私の戦後70年

特別企画     わたしの戦後70年 その6(最終回)

12月会報B-29その2
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                                    12月会報サラリーマン2


 ―オペラ「人道の桜」を観て思う―               関塚 恵子   
 
 7月26日、早稲田大学大隈記念講堂公演の杉原千畝物語、オペラ「人道の桜」を観てきました。第二次世界大戦の最中、外交官杉原千畝は己の信念を貫き、多くの避難民に救いの手を差しのべました。その歴史は今や小中高生の知る所です。オペラは千畝の勇気ある決断、力強さ、優しさを巧みに表現、ピアノ伴奏、歌唱力、合唱も良く、何よりも真実に基づき、年月掛けての作曲、脚本、演出、監修による総合芸術が、聴く者の琴線に触れたと思います。「人道の桜」は今年葉桜の5月、リトアニアの首都ビリニュス国立劇場で世界初演、今回の凱旋帰国特別公演となりました。今から10数年前、杉原の人道精神を称えて、リトアニアに植えられた日本からの桜苗木が年々成長し、人々に安らぎを与えていると聞きます。生きようと必死で杉原に救いを求めた避難民と、リトアニアの地で懸命に咲く薄紅色の桜を重ね合わせた時、「2度と戦争はあってはならない」と思う1人です。

  私の戦後70年                        髙橋 和夫   
 私が敗戦を知ったのは9才、小学4年生の時であった。それから70年、日数にすると25,000日余り、色々な事が思い出される。特に、昭和20年8月15日昼の昭和天皇のいわゆる玉音放送は国立市の大学官舎で聞いた。当時のラジオ放送は音が不鮮明で内容がよくわからなかったが、放送が終わってからあるお母さんから「これからはどのような社会になるかわかりませんが、皆んな元気で生きて行きましょう」と言われた事が印象に残り、改めてこれからの行く末を心配したことを覚えている。それからは食糧不足、物資不足と両親は苦労の連続であったが、私は地元の中学・高校・大学と進学することができたのは、会社を定年退職してからの生活を含め、大変うれしく思っている。敗戦からの70年にわたり、日本は平和国家として戦争にまきこまれることなく現在に至った事を本当に有難く思っている。しかし、最近国会では安全保障関連法が成立しそうな段階にあり、今後日本が再び戦争に参加する事がないよう、国民全体で考える必要を痛感している。

  私の戦後七十年                         川越 尚子  

 昭和二十年三月、房総の空から真っ赤に燃えさかる北西の空を見たのは女学校三年生の時だった。もう東京には帰れないと恐怖に震えた記憶から七十年が過ぎ、純情だった少女も傘寿をすぎ、人生の終盤にさしかかった。
 復興の兆しが見え始めた三年後、東京に戻ることができた。ないもの尽くし貧乏のどん底暮らしで生きることに必死だったが、まわりも皆同じように再建に懸命だったと思う。
東京に戻れただけでもラッキーという時代であった。飢えていた勉学に励み、やがて結婚し三児の母になって、夫と二人で懸命に生き抜いてきた。 
 私が山を始めたのは十代の終り頃である。少ない時間とお金を何とかやりくりして男性に交じって山に向かった。結婚後は夫と二人で国内はもとより海外の山も十数回経験した。決して裕福とは言えない生活ではあったが充実していた。今は夫も逝き、一人で周囲の方々にやさしい手を差し伸べていただきながら自由に楽しく暮らしている。
   登山歴 半世紀過ぎ 老いを知る
 
  戦後70年の思い出                        西谷 清   

 昭和20年8月15日、西八王子にあった東京陸軍幼年学校生徒。終戦の詔勅は明瞭に聞きとれた。天皇の「五(ご)内為(だいため)ニ裂ク」の言葉に14歳の心が揺れた。復員に決まるが、家は4月末に空襲で全焼、両親の出身地の廣島に帰る。原爆死していた妹の葬式で初めて蓮如上人の経文を耳にする。「朝に紅顔ありて夕べに白骨となる」・・鮮烈な印象だった。転校先の中学が再開したが、原爆に焼け爛れた友人の顔は正視できなかった。
 生涯、海軍の技術者だった父を始め、約一年の間に四人の家族を失う。やっと入った旧制高校は一年で学制の切り替え。無謀にも東京の大学で学ぶことになったが、学資が足りず、「先に社会の方を変えたい」と学生運動に参加。原水爆実験禁止・破防法反対等に動くが、潮目の変化、生活の行き詰まりで永かった学生生活を終え「普通の」就職をめざすが容れられず、マネージメントサイドで漸く中小企業に入る。以後中小企業を転々、高度成長期にも世の歪みに苦しんだが、その間の見聞と人間関係は貴重だった。
 既に傘寿を過ぎるが、これからも一市民として平和への道を歩みたい。

  わたしの70年                          渡辺 義廣 
 
 「わたしの戦後70年」は、まさに私の年齢と一致している。その中で子や孫に残せる記憶と体験を戦後の混乱、復興期に絞って伝えたいと思う。
 戦後期は極めて不衛生で私の大事な人を疫痢で亡くしているし、身体検査では下着を着てない児とか耳が聞こえないとのことで先生が調べるとコルク栓のようになった耳くそが出てきたり、髪にDDTをかけられた真っ白な女子を見たりした。当時は紙芝居が楽しみだったが見るための水飴が買えず道の小石を口に入れ遠くからそれを見てたのを思い出す。一方当時はモノトーンの時代で同級生の女子の家に招かれ、真っ赤な緋毛氈のひな壇と色鮮やかな人形が忘れられない。これらはいずれもさげすみとか嫉妬の気持ちではなく、みんな大差ないし、大人も似たものとの感覚があって、イジメとか騙すこととはほど遠い、妙に一体感のあった時代であったなーと感じている。

  戦後70年目に想うこと                    中村 真知子 
 
 昭和20年4月に満州大連向陽国民学校に入学、8月15日終戦と同時に鉄筋3階建ての立派な学校から、汚い平屋建ての中国の小学校(公学堂)に移され、中国人部落を通っての通学は、追はぎ、石投げにあったり、ソ連兵が黒パンを投げて集まって来た子供達に機関銃を発砲し、逃げ回る子らをみて喜んでいる様が未だに脳裏から離れません。
 日本人への食べ物の流通がなくなり、売り食いで鳥の餌のコウリャン(紅梁)で飢えをしのぐあり様や、戦争が終わっている筈なのに、同級生の親たちは会合が有ると言って呼び出され、次々とソ連に連れて行かれたリ、ソ連兵の強盗、略奪、女性への暴行、狼藉や現地人の集団略奪ごとなどで、残された女、子供の日本人はどれだけ痛い目に遭い、目に余る事だらけでした。私の叔父も終戦間近に大連港で魚雷にやられ海の藻屑になり、その後の家庭は大変惨めなものになってしまいました。この悲惨な事実は、内地におられた方々に知って頂きたいことなのです。
 父は当時、輸送船乗りで何回もの沈没で九死に一生を得たお陰で、戦後私も教育を受けられ就職、結婚、子育て、老人介護を経て、あっという間に後期高齢者です。日本人の誇りを忘れず、親の恩や、今までいろいろな方に助けられたことに感謝しつつ、人に喜ばれることをモットーに生きて行きたいと思っています。

  私の戦後70年                          加藤 武夫 
 
 私は終戦の年、4歳でした。
その年の夏、桑名にB29により焼夷弾が落とされました。私は、母の背に負ぶさって防空壕に逃げ隠れたこと、北の空が真っ赤に燃えていたことを今もはっきりと覚えております。「私の戦後70年」は、この記憶から始まります。
終戦の年から十数年は、戦後の混乱と食料不足等により、生きるのに精一杯の時代でした。
 我が家は、私を含め兄弟姉妹5人が小学校中学校に通っていました。新聞、牛乳配達をして家計の足しにするのは当たり前、雨の日は、満足に傘も無く、破れた番傘をさし、穴の開いたズック靴を履いていた記憶があります。しかし、今にして思うと、春は一面に蓮華、菜の花が咲き乱れ、夏は蛍が飛び交い、鮎を追いかける清澄な川が流れていました。それこそ田舎の原風景、桃源郷の中で、貧しくも心豊かに過ごせた良き時代でもありました。
 学生時代を田舎で過ごし、高度経済成長時代のさきがけ、東京オリンピックが開催された昭和39年に東京に赴任しました。以降、正に日本の経済発展とともに働きに働いた時代でもありました。
昭和63年に昭和の時代が終わり、平成の時代に入りました。平成8年9月、55歳で定年退職し、第二の勤め先も平成18年5月、65歳で退き、完全に自由の身となり現在に至っております。終戦の年から61年、東京に出て42年が経過していました。その間、三島事件、日航機墜落事故、地下鉄サリン事件、東日本大震災にも遭遇しました。平成時代の始めにはバブル経済も崩壊、以降20年以上もの長きに不況が続いてきました。昨年頃から、漸く経済も明るさが見えてきたように思える状態ですが、経済の発展は、生活の豊かさ便利さをもたらしましたが、反面、豊かな自然を破壊してきました。私の故郷も高速道路が走り、蓮華、菜の花が咲き誇った田畑は、コンビナートと住宅に変わってしまいました。
 戦後70年、うち42年は過酷と言えば過酷なサラリーマン人生でしたが、総じて良き70年であったのではないかと思っています。日本は、この70年を契機として総決算し、次の30年後、戦後100年の節目に向けてより平和で成熟した国づくりを目指して欲しいと思います。
 私は、その節目を是非この目で確認したいと願っています。その時、私は104歳です。

                     12月挿絵1

       特別企画「わたしの戦後70年」は5月以降、全6回にわたり掲載しました。
       延べ35名の多くの方からご投稿をいただきました。
       投稿してくださった方、読んでくださった方に心からのお礼を申し上げます。


私の戦後70年


      
      
      
   特別企画  私の戦後70年(その5)       
                                                                                                                      
   私の戦後70年                     中島 美智子  
 戦後まもなく三鷹駅近くの古びた家々の中に、木の香りのする建物が建ち、皆の目を引いた。オルガンの音と共に賛美歌が流れていた。英語の聖書と賛美歌が貰えるよと聞き、ある日曜日ドアを開けた。 
 金髪の女性の言語は分からなかった。それが私が聞いた初めての英語であった。キリスト教は理解できなかったが、英語に魅せられた。中学生の頃、私は将来数学をしようと思っていたが、いっぺんにアメリカファン、英語ファンになった。当時御成門にあったアメリカ文化センターで、フルブライト以外にも2,3の州に奨学金がある事を知る。個人面談も含む数回の試験を経て一枚の切符を私が頂ける事になった。7月1日横浜出帆の貨客船上に。ヴァンクーバーまでの15日の船旅と、ミシガン州への3日の大陸横断バスの一人旅。9月から翌年8月末までの厳しい丸一年の留学期間だった。半世紀を経て、今でも多くの友人との交流が続いている。
 
  椰子の粉                         彌(や)吉(よし) 久  
 戦後の数年間、みんないつも“おなか”を空かせていた。飢えのための人格そう失も垣間みた。闇米に手を出さず、配給米だけで飢え死にした大学教授の話も聞いた。私は遊学中の一時期、広島で間借りして自炊していた。S23年頃、食糧配給に“砂糖”のこともあり、これは穀物に交換できた。ある時“椰子の実の粉”の配給を受けた。両手2杯ほどあったろうか? シメタと喜んだが、さて食べるには?粉に少し水を加えると、ドロッとはなったが全く粘り気がない。手持ちの僅かな味噌を鍋に仕立て、“椰子のドロリ”を流し込んだが、パーッと散ってしまう。2~3回やっても…。夢は泡と消え、さらなる空腹だけが残った。私は今でも食べ物を粗末に扱うことはできない。そして「食糧」と「水」と「エネルギー」の安定供給を案ぜずにはいられないのです。これは私たちの「生活スタイル」を考え直す問題でもありましょう。
 
 かつて国分寺の紅顔の少年、いま白頭の老人となりぬ        池田 茂雄  
 小学生(S26-32年)の大半を北多摩郡国分寺町多喜窪(現、泉町3丁目)で過す。近くを下河原線(現、武蔵野線の一部)が走り、その東に深い林に囲まれた広大な国鉄鉄道学園教習所(現、武蔵国分寺公園周辺)があった。母親に連れられ日用品を買いに行くには、中央線を跨ぎ、日立研究所の南の塀に沿って歩き、北口の商店街に出る。楽しみはチェリー文庫で「小学何年生」を買って貰う事だ。教習所はカブトムシを取ったりする遊びの基地。野川の湧き出る所で沢蟹を取るまでが遊びの範囲だった。がある時、駅の近くに行った、東の森に火の手が上るのを見る。木造二階建てが、火に煽られゴウゴウ燃え盛っている。東経大の寮です!(S31年)。同年、南口が出来、バスも走り便利になる。「三石堂」、洋食のビル「ヨネザワ」、さらばオババの「国分寺書店」・・・。平成元年、現在の姿の駅ビルが出来る。そして今、北口駅前の開発が進む。夢のようです、一瞬の。

  
私の戦後70年(少年のとき)                   松田 眞   私は、終戦を小3で 疎開先の叔母の家で単身で(約2年間)むかえ、翌年母と合流し父の中国からの復員、弟の誕生を経て、昭22年農地開放で不在地主(父の母親が在住)の父の実家に再び家族と離れ単身で移住し、旧長野市外の山村の小学校へ通学し、自作農として土地(山林含)の確保の目的を果たしました。家族4人揃って生活出来る様になったのは、小6(昭23)になってからでした。今から思うとあの異常ともいえる生活環境を不満も疑問もなく受け入れていたのは、世の中全体が食糧が不足し貧しく、同じ様な事が周囲でごく普通に起きていて、格差を感じなかったからでしょうか。
 この様な体験が、私の人生にどの様な影響をあたえたかわかりませんが、あれから約70年たった現在、平和で平穏な生活を満喫出来るのは、あの時のご褒美ともいえると思っています。
 
 私の小学校入学式の頃                      上村 享子(みちこ)  
 60数年前の私の小学校入学の頃は、戦争が終わって間もないので、街に出れば傷痍軍人が目に付き、浮浪児が居ました。とにかく物がないのです。ランドセルなどあるはずもなく、母が自分の帯をほどき、帯芯で手縫いで作り、赤いチューリップのアップリケをしてくれました。靴もなく殆どの子はゲタです。 
 杉並区立桃井第四小学校に入学。一年生は四クラスで二部式授業でした。テレビもゲームもなく、空き缶1つあれば近所の子供たちが集まり、缶ケリをして遊びました。クラスの誰かが雑誌を買ってもらうと、クラスの皆が廻し読みです。配給制で米の代わりにザラメが配給になったりしました。
 今と比べると貧しいですが周りも同じような生活です。いじめもなく、毎日楽しく遊び呆けていました。両親(教員)は給料が物価上昇に追いつかず、生活は大変だった様です。


  釜石の災害                          鶴野 哲夫   
 三年前の東日本大震災で妻の生地岩手の釜石は大津波で甚大な損害を蒙ったが、昭和8年にも津波被害の洗礼を受けている。隣の遠野育ちの私にとって縁者も多数居り、看過できない土地である。70年前の中学2年の頃を思い出し、戦災と津波の街釜石の早期復興を願い当時のことに触れたい。
 釜石は昭和20年夏に本州唯一の艦砲射撃を2度も受けた。当時私は勤労奉仕、軍事教練に明け暮れる日々を過ごしていたが、校庭で遠雷のようなズドンズドンと不気味な音を耳にし、約40㎞先の釜石の艦砲射撃を知らされた。街は焦土と化し、富士製鉄の製鉄所の機能が破壊され、死者750余名を記録。今回の大震災は連日報道を耳目にしたが、過去の艦砲射撃の記事は目にしないように思う。人は年を経るにつれ災害を忘れる。釜石は大津波と艦砲射撃の街であることも知って頂きたい。





私の戦後70年

特別企画  わたしの戦後70年 その4

 グラマン機の追撃を逃れて                             山本 昇  

 8月の初旬、茨城県阿字ヶ浦海岸、昼どきの日差しは滅法暑い! 突然砂丘の蔭からグラマンの機銃掃射だ、防空壕に逃げ込む矢先に左腕をかすめて弾は地中に埋没、切迫の間際で命は助かった! 夜間は艦砲射撃が数日続き戦況は激増。終戦の詔勅の拝聴は同所の航空技研の講堂で15歳であった。翌日任務を解かれ帰郷(府下三田村)の途へ、車窓から見る帝都の街は硝煙と化し地獄絵の様だ。
戦後復興は“先ずは建設だ”と想う!終戦後の混迷期5年間は家業に従事し建築家を志望、専門学校へ、設計事務所~建築・設備会社等で実務を重ね一級建築士の資格を取得、主に現場監督で住宅、病院、ホテル、空港、国内各地の大手工場、プラントの設計、海外プラント輸出、スーパーバイザー(比国バターン)等、出張や赴任で数多の業務で苦労もするが達成感は格別だ。家主は留守がち、母子家庭の様だと家内は言う。平和産業の復興に微力を尽くす企業戦士?、互いに激励と感謝。PCでの検索でバターンに45年前建設した建物が歴然と健在、大感動!生きてて良かった!

 私のお雛様はお米になった                            八代 はるよ 
 
 女の子にとってのお雛様はその年齢なりに思いを込めて3月3日のお節句を祝い楽しみます。しかし私の大切なお雛様は戦中の食糧難の時、母は私の了解を得てお米と交換したのです。小学生だった私はどの位の量のお米だったのか知りませんが。
それからは3月3日に近づくと折り紙で作ったり、色紙に色鉛筆で描いたりして祝っていました。やがて戦後、世の中も景気が良くなり、店頭に雛人形がかざられるようになり、雛人形の未練は忘れられず、立派な段飾り人形でなく、可愛いい出逢いの人形を求める事にしようと、旅の思い出や又友人のお祖母さんが郷里の人形を作ってくださった忘れられない感謝の人形。……今年久し振りに緋毛氈に全雛人形を披露すると50組余。箱から1組1組出す度に目を細め人形達は喜んでくれた。求めた時はいつも私自身気分が良い時の出逢いのご縁だった事かも。そして、私から離れたお雛様が沢山の人形を連れて来てくれたのかも、と思えた。今は私の唯一の宝物になっている。

  私の戦後70年                                  岡安 隆  
 
 昭和23年、三鷹の小学校に入学しました。木造の2階建ての校舎1棟、教室が足りず、1年、2年は1週ごとに早番、遅番のローテションでした。中学校の映画教室で「ビルマの竪琴」を鑑賞しました。ビルマの山野に日本兵の屍が累々とあり、ビルマの人々が弔っている光景を見た水島上等兵が日本に帰らずに、ビルマで、日本兵を弔うと決意した生き方に感動をしました。平成17年にあるグループが「ビルマの竪琴」を上映しました。赤紙で招集され、南方の戦場に送られ、屍となってカラスや野鳥の餌になり、つつかれている光景をみて、英霊を慰めたかったので翌年の8月15日靖国神社に参拝にいった。長蛇の列で、実に騒々しかった。翌年は8月16日に参拝をした。長蛇の列ではあったが前年の15日の騒々しさはなかった。靖国参拝を政治問題化することなく、赤紙で戦地に送られ、戦死した国民を国家が弔うべきだと痛感した。

私の戦後70年

  特別企画      わたしの戦後70年 その3

  戦後70年目の発見から想う                 神尾 龍三郎  
 『私達は丁度その時、沖縄への特攻機の出撃直前の現場に行き合わせたのだった。時刻は午後四時半頃であった。やがて軍の関係者が滑走路脇を一列に並んで見ている中を最初の一機が助走に入り、そのまま離陸して太平洋の方向へ飛び立って行った。二機目も飛び立って行った。こうして神尾幸夫少尉、M軍曹は出撃して行った』 以上は、2009年某誌に掲載された内容の一部。戦後70年目、漸く知る兄の最後の様子である。今年4月、PC上にこの文を発見した後、昂ぶる気持を抑え兄の記憶の糸をたぐってみた。 
 当時私は横浜に居住。14才離れた兄は家庭の事情で学生の頃から東京の親戚で生活。兄弟と言っても遠い存在で、面影は断片的にしか浮ばない。寧ろ戦後の混乱から父死亡の昭和31年を経て、私が社会人になるまでの苦難の時代を克服しえたのは、兄の軍人恩給のお陰と感謝の念がつのる。
 不思議な霊に導かれる現象を経験すると、兄が情報化時代を生き抜く術を発信してると想ってしまう。

  私の戦後70年                        川村 僖壹  
 紙数が限られているので印象の強い2点を記す。
①戦争のこと
 生れは、日本が真珠湾を攻撃した日の約半年前である。終戦間際の頃、空襲警報と防空壕に避難したことを憶えている。2つの防空壕の内部の様子なども。わずか4才になったばかりだったはず、戦争がいかにショッキングな大事件だったかと思わざるを得ない。忘れられないし、忘れてはならない。
②技術革新のこと
 小さな頃から文系が苦手で大学は工学部に進み、腕時計メーカーに就職した(1965年)。時計の高精度化などの研究開発に携わったが、この間ゼンマイ式の機械時計から電子式の水晶時計へと大きく変革した。その後プリンターの開発に移動し、ここでもインパクト式からインクジェット、レーザープリンタへと大きく変化した。
 時計とプリンターという小さな分野ではあるが、大きな技術革新の渦中で身をもって体験出来たことは、技術者冥利に尽きる。また、現在も非常勤だが、その線上にいる。初就職以来丁度50年になる。ただ、これらの技術は既に成熟期を迎えている。

  社会の一員としての自覚を                      天川 恒男   
 「スマホをおいて机に向おう」とは、某予備校の呼掛けです。ある大学の入学式で学長が「スマホをやめてコミュニケーションと自分で考える力を養おう」と挨拶されました。賛否両論が渦巻く中で、私はこれに賛成です。電車内や駅で、優先席で操作する若者は良く見かける風景です。走って駅のエレベーターに乗る者もおります。日本では「大人も漫画を読んでいる」と、驚いた外国人もいるとか。暗い昭和と明るい昭和を過ごしてきた世代は、車内の席に坐るな、階段を使えとか教えられてきました。エネルギー問題にしても、24時間営業のパチンコ店、駅で数多い自販機など見ると、浪費としか思えません。今こそ国民のひとりひとりが自覚し、日本の美風と伝統を活かし、世界の中の日本の存在価値を示す時がきている様に思えます。子供の時から家族制度の中で、培われた躾や伝統は、現代でも大切で、「日本の心を世界の中で活かす」ことになる、と思います。

  私の戦後70年                          三澤 博  
戦後が始まって間もない1949年11月25日、当時12才の私の身の上に起きた重大事件を“私の戦後70年史”の1ページとして披瀝いたします。
食糧難の時代でもあり、中学校で生徒たちが自前のおでんを食べたり甘酒を飲んだりするだけのバザを行うことになり、農家の子は、米を少し持ってくるようにとのことで、私は持って行きました。友達と甘酒を一口飲み、茶碗を置いて、顔を挙げた瞬間、右眼の最奥部に激痛が走りました。誰かが投げた、おでんの竹串が右眼のど真ん中に突き刺さったのです。
友達に伴われて行った保健室で、若い保健の先生が、これは失明だと言いました。眼科医院に行こうと、先生に伴われ校門を出たところで偶然に父親が通りかかり、3人で行ったのですが、この先生にも即刻失明を宣告されました。こんな訳で、12才から今日まで、丹下左膳でありますが、このことで何らかのハンディや不利を感じたことはありませんし、私の自分史の起点となっていると感じております。

  戦後70年を迎えて思い出すこと                  高根 佳子    
 戦争の想い出を話すのは気が重いが、楽しかった子供の時代が急に止まってしまい、自由は無く、あらゆる物が無くなり、食事すらまともに出来なかった。頻繁な空襲を避けて疎開するため、姉と一緒に東海道線で8時間もかけて豊橋で乗り換え、豊川の父の郷里に泊った時は、東京ではもう買えないとろろ芋と白いご飯を久し振りに食べることができ、近くの小川ではタニシも取れた。天竜川沿いの山の中での疎開生活は、水道もガスも無く、山の湧き水をバケツで運んだり、隣の農家から炊事用の薪を買ったり、ろくな野菜も取れず苦労が多かった。兄と一緒に貯金箱に貯めたお金は全てお国に献金させられた。
 昭和20年5月の空襲で焼けた渋谷の家の庭の防空壕には、大事な荷物を埋めて疎開したのだが、それが戦後のインフレの下での筍生活を支えてくれる貴重な資産になった。あれから70年、平和を守っているこの日本を大切にしたい。

  自分史                           小田切 豊雄  
 「自分史」ブームであり、「自分史の書き方」なる講座も花盛りと聞く。「自分史」と云う言葉の命名者は、東経大時代の恩師、色川大吉東経大名誉教授であることを文献で知った。
先生は89歳の現在もご壮健である。学生時代に先生の講座を受講したことも懐かしい。著書、『自分
史』・・「その理念と試み」の冒頭文で「個人史は、当人の“生きた証”である。・・」と“自分史の勧め”を説いている。私も戦中に生を受け71歳の今日まで健康な生活を送ってきた事に感謝し、8都府県に暮らした慌ただしかった44年間のサラリーマン時代を回顧しつつ、短文の日記を、長年書き続けている。平凡なささやかな人生であったが、私にとっては無限な想い出を秘めた喜怒哀感の貴重な足跡である。夫婦2人から2人の息子夫婦、孫3人の9人家族になった事に嬉しさを覚え、今日も日記帳に“個人史”をしたためている。後日、家族の誰かが、斜め読みでも目に留めてくれたら幸いである。
  
                                    7月号挿絵
                                      挿絵:小田切豊雄


  わたしの戦後70年                        天野 肇
 誕生から敗戦迄の16年間、徹底した皇民化教育と軍国主義で育った私の戦後70年は、飢餓やハイパーインフレとの戦いに加えて、全ての価値観を一から問い直す心の整理から始まった。占領下の大学生活も、勉強はそこそこに、何故あの愚かな戦争を続けたのか、あの惨禍を招いた責任は誰がどう取るのか、今後日本や自分自身の進むべき道は何か等を考え続ける日々だった。卒業後商社に就職したが、翌年肺を患い、二年間の療養を余儀なくされた。敗戦に次ぐ闘病は、大きな挫折感で私を苦しめたが、その後は当時の基幹産業だった鉄鋼の原料輸入に携わり、通算10年の海外勤務を含む43年間、無我夢中で走り続けた。65歳で退職し、地元のボランテイア活動や趣味で平穏な日々を楽しみ20年を超すが、敗戦で得た歴史的教訓を忘れたかに見える現政権の政策が、国力を過信して日本が犯した戦前の過誤を再び繰り返すリスクを予感させ、心休まる日の少ない昨今である。 

  私の、戦後70年                        山田 健   
 戦争を知らない♪「団塊世代」のしんがり。1949年に生まれた時から競争の激しい人生がスタート。幼なじみの思い出♪はカンけり、三角ベースにイナゴ取り。少年時代♪からやれ模擬試験、やれ塾通い。狭い門をかいくぐり大学へ。ツタの絡まる学生時代♪は学園紛争真っ只中。ノンポリはのんびりサークル活動と雀荘入り浸り。いつでも夢を♪見ていたら、青田刈りなどつゆ知らず、気が付けば就職戦線も閉幕間近。滑り込んだ先でも”成果主義”と名を変えた競争だ。老いてあくせくしないように早目にこんにちは赤ちゃん♪。定年退職後も年金やら社会保障やら、生涯圧迫が続く世代。社会に最大の貢献をした最大のお荷物。介護中の親父の歳になるまであと30年、ああ恍惚のブルース♪よ。時の流れに身をまかせ♪、うまくお陀仏するのも競争だろうか? 振り返れば金のかからない趣味と、かけがえのない友人だけ残った。新しい出会いも楽しみだ。まあいいか。

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特別企画「わたしの戦後70年」は5月号に始まり、好評の内に今月号で3回目の掲載になります。あわせて19名の方に登場いただきました。この企画は12月号まで続ける予定で、引き続き原稿募集中です。題名と名前を除いた本文が、原稿用紙1枚以内、または文字数400字以内でお願いします。
 まだ若いから戦後70年は語れないとおっしゃる方も、これまであなたが生きた時代と、その時々に考えられたことを書いてお送りください。お待ちしています。
  
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  お詫びと訂正
  会報6月号(284号)の特別企画「わたしの戦後70年」に誤りがありました。
  6月号7ページ、古希以後 の文中、下から3行目、『某学会誌(月刊)の最終ゲラ構成を手伝って
  いる』は『某学会誌(月刊)の最終ゲラ校正を手伝っている』の誤りです。お詫びして訂正します。

                                   (編集責任者:大崎尚子)                      

私の戦後70年

  特別企画      わたしの戦後70年 その2

◎わたしの戦後70年                          内古閑 徹  

 戦後70年の節目を考えるとき、私は敗戦までの14年の人生を無視できない。14年間これが生きがいと教えられた日本国の正義が一挙に崩壊し盡くされた衝撃は、戦後70年の今も決して忘れられない。
その自分が70年前には想像すらしていなかった今の生活は、感謝しながら年寄りを過ごしている。敗戦時の混濁とした凄まじい世相の中を、家族友人に支えられ乘り越えられた。180度転換した日本は平和憲法を与えられ、民主主義を謳歌して今日に至った。
我が国はひたすら米国の核の傘の下で、国内の繁栄に目配りした為、戦前の近隣二国に対する歴史教育が欠如した。これから2020年に向け、マスコミは拍車をかけて一途猪突猛進するだろう。それからこそが、私の14年の轍を踏むことなく、戦後70年で築き上げた若者の叡智で、真に自立した日本を存續させることを切望する。

 ◎ 終わらない戦争                        大場 俊昭  

 敗戦国日本の貧しい時代に、私は少年期を過ごした。米の凶作なども重なり、食べるものがまったく不足していた。配給パンと米国から支援された脱脂粉乳で命をつないでいた。
いつの頃か、生まれ育った小さな街に進駐軍がやってきた。子供たちは米兵に付いて回った。当時としては贅沢品であるチューインガムやチョコレートがもらえるからである。
周りでは、当時の日本には似つかわしくない派手な服装と化粧をしたお姉さんたちが、米兵と腕を組んで闊歩していた。その後、小学校には金髪や肌の黒い子供たちが増えた。
進駐軍が撤退した。ラッキーな女性は娘と共に米国に渡った。幸福に暮らしていると風の便りで知った。同級生の姉たちは子供と共に捨てられた。雇用救済などある筈がない。
従軍慰安婦が騒がれて久しい。終戦前の話である。軍が関与したか詳しくは知らないが、日本人の名誉が傷つけられている。慰安婦は、いまだに戦後のけじめを付けてくれない。
   
 ◎思い出の品、学びのあと                    小倉 和代  

 姉と二つ違いの兄、その六歳下の末っ子の私、ともに戦後を生き、今は回想の中でしか会えぬ二人ながら、ただ懐かしさだけが去来する。東京にも戦火が及ぶ頃、独り両親の故郷へ疎開し、その時兄は同じ教科書を手元に置き、東京と疎開先との手紙のやり取りで家庭教師をしてくれた。
小学校を終え、女学校受験で東京に戻った日、あの東京大空襲で家は焼失、止む無く受かった女学校から転校した故郷群馬の学校の校舎も、まさに終戦の日の前夜、焼け落ちたという不幸に見舞われて、私の戦後は始まった。お寺の本堂での授業、廃屋になっていた工場跡の仮校舎での勉学、六三三制の改革により、中学高校での卒業をして後、東京に戻りやっと家族全員での生活が戻ってきた経緯がある。
後年、仕事を終え退職後スペイン旅行をしたのが切っ掛けでスペイン語のクラスに席を置いている。実家の兄の本棚から失敬してきた参考書、折に触れ開いてみる、そこここに彼の勉学のあと、もう教えを乞うことも叶わずそれらを見る度思い出の中に心遊ばせる。

  ◎家族の戦後                          上原 祥孝   
 
 昭和15年生れで、玉音放送も知らない。歴史の先生だった父も翌年、公務の怪我から破傷風を病み、無念の中、世を去る。父の日記に戦況の悪化と空腹、子供と遊んだ様や兄や妹が腎臓を病み、私の中耳炎等で家中が大変等とあり、母との出会いから始まり、短いが生きた声が語る。
明治期、祖父が築いた土佐刃物「上原商店」は通信販売で儲け、ブリ大敷網への金融等で富を築いたが、長男の夭折等で没落。
父は養子であった。義祖母と病弱の母と4人の幼児はわずかに残った財産で戦後を生き延びた。私共兄弟は母子家庭奨学資金や育英資金で社会に出た。
妹は教師となり家庭を持ったが腎臓病で先年亡くなり、栄達した兄も腎臓で苦しんでいる。子や孫のいる私も少年の頃、病弱で情けなかったが、憲法に守られた幸せな時代を生きてきたとも云える。親以前の人々の精一杯造った政治の結果でもある。絶えず歴史を振り返りつつ、政治を他人任せにしてはならない。

  ◎蒸気機関車から新幹線へ                    丸嶋 一休  

 3月14日の北陸新幹線開業のフィーバーぶりは、かつて新幹線車両の設計、検査修繕に携わった私としては大きな喜びである。
私が鉄道に採用された昭和23年頃は蒸気機関車が主役であった。その後、その座はエネルギー効率のいい電車にとって代わられた。
とは言うものの、新幹線計画が始まった昭和35年頃は、モータリゼーションの台頭と鉄道事業斜陽論が相まって、世間では新幹線反対論が根強かった。鉄道に造詣が深い作家・阿川弘之氏が言い出された「四バカ論=世に四バカあり。万里の長城、ピラミッド、戦艦大和に新幹線。いまさら時代遅れの大建造物を作っても無用の長物。建設資金返済に苦しむだけだ」は反対派に大いに受けた。
鉄道技術のリーダーを自任していたフランスやドイツでさえ日本の新幹線計画を白い目で見ていた。
ところが開業後の発展ぶりはご承知のとおり。来年は北海道まで延伸され、国を挙げてその技術を世界に売り込みを図る昨今である。

  ◎古希以後                             宮原 昰中  

 古希を迎え、つづいて生涯最終の定年退職をし、これから「毎日が日曜日」というとき、小平市で「グーテンタークの会」を立ち上げようとしている人々の仲間に入れてもらった。爾来今年で9年目を迎えるが、いつのまにか企画の中心を担うことになっていることに気がついた。でもあと2年間、せめて10周年までは続けたいと思っている。会は月2回、外部講師による講演で勉強しているが、この先生選びがなかなか大変である。
還暦以後、特段の運動もしていないので、体力維持のため、バス・エレベータ・エスカレータには乗らないで歩くことを続けている。更に出不精にならないよう、出来る丈多くのイベントに参加し、250回/年で頑張っている。一方、ボケ防止のため、30年前から読書に力を入れていて、目標は飽くまでも高く、毎日1冊だが、当然未達である。又7年前からだが、某学会誌(月刊)の最終ゲラ構成を手伝っている。
こうすればPPKになれると信じている。(甘いか?)

  ◎戦後に失ったもの、得たものと日本の未来          黒住 精二   

 戦後 70年で日本が得たものは、連合国、米国の占領政策のもとで得た復興と飛躍的経済発展です。失ったものは古代より築いてきた良き日本と日本人の心です。21世紀になり、日本は軍事力の支配する無政府状態の国際社会や、国内の大震災、原発事故に翻弄され、暴力に頼らない力により日本の生存を図るべく、教育、啓蒙により日本の心の豊かさを取り戻し、人財(人材)育成により、"日本国家の品格と日本人の品格を確保" することが肝要と気付きました。日本の国家の品格と日本人の品格は「武士道の精神」と「神道のこころ」を勉強、実践することで形成できると言えます。参考には藤原正彦氏の「国家の品格」、 新渡戸稲造の「武士道」、 葉室頼昭の「神道のこころ」があります。
一方、京都大学附属研究所「こころの未来研究センター」では、本来の日本人のこころの豊かさ、良さを再認識するのに大変役立ちます。ひたすら平和、安全とお題目を唱えるだけでは、家庭や社会、日本国家の平和と発展は期待できないなと思う。 



引き続き、「わたし戦後70年」の原稿を募集します。題名と名前を除いた本文が、原稿用紙1枚以内、または文字数400字以内でお願いします。
締め切りは7月末日です。


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