学習会要旨

◎3月14日学習会の要旨  
日時と場所:2015年3月14日(土)13:30~15:30 
      東京経済大学E102教室にて
テーマ:「与謝野晶子と源氏物語」
講 師:大岡玲(あきら)先生(東京経済大学経営学部教授、小説家)                                
出席者:197名(会員:男性131名、女性48名
        非会員:男性4名、女性14名) 

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【講演要旨】
はじめに
 今日は明治の代表的歌人、文学者、評論家であり、情熱的な恋愛表現を多く残した与謝野晶子についてお話しします。

第一部 源氏物語について
 源氏物語は1008年が初出、その頃までには相当な部分が成立していたらしい。平安時代は、810年に起きた「薬子の変」から1156年の「保元の乱」までの長きにわたり公式な死刑が行われなかったほど平和な時期。そうした時代背景のもと、優雅な女房文学が花開いた。作者は紫式部と言われているが、複数作者説があり、与謝野晶子も「若菜」以降は式部の娘、大弐三位の作と言っている。
                                               源氏物語yjimage

 『源氏物語』は天皇の子に生まれ才能容姿ともに優れながら、身分の低い女性を母として生まれたために正式の皇子になれなかった光源氏が、父の妻である藤壺と不倫の関係を結び二人の間の子が後に天皇となる、いわば王座奪還の物語であるが、世界最古の恋愛小説(恋の物語)としてすきのない構成を持っている。理想的男性として登場する光源氏は、実は乱倫のとんでもない男だが、それを辛うじて救っているのが、源氏の優しさであろうか。光源氏の性格を評して「心長し」と書かれるが、これは優しく、いつまでも見捨てない心のことをいう。光源氏は自分が縁を持った女性を見捨てることなく、六条院に住まわせ、生涯にわたって世話をする優しさを前面に押し出しているために、女性にも納得できる男性となっている。
 また、『源氏物語』は、中国の文学、とくに白居易の「長恨歌」『白氏文集』から引用が多く、多大な影響を受けている。書字の無かった古代日本は、中国から伝わった漢字を羅列することでやまと言葉を表現しようとした。これが万葉仮名である。そのうちに中国の詩を真似て日本人による漢文集「懐風藻」が作られた。日本はこのように中国の文化を学び、漢文による表現を尊びつつも、やまと言葉による文学にも熱中し、この二重構造を明治期まで保つことになる。
 こうした『源氏物語』に代表される日本文学独特の傾向は、「恋」の重視である。万葉集に始まる和歌の伝統、『源氏物語』以後に成立した物語群は「恋」をメインテーマとしている。歴代の天皇の重要な技能に、恋の歌を詠むということがあるほど、「恋」は日本文学の基盤となっている。反対に、先祖を祭り家系を伝えることが文化の中心である中国では、恋よりも友との別離を悲しんで盃を傾ける、詩を贈るといった「友情」が重視された。7世紀末に書かれた『遊仙窟』は主人公、張文成が黄河の源流を訪れる途中、神仙の家に泊まり一夜の歓を尽くすという「恋」のストーリーだが、この小説は日本でもてはやされる一方で中国では早くから佚書となっており、20世紀になって、日本から中国に逆輸入されたという経歴を持つ。「長恨歌」は日本では比翼の鳥、連理の枝と永遠の愛を賛美したが、中国では玄宗が貴妃を恋したために政治が乱れたという諌めの書の意味合いが強かった。これらの例からも、和漢の文化の違いがわかる。
 成立当時は漢文による文書や勅撰集など公的な歌集に比べると「女子供の手慰み」「絵空事」の位置付けであった『源氏物語』は、平安末期から鎌倉時代初期にかけて重要な歌作りの教養として徐々に聖典化していった。仏教が浸透していく中では、絵空事を著して恋という「煩悩」を広めすぎた紫式部の霊を救済する儀式(源氏供養)が行われることもあった。
 江戸期には松尾芭蕉が『源氏物語』を最高の文学と評価し、歌仙には必ず「恋」の座を設け、そのほとんどが源氏に由来するものであった。版本による刊行が始まり、庶民にまで『源氏物語』が普及することになった一方で、堅い武家中心社会では『源氏物語』をパロディした柳亭種彦の『偐(にせ)紫(むらさき)田舎源氏』などが弾圧をうけるなど、表だって「恋」を主題にしにくくなった。明治以降もしばらくこの傾向は続いたが、そこに爆弾を投げ込み、新たなルネッサンスを起こしたのが与謝野晶子である。晶子の活動は日本古来の恋の伝統を復活させながら、女性の自立にまで広がりを見せてゆく。

第二部 与謝野晶子と『源氏物語』のかかわり
                   与謝野晶子1
 晶子は堺の裕福な和菓子店に生まれた。姓は鳳(ホウ)、名は志ょう(ショウ)、後に名乗った晶子はペンネームである。読書人だった父の影響で本を好み、9歳で漢学塾へ通い、12歳で『源氏物語』を原文で読み初め、繰り返し読むなかで『源氏』は晶子の血肉となっていった。晶子の生涯における『源氏物語』の位置は、文学として彼女の創作活動を支えただけでなく、実人生での支えであったといえる。
 10代半ばからは帳場に立ち店の切り盛りをする利発な少女は、かつては栄えた堺の没落していく旧家の生活と、家族の為の犠牲的な生活に対し鬱々としたものを抱えていた。晶子はその気持ちを和歌に託し、20才頃から当時流行っていた投稿雑誌へ作品を寄せ始めたことをきっかけに、兄の友人、河野鉄南の浪速青年文学会に参加し、河野の紹介で与謝野鉄幹と知り合った。鉄幹は自信に満ち、愛に溢れ、ロマンチックで、やたら勇ましい「ますらお」的な歌を作り、日本中を沸かせていた存在であった。ふたりは1900年(明治33)に恋愛関係になる。
 鉄幹が同年創刊した文芸誌『明星』は、日本が坂の上へ登って行く時期に合致して一大旋風を起こした。晶子は翌年、恋愛と官能をおおらかに謳う歌集『みだれ髪』を刊行し、恋愛を排斥する傾向の時代に鉄幹への恋慕の情、恋への憧れ、妄想、官能を大胆に表現した。元々不倫関係であったふたりには批判が集中したが、後に結婚する。1904年(明治37年)には日露戦争に従軍した弟を嘆いて、「君死にたまふことなかれ」が『明星』に発表され、大論争となった。
                                     みだれ髪           
『みだれ髪』より:                        (みだれ髪:挿画:有島武二)
やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君
乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅ぞ濃き
ひとまおきてをりをりもれし君がいきその夜しら梅だくと夢みし
むねの清水あふれてつひに濁りけり君も罪の子我も罪の子
春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ
うしや我れさむる定めの夢を永久にさめなと祈る人の子におちぬ
罪おほき男こらせと肌きよく黒髪ながくつくられし我れ     

 古より漢文学を尊んできた日本人だったが、日清戦争で中国に勝利したことで日本語を見直す風潮が起こり、一葉、鷗外など漢文脈から出発した作家のあと、漱石に代表される言文一致の作家たちによって新しい文学が生まれた。浪漫主義が盛んになり、『明星』は早くに漢詩の呪縛から逃れている。『明星』は8年後に100号を以て廃刊となったが、晶子の文名は高まり鉄幹との名声の不均衡が生じた。この事実は鉄幹のルーズな女性関係の一因ともなり、晶子は傍らでおろおろしながらそれを見ている状態であったことが、自伝小説や私信などから読みとれる。人気凋落や大逆事件で友人を殺されたことなどに苦悩する鉄幹をヨーロッパに遊学させたあと、晶子は自分も鉄幹のもとに行きたくなり、資金調達のために『源氏物語』の翻訳に着手した。これは渡欧した翌年に『新訳源氏物語』として発刊されたが、全訳ではなくダイジェスト版である。帰朝後、再度『新新訳源氏物語』として二度目の翻訳を試みたが、宇治十帖まで終わっていたとされる原稿は関東大震災で焼失した。現在流布しているのは、1938年(昭和13年)から3度目に試みた『新新訳源氏物語(1~6巻)』である。子供の頃から慣れ親しみ、「紫式部と私との間にはなんらの仲介者なし」と述べるほど晶子の血とも肉ともなっていた物語であるから、時に意訳、省略、主語を補う、会話を口語体にするなど斬新で、やや漢文脈寄りながら明治の息吹を感じさせる切れ味のよい訳になっている。歌に翻訳を付けていない点、各帖の冒頭に自身の和歌を加えるなどの特色もある。
 浮気な光源氏を取り巻く女性の世界を訳すとき、晶子は古典を訳すという使命感や喜びだけでなく、自分自身の生活実感や恋愛経験と照らし合わせて、翻訳は身にしみるものであったことだろう。一時は平塚らいてふとも共闘関係にあって女性自立論の書き手でもあった晶子にとって、源氏物語は大きな示唆を与えたに違いない。晶子は随筆「産屋物語」の中で、男性に伍していくために、女性は模倣をやめて、女らしく見せようとする矯飾の心をなげうって自己の感情を練り、きっちり書いていく、そんな新しい女性の出現を祈っている。詩人、茨木のり子は『うたの心に生きた人々』の中で、女として母として歌人として理知と情熱に生きた晶子の生き方を称賛している。

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質疑応答
Q1:晶子には12人の子があったが、子孫はどうなっているか。
A1:外交官となった次男の秀、その子で大臣としても活動した馨がよく知られているが、銀行家、評論家として活躍するなど、子は多方面で才能を発揮した。このことからも晶子の母としての素晴らしさが理解できる。

Q2:平安朝の文学は恋愛ベース、中国文学は友情ベースとのことだが、文化の違いをもたらした原因は何か。
A2:男性中心で祖霊を祭ることが大切な中国では、家制度を乱さないためには女性に恋愛を表向きは禁じた。そのため、文学で表立って「恋」が扱われることが少ない。その情念は、熱烈な「友情」の表現に変化して文学表現になった。

Q3:恋多き女性だった晶子は、鉄幹以外に愛した人はいたのか。
A3:有島武郎との間に強い交情があったとみられるが、恋をしても一線を踏み越えたかどうかはわからない。                                  (文責:大崎 尚子)
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