私の戦後70年

特別企画     わたしの戦後70年 その6(最終回)

12月会報B-29その2
                     12月会報昭和1
                                    12月会報サラリーマン2


 ―オペラ「人道の桜」を観て思う―               関塚 恵子   
 
 7月26日、早稲田大学大隈記念講堂公演の杉原千畝物語、オペラ「人道の桜」を観てきました。第二次世界大戦の最中、外交官杉原千畝は己の信念を貫き、多くの避難民に救いの手を差しのべました。その歴史は今や小中高生の知る所です。オペラは千畝の勇気ある決断、力強さ、優しさを巧みに表現、ピアノ伴奏、歌唱力、合唱も良く、何よりも真実に基づき、年月掛けての作曲、脚本、演出、監修による総合芸術が、聴く者の琴線に触れたと思います。「人道の桜」は今年葉桜の5月、リトアニアの首都ビリニュス国立劇場で世界初演、今回の凱旋帰国特別公演となりました。今から10数年前、杉原の人道精神を称えて、リトアニアに植えられた日本からの桜苗木が年々成長し、人々に安らぎを与えていると聞きます。生きようと必死で杉原に救いを求めた避難民と、リトアニアの地で懸命に咲く薄紅色の桜を重ね合わせた時、「2度と戦争はあってはならない」と思う1人です。

  私の戦後70年                        髙橋 和夫   
 私が敗戦を知ったのは9才、小学4年生の時であった。それから70年、日数にすると25,000日余り、色々な事が思い出される。特に、昭和20年8月15日昼の昭和天皇のいわゆる玉音放送は国立市の大学官舎で聞いた。当時のラジオ放送は音が不鮮明で内容がよくわからなかったが、放送が終わってからあるお母さんから「これからはどのような社会になるかわかりませんが、皆んな元気で生きて行きましょう」と言われた事が印象に残り、改めてこれからの行く末を心配したことを覚えている。それからは食糧不足、物資不足と両親は苦労の連続であったが、私は地元の中学・高校・大学と進学することができたのは、会社を定年退職してからの生活を含め、大変うれしく思っている。敗戦からの70年にわたり、日本は平和国家として戦争にまきこまれることなく現在に至った事を本当に有難く思っている。しかし、最近国会では安全保障関連法が成立しそうな段階にあり、今後日本が再び戦争に参加する事がないよう、国民全体で考える必要を痛感している。

  私の戦後七十年                         川越 尚子  

 昭和二十年三月、房総の空から真っ赤に燃えさかる北西の空を見たのは女学校三年生の時だった。もう東京には帰れないと恐怖に震えた記憶から七十年が過ぎ、純情だった少女も傘寿をすぎ、人生の終盤にさしかかった。
 復興の兆しが見え始めた三年後、東京に戻ることができた。ないもの尽くし貧乏のどん底暮らしで生きることに必死だったが、まわりも皆同じように再建に懸命だったと思う。
東京に戻れただけでもラッキーという時代であった。飢えていた勉学に励み、やがて結婚し三児の母になって、夫と二人で懸命に生き抜いてきた。 
 私が山を始めたのは十代の終り頃である。少ない時間とお金を何とかやりくりして男性に交じって山に向かった。結婚後は夫と二人で国内はもとより海外の山も十数回経験した。決して裕福とは言えない生活ではあったが充実していた。今は夫も逝き、一人で周囲の方々にやさしい手を差し伸べていただきながら自由に楽しく暮らしている。
   登山歴 半世紀過ぎ 老いを知る
 
  戦後70年の思い出                        西谷 清   

 昭和20年8月15日、西八王子にあった東京陸軍幼年学校生徒。終戦の詔勅は明瞭に聞きとれた。天皇の「五(ご)内為(だいため)ニ裂ク」の言葉に14歳の心が揺れた。復員に決まるが、家は4月末に空襲で全焼、両親の出身地の廣島に帰る。原爆死していた妹の葬式で初めて蓮如上人の経文を耳にする。「朝に紅顔ありて夕べに白骨となる」・・鮮烈な印象だった。転校先の中学が再開したが、原爆に焼け爛れた友人の顔は正視できなかった。
 生涯、海軍の技術者だった父を始め、約一年の間に四人の家族を失う。やっと入った旧制高校は一年で学制の切り替え。無謀にも東京の大学で学ぶことになったが、学資が足りず、「先に社会の方を変えたい」と学生運動に参加。原水爆実験禁止・破防法反対等に動くが、潮目の変化、生活の行き詰まりで永かった学生生活を終え「普通の」就職をめざすが容れられず、マネージメントサイドで漸く中小企業に入る。以後中小企業を転々、高度成長期にも世の歪みに苦しんだが、その間の見聞と人間関係は貴重だった。
 既に傘寿を過ぎるが、これからも一市民として平和への道を歩みたい。

  わたしの70年                          渡辺 義廣 
 
 「わたしの戦後70年」は、まさに私の年齢と一致している。その中で子や孫に残せる記憶と体験を戦後の混乱、復興期に絞って伝えたいと思う。
 戦後期は極めて不衛生で私の大事な人を疫痢で亡くしているし、身体検査では下着を着てない児とか耳が聞こえないとのことで先生が調べるとコルク栓のようになった耳くそが出てきたり、髪にDDTをかけられた真っ白な女子を見たりした。当時は紙芝居が楽しみだったが見るための水飴が買えず道の小石を口に入れ遠くからそれを見てたのを思い出す。一方当時はモノトーンの時代で同級生の女子の家に招かれ、真っ赤な緋毛氈のひな壇と色鮮やかな人形が忘れられない。これらはいずれもさげすみとか嫉妬の気持ちではなく、みんな大差ないし、大人も似たものとの感覚があって、イジメとか騙すこととはほど遠い、妙に一体感のあった時代であったなーと感じている。

  戦後70年目に想うこと                    中村 真知子 
 
 昭和20年4月に満州大連向陽国民学校に入学、8月15日終戦と同時に鉄筋3階建ての立派な学校から、汚い平屋建ての中国の小学校(公学堂)に移され、中国人部落を通っての通学は、追はぎ、石投げにあったり、ソ連兵が黒パンを投げて集まって来た子供達に機関銃を発砲し、逃げ回る子らをみて喜んでいる様が未だに脳裏から離れません。
 日本人への食べ物の流通がなくなり、売り食いで鳥の餌のコウリャン(紅梁)で飢えをしのぐあり様や、戦争が終わっている筈なのに、同級生の親たちは会合が有ると言って呼び出され、次々とソ連に連れて行かれたリ、ソ連兵の強盗、略奪、女性への暴行、狼藉や現地人の集団略奪ごとなどで、残された女、子供の日本人はどれだけ痛い目に遭い、目に余る事だらけでした。私の叔父も終戦間近に大連港で魚雷にやられ海の藻屑になり、その後の家庭は大変惨めなものになってしまいました。この悲惨な事実は、内地におられた方々に知って頂きたいことなのです。
 父は当時、輸送船乗りで何回もの沈没で九死に一生を得たお陰で、戦後私も教育を受けられ就職、結婚、子育て、老人介護を経て、あっという間に後期高齢者です。日本人の誇りを忘れず、親の恩や、今までいろいろな方に助けられたことに感謝しつつ、人に喜ばれることをモットーに生きて行きたいと思っています。

  私の戦後70年                          加藤 武夫 
 
 私は終戦の年、4歳でした。
その年の夏、桑名にB29により焼夷弾が落とされました。私は、母の背に負ぶさって防空壕に逃げ隠れたこと、北の空が真っ赤に燃えていたことを今もはっきりと覚えております。「私の戦後70年」は、この記憶から始まります。
終戦の年から十数年は、戦後の混乱と食料不足等により、生きるのに精一杯の時代でした。
 我が家は、私を含め兄弟姉妹5人が小学校中学校に通っていました。新聞、牛乳配達をして家計の足しにするのは当たり前、雨の日は、満足に傘も無く、破れた番傘をさし、穴の開いたズック靴を履いていた記憶があります。しかし、今にして思うと、春は一面に蓮華、菜の花が咲き乱れ、夏は蛍が飛び交い、鮎を追いかける清澄な川が流れていました。それこそ田舎の原風景、桃源郷の中で、貧しくも心豊かに過ごせた良き時代でもありました。
 学生時代を田舎で過ごし、高度経済成長時代のさきがけ、東京オリンピックが開催された昭和39年に東京に赴任しました。以降、正に日本の経済発展とともに働きに働いた時代でもありました。
昭和63年に昭和の時代が終わり、平成の時代に入りました。平成8年9月、55歳で定年退職し、第二の勤め先も平成18年5月、65歳で退き、完全に自由の身となり現在に至っております。終戦の年から61年、東京に出て42年が経過していました。その間、三島事件、日航機墜落事故、地下鉄サリン事件、東日本大震災にも遭遇しました。平成時代の始めにはバブル経済も崩壊、以降20年以上もの長きに不況が続いてきました。昨年頃から、漸く経済も明るさが見えてきたように思える状態ですが、経済の発展は、生活の豊かさ便利さをもたらしましたが、反面、豊かな自然を破壊してきました。私の故郷も高速道路が走り、蓮華、菜の花が咲き誇った田畑は、コンビナートと住宅に変わってしまいました。
 戦後70年、うち42年は過酷と言えば過酷なサラリーマン人生でしたが、総じて良き70年であったのではないかと思っています。日本は、この70年を契機として総決算し、次の30年後、戦後100年の節目に向けてより平和で成熟した国づくりを目指して欲しいと思います。
 私は、その節目を是非この目で確認したいと願っています。その時、私は104歳です。

                     12月挿絵1

       特別企画「わたしの戦後70年」は5月以降、全6回にわたり掲載しました。
       延べ35名の多くの方からご投稿をいただきました。
       投稿してくださった方、読んでくださった方に心からのお礼を申し上げます。


私の戦後70年


      
      
      
   特別企画  私の戦後70年(その5)       
                                                                                                                      
   私の戦後70年                     中島 美智子  
 戦後まもなく三鷹駅近くの古びた家々の中に、木の香りのする建物が建ち、皆の目を引いた。オルガンの音と共に賛美歌が流れていた。英語の聖書と賛美歌が貰えるよと聞き、ある日曜日ドアを開けた。 
 金髪の女性の言語は分からなかった。それが私が聞いた初めての英語であった。キリスト教は理解できなかったが、英語に魅せられた。中学生の頃、私は将来数学をしようと思っていたが、いっぺんにアメリカファン、英語ファンになった。当時御成門にあったアメリカ文化センターで、フルブライト以外にも2,3の州に奨学金がある事を知る。個人面談も含む数回の試験を経て一枚の切符を私が頂ける事になった。7月1日横浜出帆の貨客船上に。ヴァンクーバーまでの15日の船旅と、ミシガン州への3日の大陸横断バスの一人旅。9月から翌年8月末までの厳しい丸一年の留学期間だった。半世紀を経て、今でも多くの友人との交流が続いている。
 
  椰子の粉                         彌(や)吉(よし) 久  
 戦後の数年間、みんないつも“おなか”を空かせていた。飢えのための人格そう失も垣間みた。闇米に手を出さず、配給米だけで飢え死にした大学教授の話も聞いた。私は遊学中の一時期、広島で間借りして自炊していた。S23年頃、食糧配給に“砂糖”のこともあり、これは穀物に交換できた。ある時“椰子の実の粉”の配給を受けた。両手2杯ほどあったろうか? シメタと喜んだが、さて食べるには?粉に少し水を加えると、ドロッとはなったが全く粘り気がない。手持ちの僅かな味噌を鍋に仕立て、“椰子のドロリ”を流し込んだが、パーッと散ってしまう。2~3回やっても…。夢は泡と消え、さらなる空腹だけが残った。私は今でも食べ物を粗末に扱うことはできない。そして「食糧」と「水」と「エネルギー」の安定供給を案ぜずにはいられないのです。これは私たちの「生活スタイル」を考え直す問題でもありましょう。
 
 かつて国分寺の紅顔の少年、いま白頭の老人となりぬ        池田 茂雄  
 小学生(S26-32年)の大半を北多摩郡国分寺町多喜窪(現、泉町3丁目)で過す。近くを下河原線(現、武蔵野線の一部)が走り、その東に深い林に囲まれた広大な国鉄鉄道学園教習所(現、武蔵国分寺公園周辺)があった。母親に連れられ日用品を買いに行くには、中央線を跨ぎ、日立研究所の南の塀に沿って歩き、北口の商店街に出る。楽しみはチェリー文庫で「小学何年生」を買って貰う事だ。教習所はカブトムシを取ったりする遊びの基地。野川の湧き出る所で沢蟹を取るまでが遊びの範囲だった。がある時、駅の近くに行った、東の森に火の手が上るのを見る。木造二階建てが、火に煽られゴウゴウ燃え盛っている。東経大の寮です!(S31年)。同年、南口が出来、バスも走り便利になる。「三石堂」、洋食のビル「ヨネザワ」、さらばオババの「国分寺書店」・・・。平成元年、現在の姿の駅ビルが出来る。そして今、北口駅前の開発が進む。夢のようです、一瞬の。

  
私の戦後70年(少年のとき)                   松田 眞   私は、終戦を小3で 疎開先の叔母の家で単身で(約2年間)むかえ、翌年母と合流し父の中国からの復員、弟の誕生を経て、昭22年農地開放で不在地主(父の母親が在住)の父の実家に再び家族と離れ単身で移住し、旧長野市外の山村の小学校へ通学し、自作農として土地(山林含)の確保の目的を果たしました。家族4人揃って生活出来る様になったのは、小6(昭23)になってからでした。今から思うとあの異常ともいえる生活環境を不満も疑問もなく受け入れていたのは、世の中全体が食糧が不足し貧しく、同じ様な事が周囲でごく普通に起きていて、格差を感じなかったからでしょうか。
 この様な体験が、私の人生にどの様な影響をあたえたかわかりませんが、あれから約70年たった現在、平和で平穏な生活を満喫出来るのは、あの時のご褒美ともいえると思っています。
 
 私の小学校入学式の頃                      上村 享子(みちこ)  
 60数年前の私の小学校入学の頃は、戦争が終わって間もないので、街に出れば傷痍軍人が目に付き、浮浪児が居ました。とにかく物がないのです。ランドセルなどあるはずもなく、母が自分の帯をほどき、帯芯で手縫いで作り、赤いチューリップのアップリケをしてくれました。靴もなく殆どの子はゲタです。 
 杉並区立桃井第四小学校に入学。一年生は四クラスで二部式授業でした。テレビもゲームもなく、空き缶1つあれば近所の子供たちが集まり、缶ケリをして遊びました。クラスの誰かが雑誌を買ってもらうと、クラスの皆が廻し読みです。配給制で米の代わりにザラメが配給になったりしました。
 今と比べると貧しいですが周りも同じような生活です。いじめもなく、毎日楽しく遊び呆けていました。両親(教員)は給料が物価上昇に追いつかず、生活は大変だった様です。


  釜石の災害                          鶴野 哲夫   
 三年前の東日本大震災で妻の生地岩手の釜石は大津波で甚大な損害を蒙ったが、昭和8年にも津波被害の洗礼を受けている。隣の遠野育ちの私にとって縁者も多数居り、看過できない土地である。70年前の中学2年の頃を思い出し、戦災と津波の街釜石の早期復興を願い当時のことに触れたい。
 釜石は昭和20年夏に本州唯一の艦砲射撃を2度も受けた。当時私は勤労奉仕、軍事教練に明け暮れる日々を過ごしていたが、校庭で遠雷のようなズドンズドンと不気味な音を耳にし、約40㎞先の釜石の艦砲射撃を知らされた。街は焦土と化し、富士製鉄の製鉄所の機能が破壊され、死者750余名を記録。今回の大震災は連日報道を耳目にしたが、過去の艦砲射撃の記事は目にしないように思う。人は年を経るにつれ災害を忘れる。釜石は大津波と艦砲射撃の街であることも知って頂きたい。





私の戦後70年

特別企画  わたしの戦後70年 その4

 グラマン機の追撃を逃れて                             山本 昇  

 8月の初旬、茨城県阿字ヶ浦海岸、昼どきの日差しは滅法暑い! 突然砂丘の蔭からグラマンの機銃掃射だ、防空壕に逃げ込む矢先に左腕をかすめて弾は地中に埋没、切迫の間際で命は助かった! 夜間は艦砲射撃が数日続き戦況は激増。終戦の詔勅の拝聴は同所の航空技研の講堂で15歳であった。翌日任務を解かれ帰郷(府下三田村)の途へ、車窓から見る帝都の街は硝煙と化し地獄絵の様だ。
戦後復興は“先ずは建設だ”と想う!終戦後の混迷期5年間は家業に従事し建築家を志望、専門学校へ、設計事務所~建築・設備会社等で実務を重ね一級建築士の資格を取得、主に現場監督で住宅、病院、ホテル、空港、国内各地の大手工場、プラントの設計、海外プラント輸出、スーパーバイザー(比国バターン)等、出張や赴任で数多の業務で苦労もするが達成感は格別だ。家主は留守がち、母子家庭の様だと家内は言う。平和産業の復興に微力を尽くす企業戦士?、互いに激励と感謝。PCでの検索でバターンに45年前建設した建物が歴然と健在、大感動!生きてて良かった!

 私のお雛様はお米になった                            八代 はるよ 
 
 女の子にとってのお雛様はその年齢なりに思いを込めて3月3日のお節句を祝い楽しみます。しかし私の大切なお雛様は戦中の食糧難の時、母は私の了解を得てお米と交換したのです。小学生だった私はどの位の量のお米だったのか知りませんが。
それからは3月3日に近づくと折り紙で作ったり、色紙に色鉛筆で描いたりして祝っていました。やがて戦後、世の中も景気が良くなり、店頭に雛人形がかざられるようになり、雛人形の未練は忘れられず、立派な段飾り人形でなく、可愛いい出逢いの人形を求める事にしようと、旅の思い出や又友人のお祖母さんが郷里の人形を作ってくださった忘れられない感謝の人形。……今年久し振りに緋毛氈に全雛人形を披露すると50組余。箱から1組1組出す度に目を細め人形達は喜んでくれた。求めた時はいつも私自身気分が良い時の出逢いのご縁だった事かも。そして、私から離れたお雛様が沢山の人形を連れて来てくれたのかも、と思えた。今は私の唯一の宝物になっている。

  私の戦後70年                                  岡安 隆  
 
 昭和23年、三鷹の小学校に入学しました。木造の2階建ての校舎1棟、教室が足りず、1年、2年は1週ごとに早番、遅番のローテションでした。中学校の映画教室で「ビルマの竪琴」を鑑賞しました。ビルマの山野に日本兵の屍が累々とあり、ビルマの人々が弔っている光景を見た水島上等兵が日本に帰らずに、ビルマで、日本兵を弔うと決意した生き方に感動をしました。平成17年にあるグループが「ビルマの竪琴」を上映しました。赤紙で招集され、南方の戦場に送られ、屍となってカラスや野鳥の餌になり、つつかれている光景をみて、英霊を慰めたかったので翌年の8月15日靖国神社に参拝にいった。長蛇の列で、実に騒々しかった。翌年は8月16日に参拝をした。長蛇の列ではあったが前年の15日の騒々しさはなかった。靖国参拝を政治問題化することなく、赤紙で戦地に送られ、戦死した国民を国家が弔うべきだと痛感した。
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