私の戦後70年

  特別企画      わたしの戦後70年 その3

  戦後70年目の発見から想う                 神尾 龍三郎  
 『私達は丁度その時、沖縄への特攻機の出撃直前の現場に行き合わせたのだった。時刻は午後四時半頃であった。やがて軍の関係者が滑走路脇を一列に並んで見ている中を最初の一機が助走に入り、そのまま離陸して太平洋の方向へ飛び立って行った。二機目も飛び立って行った。こうして神尾幸夫少尉、M軍曹は出撃して行った』 以上は、2009年某誌に掲載された内容の一部。戦後70年目、漸く知る兄の最後の様子である。今年4月、PC上にこの文を発見した後、昂ぶる気持を抑え兄の記憶の糸をたぐってみた。 
 当時私は横浜に居住。14才離れた兄は家庭の事情で学生の頃から東京の親戚で生活。兄弟と言っても遠い存在で、面影は断片的にしか浮ばない。寧ろ戦後の混乱から父死亡の昭和31年を経て、私が社会人になるまでの苦難の時代を克服しえたのは、兄の軍人恩給のお陰と感謝の念がつのる。
 不思議な霊に導かれる現象を経験すると、兄が情報化時代を生き抜く術を発信してると想ってしまう。

  私の戦後70年                        川村 僖壹  
 紙数が限られているので印象の強い2点を記す。
①戦争のこと
 生れは、日本が真珠湾を攻撃した日の約半年前である。終戦間際の頃、空襲警報と防空壕に避難したことを憶えている。2つの防空壕の内部の様子なども。わずか4才になったばかりだったはず、戦争がいかにショッキングな大事件だったかと思わざるを得ない。忘れられないし、忘れてはならない。
②技術革新のこと
 小さな頃から文系が苦手で大学は工学部に進み、腕時計メーカーに就職した(1965年)。時計の高精度化などの研究開発に携わったが、この間ゼンマイ式の機械時計から電子式の水晶時計へと大きく変革した。その後プリンターの開発に移動し、ここでもインパクト式からインクジェット、レーザープリンタへと大きく変化した。
 時計とプリンターという小さな分野ではあるが、大きな技術革新の渦中で身をもって体験出来たことは、技術者冥利に尽きる。また、現在も非常勤だが、その線上にいる。初就職以来丁度50年になる。ただ、これらの技術は既に成熟期を迎えている。

  社会の一員としての自覚を                      天川 恒男   
 「スマホをおいて机に向おう」とは、某予備校の呼掛けです。ある大学の入学式で学長が「スマホをやめてコミュニケーションと自分で考える力を養おう」と挨拶されました。賛否両論が渦巻く中で、私はこれに賛成です。電車内や駅で、優先席で操作する若者は良く見かける風景です。走って駅のエレベーターに乗る者もおります。日本では「大人も漫画を読んでいる」と、驚いた外国人もいるとか。暗い昭和と明るい昭和を過ごしてきた世代は、車内の席に坐るな、階段を使えとか教えられてきました。エネルギー問題にしても、24時間営業のパチンコ店、駅で数多い自販機など見ると、浪費としか思えません。今こそ国民のひとりひとりが自覚し、日本の美風と伝統を活かし、世界の中の日本の存在価値を示す時がきている様に思えます。子供の時から家族制度の中で、培われた躾や伝統は、現代でも大切で、「日本の心を世界の中で活かす」ことになる、と思います。

  私の戦後70年                          三澤 博  
戦後が始まって間もない1949年11月25日、当時12才の私の身の上に起きた重大事件を“私の戦後70年史”の1ページとして披瀝いたします。
食糧難の時代でもあり、中学校で生徒たちが自前のおでんを食べたり甘酒を飲んだりするだけのバザを行うことになり、農家の子は、米を少し持ってくるようにとのことで、私は持って行きました。友達と甘酒を一口飲み、茶碗を置いて、顔を挙げた瞬間、右眼の最奥部に激痛が走りました。誰かが投げた、おでんの竹串が右眼のど真ん中に突き刺さったのです。
友達に伴われて行った保健室で、若い保健の先生が、これは失明だと言いました。眼科医院に行こうと、先生に伴われ校門を出たところで偶然に父親が通りかかり、3人で行ったのですが、この先生にも即刻失明を宣告されました。こんな訳で、12才から今日まで、丹下左膳でありますが、このことで何らかのハンディや不利を感じたことはありませんし、私の自分史の起点となっていると感じております。

  戦後70年を迎えて思い出すこと                  高根 佳子    
 戦争の想い出を話すのは気が重いが、楽しかった子供の時代が急に止まってしまい、自由は無く、あらゆる物が無くなり、食事すらまともに出来なかった。頻繁な空襲を避けて疎開するため、姉と一緒に東海道線で8時間もかけて豊橋で乗り換え、豊川の父の郷里に泊った時は、東京ではもう買えないとろろ芋と白いご飯を久し振りに食べることができ、近くの小川ではタニシも取れた。天竜川沿いの山の中での疎開生活は、水道もガスも無く、山の湧き水をバケツで運んだり、隣の農家から炊事用の薪を買ったり、ろくな野菜も取れず苦労が多かった。兄と一緒に貯金箱に貯めたお金は全てお国に献金させられた。
 昭和20年5月の空襲で焼けた渋谷の家の庭の防空壕には、大事な荷物を埋めて疎開したのだが、それが戦後のインフレの下での筍生活を支えてくれる貴重な資産になった。あれから70年、平和を守っているこの日本を大切にしたい。

  自分史                           小田切 豊雄  
 「自分史」ブームであり、「自分史の書き方」なる講座も花盛りと聞く。「自分史」と云う言葉の命名者は、東経大時代の恩師、色川大吉東経大名誉教授であることを文献で知った。
先生は89歳の現在もご壮健である。学生時代に先生の講座を受講したことも懐かしい。著書、『自分
史』・・「その理念と試み」の冒頭文で「個人史は、当人の“生きた証”である。・・」と“自分史の勧め”を説いている。私も戦中に生を受け71歳の今日まで健康な生活を送ってきた事に感謝し、8都府県に暮らした慌ただしかった44年間のサラリーマン時代を回顧しつつ、短文の日記を、長年書き続けている。平凡なささやかな人生であったが、私にとっては無限な想い出を秘めた喜怒哀感の貴重な足跡である。夫婦2人から2人の息子夫婦、孫3人の9人家族になった事に嬉しさを覚え、今日も日記帳に“個人史”をしたためている。後日、家族の誰かが、斜め読みでも目に留めてくれたら幸いである。
  
                                    7月号挿絵
                                      挿絵:小田切豊雄


  わたしの戦後70年                        天野 肇
 誕生から敗戦迄の16年間、徹底した皇民化教育と軍国主義で育った私の戦後70年は、飢餓やハイパーインフレとの戦いに加えて、全ての価値観を一から問い直す心の整理から始まった。占領下の大学生活も、勉強はそこそこに、何故あの愚かな戦争を続けたのか、あの惨禍を招いた責任は誰がどう取るのか、今後日本や自分自身の進むべき道は何か等を考え続ける日々だった。卒業後商社に就職したが、翌年肺を患い、二年間の療養を余儀なくされた。敗戦に次ぐ闘病は、大きな挫折感で私を苦しめたが、その後は当時の基幹産業だった鉄鋼の原料輸入に携わり、通算10年の海外勤務を含む43年間、無我夢中で走り続けた。65歳で退職し、地元のボランテイア活動や趣味で平穏な日々を楽しみ20年を超すが、敗戦で得た歴史的教訓を忘れたかに見える現政権の政策が、国力を過信して日本が犯した戦前の過誤を再び繰り返すリスクを予感させ、心休まる日の少ない昨今である。 

  私の、戦後70年                        山田 健   
 戦争を知らない♪「団塊世代」のしんがり。1949年に生まれた時から競争の激しい人生がスタート。幼なじみの思い出♪はカンけり、三角ベースにイナゴ取り。少年時代♪からやれ模擬試験、やれ塾通い。狭い門をかいくぐり大学へ。ツタの絡まる学生時代♪は学園紛争真っ只中。ノンポリはのんびりサークル活動と雀荘入り浸り。いつでも夢を♪見ていたら、青田刈りなどつゆ知らず、気が付けば就職戦線も閉幕間近。滑り込んだ先でも”成果主義”と名を変えた競争だ。老いてあくせくしないように早目にこんにちは赤ちゃん♪。定年退職後も年金やら社会保障やら、生涯圧迫が続く世代。社会に最大の貢献をした最大のお荷物。介護中の親父の歳になるまであと30年、ああ恍惚のブルース♪よ。時の流れに身をまかせ♪、うまくお陀仏するのも競争だろうか? 振り返れば金のかからない趣味と、かけがえのない友人だけ残った。新しい出会いも楽しみだ。まあいいか。

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特別企画「わたしの戦後70年」は5月号に始まり、好評の内に今月号で3回目の掲載になります。あわせて19名の方に登場いただきました。この企画は12月号まで続ける予定で、引き続き原稿募集中です。題名と名前を除いた本文が、原稿用紙1枚以内、または文字数400字以内でお願いします。
 まだ若いから戦後70年は語れないとおっしゃる方も、これまであなたが生きた時代と、その時々に考えられたことを書いてお送りください。お待ちしています。
  
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  お詫びと訂正
  会報6月号(284号)の特別企画「わたしの戦後70年」に誤りがありました。
  6月号7ページ、古希以後 の文中、下から3行目、『某学会誌(月刊)の最終ゲラ構成を手伝って
  いる』は『某学会誌(月刊)の最終ゲラ校正を手伝っている』の誤りです。お詫びして訂正します。

                                   (編集責任者:大崎尚子)                      

私の戦後70年

  特別企画      わたしの戦後70年 その2

◎わたしの戦後70年                          内古閑 徹  

 戦後70年の節目を考えるとき、私は敗戦までの14年の人生を無視できない。14年間これが生きがいと教えられた日本国の正義が一挙に崩壊し盡くされた衝撃は、戦後70年の今も決して忘れられない。
その自分が70年前には想像すらしていなかった今の生活は、感謝しながら年寄りを過ごしている。敗戦時の混濁とした凄まじい世相の中を、家族友人に支えられ乘り越えられた。180度転換した日本は平和憲法を与えられ、民主主義を謳歌して今日に至った。
我が国はひたすら米国の核の傘の下で、国内の繁栄に目配りした為、戦前の近隣二国に対する歴史教育が欠如した。これから2020年に向け、マスコミは拍車をかけて一途猪突猛進するだろう。それからこそが、私の14年の轍を踏むことなく、戦後70年で築き上げた若者の叡智で、真に自立した日本を存續させることを切望する。

 ◎ 終わらない戦争                        大場 俊昭  

 敗戦国日本の貧しい時代に、私は少年期を過ごした。米の凶作なども重なり、食べるものがまったく不足していた。配給パンと米国から支援された脱脂粉乳で命をつないでいた。
いつの頃か、生まれ育った小さな街に進駐軍がやってきた。子供たちは米兵に付いて回った。当時としては贅沢品であるチューインガムやチョコレートがもらえるからである。
周りでは、当時の日本には似つかわしくない派手な服装と化粧をしたお姉さんたちが、米兵と腕を組んで闊歩していた。その後、小学校には金髪や肌の黒い子供たちが増えた。
進駐軍が撤退した。ラッキーな女性は娘と共に米国に渡った。幸福に暮らしていると風の便りで知った。同級生の姉たちは子供と共に捨てられた。雇用救済などある筈がない。
従軍慰安婦が騒がれて久しい。終戦前の話である。軍が関与したか詳しくは知らないが、日本人の名誉が傷つけられている。慰安婦は、いまだに戦後のけじめを付けてくれない。
   
 ◎思い出の品、学びのあと                    小倉 和代  

 姉と二つ違いの兄、その六歳下の末っ子の私、ともに戦後を生き、今は回想の中でしか会えぬ二人ながら、ただ懐かしさだけが去来する。東京にも戦火が及ぶ頃、独り両親の故郷へ疎開し、その時兄は同じ教科書を手元に置き、東京と疎開先との手紙のやり取りで家庭教師をしてくれた。
小学校を終え、女学校受験で東京に戻った日、あの東京大空襲で家は焼失、止む無く受かった女学校から転校した故郷群馬の学校の校舎も、まさに終戦の日の前夜、焼け落ちたという不幸に見舞われて、私の戦後は始まった。お寺の本堂での授業、廃屋になっていた工場跡の仮校舎での勉学、六三三制の改革により、中学高校での卒業をして後、東京に戻りやっと家族全員での生活が戻ってきた経緯がある。
後年、仕事を終え退職後スペイン旅行をしたのが切っ掛けでスペイン語のクラスに席を置いている。実家の兄の本棚から失敬してきた参考書、折に触れ開いてみる、そこここに彼の勉学のあと、もう教えを乞うことも叶わずそれらを見る度思い出の中に心遊ばせる。

  ◎家族の戦後                          上原 祥孝   
 
 昭和15年生れで、玉音放送も知らない。歴史の先生だった父も翌年、公務の怪我から破傷風を病み、無念の中、世を去る。父の日記に戦況の悪化と空腹、子供と遊んだ様や兄や妹が腎臓を病み、私の中耳炎等で家中が大変等とあり、母との出会いから始まり、短いが生きた声が語る。
明治期、祖父が築いた土佐刃物「上原商店」は通信販売で儲け、ブリ大敷網への金融等で富を築いたが、長男の夭折等で没落。
父は養子であった。義祖母と病弱の母と4人の幼児はわずかに残った財産で戦後を生き延びた。私共兄弟は母子家庭奨学資金や育英資金で社会に出た。
妹は教師となり家庭を持ったが腎臓病で先年亡くなり、栄達した兄も腎臓で苦しんでいる。子や孫のいる私も少年の頃、病弱で情けなかったが、憲法に守られた幸せな時代を生きてきたとも云える。親以前の人々の精一杯造った政治の結果でもある。絶えず歴史を振り返りつつ、政治を他人任せにしてはならない。

  ◎蒸気機関車から新幹線へ                    丸嶋 一休  

 3月14日の北陸新幹線開業のフィーバーぶりは、かつて新幹線車両の設計、検査修繕に携わった私としては大きな喜びである。
私が鉄道に採用された昭和23年頃は蒸気機関車が主役であった。その後、その座はエネルギー効率のいい電車にとって代わられた。
とは言うものの、新幹線計画が始まった昭和35年頃は、モータリゼーションの台頭と鉄道事業斜陽論が相まって、世間では新幹線反対論が根強かった。鉄道に造詣が深い作家・阿川弘之氏が言い出された「四バカ論=世に四バカあり。万里の長城、ピラミッド、戦艦大和に新幹線。いまさら時代遅れの大建造物を作っても無用の長物。建設資金返済に苦しむだけだ」は反対派に大いに受けた。
鉄道技術のリーダーを自任していたフランスやドイツでさえ日本の新幹線計画を白い目で見ていた。
ところが開業後の発展ぶりはご承知のとおり。来年は北海道まで延伸され、国を挙げてその技術を世界に売り込みを図る昨今である。

  ◎古希以後                             宮原 昰中  

 古希を迎え、つづいて生涯最終の定年退職をし、これから「毎日が日曜日」というとき、小平市で「グーテンタークの会」を立ち上げようとしている人々の仲間に入れてもらった。爾来今年で9年目を迎えるが、いつのまにか企画の中心を担うことになっていることに気がついた。でもあと2年間、せめて10周年までは続けたいと思っている。会は月2回、外部講師による講演で勉強しているが、この先生選びがなかなか大変である。
還暦以後、特段の運動もしていないので、体力維持のため、バス・エレベータ・エスカレータには乗らないで歩くことを続けている。更に出不精にならないよう、出来る丈多くのイベントに参加し、250回/年で頑張っている。一方、ボケ防止のため、30年前から読書に力を入れていて、目標は飽くまでも高く、毎日1冊だが、当然未達である。又7年前からだが、某学会誌(月刊)の最終ゲラ構成を手伝っている。
こうすればPPKになれると信じている。(甘いか?)

  ◎戦後に失ったもの、得たものと日本の未来          黒住 精二   

 戦後 70年で日本が得たものは、連合国、米国の占領政策のもとで得た復興と飛躍的経済発展です。失ったものは古代より築いてきた良き日本と日本人の心です。21世紀になり、日本は軍事力の支配する無政府状態の国際社会や、国内の大震災、原発事故に翻弄され、暴力に頼らない力により日本の生存を図るべく、教育、啓蒙により日本の心の豊かさを取り戻し、人財(人材)育成により、"日本国家の品格と日本人の品格を確保" することが肝要と気付きました。日本の国家の品格と日本人の品格は「武士道の精神」と「神道のこころ」を勉強、実践することで形成できると言えます。参考には藤原正彦氏の「国家の品格」、 新渡戸稲造の「武士道」、 葉室頼昭の「神道のこころ」があります。
一方、京都大学附属研究所「こころの未来研究センター」では、本来の日本人のこころの豊かさ、良さを再認識するのに大変役立ちます。ひたすら平和、安全とお題目を唱えるだけでは、家庭や社会、日本国家の平和と発展は期待できないなと思う。 



引き続き、「わたし戦後70年」の原稿を募集します。題名と名前を除いた本文が、原稿用紙1枚以内、または文字数400字以内でお願いします。
締め切りは7月末日です。


特別企画

  特別企画      わたしの戦後70年 その1

「わたしの戦後70年」     遠藤 賢司  
 終戦時16歳、今では80を超えましたが、23歳で東京に就職、疎開先の茨城県から荻窪に転居、以後中野、国分寺と定年まで中央線で通勤してまいりました。その間、社会の情勢も大きく変わりました。就職は戦後の復興期で、朝鮮戦争が始まった年でした。数年後の高度経済成長時代は経済が好転、10%もの成長率で神武景気と呼ばれました。また所得倍増計画が立てられ、64年にはオリンピック開催、新幹線も開通しました。その後70年代の二度の石油ショックと、90年代初頭これまで高騰していた地価、株価の下落などバブルが弾け、経済の低迷期へと移ってきました。この様な変化の時代を、30数年車窓から見てまいりました。88年に定年退職してからは家でごろごろしていますが、満員電車で通勤していた頃が懐かしく思い出されます。この数十年間で線路は高架になり駅や沿線の町並みもすっかり変わりましたが、戦後80年の社会はどうなっているでしょうか。

「わたしの戦後70年」     宮武 光吉  
 戦後70年、敗戦時は8歳だったので、世代論でいうところの「焼け跡派」です。親たちが、家族の生活に汲々としているのを、横目で見ながら、貧しいながらも「自由」を満喫することができたと思います。どこもかしこも、復興の槌音が鳴り響き、人々は生き生きと暮らしているように見えました。
そのような世相に、一石を投じたのが、戦後15年目に起こった「60年安保」で、当時の大学生は多少なりとも、この運動の影響を受けました。学生大会、デモ、運動の高揚と、挫折。そして、各々はちりぢりになり、社会に巣立っていきました。考えてみると、あの騒動は、戦後というよりも、明治以来のわが国の近代化をめぐる混乱に終止符を打ったものではなかったかと思います。
あれから、55年たち、当時の岸首相の孫が登場し、戦後レジームの脱却を提唱しているのは、何たる歴史の皮肉な回帰なのだろうかと、沈思黙考する昨今です。

「極貧から社会奉仕へ」     近藤 裕(85歳)
 戦前に両親を亡くし、終戦の年に長兄は準戦病死、次兄は戦死、姉達は満州で、妹と二人孤児同様の身の上となった。鳥取県の海岸の町で、野草や海藻を拾って食べ、後に町工場の書生として居候で、やっと旧制中学を卒業した。昭和23年広島財務局に就職、公務員として20年勤務し、その間16年夜学や通信教育等で学び、税理士の資格を取得して開業した。
 それまでいろんな人にお世話になって一人前になったので、これからは世の中にご恩返しをしようと思った。立川税理士会会長、三多摩税理士会会長、全国税理士共栄会常務理事、国分寺市財産価格審議会会長、国分寺市固定資産評価審査委員会委員長、高齢者介護財団理事長、国分寺ロータリー・クラブ会長などを歴任し、現在もなお多忙な毎日を送っている。

「 思い出のビスケット」     倉田 晃   
 私は戦時中、九段から福井へ疎開し、昭和23年三鷹の小学校へ入学しました。当時自宅前は雨が降ると泥んこ道となり、時々糞尿を運ぶ牛車が通る状況でした。近所の周りの景色とはそぐわない大きな屋敷があり、そこの主は英国人で毎夕NHK ラジオで英語によるニュースを流すアナウンサーでした。時々庭を開放して映画会を催し、近くの親子が招かれました。広い庭は全面芝生で覆われ、室内はモダンなリビンクやキッチンが整い、我々の生活環境とはかけ離れた光景でした。映画会ではガムやチョコレート等に混じって、ミルクビスケットが必ず配られました。その味はそれまで味わった事のない、それはそれは舌に蕩けるような感触で、今でもあの甘さは忘れられません。その頃は砂糖がなく、サッカリンかズルチンで甘味を出すのが普通でした。そのミルクビスケットを最近見かけたので早速食べてみましたが、その時の方がずっと甘かったように思えました。

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   たくさんのご投稿をありがとうございました。順次掲載しますので、少しお待ちください。
   なお、引き続き、第2次募集をします。題名と名前を除いた本文が、原稿用紙1枚以内、
   または文字数400字以内でお願いします。締め切りは5月末日です。
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