学習会要旨

◎5月23日(土)学習会の要旨

日 時:2015年5月23日(土)13:30~15:30 
場 所:東京経済大学 1号館 A405教室
テーマ:「東京~東京へ―オリンピックの原点」 
講 師:羽佐間 正雄氏(元NHKアナウンサー)                               
出席者:175名(会員:男性125名、女性45名、           
         非会員:男性3名、女性2名) 
 
 羽佐間先生2
                               
【講演要旨】 
  今年84歳になります。本籍は東京ですが、父親の転勤で九州に生まれました。小学校の4年の夏休み、昭和16年に上京しました。隣の教室に徳田先生という体格の良い先生がおられました。やさしい先生でした。私は田舎育ちで、小学生の頃から詩吟をやっていました。その先生が陸軍病院に慰問に行くので、私に詩吟をやるのか?と言われ、やりますと答えました。私しかいなかったのです。

  田舎から出てきたものですから教室に入る時、上履きというものがあると初めて知りました。田舎じゃ季節を問わず裸足でしたから。 でも詩吟は私一人であると知って誇りに思いました。
お弁当はスチームがあって暖めていたのを都会はすげーと思いましたね。
校庭がコンクリートで、「狭かあ・・」と思いながらその当時はやったバトン投げを競争していた記憶があります。4年生ですが、自分だけが、端から端までノーバウンドで、遠投記録で名をあげたものです。兄は6年の転校生ですから、半年くらいしかいなかったのですが、弟は2年生から入っております。女の子が田舎と違いこんなに綺麗な子がいたのかと吃驚しました。

 その当時、母親はお前は戦争に行ってお国のために死ねばよい、といった時代でした。入学の後、幼年学校を目指す学校に行ったのですが、白金小学校から3名でして、私と行った3人の内の一人が中村孝太郎という関東軍司令官、陸軍大将の息子でした。もう一人は鈴木君と言って靖国神社の宮司の息子だったと聞きました。
                                     
                                      オリンピックイメージ3

 さて、最初にお話ししておかないといけないのですが、マラソンの五輪に日本から、3回出た方が2人います。一人は君原健二さんはメダルを獲り、宇佐美彰朗さんはメダルには及びませんでした。この方が健康の為に、著述、講演活動をされています。以前にこの方にお会いした時、言われた言葉です。それは歩きましょう。できるだけ真っ直ぐ歩く、その時、足の5本の指で地をキャッチする、これを意識してくださいね。
私も大地を掴んでやっています。これを忘れないでメモしてください。できれば真っ直ぐ歩く、東京では大抵、相手が避けてくれますから(笑い)、これを習慣として身に付けて下さい。

東京オリンピック1

 昭和39年のオリンピック会場に足をはこんだ方、テレビで観戦された方はどのくらいいますか?(聴講者の反応)(笑い)その前、昭和15年に東京オリンピックは決まっておりました。戦火で怪しくなり中止になりました。戦前の開催はできなくなり、昭和39年はアジアに初めて来たオリンピックが東京でした。それを契機に、東名高速、新幹線が開通し、第三京浜も開通し、オリンピックを契機に景気も上がっていくことになりました。

 5年後のオリンピックは楽しみですね。もし、私が生きていれば89歳で、100m競争のラジオの実況をやってみたいなあと言いましたら、いいですね?と無責任なディレクターですね。(笑い)できれば89歳の時に、やってみたいな、夢です。
ここにありますオリンピックの原点は一点にあらず、時代時代により、あるに違いない。そうであれば皆さんにも幾つかの原点があるに違いないと思っております。

 最初に日本人が出たオリンピックは、ご存じですか? 1912年スウェーデンのストックホルムで開催されたオリンピックの時なのですね。選手2名、役員2名、出場した選手はマラソンの金栗四三さん、これが絶対優勝だと言われて出ていつた。それに短距離、当時、東大の選手の三島弥彦さんが出ていった。金栗さんは途中棄権、三島さんは大差で敗れた。
金メダル第一号は、昭和3年、アムステルダムで織田幹雄さんの三段跳びです。今回、取り壊されますが神宮外苑の国立競技場の第4コーナーに15.21mのポールが立つています。織田さんの記録にちなんだポールです。新しい競技場が出来る時、あの記念ポールも残して欲しいと思います。

 女性選手の参加はいつごろからでしょうか? アムステルダムで女子が参加したのが初めてです。当時の女子の短距離は100m、その次は800mしかなかったのですね。
人見絹枝さんが100mにメダルを取れなかった。そこで人見さんは800mに出たいと言った。監督はじめ、織田さんも止めるように諭した。最終的には本人の熱意に監督が同意したが、当日、監督から、本来100mの選手の人見さんがスタート後、ひたはしりを抑えるため、各コーナーに人を配して、セーブするように声を枯らした。人見さんもその指示にしたがい、前半を抑えに抑え、最後の50mを疾走し、2位に入った経緯があります。この人見さんはその後、毎日新聞の記者になり、24歳で亡くなりました。
女子が最初に金メダルをとった第一号は前畑秀子さんの平泳ぎです。前畑さんの金メダルを有名にしたのが実況中継でした。前畑さんは亡くなる直前まで子供達に水泳教室を主宰されていました。

                  前畑4

 私がNHKに入局し、最初に配属されたのが山口県の防府支局でした。その時、先輩からこれを聞いてみるように言われたのが先輩アナウンサー、河西三省さんの実況中継を録音した大きな円盤でした。
河西さんは飛び込んだ前畑さんが水中から浮き上がってから、前畑がんばれと言い続けました。当時、ベルリン在住の日本人が立ち上がり、レースが見えない状況で、前畑頑張れの連呼と、あと5メーターをしばらく言い続け、ゴールのコールはありません。(笑い)

 人見絹枝さんは100m競争で敗れ800mに出場して活躍した人、これこそ大和撫子、サッカーの女子チームで国歌を歌わない人が大和撫子と言えるでしょうか? 競技が始まる前に先進国でも後進国でもいずれの国家でも国歌を歌います。ところが日本の女子サッカーチームが国歌を歌わない、こんなことがあり得るでしょうか? 学校でも教えていないのですね。これで良いのでしょうか? いかなる場所でも国歌を歌えるようになって初めて大和撫子と言えるのでないでしょうか? 前畑ガンバレと連呼した生中継は、昭和 11年のベルリンオリンピックです。

 昭和7年のロスオリンピックの実況中継でアナウンサーを派遣したのですね。海外の事情、事前に契約金を支払わないと生放送が出来ないことを知らず、やむなく100mを架空の実況でやりました。その時間はは57秒もかかっていたそうです。

オリンピックイメージ1

 歴史は進み、昭和23年ロンドンオリンピックが開かれました。これが、第二次世界大戦が終了し、初めてのオリンピックでした。
その頃、日本は敗戦国ですが、オリンピックに是非出たい。当時、水泳にとんでもない選手が現れました。古橋広之進、橋爪四郎の2人です。向うところ敵なし、オリンピックに出してもらいたい、でも出られなかった。
それならばと、日本の流儀でロンドンオリンピックに合わせ、日本で水泳の試合をおこなった。ただし、時差があります。古橋、橋爪が競り合って、古橋1位、橋爪2位の結果を踏まえ、ロンドンオリンピックの結果を待つことになった。当時の通信状況から待つこと待つこと。でも溜飲を下げる。大差で問題にしない決着でした。

 そのあと、アメリカのエール大学の全米選手権に古橋、橋爪を呼ぼうではないかということになったが派遣する費用も大変、その折り、ハワイの2世、カリフォルニア在住者からの募金がありこの2人を筆頭に日本選手を派遣。この2人はぶっちぎりの優勝で米国民を驚かせた。まさに快挙でした。
この2人に会いたいとのことでアメリカの生理学者が訪日、2人にインタビューした。この生理学者が2人の栄養摂取量、練習量などを聞き、このままでは二人の命は3年も持たないと言われた。それを聞いた古橋広之進は生理学者の前に進み出て「先生のカロリー計算のなかに精神力と言う項目はないのですか?」と問い、その生理学者は一言も答えきれなかった。

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 週刊現代で昭和に活躍した人を3名選んでくださいという問いに、私は一名は古橋広之進、もう一名は山下泰裕、もう一名は王貞治を選びました。
古橋広之進の活躍ぶりは既に紹介の通りです。山下はロスのオリンピックで負傷しながら金メダルを勝ち取った選手です。フランス選手との戦いで負傷、決勝はエジプトのラシュワンと言う大男です。その時、エジプトの監督は日本人であった。その日本人監督からラシュワンに決勝に当たっての指示があった。「山下は負傷している、自分から仕掛けてくることはしないだろう。お前は開始後、60秒は動くな」と言われた。人間の弱さからか大男は監督の指示に従わず、立ち合い即、動いた。待っていた山下に返され、敗北することになります。
王さんのソフトバンク監督時、面談したおり、大手術を終えて復帰した彼は、「もう尋常な体ではありませんから、これからは昨日を還りみず、明日を思わず、日々今に生きることを考えます」と決意を明かした。流石ですね。本当に身に沁みて体に入ってきましたね。

 親と子、監督と選手の結び付きのなかで親不孝者を見たことがありません。昭和39年の東京オリンピックの第一号は重量挙げの三宅義信です。当時日本のJOCは日本チームを鼓舞するため、通常、後半に演技する種目を前にもってきた。
三宅義信はオリンピック開始1ケ月前から眠れなくなった。一計を講じて、会場に向かう前前夜に一睡もせず、試合前日に眠る作戦を立てた。そのお蔭もあり、試合前日はよく眠れ、会場に向かう。試合に行く過程で他の選手も眠れていないはず、ステージに上がったおり、胸を張り堂々と入場し、真暗い会場の5列目に両親の顔が見えた時、母親が霊になり飛んできて母親が一喝し、「負けるわけがない」と叱責。金メダルを取ることが出来た。

羽佐間先生4

【質疑応答】
1)羽佐間先生のアナウンサー時代の成功談、失敗談を聞かせください。
失敗の連続です。記憶に残る実況は、東京オリンピックで朝9時に放送席に座り、夜10時15分に放送を終了した、棒高跳びの競技です。棒高飛びの米国の選手が14回続いていた継続勝利に向かい、最後に飛び超え優勝してきたことを実況中継したこと。

2)5年先東京オリンピックのメダル数は?
メダルより諸外国との交流での新しい出会いを楽しみにしています。  (文責:赤池秀夫)




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