学習会要旨

学習会要旨(2)



◎ 7月18日(土) 学習会の要旨
長谷川先生1

 日 時:7月18日(土) 13:30~16:30                             
 場 所:東京経済大学 2号館 B301教室  
 テーマ:「映画を読む会―真珠の耳飾りの少女」                                          
 講 師:長谷川 倫子先生(東京経済大学コミュニケーション学部教授)
 講 師:渡邉 尚先生
      (欅友会顧問・元東京経済大学教授・京都大学名誉教授)
 出席者:157名(会員:男性100名、女性:47名、
          非会員:男性2名、女性8名)


【Ⅰ】映画の紹介 

                        真珠の耳飾りの少女2
               
真珠の耳飾りの少女
長谷川 倫子
原作: トレイシー・シュヴァリエ Tracy Chevalier
原題: Girl with a Pearl Earring
監督: ピーター・ウエーバー Peter Webber
脚本: オリヴィア・へトリード Olivia Hetreed
配役:グリート:スカーレット・ヨハンソン Scarlett Johansson
     フェルメール:コリン・ファース Colin Firth
     ファン・ライフェン:トム・ウィルキンソン Tom Wilkinson
     ピーター:キリアン・マーフィー Cillian Murphy
     コルネーリア:アラキナ・マン Alakina Mann
     カタリーナ:エッシィ・デイヴィス Essie Davis
     マーリア:ジュデイ・パーフィット Judy Parfitt

 コミュニケーション学部でメデイア・コミュニケーション入門の講義をしている。今回の作品は受講している学生に、劇中に登場するカメラ・オブスキュラの実像を紹介するために鑑賞させたものである。私が担当しているこの学部向けの講義ではメデイアの歴史を解説しているが、絵画もその歴史的な流れの中で大事な一部を占めていることを理解してもらうために取り上げている。世界で最初の絵画はアルタミラの洞窟壁画だと言われ、絵画から写真へ、写真が動き映画へ、そしてテレビに繋がるという視覚メデイアの発展に絵画は重要な橋渡しの役割を担っている。

 今回の講義に登場するフェルメールは17世紀のオランダの画家で独特の世界観を持ち、世界の人を魅了し、日本でも人気のある画家の一人。この物語を書いたトレイシー・シュヴァリエはこの画家の「真珠の耳飾りの少女」に触発されて小説を書きあげ、この映画はその小説を映画化したものである。

 フェルメールは生涯オランダの古都デルフトで過ごし43歳で亡くなるまで30数点の作品を残した。当時市民国家となっていたオランダでは、画家のパトロンが従来の教会や王様から一般市民となり、ごく普通の市民まで絵画を購入するようになり、市民の日常的な姿が描かれた絵画がたくさん残されている。

フェルメールの絵画の特徴のひとつは青い色彩で、これには高価な顔料であるラピスラズリが用いられている。フェルメールは結婚して程なく裕福な義母の家に同居するようになり、当時、高価であったブルーの顔料―ウルトラマリーンブルーを義母の経済的支援を受けふんだんに使えるようになったと言われている。

もう一つは光の効果である。フェルメールの作品のスタイルは、そのほとんどが北向きの自宅のアトリエの左側の窓から差し込む光のなかに佇むうつむき加減の女性の一瞬を切り取ることで静謐な世界が作り出されている。「真珠の耳飾りの少女」の絵画には、それぞれの目と真珠の二箇所に白点が入れられていて、左上の窓から差し込むこの柔らかな光の効果が少女の魅力をましている。

当時を物語る興味深い装置もこの映画には登場する。日本から輸入した有田焼に感化されたものだと言われているデルフトのタイル。写真というメデイアに欠かせないカメラの前身とも言える装置であるカメラ・オブスキュラは当時の画家が外の風景を描くために使っていた。フェルメールが使っていた証拠はないが映画においては重要な場面にでてくる。このように細部までこだわることで17世紀のオランダがこの映画に再現されている。
 「真珠の耳飾りの少女」の絵画はオランダ、ハーグのマウリッツハイス美術館に所蔵されている。

【Ⅱ】「映画の解説」
 
17世紀オランダの天才画家フェルメールの一枚の肖像画に秘められた愛の物語をモチーフにした小説を映画化。少女の濡れた唇、憂いと情熱を湛えた瞳、今にも何かを語りかけてきそうな表情を浮かべた一枚の肖像画は3世紀以上の時を生き続けてきた。少女が女へと移り変わっていく瞬間の生の輝きを見事なまでキャンバスに封じ込めたこの絵画には、果たして、どういうドラマが存在したのか?その謎めいた背景を解き明かす名作と言える。

 舞台は、1665年、オランダのデルフト。ヒロインは、17歳のグリート。事故で失明した父に代わり家計を支えることになった彼女は、画家のフェルメールの家に住み込みの使用人として雇われた。子だくさんのフェルメール家で、一日中重労働に追われる毎日。
 そういうなかで、美的感覚の鋭さをフェルメールに認められたグリートは、絵の具の調合の仕事を任されるようになった。そして、狡猾な策略をめぐらせるパトロンのファン・ライフェン。彼の挑発に乗せられ、フェルメールは、グリートをモデルにした絵を描くことを決意する。      (文責:中村俊雄)

【Ⅲ】時代背景
渡邊先生2

16-17世紀という時代                                渡邉 尚

16-17世紀はオランダの黄金時代であり、この時代を短い時間で説明するのは極めて難しい。まとまりのない話に終わることになろうが、皆さん、すばらしい映画を堪能なさった後なので、腹ごなしにコーヒーでも一杯、のつもりで聞き流していただきたい。
まず、映画とつなげるために申しあげると、1650年ころデルフト、アムステルダム、ハーレムの小さな三角地域に700人の画工(画家は手工業者)がおり、年に7万枚を制作していた。黄金時代に制作された絵画の総数は数百万枚に上るだろうといわれている。絵画市場を支えたのは一般大衆であり、多くの画工は注文生産でなく、見込み生産で絵を描きまくった。絵画が大衆消費財になる社会は、どのようにして生まれたのか?

ところで、「コーヒー」は、オランダ語の「コフィ」から来ている。オランダ人がコーヒーを飲むようになったのは17世紀前半、したがって、出島の商館でオランダ人に接する日本人にもコーヒーを飲む機会があり、そのため「コフィ」が日本語にとりいれられた。
さて、先ほどから「オランダ」と呼んでいるが、正確には「ネーデルラント」である。ネーデルラントの一州「ホラント」をスペイン語・ポルトガル語で「オランダ」と呼び、これが日本語になった。新井白石は『西洋紀聞』(1709年)で「ヲゝランデヤ」、「ヲゝランド」と表記している。「オランダ」は江戸時代以来の由緒ある表記ということになる。とはいえ、ブリテンをイングランドと呼ぶのに似た便宜的用語法にすぎず、正確を期すためには「ホラント」と「ネーデルラント」を区別しなければならない。

資料の地図でお判りのように、ネーデルラントは南北に分かれる。北部が1581年に成立し、1795年まで存続した連合ネーデルラント共和国であり、これが今日のネーデルラント王国の原型である。南ネーデルラントとほぼ重なるのが、今日のベルギー王国である。また、16世紀のネーデルラントは海に浮かぶ島の集合の趣がある。これは何を意味するか。ネーデルラント人は中世から営々と干拓事業を重ね、少しずつ国土を拡げてきた。それはいまでも続いている。干拓地の排水用の風車はのどかな景観を生み出しているが、ネーデルラントの歴史は何よりも、恐るべき北海との闘争の歴史である。海岸に堤防を築き、守るためにワーテルスハップ(堤防共同体)を結成した地域住民が、一致団結して海と戦ってきた。「世界を創ったのは神だが、オランダを造ったのはオランダ人だ」という言葉があるほどで、ネーデルラントの水利土木技術は世界一である。
                                オランダ風車2

ネーデルラントの黄金時代は、1568年勃発の対スペイン独立戦争(八十年戦争)とともに始まる。これは同時に宗教戦争であり、また植民地争奪戦争でもあった。当時ネーデルラントを支配したスペイン国王のフェリペ二世はカトリック世界の守護者をもって任じ、宗教改革によりプロテスタントが増える一方のネーデルラントを弾圧するために、陸軍、海軍を次々に動員した。その資金は新大陸のメキシコからもたらされた大量の銀である。しかし、この宗教弾圧がやがて国力の衰退を招き、制海権を失ったスペインは世界帝国の座を失った。代わって海上覇権を握ったのが、新興のネーデルラントである。

とはいえ、ネーデルラントの黄金時代も長くは続かなかった。1648年ウェストファリア条約でスペインに独立を承認させ、名実ともに最強の海上帝国として国力が頂点に達したときに、衰退が始まった。レンブラントもフェルメールも破産して、貧窮のうちに死を迎えたことは、ネーデルラントの黄金時代の終りを告げるものであった。 
ところで、グリートが雇われたフェルメール家はカトリックであったが、当時のネーデルラントの政治的実権を握ったのは、プロテスタントのカルバン派であった。カルバン派にも強硬派と穏健派との内部対立があったが、総じてネーデルラントのカルバン派の特徴は、他宗派(メノー派、カトリック教徒、ユダヤ教徒等)に寛容だったことである。寛容、中庸、節制、勤勉の生活倫理が、身分差をこえて定着していたことも、注目に値する。
これと対照的なのが、ジャン・カルバンが直接統治したスイスのジュネーブである。かれの神権政治下で異端審問により、58人が処刑(多くは火あぶり)されたという。

それでは、小国ネーデルラントがなぜ大国スペインに勝てたのか?15・6世紀のスペインは現在のアメリカ合衆国に相当する超大国であったのだ。ここで、イギリスの経済学者ウィリアム・ペティ『政治算術』(1690)の分析を紹介しよう。かれは、連合ネーデルラント共和国のなかで最も強力なホラント、ゼーラント2州に焦点を合わせ、これとイングランド、フランスを比較する。人口規模はこの両州が100万人、イングランドが1000万人、フランスが1350万人であるとして、この最も小さいネーデルラントが両大国を経済力で凌駕した要因を次のように挙げている。

―良い位置にあった。ライン、マース、スヘルデ三大河の河口にあり、肥沃な土地に恵まれていた。
―水運の便がよく、海運業と貿易業が発達した。漁業も栄えた。とくにニシン(「北海の銀」)漁は東インド会社より利益が大きいといわれていた。
―カルバン派の生活倫理と信教の自由。

ペティが見落としたものに、北極海の捕鯨漁がある。捕鯨は燈油用鯨油の取得が目的であった。グリートが明るいカンテラ(「カンデラール」というオランダ語に由来)をかざして家の中を動きまわり、パトロンのファン・ライフェンを晩餐に迎える夜に外で煌々と篝火を焚き、豪華な宴席が蝋燭で光り輝く。当時、照明は贅沢の極みであり、高価な鯨油をふんだんに使えることは富の象徴であった。これが技術上は照明器具や光学器械(望遠鏡、顕微鏡、暗箱)の発展を促す一方で、絵画芸術で陰翳への感性を磨きあげ、レンブラントやフェルメールを生んだのも、うべなるかなと思われる。

黄金期のネーデルラントは、最初の近代的国民経済ともいわれ、また、世界史上、後にも先にもこれほど狭い地域に経済力が集中した例がないともいわれている。政治体制は7州の議会から送りこまれた議員が、外交、軍事の権限を持つ連邦議会(スターテンヘネラール)を構成し、各州議会では州内各市の参事会から送りこまれた議員が各市の利益を代表し、市参事会は上層市民が実権を握っていた。こうして各都市上層市民を基盤として下から積みあげる民主主義が、ネーデルラントの政治風土をいまなお刻印している。

黄金時代のネーデルラントを語るうえで欠かせないのが、東西両インド会社である。1602年設立の合同東インド会社(VOC)は、東洋全体を活動範囲としたが、とりわけ重要なのが「東インド」(現在のインドネシア)である。現在のネーデルラント王国とインドネシア共和国との面積比は1:45。ここを350年間にわたり徹底的に収奪したのだから、いかにネーデルラントが膨大な富を蓄積したかがお解りいただけるだろう。

映画との関連で重要なのは、VOCや西インド会社(WIC)からもたらされる、アジア・アフリカ・アメリカ産の植民地物産である。その代表例が染料、顔料である。鮮明で褪色しにくい青色(ラピス・ラーズリ=瑠璃)や赤色(コチニール)は植民地からもたらされた高価な染・顔料で、薬局で売られていた。八十年戦争の間1609~1621年まで休戦期間があったが、これが終わるとスペインとの海戦再開で植民地物産の価格が高騰したため、絵画が一斉に白黒になってしまったといわれている。植民地獲得はネーデルラントに絵画芸術の黄金時代をもたらす必要条件だったのだ。

東西両インド会社が植民地で重ねた言語に絶する暴虐な原住民支配は、国内における寛容とおよそ正反対である。たとえば東インド初代総督クーンが現地でまずやったことは、ジャカルタを焼き払い、オランダ風の都市バタビアを建設することであった。次いで各地で原住民から土地をとりあげ、胡椒、ナツメグ、丁子、コーヒー等の植民地物産の栽培を強制した。そのためどれほど多くの原住民が餓死したことか。カルバン派の行動にみられるヨーロッパ内外におけるあからさまな二重道徳は、理解を超えるものがある。

ともあれ、戦国時代にポルトガル、スペイン、ネーデルラントという西欧列強が次々に日本に触手を伸ばしたにも拘わらず、日本が植民地化されずに済んだのは、幕藩体制がこれに対抗できる軍事力を備えていたからにほかならない。
最後に、当時のネーデルラントの社会的特徴を挙げる。1)清潔好き、2)子供好き、3)初等教育の普及、4)身分差、性差が小さい。こう並べたてると、江戸時代とかなり似ているのが意外である。洋の東西に隔てられた異質の両国が対等の国交を持ったことは、世界史のなかで稀有な事象である。これまたネーデルラントの黄金時代を彩った色調であろう。

(質問)フェルメールの絵を見ると、女性が手紙を書いているものがあるが、当時、郵便制度はあったのか?

(回答)トゥルン&タクシス家が16世紀のうちに神聖ローマ帝国・ネーデルラント内の郵便事業を独占する認可を得て、17世紀には広域的な郵便馬車制度が成立していた。とはいえ、独立戦争期のネーデルラントで、これがどれほど機能していたか疑問である。また、デルフトのような一都市内における局地的な私信、小包の日常的流通の便宜を図る仕組みがあったに違いないが、実態は不詳である。


渡邉先生作成の年表
                16・17世紀という時代         欅友会学習会用27/07/17 渡邉 尚
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