。今まで通り使わせて頂きます」と言うのとどちらが良いと思うか?

当然後者だろう。田中角栄と周恩来の間で尖閣領有権の当分棚上げを確認した。その交渉の最後に、「これで全て話は終わりましたね」と念を押した周恩来に向って、田中が「未だ尖閣の話がある」と言った途端に、周は「それを言うなら、今までの交渉は全て元に戻してやり直そう」と反発し、台湾問題、日米安保条約、賠償などの重要案件の交渉結果が宙に浮きかかったので、田中も「それもそうだ」と尖閣棚上げに同意せざるを得なかった経緯がある。今になって尖閣棚上げは無かったと言うのは、日本政府による歴史の改竄に等しい。

ウズベキスタンには金鉱がある。カザフスタンには石油資源が豊富にある。中国が欲しければ簡単に侵略できるではないか? それをやらないのは、今や軍事侵略は長期的にマイナスだからだ。アメリカ国防省の2009年の報告では、「中国の指導者の最大の目標は共産党の独裁維持だが、共産主義の理念だけでは最早国民を納得させられない。その代案として対外脅威を煽れば、却って政権が強硬姿勢を求められて決してプラスにはならない。それに代るものは、国民の生活水準の改善以外になく、それによってのみ共産党は政権を維持できる。その為には、輸出振興、原材料や技術の確保、国際環境の安定が必要で、領土問題さえ解決出来れば問題はない」と分析している。

今世界は歴史の大きな転換期にあるが、CIAによる購買力平価ベースのGDPの比較では、中国のGDPは米国を既に越えている。ランド研究所の調査では、台湾の正面で米中戦争が起きた時の優劣は、2017年には中国が優位に立つと結論づけている。中国のミサイル技術の向上がその理由で、途中で燃料補給を要しない唯一の距離にある沖縄嘉手納基地の滑走路を攻撃されると、米空軍の攻撃能力は機能しなくなる。最早や米国に頼れば日本を守れると言う時代ではない。

尖閣諸島が安保条約の対象であるのは事実だが、第5条は攻撃された場合は、米国は憲法に従って(即ち議会の承認が得られれば)必要な行動を取ると規定して居るだけで、武力行使をするとは記されていない。他方、NATO条約では「攻撃されれば現状復帰の為、軍事力を含めて必要な行動をとる」と明記している。

軍事予算か福祉予算か


軍事国家になることは、福祉が切り捨てられると言う事。国立大学の無償化には3500億円必要だが、駐留米軍への思いやり予算は7000億円、若い人にこの辺りを説明する必要を痛感する。


【質疑応答】

6月会報学習会風景3

Q1. 中国の拡張主義を懸念するので、一定の防御態勢は必要と思う。

A1. 石原都知事の尖閣買い取り発言は、米国ヘリテージ財団で行われたが、この財団のクリングナー部長は2012年11月14日、「米国は日本の政治的変化を利用し同盟を進化させるべきである。自民党の安倍氏が首相になる可能性が高いが、その保守的な考えと、中国に対する日本民衆の増大しつつある懸念は、ワシントンが日米同盟で致命的に重要だと思う問題を達成できる絶好の機会である。日本はより大きい国際的責務を受け入れるべき事を明確にし、同盟国の安全保障上の必要性に見合うよう、防衛支出を増大させる。集団的自衛権により柔軟な解釈をするよう勧告し、日本は同盟国の資源を消耗させずに、効果的貢献を行うべきである。普天間の代替施設建設の前進への圧力を強める」との報告を行った。
 
 後藤健二氏がISに殺害された時、菅官房長官は「政府は身代金を出すつもりも交渉するつもりも全くなかった」と明言した。これは米国向け発言である。何故なら国務省の報道官が、個人的に日本政府に交渉に応じるなと勧告したと発言している。少なからぬ日本人が、日本人の命を救うより米国によく思われたいと考えている。

Q2. 日本は米国の核の傘で守られているから少ない防衛費で安全を確保していると考える人が多い。

A2. 世界で最も平和な国のランキングでは、1位アイスランド、2位デンマーク、3位オーストリア、
4位ニュージーランド、5位スイス、6位フィンランド、7位カナダ、8位日本、9位オーストラリア、10位チェコで、多くが島国で、平和国家を宣言している。日本の防衛費はGDP比でかなり低くて良いと考える。取りあえずは米軍に撤退願い、その後不必要経費を徐々に削減すれば良い。

Q3. 安倍さんや某女史が、しきりに強い日本や伝統ある日本に固執するが、どう思うか?

A3. 大きな国の流れを見ると、米国の右傾化は想像以上で、強いアメリカを求めるのは、自分たちの生活が難しくなっているから。そう言う状態の時には必ず強硬な対外姿勢が見られるのが世界共通の現象だ。1990年代に比べて、米国の個人純資産は、最下層20%で20%減、その上の20%(労働者階級)の層では50%減、その上の20%(中流階級)が20%減と深刻だが、他方トップ10%は75%増である。日本も1980年代まで経済が好調な時は、中国に対して批判や非難を口にすることは少なかった。

Q4. 対中国の抑止力は? 安保条約はどうあるべきか?

A4. 中国が日本を核で威嚇→日本は米国に援助を要請→米国は中国を核で威嚇→中国は米国に核の報復的威嚇。この中国の威嚇を受けて立てる大統領はいない。キッシンジャーやCIA長官、NATOの責任者だった人達も、核の傘を否定し、米国はどの国に対しても核の使用を約束したことはないと1978年頃報道された。米国は、自国が核攻撃を受ける危険を冒してまで他国を支援することは絶対にない。だから核の傘はないのだが、日本人は右も左もあると思っている。米国は朝鮮でもヴェトナムでも核は使えなかった。世界の世論が許さなかったからだ。オバマ大統領は来日した際、尖閣は安保条約の対象だが、領有権には介入しないと言い、尖閣問題にデッドライン(踏み越えてはならない最後の一線)はないとまで言っている。
                               6月会報南沙諸島1

にも拘わらず核の傘があるかに装いながら、集団的自衛権で自衛隊の海外展開を拡大させようとしている。テロとの戦いの無意味なことは、2000年代の犠牲者が年間500~600人だったのに2015年には30,000人に増えていることで明らかだ。多くの場合、政治的解決が可能であるにも拘わらず武力に訴えるのは、アイゼンハウアーが懸念した産軍複合体とイスラエルの存在の為である。
  9.11の真相は未だ不明だが、仮にオサマビンラデインとして、彼が何故テロを起したか? 考えられる理由は、イスラム教の聖地を抱えるサウジアラビアからの米軍撤退要求に米国が応じなかった為、彼が1996年に行った対米宣戦布告であろう。    
                                                                    (文責:天野 肇)
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