学習会の要旨

8月会芳賀先生1

◎ 7月9日(土) 学習会の要旨 
 
 日 時:7月9日(土) 13:30~15:30                             
 場 所:東京経済大学 2号館 B301教室  
 テーマ:「古地図で見る国分寺と東京経済大学キャンパス
       ――地形と水環境を中心に」                                          
 講 師:芳賀 啓(ひらく) 先生
      (東京経済大学客員教授、日本国際地図学会評議員)
 出席者:146名(会員:男性97名、女性:39名、
        非会員:男性6名、女性4名)

【講演要旨】


地図と古地図

数年前、「地図男」と言う本が出た時は、自分のことか?と少しどきっとしたが、永年都市の地図と地形を研究している。2008年神田神保町を歩く「ぶらタモリ」への出演を要請されたが、NHKの都合で急にロバート・キャンベル氏(アメリカ出身の日本文学者で東大教授)に交代させられたこともある。テレビでは三井文庫に保管された大量の江戸古地図を紹介したこともある。―ここで自著「江戸の崖、東京の崖―講談社」、「江戸東京地形の謎―二見書房」等を聴講者の回覧に廻す。―

「地図に残る仕事」と言うテレビのキャッチコピーを持つ大成建設(旧大倉土木)と、東京経済大学(旧大倉商業)は共に大倉喜八郎によって創設された組織で、大正6年の地図にある。

赤坂葵町の大倉商業学校(明治33年創設)や大倉邸が1945年の戦災で焼失したため、学校は翌年国分寺にあった大倉系の南部中央工業(銃砲会社)と地続きの地に移転、1949年に大学に昇格して新たに東京経済大学となり現在に至る。大倉財閥の事業は幕末から明治初年にかけての鉄砲などの武器商としての成功にあった。

古地図とは一般には江戸時代の地図を指すが、自分は新しい地図以外は全て古地図といっている。古地図にも本物と偽物があり、太田道灌時代の絵図に当時未だ無かった神田川などが載っているような偽物も多い。また、偽物とまで言わずとも、推定による不確かな地図も散見される。
例えば、国分寺附近の地図でも甲武鉄道の線路だけを削除して、北口に駅前集落をそのままにし、初版図らしくしている偽装商品が古地図として売られている。

地図と地形図

現在の地図によると、東京経済大学が小金井市との境、国分寺市の東端にあることが判る。明治10年代の2万分の1の古地図で標高74.95mの地点が現在の東経大の場所である。戦争末期の陸地測量部の作った3千分の1の極秘地図には、今の東経大の南に国分寺崖線(国分寺cliff-line)が極めて明瞭に示されている。

           8月会報くらほね坂

新しい地図は建物に囲まれていて地形が判り難いが、古い地図は建物がまばらで等高線などから地形を読み取ることが出来る。東経大の東側の道路の坂下に「くらぼね坂」の標識があるが、坂に名前があるのは日本だけで、名前のある坂は江戸時代以前からの道が多く、また隣村との境界線であることが多い。くらぼね坂は国分寺村と貫井村との境界線である。勾配8%とあるのは、水平に100m行った先が平均で垂直に8m高くなることを意味する。

                            8月会報国分寺崖線1

崖とハケは混同されているが、崖の一部が崖下の湧水で浸食されて後退し、瓢箪型にえぐれた部分がハケである。新次郎池(北沢新次郎学長の名にちなむ)や真姿の池、貫井神社などがまさにハケである。海や川の水の流れは時代と共に自然の力で変るもので、それがコンクリートなどで固定されるのは近々50~100年来のことである。地形図で重要なのは傾斜を表す等高線である。"map it up"と言う英語は、“図にして考えろ”との意味で、図に描けば物事が良く見えてくるとの意味である。

童話作家浜田広介の童話で、「狛犬の目が赤くなったら島は沈む」との僧の予言を悪用した海賊が、狛犬の目を赤く塗って島民を追い払い、その留守宅を荒らし回って酒盛りをしていた時、津波で島は沈んでしまったとの阿波の昔話があるが、この島が「おかめ島」と呼ばれたのは、島民が島の形がおかめに似ていると想像したからで、実際には真上からみることは出来なかった筈。明治10年、島津製作所の創業者が気球で空中に上がるまでは、日本では誰も空から地形を見たものはいない。にもかかわらず伊能忠敬以来地図は作られて来た。人間には空想で頭の中に地図を思い描く能力がある。地図はあらゆる場所を真上から垂直視線で見るが、絵図は真横から水平視線で見たものである。

与謝蕪村の”春の水山なき国を流れけり”の句を、正岡子規は「山なき国」などある筈がないと絵画的観念で批判したのに対して、内藤鳴雪は地図的観念ではありうると擁護して論争になった。日本列島は細長い島国で山脈が走っている。どこでも川の上流を見れば必ず山が見える。

最古の江戸全図

三代将軍家光の時代の寛永年間に最も古い精密な江戸全図が作られた。2012年、この地図が大分県の臼杵市で発見されたことが東京新聞で報じられ、早速行って3m×3mの複製を作ることができた。この地図は傾斜地が緑色で示された地形図で、中野の三重塔、神田川、淀橋、柏木、新宿追分、代々木、幡ヶ谷、青山通り、渋谷、宮益坂、高田馬場、早稲田など江戸の全図が詳細に示されている。

              8月会報武蔵国古地図1

国分寺の簡単な年表と地形

西暦  760年 武蔵国分寺建立
    1603年 徳川幕府開府
    1654年 玉川上水通水
    1889年 近隣9か村が合併して国分寺村となり、甲武鉄道が開通、国分寺停車場が出来る
    1940年 町制施行
    1942年 日立中央研究所設立     
    1944年 小林理研(リオン)設立   
    1946年 大倉経済専門学校国分寺に移転
    1964年 市政施行

さて、江戸時代の国分寺は江戸ではなく、武蔵国多摩郡であり、武蔵国の国府は府中にあった。「江戸」の名称は古いがそれはあくまでも俗称であり、行政地域の正式な名称ではなかった。江戸の中心は御府内と言われ、それは江戸城の外堀を中心とした地域だった。
江戸時代初期、正保の武蔵国絵図には、国分寺、恋ヶ窪、貫井などの村や、街道筋の一里塚、国分寺崖線や狭山丘陵を示す山などが描かれていて、等高線など無い時代でも高低差を的確に表現している。

伊能図と国絵図の違い

伊能図は天体測量と歩測とで作られたが、その武蔵野の地図には、江戸城の築城に必要な石灰を運んだ青梅街道が描かれていない。その理由は、歩いて測量した場所以外は描かれていないのである。伊能図は基本的には海岸線に重点を置き、内陸は歩いて測量した輪郭だけを描いた地図であった。他方、国絵図は全国の村々をくまなく描いている。国分寺市史に掲載されている江戸時代の村絵図には、この辺りの田、畠、野川やその分水なども描かれている。

人間と水

近代水道が普及する以前、人間の住まいは水場から離れることが出来なかった。それ故国分寺村の起源も崖線に沿った元町からスタートしており、深井戸を掘る技術の無かった時代は水の得られない台地の上には住めなかった。玉川上水が引かれた後も、水を自由に使えない台地には多くのひとが住まなかった。江戸時代の終わり頃からようやく上総掘りという深井戸掘削の技術が開発されたが、それも高価で普及せず、近代水道が引かれるまでは水源の無い場所には人は住めなかった。水道が普及する以前、国分寺に移転して来た東京経済大学の水は、今でも全て単独の地下水源であり、災害時には貴重である。

(ここで1906年―明治39年―の2万分の1の国分寺の地図を、3本の等高線と野川の流れ、府中街道や国分寺街道を含む4種類の道路などを色塗りして、国分寺崖線で特徴づけられた町の地形や田、畑、林、甲武鉄道を通すために掘り下げたり盛り土した姿を実感し、地図・地形図の読み方を学ぶ作業を聴講者全員で行った。同じような作業を1999年の1万分の1の地図でも行った。)

何処までが海だったか?

縄文時代に海だった場所は標高がせいぜい2~3mまでの場所で、60~80mの国分寺は勿論、新宿あたりも海ではなかった。

              8月会報国分寺崖線と湧き水1

国分寺崖線
 
1952年に地質学者(福田 理と羽鳥謙三)が命名した学術用語で、立川の砂川から世田谷の成城まで約20kmの10~20mの標高差のある崖が、武蔵野台地を武蔵野面と立川面に分けている。崖線の形成は2万年前の氷河期と考えられる。
                                              
ライフライン

災害時に貰える飲用水は一人2リットルだが生活用水としては最少5リットルは必要。現在の水道はコンピューター制御で電気が止まれば全て止まってしまい、首都圏3500万人分の水は全国の給水車を集めても賄えない。地震災害を考えると水は井戸、便所は汲み取り、燃料はプロパンガスが理想的で、井戸程貴重なものはない。国分寺は人口12万人だが、手漕ぎ井戸が15基しかない。但し、東京経済大学は地下250mから電動ポンプで汲み上げた地下水で全て賄っている。併しそれとは別に、創立120周年事業として手漕ぎ井戸の掘削を提言している。

      8月会報芳賀先生5
                         8月会報芳賀先生地図

(質疑応答)

Q1 国分寺村と恋ヶ窪村とどちらが古いか?
A1 恋ヶ窪の方が古いと思われる。

Q2 国分寺北口の第2小学校の裏手は川の浸食によるハケか?            
A2 国分寺駅の北口一帯には谷地形が入りこんでいるが、ハケではない。ドンキホーテの裏にも窪地があ
  る。窪地は水による浸食地形で、すり鉢地形という人がいるが、浸食の場合どこかに必ず流出口があ
  るから、それは間違い。

Q3 国分寺市は新田開発で出来た村か?
A3 元町の古い村と、新田開発で人が住みついた部分との二つにより出来た町である。

Q4  本多新田の水は玉川上水から引いた水か?
A4 その通りだが、水田ではなく畑地である。               
                                 (文責:天野 肇)



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