学習会の要旨

7月会報余部先生3

◎6月25日(土)学習会の要旨
 

日 時:6月25日(土) 13:30~15:30                              
場 所:東京経済大学 2号館 B301教室  
テーマ:「イスラームの歴史から今日を読む」                                          
講 師:余部(あまべ) 福三 先生(東京経済大学経営学部教授)
出席者:195名(会員:男性142名、女性:49名
          非会員:男性3名、女性1名)

【講演要旨】

(はじめに)

中東におけるイスラームはキリスト教・ユダヤ教と切り離せない関係にある。本日のテーマは大変なテーマなのでなるべく分かり易く説明したいが、難解なのは事実である。世界の歴史や現在の世界情勢は日本人には分かりにくい。中東とヨーロッパとの関係も分かりにくいが、簡単に言うと、ヨーロッパは中東の周辺地域として始まった。本日は三つの大きな項目に分けてお話する。
                        
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1.中東とはどういう地域か 歴史的に

中東は、古代文明の発祥地エジプト・イラクを中心として、西はシリア、イラン、トルコ、ギリシアなど西地中海から東地中海のシチリア、チュニジア、アルジェリア、イベリア半島へと拡大、さらに東は中央アジアのウズベキスタン、アフガニスタンにも拡大していった。次に中東の特徴を箇条書きにして下記に述べる。

①肥沃な大農業生産地 

エジプト、イラクは、農業生産性が特に高く、最大で播種量の60倍の生産をあげることができたし、他地域でも生産性が比較的に高い地域が多い。そのため、世界人口に占める割合も古代では非常に高かった。だから都市化が進み、文明が発展した。その後、インド・中国などが発展した結果、中東の人口は相対的に低下した。しかし、現在でも中東は5~6億人と中国・インドの半分程度の人口をもっているし、耕地拡大の余地も残る。

②西洋文明の発祥地・中核地

中東の文明は、イラク、エジプトを中心に中東の周辺地域である小アジア、ギリシア、イタリア半島、シチリア、チュニジア、イランなどへ文明は波及していった。中東は肥沃な農業地域の周辺部に、生産性が非常に低い多くの山岳民、遊牧民を内包する。彼らは日常では結束しないが、事が起きると、先祖が共通することを理由に団結する部族・氏族民である。かれらによる攻撃、殺戮を避けるため、生産性が高い人々は、自由の一部を棄て、一か所に集住し、城壁に囲まれた都市を建設し、城壁外の農地を耕作する。これが都市国家であり、中国、インド、メキシコその他世界に共通した現象である。
7月会報中東都市3

都市国家間の闘争の結果、または異なる部族・氏族民がカリスマ的指導者によって血縁を超えて大きく結束した結果、多くの都市を従える領域国家が現れ、さらに中東全体を統合する帝国が成立する。領域国家・帝国などの大規模国家は官僚制・常備軍を必ず発達させてきた。また、都市の外の山岳民・遊牧民がカリスマ的指導者(異常なほどの能力や魅力をもち人々をひきつける指導者)の下に部族・氏族を越えて結束して大きな征服をなしとげた場合は、その指導者の死後、後継者にカリスマが継承されるか否かに、新しい国家の存続がかかってくる。たとえば、アラブ・イスラーム帝国は預言者ムハンマドというカリスマ的指導者の下で、アラビア半島の都市民、遊牧民、山岳民が結集したが、その死後もかれのカリスマが保存された結果、空前の征服をなしとげ、帝国も永くつづいた。

③統一国家の時代が非常に長いので、中東は一つの国家とも言える 

中東はアッシリアによる統一以来、アケメネス朝ペルシア帝国、アレクサンドロス大王国と統一がつづき、ついでローマ帝国とササン朝ペルシア帝国と東西に二分されたが、イスラーム教徒(ムスリム)となったアラブによる大征服で統合された。アラブ・イスラーム帝国は最初の民主政的な正統カリフ時代から、シリア中心のウマイヤ朝、イラク中心のアッバース朝へとしだいにカリフの指導力が強化されたが、10世紀には解体し、分裂の時代となった。しかし、イランとモロッコを除く中東の大半は16世紀初頭にはオスマン帝国により再統合され、第一次大戦までつづいた。したがって、中東の統合は中国の統合されていた時期よりも長く、中東は一つの国家とも言える。

④都市と周辺部族民(遊牧民・山岳農牧民)との対立 

中東の諸地域はどこも同様であるが、とくにイラクはもっとも古い時代からザグロス山脈の山岳民(イスラーム時代はクルド人、のちスンニー派になる)やアラビア半島北東部の遊牧民(ササン朝以後はアラブ遊牧民で近年は定着してシーア派の農民になった)の侵攻に苦しんできた。都市が繁栄した時期と部族民の侵攻で国家や都市が衰えた時期が交互に繰り返されてきた。サッダーム・フサイン政権後の現在は混乱期にあたる。現在でも部族民は都市や国家を憎む傾向をもつ。

⑤多神教から一神教へ 

世界どこでも古くは多神教であったが、中東で一神教が発展した。その太い流れはエジプト・アメンホテップ4世によるアテン神の宗教改革からアブラハムを「共通の祖」とするユダヤ教・キリスト教・イスラームへという流れである。もう一つの一神教の流れとして、ローマ末期に流行したシリアの太陽神崇拝があり、多くの皇帝が帰依した。

また、イランのゾロアスター教も善神と悪神の闘争に基づく二元論であり一神教に近い。死者の復活・最後の審判などの考え方もここからユダヤ教に入り、キリスト教、イスラームに継承された。キリスト教はイエスの神性、マリア崇拝など、部分的に多神教的要素を含むようになり、教勢拡大に役立った(アリウス派、ネストリウス派はこれを認めず)。また教義上の違いよりも、誰が頂点に立つかという政治問題で、キリスト教主流派はローマ大司教のカトリックとコンスタンティノープル大司教の東方正教に分裂し、イスラームは親アッバース朝のスンニー派(スンナ派)とアリー(ムハンマドのいとこで娘婿)の子孫を正統とするシーア派に分かれて争うようになった。

⑥文化の多様性から統合へ 

中東は元々各地固有の文化があったが、統一国家アッシリアの同化策が失敗した結果、次のアケメネス朝は多様性を許容した。アレクサンドロス大王以後の時代では、ギリシア語とギリシア文化を主体としつつ、各地の文化を取り入れたヘレニズム文化がアフガニスタンに至るまで中東全体で優勢となった。しかし、ササン朝はヘレニズム文化のうち学問などの部分を残しつつ、イラン文化を復興してゾロアスター教を奨励した。イスラーム文化はアラビア語で表現するものの、基本的にヘレニズム文化を中心として、イラン文化など中東各地の文化を吸収した。のち、ペルシア語で表現するイラン・イスラーム文化(インドにも波及)やスペインからモロッコ、アルジェリアに普及したアンダルス文化が発展した。

⑦自然科学・哲学の発達 

古代エジプト、イラクの測地術・幾何学がギリシアに伝わったが、ギリシアでは自然を考察するだけでなく、人間や政治・法をも理論的に考察した。ヘレニズム時代はエジプトのアレクサンドリアがギリシア語による数学・自然科学研究の中心となり、ギリシア哲学、ヘレニズムの科学・数学はことごとくアラビア語に翻訳されてムスリムによる自然科学・数学(三角法、代数学)・哲学へ発展した。アラビア語の数学・科学・哲学書は非常に大量にラテン語に訳されて、西欧に伝わった。西欧独自の発見はようやく17、18世紀の科学革命後のことである。

⑧商工業革命 

古代都市は地主と農民が市民であり、農業が経済の大半を占めた農民都市であるか、または首都などの政治都市であった。9世紀に世界で初めて、中東で他地域への移出を目指した農業・手工業の生産の拡大、商工業の急激な勃興が始まる。都市が職人・商人中心の商工業都市化し、この流れはイラクからたちまち中東全域に拡大した。絹織物、麻織物、陶磁器、真鍮製品、ガラス器、紙などが高度の技術で生産された。同様な発展は中国には宋代の11世紀に(草市)、西欧には12-13世紀(シャンパーニュ、フランドルの大市)へ伝播する。

⑨世界の一体化 

中東文化圏が拡大し、世界の大きい部分が中東化していった。古代のシルクロードは中国を中東・インドと結んでいたが、8世紀以後は衰えた。かわって隊商貿易ではロシア、スウェーデンやサハラ以南の西アフリカにムスリム商人が進出し、海の道では、ササン朝以来イラン人がインド洋に進出しはじめていたが、8世紀以後、アラブ、イラン人がダウ船に乗って大挙インド洋、南シナ海に進出し、高級品を求めた。それとともにイスラームが南インド、東アフリカ、東南アジア、中央アジア、ロシア、西アフリカなどに普及し、中国の港にもムスリムの居留地が成立した。北方ユーラシア草原のトルコ系遊牧民までもイスラームに改宗し、オスマン帝国やムガル帝国(インド)などを建国した。

⑩中東の縮小 

発展途上の西欧による十字軍派遣が始まり、スペイン、シチリア、シリア海岸(これは失敗)が征服された。
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⑪近代西欧帝国主義

 西欧諸国がオスマン帝国、カージャール朝(イラン)、アラウィー朝(モロッコ)を従属国化する。ムスリムに西欧に対する怨念が生じる。これが現在のテロなどの遠因の一つ。


2.宗教としてのイスラーム

①イスラームの起源 

ローマ末期・ササン朝時代に中東の人々は急速にキリスト教・ユダヤ教に改宗した。エジプト、イラク、シリア、チュニジアはキリスト教の中心地になり、初期の高名な僧もほとんどこの地域出身である。キリスト教・ユダヤ教は中東の辺境にあたるアラビア半島西部にも普及し、メッカやメディーナというオアシス都市部でも、多神教の習俗を残しながら一神教的な理解がかなり一般化した。この中でメッカの商人ムハンマドは神や宗教は一つと理解し、神がときどき預言者(使者)を人々に派遣してメッセージを伝えると考えた。したがって、モーセが伝えた『旧約モーセ5書(トーラー)』やダヴィデ王の『詩編』、イエスが伝えた『福音書』、自らの『クルアーン』も同じ内容のはず。その教えも、過度の自己愛を排して神に感謝すること(礼拝)や、恵まれない人への温かい思いやりと援助(喜捨)、死者の復活と最後の審判が中心であり、キリスト教・ユダヤ教と共通する部分が多い。偶像崇拝・利子・豚食の禁止なども同様である(のちローマ教会では利子容認)。

ムハンマドと信者はメッカ市民のクライシュ族の迫害からメディーナに逃れ、メッカと戦争状態になった。この移住はヒジュラと呼ばれ、622年がイスラーム暦元年とされる。このクライシュ族の移住者がムハージルーン、かれらを援助したメディーナ市民がアンサールとよばれる。実際の戦闘はごく少なく、おもに外交(アラブ遊牧民諸部族を味方につける)でクライシュ族に勝利し、メッカを無血で降伏させた。この戦争中、メディーナに多いユダヤ教徒はムハンマドが指導する都市国家設立に参加したが、しだいにメッカと通じていると見られ、付近のオアシスに追放された。
7月会報メッカの広場2

ムハンマドはこのユダヤ教徒との対立を通じ、自らの宗教のある程度の独自性を理解し、これをイスラーム、信徒をムスリムと命名した。それでも、3宗教その他の信徒は啓典の民とされ、基本的に姉妹宗教と理解された。一方、ユダヤ教と差別化するため、アラブの伝統にも配慮し、メッカのカァバ神殿の方向へ礼拝すること、カァバへの巡礼(ハッジ)を義務化した。断食もユダヤ教の贖罪の日に替えて、ラマダーン月に定められた。

②イスラームの完成(古典イスラーム)

ムハンマドの死後、後継者(カリフ)の指導下に結束したアラブ・ムスリムが南フランスからパキスタンに至る空前の大帝国を建設した。政体は、最初、メディーナを中心にカリフ選挙制と有力信徒の合議による民主政であったが、ムスリムの地域間利害対立から2度の内乱が起こり、シリア中心のウマイヤ朝、イラク中心のアッバース朝へと変化した。その結果、カリフ世襲制と、官僚制と常備軍に基づくカリフ専制へと移行し、ローマ帝国末期の体制に近づいていった。

              7月会報アルハンブラ宮殿1

ウマイヤ朝後期からアッバース朝初期にかけてイスラームは一応、完成した。イスラームが類似のキリスト教と一番異なる点は、キリスト教は信じることが重要で、細かく教義を決めようとするのに対し、イスラームは信じることが神・天使・啓典・預言者・来世と少なく、その内容が比較的常識的で受け入れやすいことである。逆に、イスラームは外面的な行為に注目し、法を重視し、皆が同じ儀礼(礼拝・断食・喜捨・巡礼・信仰の宣言)を行うことを定める。ジハード(日常の内面的努力、侵攻されたときの防衛努力)は5つの重要な義務5行には含まれていない。

またイスラーム法(シャリーア)や信仰内容はカリフや政府に解釈権がなく、ウラマーとよばれる民間のイスラーム学者(ウラマー)が解釈権をもつ。その意味でイスラームは政教分離といえる。

法は、はじめ古代の法慣行やローマ法・ペルシア法に基づき、各地で異なっていたが、このような慣行重視(現状追認)、学者の合理的解釈に対する反発がアッバース朝期に興り、極力、信頼できない理性に基づくのではなく、クルアーンや、神の意志を受けているはずのムハンマドのことばや行為(慣行=スンナ)に基づくべきとする人々が台頭した。このスンナはハディースとよばれる伝承に伝えられているので、これを支持する人々を伝承主義者という。結局、両派は歩み寄り、法学は伝承重視という建前と学者の理性容認が組み合わされた4学派が現在まで残っている。学者の理性も、個人的意見より、学者の意見の一致(イジュマー)または多数意見が重視された。4学派のうち不寛容なハンバル派は理性を信用せず、18世紀にアラビア半島でワッハーブ派へと転身し、現在の「過激派」の思想的基盤を提供している。

法学でも実際には合理主義が優越したが、アリストテレスに代表される合理主義と信仰とを調和させるべく、ファーラービー、イブン・シーナー、イブン・ルシュドら天才的な哲学者が輩出し、ラテン語に訳されてカトリックのスコラ哲学へとつながっている。数学や自然科学では、フワーリズミーやビールーニーらが、自然現象は観察と実験に基づき数学的に証明する必要を説き、社会構造や社会現象では、イブン・ハルドゥーンが政治経済社会の変化のメカニズムを歴史に基づいて理論化した。

③神秘主義(スーフィズム)の流行 

過度の合理主義や法の形式主義への反発から、感覚的、直感的に神を認識しようとする神秘主義が勃興した。自我意識を滅却すれば、宇宙の万物は神も含め一体になるとするもので(その境地がファナー)、民衆の強い支持を獲得した。合理主義の立場からウラマーははじめ疑問視したが、大学者ガッザーリーの努力で容認するに至った。民衆が大量に弟子入りし、有力な神秘主義者(スーフィー)が教団を組織するようになったし、その死後も聖墓への巡礼がさかんになり、願い事をかけるようになった。
神秘主義のあまりの行き過ぎに、とくにヒンドゥー教との混淆が進んでいたインドでイスラーム改革運動が、ムガル帝国下でおこり、過激な神秘主義を排して合理的思考を重視し、イスラームを純化しようとした。この運動はメッカ巡礼を通じて中東全土、さらにその周辺部にも普及していった。

④イスラーム復興運動 

19世紀末から世俗化、西欧への従属に対抗し、西欧文化を受容しつつイスラームを合理的に再解釈することによって、「腐敗した」と見た伝統イスラームを大改革し、現代の課題に対応しようとした。その根底には西欧帝国主義からの防衛が大きな課題としてあった。政治的行動的なアフガーニー、近代的クルアーン解釈と教育に専念したムハンマド・アブドゥフを経て、エジプトでムスリム同胞団が、復興運動を知識人の枠内から大衆組織化することに成功し、とくに福祉活動に尽力した。パレスティナのガザ地区を支配しているハマースは、ムスリム同胞団の支部から始まった。穏健なムスリム同胞団とは一線を画して、占領国イスラエルへの闘争を行っていたが、現在は事実上イスラエル国家容認の姿勢をちらつかせている。       

17世紀以来シーア派化したイランでは、ウラマーが民衆指導の伝統をもち、1979年、左翼や親欧米派と結んで革命に成功した。革命の指導者として、法学者ホメイニーが広範な人々を結集し、民衆の支持がホメイニーに集まり、最高学者が最終的に法や政治行為の適法性を判断するイラン・イスラーム共和国が成立した。

7月会報モスク

3.現代の世界政治とイスラーム

①イスラエルとの闘争 

イスラエルは1967年以来イェルサレム・西岸・ガザを占領し、併合を画策している。西欧諸国はパレスティナ人に同情的に変化しているが、国際的な会議などの動きが出ると、イスラエルとアメリカに都合よくテロが起こり邪魔をする。アメリカの特権的支配層である軍産複合体、ネオコン(ユダヤ極右)はイスラエルのイェルサレム・西岸併合を認めさせようと躍起になっている。

②独裁政権とイスラーム運動の過激化・歪曲化 

知識人・大学成績優秀者から犯罪人・無知で暴力的な若者の運動に変化しつつある。根源はエジプトにあり、ソ連とのアフガニスタン戦争参加を通じて、中東全域に拡散し、現在は西欧移民の子孫の一部が過激化している。まずエジプト革命が堕落し、革命軍人が特権化して軍事独裁政権が長期化し、その中で旧特権層(地主・資本家)が復活した。アラブの春で民主主義政権ができたが、軍部クーデターで以前より強化された軍部独裁になった。すでに2代目サーダート大統領時代に絶望した大学成績優秀者が過激化し、「穏健すぎる」ムスリム同胞団を見捨て、独裁政権の武力転覆を図るようになった。

そのイデオロギーはサラフィー・ジハード主義とよばれ、初期イスラームの偉大な先達に学ぶことと、聖戦主義を組み合わせたものである。ジハードが一面的に聖戦と理解され、具体的には遠き敵(米英仏の十字軍)と近き敵(米英仏に従属する世俗主義独裁政権)に対する闘争になった。その中にはタクフィールといって、反宗教的または非宗教的な特権層出身の政治家・芸術家を一方的に棄教者と断定し、命をねらうことも含まれている。

エジプトで弾圧されたあと、一部の若者はアフガニスタン戦争に参加し、共産党政権を助けて侵攻したソ連軍に対し、ゲリラ(ムジャーヒディーン)側に立って戦った。この戦争を通じてサウディ出身のビン・ラーディンら、アラブ諸国からの義勇兵も過激化した。勝利後、帰国した者は近き敵に挑戦したが、ビン・ラーディンはエジプト人のザワーヒリーと結んでアル・カーイダを結成し、アメリカの意図に反してアメリカに挑戦した。

アメリカ軍はこれらのアラブ義勇兵やアル・カーイダを援助しただけでなく、イラク占領後には、イスラーム国創設にも事実上協力し(わざと見逃し)、秘密裏にイスラーム国に様々な援助をしている節がある。教養がなく、犯罪者出身で、これらの策謀に利用される「にわか仕立てのジハード主義」の若者は西欧出身者も含めて多い。もはや宗教とは無関係である。

③アメリカ特権層(軍産複合体、ネオコン)の策謀 

アメリカが中東を混乱させている。イスラエルを助けることが伝統的にアメリカ最大の外交目標であり、産業界・金融界は常に中規模戦争を続行して永続的金儲けを企んでいる。軍は、戦前の日本の関東軍同様、オバマ大統領の命令にも従わず、空爆をするふりだけであり、武器をヌスラ戦線やイスラーム国に供給し、ロシア軍による空爆を妨害しようとした。それでもオバマ大統領はきびしく軍産複合体と対立してきた。次期大統領候補では、トランプは選挙期間中、反軍産の態度をとり、そのため共和党主流に嫌われてきたが、ヒラリーはイスラエルべったりの軍産・ネオコン派である。

                       7月会報余部先生風景1

【質疑応答】

Q1:①イスラームの言葉の意味、定義は何か
   ②イスラーム文化とは何を指すのか

A1-①:イスラームはムハンマドが自ら名付けた言葉。神への服従=帰依=平和を意味する。定義といえば、イスラームは宗教そのものを表す。キリストはメシアを意味し、人を指すので、宗教名としてはキリスト教といわなければならないが、イスラームは教をつける必要は必ずしもない。

A1-②:イスラームに民族という考えはない。民族はヨーロッパ的な考え。フランスなどは本来多様な地域と人々の集まりだが、王政打倒後、フランスの統一を維持するためフランス語教育を徹底して一つの「民族」を創り出した。中東では各地で差異があり、伝統文化が根付いているのは事実である。大きく分けるとバグダードやエジプト中心の東方アラブ文化、スペイン中心のアンダルス文化(西方アラブ文化)、イラン・イスラーム文化、オスマン帝国のトルコ・イスラーム文化などに分かれる。ただ共通性が多く、イスラーム文化と一括することは合理的であろう。

Q2:シーア派とスンニー派は宗教的な違いは少ないと聞いたが、現実には対立が激化している、その原因は何か
A2:両派はムハンマドの後継者をめぐり分かれたもので、教義や儀礼の違いは少ない。あくまで現在の争いは政治的なものである。17~18世紀のサファヴィー朝期にイランがシーア派の国に変わった。イラク南部やレバノンもシーア派である。シリアの政権は山岳民のアラウィー派であり、本来イランのシーア派(12イマーム派)とは非常に違うが、現在は政治的にイランと同盟関係にある。またイランは優秀な人材が多く、周辺国を含めるとイランの勢力が強大化している事実があり、他国が政治的にこれに反発している。スンニー派は歴史的にも今でも、シーア派を仲間に取り込もうとする寛容性がある。

Q3:平和な時代になったと思ったらフランスでの大規模テロや難民問題の発生、先ほどのアメリカの残虐な話や総じて国連も無力化している。先生のお知恵で良い解決策はないものか。
A3:大変難しい問題。第3次中東戦争後、イスラエルによるイェルサレム・西岸占領は現在までつづいており、国際社会に併合を認めさせようとしている。国連が無力なのは5大国が拒否権をもつからで、国連としての積極的な指導は難しいだろう。オバマは反軍産複合体であるが、穏健派で中東和平にも積極的ではない。希望があるとすれば、西欧諸国が中東問題に対する理解を深め、従来のように同じヨーロッパ人としてイスラエルを支持するというのではなく、パレスティナに同情的になってきたこと。それに、トランプが大統領になり、公約通りネオコンと縁を切れれば世界情勢が変わるチャンスはあるが、そうでなければ難しいだろう。                       (文責:増田保武)
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