学習会要旨

◎ 9月19日(土)学習会の要旨                         
 岩城先生4
 
 日 時:9月19日(土) 13:30~15:30                             
 場 所:東京経済大学 2号館 B301教室  
 テーマ:「案外知らない“終の棲家さがし”の真実」                                          
 講 師:岩城 隆就
(有料老人ホーム代表、 社会福祉士・介護支援専門員)
 出席者:134名(会員:男性86名、女性:33名 
  非会員:男性7名、女性8名)

【講演要旨】

 私は、練馬区の豊島園の近くにあります「シルバーヴィラ向山(こうやま)」と「アプランドル向山」の二つの施設を運営しております。現在都内には約700の有料老人ホームがありますが、私どもは開業後34年、3番目に旧い草分け的存在です。入居者募集の広告はこれまで行ったことがなく、口コミだけで満室を続けております。これまでに7組の親子二代のご利用もありますし、将来の入居を申込中のお子様もいらっしゃいます。ご家族が「自分も入りたい」と感じていただけるのはありがたいことと感じています。

 さて、老人ホームというと皆さまはどれも「終の棲家」と思われるかもしれませんが、実は「終の棲家」は案外少なく一歩前、二歩前の施設が多いものです。でも謳い文句は「終の棲家」です。ここがややこしいところです。今日お集まりの皆さまは、会場に続くあの坂道を登って来られる体力があるわけですから、私から申し上げれば、皆さまには「終の棲家」はまだ存在すらしていないことになります。ここを理解され、あとで「臍(ほぞ)を噛む」ことがないように、今日はお話しさせていただきます。

平均余命と償却期間・・・人生は思うほど短くない
 わが国の高齢者は3千万人を超え、その内、要介護の支援が必要な方は550万人というのが現状です。実は、平均寿命がこの65年間に約20歳以上も伸びているのです。
平均寿命
 ※1950年から65年間で女性は約24年男性は約20年伸びています。、 
 
 一方、健康寿命は2010年の場合、女性は73.62歳、男性は70.62歳と、平均寿命とは9~13年の差があり、これが病気や要介護の期間であるのです。結構長く、厄介です。
1950年当時は定年が55歳でしたから「老後」は概して短いものでした。その頃は、食事が摂れず水分だけになってしまうと、4週間ほどで逝ってしまわれたものです。

 平均寿命の他に平均余命というものがあります(厚労省の「簡易生命表」として公開されています)。
これは当該年齢でどれだけ更に生きているかの平均値を意味しています。0歳の人の平均余命が平均寿命です。75歳の平均余命は、女性で15.4年、男性で11.7年となります。これは現在75歳の女性100人の内、半数の50人が90歳(15年後)を超えることを意味しています。更に日本人は現在も一日5時間寿命が伸びています。これは5年で1歳寿命が伸びていることを意味します。人生は本当に長いのです。

 一方、有料老人ホームの入居一時金の償却期間はほとんどの施設で5~6年しかありません(入居一時金を設定する都内440施設の内、75歳入居での償却期間6年以下が83%に達します)。これは平均余命と償却期間の設定が大きく乖離しているわけで、人生の長さに対応した有料老人ホームが大変少ないことを意味します。然しながら、どの有料老人ホームも「終身」契約と謳っているため「亡くなるまでずっと面倒を看てもらえるなら、返戻金の有無は大きな問題ではない」と考えてしまいがちなのです。
ここが盲点であり「臍を噛む」ところです。

 基本的に「入居一時金」=「前払家賃」となります。従いまして、償却期間を過ぎると、その入居者は「お客様」でなく「居候」と見做されかねません。償却期間を越えた入居者A様を退出させ、新規B様に入れ替えることが出来れば、再び「入居一時金」を手にできます。その施設の採算がギリギリであれば、その誘惑は抗し難くなります。具体的には、「当ホームの介護能力を超えた」、「他のお客様に危害を加えた」、などの理由を挙げられます。実際に追い出され、当ホームに再入居されたお客様がいらっしゃいます。
 今は採算に余裕があるとしても、運営期間が長くなるにしたがい、必然的に「居候」が増えて行きますので、結果は同じです。「居候」が3割を超えるようになれば、施設運営そのものが困難になります。従い、施設維持のためには追い出さざる得なくなるのです。つまり、こうした有料老人ホームでの契約条件は、およそ経済的合理性に欠けていることになります。ご自身の平均余命よりも短い償却期間での入居契約には、こうしたリスクを十分ご留意ください。
 因みに、平均余命をいずれも上回る償却期間を契約条件としている施設は、全国でも当社以外に例を見ておりません。まことに残念なことですが・・・
                                      老人ホーム10

人生は往(い)って復(かえ)ってくるもの
 新生児は寝返りも打てません、所謂“寝たきり”状態です。食事も最初は“流動食(母乳)”、やがて“きざみ食(離乳食)”、そしてやっと“普通食”となります。1歳頃から歩くようになりますが、心許ないので移動時は“車椅子(乳母車)”でした。また、最初の2年ぐらいは“オムツ”生活でした。これが成長です。老化とはこの逆コースです。
皆さまは、今の状態がズーと続くと思いがちですが、そうはなりません。往った道は必ず復るものです。その意味で私たちは“0歳”に向かって下り坂を歩んでいるのです。

 では、皆さまは“0歳”に対して今は何歳でしょうか? これは知力でなく体力の話です。“中学生”ですか? “小学生”ですか?
いま“中学生”と思われた方は、これから“小学生”~“幼稚園児”~“保育園児”~“乳児”の時代を順番に迎えることになります。それぞれの“通学”期間は人それぞれですが、必ず通過します。“中学生”で中学校に通うあなたが“幼稚園児”時代となった時、今のまま中学校に通えるでしょうか。恐らく無理です。机・イスの大きさ、階段の踏込も違います。
いま“中学生”以上の皆さまが老人ホームを選ばれるとき、どうしても今のご自分に相応しい施設つまり“中学校”を選んでしまいがちです。それは「今良いホーム」ですが、「明日良いホーム」とはならないのです。

 8ⅿほど先のトイレを想像してください。今の歩幅なら10歩程度で行けますが、これが10~20㎝の歩幅となったら何歩で辿り着けるでしょうか? やっと辿り着いた時には、恐らく用は済んでいることでしょう。つまりその時代には8ⅿ先のトイレは存在しないのと同義となります。全く違う次元の世界になります。歩幅とともに生活圏そのものが変わることを認識しなければいけません。
私の考えでは、「終の棲家」とは学齢期前の方が住まう場所です。「シルバーヴィラ向山」は「終の棲家」ですが、「アプランドル向山」は“小学生”の施設、つまり「終の棲家」の一歩手前と考えています。
老人ホーム2

良い施設の見分け方
 ここまで、施設選びには“今後の人生の長さvs償却期間”そして“歩幅縮小がもたらす生活圏の変化”を考慮する必要をお話しましたが、それ以外の観点における施設の良し悪しの見分けは結構難しいものです。それはご自身の判断基準が出来ていないからです。比較検討のための“基準点”を持つには最低でも10施設以上見て歩く必要があります。でも現実にはなかなかそうも行きませんので、簡単なポイントをお話しします。

 まず、施設長の人柄を見てください。施設の雰囲気は施設長で決まります。金正恩が施設長の場合と、マザーテレサが施設長の場合を想像いただければ判り易いと思います。
 次に、お客さまの顔色や目の輝きを見て下さい。目線が下であれば、その施設では自己表現を躊躇わせているのだと分かります。抑圧的でお奨めできません。更に、お客様ご家族の話を聞ければ、なお良いでしょう。
なお、紹介業者は報酬の良い施設から奨めると承知ください。すべての紹介業者は、ある一社を除き、施設側から成功報酬の形で報酬を受け取ります。(注:当社はそうした業者と契約しておりませんので、紹介業者のリストには当社は含まれていません)

男と女の違い・・・男性のための安全保障政策
この仕事を始めてから気付いたのですが、
①ご夫婦入居の場合、男性はシッカリ、女性は要介護のケースが多い。
②男性が要介護等で単独入居の場合、奥様はご自宅に居られるケースが多い。
③女性が要介護等で単独入居の場合、独身か未亡人であるケースがほとんど。

 これはどうした訳かといろいろ考えました。考え抜いた末の結論は、男性は奥様を「所有物」視する傾向にあり、女性は夫を「白馬の騎士」と見る傾向にあることでした。男性は奥様がたとえ認知症になられても手放すことが出来ず他人に委ねません。一方、女性は優生な子孫を残すと云う命題を負っているため「白馬の騎士」に憧れるわけです。この「白馬」が気付いたら「ロバ」になっていたとしたら、女性は「あらっ」となるのですね。つまり「愛」ではなく「生理」の問題です。

 「終の棲家」がまだまだずっと先の皆さまには、これからも長いご夫婦二人の生活が続きます。これまでは、外で働く夫を妻が支えてきました。この関係を定年後も続けて良い訳がありません。男性の多くは「炊事・家事」を女性に依存しています。自立の要件にはこの生活技術も含まれます。つまり多くの男性は、対外的には自立して見えますが、人間としては依存状態にあると云えます。この依存状態は安全保障政策上かなり問題です。この微妙なバランスが崩れるとパニックになりかねません。こうしたストレスは認知症に直結します。今日から炊事を始めましょう。冷蔵庫に何が残っていたかを思い出し、その素材から何を作るかを考えるのは、かなり創造的な作業です。認知症予防にはうってつけなのです。

                     岩城先生講演4

【質疑応答】

質問1 老人ホームの入居者同士の人間関係は難しいと聞いていますが、どうなんでしょうか。

答え: 先ず、他人のことが気なるというのは相当レベルが高いと思います。認知度が下がってくると他人が気になりません。人間関係には相性があり、能力の差もありますが、基本的には一つの社会を作りますので、どのような社会を作るかがその施設で変わります。これは実学の世界でそのために私どもがいます。人間関係がうまく廻るようにいたしますし、マネジメントとして捉えています。趣味とかを見ながら相性の良さそうな組み合わせをするよう頑張って足を合わせていきます。

質問2 償却期間の説明がありました。自分の余命と償却期間の線を捜すのは容易ではないと思っています。施設検討の際に具体的な目安としての金額でもあれば教えてください。

答え: 値段には大きな幅があります。私のところは都内では下から25%位で30万円を切ります。高いところでは100万円を超えています(月当たり)。私のところより廉いのは問題と思います。私どものような個人経営とは違って企業の場合は、利益率を上げる事も一つの使命にしていて高額になります。この業界は6割を人件費が占めており労働集約型です。自助努力をするしかないのかなとは思いますが、人件費への工夫と、お世話に代わり得る、人に優しい技術革新も必要とは思っています。
(文責:渡辺 義廣)

学習会要旨

学習会要旨(2)



◎ 7月18日(土) 学習会の要旨
長谷川先生1

 日 時:7月18日(土) 13:30~16:30                             
 場 所:東京経済大学 2号館 B301教室  
 テーマ:「映画を読む会―真珠の耳飾りの少女」                                          
 講 師:長谷川 倫子先生(東京経済大学コミュニケーション学部教授)
 講 師:渡邉 尚先生
      (欅友会顧問・元東京経済大学教授・京都大学名誉教授)
 出席者:157名(会員:男性100名、女性:47名、
          非会員:男性2名、女性8名)


【Ⅰ】映画の紹介 

                        真珠の耳飾りの少女2
               
真珠の耳飾りの少女
長谷川 倫子
原作: トレイシー・シュヴァリエ Tracy Chevalier
原題: Girl with a Pearl Earring
監督: ピーター・ウエーバー Peter Webber
脚本: オリヴィア・へトリード Olivia Hetreed
配役:グリート:スカーレット・ヨハンソン Scarlett Johansson
     フェルメール:コリン・ファース Colin Firth
     ファン・ライフェン:トム・ウィルキンソン Tom Wilkinson
     ピーター:キリアン・マーフィー Cillian Murphy
     コルネーリア:アラキナ・マン Alakina Mann
     カタリーナ:エッシィ・デイヴィス Essie Davis
     マーリア:ジュデイ・パーフィット Judy Parfitt

 コミュニケーション学部でメデイア・コミュニケーション入門の講義をしている。今回の作品は受講している学生に、劇中に登場するカメラ・オブスキュラの実像を紹介するために鑑賞させたものである。私が担当しているこの学部向けの講義ではメデイアの歴史を解説しているが、絵画もその歴史的な流れの中で大事な一部を占めていることを理解してもらうために取り上げている。世界で最初の絵画はアルタミラの洞窟壁画だと言われ、絵画から写真へ、写真が動き映画へ、そしてテレビに繋がるという視覚メデイアの発展に絵画は重要な橋渡しの役割を担っている。

 今回の講義に登場するフェルメールは17世紀のオランダの画家で独特の世界観を持ち、世界の人を魅了し、日本でも人気のある画家の一人。この物語を書いたトレイシー・シュヴァリエはこの画家の「真珠の耳飾りの少女」に触発されて小説を書きあげ、この映画はその小説を映画化したものである。

 フェルメールは生涯オランダの古都デルフトで過ごし43歳で亡くなるまで30数点の作品を残した。当時市民国家となっていたオランダでは、画家のパトロンが従来の教会や王様から一般市民となり、ごく普通の市民まで絵画を購入するようになり、市民の日常的な姿が描かれた絵画がたくさん残されている。

フェルメールの絵画の特徴のひとつは青い色彩で、これには高価な顔料であるラピスラズリが用いられている。フェルメールは結婚して程なく裕福な義母の家に同居するようになり、当時、高価であったブルーの顔料―ウルトラマリーンブルーを義母の経済的支援を受けふんだんに使えるようになったと言われている。

もう一つは光の効果である。フェルメールの作品のスタイルは、そのほとんどが北向きの自宅のアトリエの左側の窓から差し込む光のなかに佇むうつむき加減の女性の一瞬を切り取ることで静謐な世界が作り出されている。「真珠の耳飾りの少女」の絵画には、それぞれの目と真珠の二箇所に白点が入れられていて、左上の窓から差し込むこの柔らかな光の効果が少女の魅力をましている。

当時を物語る興味深い装置もこの映画には登場する。日本から輸入した有田焼に感化されたものだと言われているデルフトのタイル。写真というメデイアに欠かせないカメラの前身とも言える装置であるカメラ・オブスキュラは当時の画家が外の風景を描くために使っていた。フェルメールが使っていた証拠はないが映画においては重要な場面にでてくる。このように細部までこだわることで17世紀のオランダがこの映画に再現されている。
 「真珠の耳飾りの少女」の絵画はオランダ、ハーグのマウリッツハイス美術館に所蔵されている。

【Ⅱ】「映画の解説」
 
17世紀オランダの天才画家フェルメールの一枚の肖像画に秘められた愛の物語をモチーフにした小説を映画化。少女の濡れた唇、憂いと情熱を湛えた瞳、今にも何かを語りかけてきそうな表情を浮かべた一枚の肖像画は3世紀以上の時を生き続けてきた。少女が女へと移り変わっていく瞬間の生の輝きを見事なまでキャンバスに封じ込めたこの絵画には、果たして、どういうドラマが存在したのか?その謎めいた背景を解き明かす名作と言える。

 舞台は、1665年、オランダのデルフト。ヒロインは、17歳のグリート。事故で失明した父に代わり家計を支えることになった彼女は、画家のフェルメールの家に住み込みの使用人として雇われた。子だくさんのフェルメール家で、一日中重労働に追われる毎日。
 そういうなかで、美的感覚の鋭さをフェルメールに認められたグリートは、絵の具の調合の仕事を任されるようになった。そして、狡猾な策略をめぐらせるパトロンのファン・ライフェン。彼の挑発に乗せられ、フェルメールは、グリートをモデルにした絵を描くことを決意する。      (文責:中村俊雄)

【Ⅲ】時代背景
渡邊先生2

16-17世紀という時代                                渡邉 尚

16-17世紀はオランダの黄金時代であり、この時代を短い時間で説明するのは極めて難しい。まとまりのない話に終わることになろうが、皆さん、すばらしい映画を堪能なさった後なので、腹ごなしにコーヒーでも一杯、のつもりで聞き流していただきたい。
まず、映画とつなげるために申しあげると、1650年ころデルフト、アムステルダム、ハーレムの小さな三角地域に700人の画工(画家は手工業者)がおり、年に7万枚を制作していた。黄金時代に制作された絵画の総数は数百万枚に上るだろうといわれている。絵画市場を支えたのは一般大衆であり、多くの画工は注文生産でなく、見込み生産で絵を描きまくった。絵画が大衆消費財になる社会は、どのようにして生まれたのか?

ところで、「コーヒー」は、オランダ語の「コフィ」から来ている。オランダ人がコーヒーを飲むようになったのは17世紀前半、したがって、出島の商館でオランダ人に接する日本人にもコーヒーを飲む機会があり、そのため「コフィ」が日本語にとりいれられた。
さて、先ほどから「オランダ」と呼んでいるが、正確には「ネーデルラント」である。ネーデルラントの一州「ホラント」をスペイン語・ポルトガル語で「オランダ」と呼び、これが日本語になった。新井白石は『西洋紀聞』(1709年)で「ヲゝランデヤ」、「ヲゝランド」と表記している。「オランダ」は江戸時代以来の由緒ある表記ということになる。とはいえ、ブリテンをイングランドと呼ぶのに似た便宜的用語法にすぎず、正確を期すためには「ホラント」と「ネーデルラント」を区別しなければならない。

資料の地図でお判りのように、ネーデルラントは南北に分かれる。北部が1581年に成立し、1795年まで存続した連合ネーデルラント共和国であり、これが今日のネーデルラント王国の原型である。南ネーデルラントとほぼ重なるのが、今日のベルギー王国である。また、16世紀のネーデルラントは海に浮かぶ島の集合の趣がある。これは何を意味するか。ネーデルラント人は中世から営々と干拓事業を重ね、少しずつ国土を拡げてきた。それはいまでも続いている。干拓地の排水用の風車はのどかな景観を生み出しているが、ネーデルラントの歴史は何よりも、恐るべき北海との闘争の歴史である。海岸に堤防を築き、守るためにワーテルスハップ(堤防共同体)を結成した地域住民が、一致団結して海と戦ってきた。「世界を創ったのは神だが、オランダを造ったのはオランダ人だ」という言葉があるほどで、ネーデルラントの水利土木技術は世界一である。
                                オランダ風車2

ネーデルラントの黄金時代は、1568年勃発の対スペイン独立戦争(八十年戦争)とともに始まる。これは同時に宗教戦争であり、また植民地争奪戦争でもあった。当時ネーデルラントを支配したスペイン国王のフェリペ二世はカトリック世界の守護者をもって任じ、宗教改革によりプロテスタントが増える一方のネーデルラントを弾圧するために、陸軍、海軍を次々に動員した。その資金は新大陸のメキシコからもたらされた大量の銀である。しかし、この宗教弾圧がやがて国力の衰退を招き、制海権を失ったスペインは世界帝国の座を失った。代わって海上覇権を握ったのが、新興のネーデルラントである。

とはいえ、ネーデルラントの黄金時代も長くは続かなかった。1648年ウェストファリア条約でスペインに独立を承認させ、名実ともに最強の海上帝国として国力が頂点に達したときに、衰退が始まった。レンブラントもフェルメールも破産して、貧窮のうちに死を迎えたことは、ネーデルラントの黄金時代の終りを告げるものであった。 
ところで、グリートが雇われたフェルメール家はカトリックであったが、当時のネーデルラントの政治的実権を握ったのは、プロテスタントのカルバン派であった。カルバン派にも強硬派と穏健派との内部対立があったが、総じてネーデルラントのカルバン派の特徴は、他宗派(メノー派、カトリック教徒、ユダヤ教徒等)に寛容だったことである。寛容、中庸、節制、勤勉の生活倫理が、身分差をこえて定着していたことも、注目に値する。
これと対照的なのが、ジャン・カルバンが直接統治したスイスのジュネーブである。かれの神権政治下で異端審問により、58人が処刑(多くは火あぶり)されたという。

それでは、小国ネーデルラントがなぜ大国スペインに勝てたのか?15・6世紀のスペインは現在のアメリカ合衆国に相当する超大国であったのだ。ここで、イギリスの経済学者ウィリアム・ペティ『政治算術』(1690)の分析を紹介しよう。かれは、連合ネーデルラント共和国のなかで最も強力なホラント、ゼーラント2州に焦点を合わせ、これとイングランド、フランスを比較する。人口規模はこの両州が100万人、イングランドが1000万人、フランスが1350万人であるとして、この最も小さいネーデルラントが両大国を経済力で凌駕した要因を次のように挙げている。

―良い位置にあった。ライン、マース、スヘルデ三大河の河口にあり、肥沃な土地に恵まれていた。
―水運の便がよく、海運業と貿易業が発達した。漁業も栄えた。とくにニシン(「北海の銀」)漁は東インド会社より利益が大きいといわれていた。
―カルバン派の生活倫理と信教の自由。

ペティが見落としたものに、北極海の捕鯨漁がある。捕鯨は燈油用鯨油の取得が目的であった。グリートが明るいカンテラ(「カンデラール」というオランダ語に由来)をかざして家の中を動きまわり、パトロンのファン・ライフェンを晩餐に迎える夜に外で煌々と篝火を焚き、豪華な宴席が蝋燭で光り輝く。当時、照明は贅沢の極みであり、高価な鯨油をふんだんに使えることは富の象徴であった。これが技術上は照明器具や光学器械(望遠鏡、顕微鏡、暗箱)の発展を促す一方で、絵画芸術で陰翳への感性を磨きあげ、レンブラントやフェルメールを生んだのも、うべなるかなと思われる。

黄金期のネーデルラントは、最初の近代的国民経済ともいわれ、また、世界史上、後にも先にもこれほど狭い地域に経済力が集中した例がないともいわれている。政治体制は7州の議会から送りこまれた議員が、外交、軍事の権限を持つ連邦議会(スターテンヘネラール)を構成し、各州議会では州内各市の参事会から送りこまれた議員が各市の利益を代表し、市参事会は上層市民が実権を握っていた。こうして各都市上層市民を基盤として下から積みあげる民主主義が、ネーデルラントの政治風土をいまなお刻印している。

黄金時代のネーデルラントを語るうえで欠かせないのが、東西両インド会社である。1602年設立の合同東インド会社(VOC)は、東洋全体を活動範囲としたが、とりわけ重要なのが「東インド」(現在のインドネシア)である。現在のネーデルラント王国とインドネシア共和国との面積比は1:45。ここを350年間にわたり徹底的に収奪したのだから、いかにネーデルラントが膨大な富を蓄積したかがお解りいただけるだろう。

映画との関連で重要なのは、VOCや西インド会社(WIC)からもたらされる、アジア・アフリカ・アメリカ産の植民地物産である。その代表例が染料、顔料である。鮮明で褪色しにくい青色(ラピス・ラーズリ=瑠璃)や赤色(コチニール)は植民地からもたらされた高価な染・顔料で、薬局で売られていた。八十年戦争の間1609~1621年まで休戦期間があったが、これが終わるとスペインとの海戦再開で植民地物産の価格が高騰したため、絵画が一斉に白黒になってしまったといわれている。植民地獲得はネーデルラントに絵画芸術の黄金時代をもたらす必要条件だったのだ。

東西両インド会社が植民地で重ねた言語に絶する暴虐な原住民支配は、国内における寛容とおよそ正反対である。たとえば東インド初代総督クーンが現地でまずやったことは、ジャカルタを焼き払い、オランダ風の都市バタビアを建設することであった。次いで各地で原住民から土地をとりあげ、胡椒、ナツメグ、丁子、コーヒー等の植民地物産の栽培を強制した。そのためどれほど多くの原住民が餓死したことか。カルバン派の行動にみられるヨーロッパ内外におけるあからさまな二重道徳は、理解を超えるものがある。

ともあれ、戦国時代にポルトガル、スペイン、ネーデルラントという西欧列強が次々に日本に触手を伸ばしたにも拘わらず、日本が植民地化されずに済んだのは、幕藩体制がこれに対抗できる軍事力を備えていたからにほかならない。
最後に、当時のネーデルラントの社会的特徴を挙げる。1)清潔好き、2)子供好き、3)初等教育の普及、4)身分差、性差が小さい。こう並べたてると、江戸時代とかなり似ているのが意外である。洋の東西に隔てられた異質の両国が対等の国交を持ったことは、世界史のなかで稀有な事象である。これまたネーデルラントの黄金時代を彩った色調であろう。

(質問)フェルメールの絵を見ると、女性が手紙を書いているものがあるが、当時、郵便制度はあったのか?

(回答)トゥルン&タクシス家が16世紀のうちに神聖ローマ帝国・ネーデルラント内の郵便事業を独占する認可を得て、17世紀には広域的な郵便馬車制度が成立していた。とはいえ、独立戦争期のネーデルラントで、これがどれほど機能していたか疑問である。また、デルフトのような一都市内における局地的な私信、小包の日常的流通の便宜を図る仕組みがあったに違いないが、実態は不詳である。


渡邉先生作成の年表
                16・17世紀という時代         欅友会学習会用27/07/17 渡邉 尚
渡邊先生年表9

学習会要旨

学習会要旨(1)



◎7月11日(土) 学習会の要旨 
藤田先生4

 日 時:7月11日(土) 13:30~15:30                             
 場 所:東京経済大学 2号館 B301教室  
 テーマ:「3.11東日本大震災の教訓~日本のエネルギー政策
     を考える 第二弾」                                          
 講 師:藤田 和男先生
    (東京大学名誉教授、芝浦工業大学MOT大学院(元)教授、
     Geo3 REScue Forum代表
 出席者:167名(会員:男性123名、女性:38名、非会員:男性4名、女性2名)

【講演要旨】

3年前の2012年の3月、同じテーマで皆さんにお話ししましたが、今日はその後の変化も折り込んで新しい視点でお話しましょう。
2011年の3月11日の東日本大震災は想定外の大津波が福島第一原子力発電所を襲い、未曾有の放射能災害が起きました。あれから丸4年経った現在でも、その原発の廃炉や放射能汚染事故の終息の明確な見通しが立っていない状況です。原子力の安全神話がもろくも崩壊したポストフクシマの低炭素社会の構築を目指すわが国は、いかにして産業・社会の動力源であるエネルギーの安定供給を確保するのか喫緊の命題を皆さんと一緒に考えてみましょう。

1.石油の輸入量と価格の推移(1)わが国の原油の1日当たりの輸入量は1973年(第1次オイルショック):498万バレル(1バレル=159リットル)、1995年:458万バレル、2010年:369万バレル、2013年:362万バレルで震災後は増えていません。増えたのは液化天然ガスで震災後25%も増えました。(後述)
(2) 原油の価格はこの40年間で55倍(1972年1.96$/b⇒2012年2月最高値109.77$/b)となり、為替レートを換算($=360円⇒79円)すると11.8倍となります。
(3)21世紀に入り原油価格の乱高下が起きていますが、これは市場の余剰資金が原油の国際商品先物市場に流入したためです。原油価格の決定要因には本来的な需給関係から生じる価格変動(ファンダメンタル)と産油地等の政情やテロ紛争など先物市場から決まる要因(プレミアム)を加味して決まります。
                                    石油1

2.東日本大震災がもたらしたもの
2004年以来の原油価格の高騰により、エネルギー高価格時代の到来で、エネルギー供給側の選択肢が多様化している折に「2011年3.11東日本大震災&原発事故」が起きました。
 ⇒「日本のエネルギー戦略の抜本的再構築」と「需要者側である日本が省エネ・省資源・環境対策の
   技術革新(グリーン・イノベーション)を行うチャンス」が訪れたのです。

(1)第1次エネルギー国内総供給量と構成比(%)の変化
藤田先生1-1
  注:再生可能エネルギーには太陽光、風力、バイオマスの他廃棄物や廃材発電等を含む

 上記比率は総供給量であり、これから輸出量と備蓄在庫変動分を差し引くと国内供給量となります。
さらに第1次エネルギーをエネルギー変換して「最終エネルギー」にする際に約33.4%が変換ロスとして失います。ですからロスを除いた実際の「最終消費エネルギー」は66%です。実はこの変換ロスは化石燃料を変換する際に起こるロスでして、このロスを如何に少なくするかも大事な省エネ技術です。

(2)発電のためのエネルギー源
 2013年度の最終エネルギー消費量3.34億toeの内、発電に使われているエネルギーは26.4%を占めます。しかし大きなマーケットである電力消費量は第1次エネルギー総供給量の16.8%に過ぎないのです。
下の表はわが国の総発電量の発電源構成について震災前後で比較しました。
 藤田先生2-2
福島原発の事故により、発電の軸になっていた原子力が失われ、化石燃料の大幅な増加をもたらし、CO2の増加にもつながったことが確認されます。

(3)原子力エネルギーをどう見るか
げんしりょく2

 大震災時の民主党政権は2030年に「原発ゼロ」を宣言し、核廃棄物の処理問題もあり国民の何割かは「原発ゼロ」を妄信しましたが、もう一度原発のメリットとデメリットを冷静に考えるべきでしょう。
<メリット>  ・廃炉にかかる処理費用は別にして、発電コストが安価であることは明らか。
        ・ウラン核燃料は既に十分確保され、安定供給保証。国内エネルギーとも言える。
        ・徹底的な原子炉の排熱有効利用の余地がある。
         ⇒現状は海の温度上昇を招き、時に魚を殺している。
        ・日本の原発建設技術の向上と保守技術は、将来の技術輸出となりうる価値がある。
        ・発電量に対するCO2 排出量が化石燃料に比べて極めて低い。
<デメリット> ・放射能廃棄物処理の厳しい国内の現状と課題
        ・地震国である日本で、今後の事故時に放射能汚染の国民の不安が増幅!
         ⇒高レベル放射性廃棄物(使用済み核燃料から再利用するウランやプルトニュームを抽
         出したもの)は、今後国主導で処分を行う基本方針が閣議決定されたが、具体案は決
         まっていない。

3.大震災が引き起こした教訓(1)地球温暖化問題
IPCC(国連の気候変動に関する政府間パネル)によれば1870年(産業革命時代)の地球温暖化ガス(CO2やメタンガスなど)の濃度は280PPMだったが、今年3月の世界平均(40箇所で測定)のCO2濃度は400PPMに達していると(NOAA)が今年の5月に報告、警鐘を鳴らした。450PPMを超えると北極の氷がすべて解けるとも言われ危機的な状況にあるようです。
今年12月パリで開かれるCOP21では2020年以降の抜本的温暖化対策の国際的枠組みの合意が喫緊の国際問題となっています。

(2)世界の国別1次エネルギー消費量(2013年度) 世界全体の総消費量:127.3億toe

                          藤田先生3-3
 ①上位10カ国で65.6%を占めており、特にトップ5カ国の取組み姿勢が重大事となりました。
 ②エネルギーの内訳は紙面の都合上省略しますが
・石炭への依存度の高いのは中国(67.5%)、インド(54.5%)あり、浄化技術等が必須になる。
・再生エネルギーの比率の高いのはドイツ(9.14%)、ブラジル(4.65%)、で日本は6位で2%。

(3)日本のエネルギー基本計画の取組み
 低炭素社会を築くためのエネルギーの選択(Best Mix)が注目されるようになりました。
 日本で電力を発電する場合、1kwh発電するのに石炭火力ではCO2を975g排出するのに対し、石油火力742g、LNG608~519gを発生させ、太陽光53g等々で原子力は25~22gです。CO2排出量がかくも少ない原発の廃止は大きな痛手となるのです。だから代替の火力発電ではCO2排出量が比較的少ない天然ガスにシフトせざるを得ません。
経産省の最終計画案では2030年の電源構成で原発比率(20~22%)と再生エネルギー(22~24%)に構成比を引き上げ、温暖化ガスの排出量を2013年の13.95億トンから2030年に10.42億トンへ26%の削減を図る野心的な目標を年末のパリ会議で提案する予定です。

(4)化石燃料の輸入量のアップと支払金額の増加
 大震災以降 円高・原油高から 輸入量の増加・円安 (円安はアベノミクス)による支払い額の増加がひいては国際収支の悪化に繋がりました。
 ①原油は2005年以降上昇に転じ、2014年迄は100ドル/bがほぼ定着しつつありました。震災前の
2010年度は円高・原油高での中で国際収支の経常収支は18兆円、貿易収支は8兆円の黒字でした。
大震災直後の2011年度から貿易収支は赤字となり、円安の進行で経常収支も減り続け、13年度には1.47兆円まで落ち込みました。円安と化石燃料の輸入量の増加で13年度は11兆円の貿易赤字でしたが、14年度は年央からの原油価急落のお陰で赤字幅が4.45兆円減少し、6.57兆円にV字回復しました。
②これに対し天然ガスの価格はアメリカ、イギリスでは共に安定していますが、日本の輸入価格は安   
定せず、かつ高価格で推移しているのは日本の輸入価格の契約が石油価格スライドだからです。
 原発停止の影響を見ると、日本のLNGの輸入量を比較すると2010年度の7,056万トンに対し13年度は8,773万トンへ約1,700万トン(25%)も輸入量が増加しました。一方、平均CIF価格は2010年49,720円/トン(約 11.5$/MMBtu程度@88.81円/ドル)から 2013年には76,837円/トン
(約16$/MMBtu程度@98.65円/ドル)に54.5%値上がりしました。すなわち数量増しと値上がりのダブルパンチでわが国の年間LNG輸入金額が2010年の3兆4718億円から2013年には7兆568億円と2.0倍に急増したわけです。(増加額は約3兆5,850億円/3年間)
                )エネルギー)(天然ガス

4.ポスト福島の教訓:「天然ガスシフトの時流を拓く」ことと「グリーンイノベーション戦略」
日本のエネルギー消費量の構成比を(1次エネルギー消費シェアで)2013年の世界レベルに比較しますと石油44.1%(世界平均33.9%)、天然ガス22.2%(同23.7%)、原子力0.9%(同4.4%)で明らかに石油偏重です。CO2の排出量比で見ても石炭100とした場合、石油76、LPG71、LNG62~53とLNGが有利なのです。更に埋蔵量で見ても天然ガスはアジア・オセアニア地域の埋蔵量が豊富です。
原子力に対する世論の壁を乗り越える努力をする一方、天然ガスの比率を25%に引上げ、石油依存を35%に下げ、長期的視点で自然エネルギー・新エネルギーの開発に進むべきでしょう。

(1)天然ガスの世界の生産量は3.37兆㎥で、産出国で消費されるのが69.3%、商業生産量は30.7%に過ぎません。この内68.6%はパイプラインによる販売で、LNGによるタンカー貿易は31.4%、即ちLNGによる消費は世界の天然ガス消費量の9.7%に過ぎないシェアなのです。それなのになぜアジアにパイプラインが建設されなかったのでしょうか? エネルギー収支が悪い、高価なLNGによる天然ガス輸送を強いられたわが国はまんまと欧米の策略にはまったのではないかと私は思っておりました。日本はもっと早い段階からパイプラインによる輸入を考えるべきであったのです。

(2)グリーンイノベーションの推進として
  ①エネルギー供給サイドの低炭素化の推進:化石燃料のクリーン化や原子力発電の安全を旨とした
   技術力向上。将来的にはレアーアースに付帯するトリウムを燃料とする溶融塩炉原発の活用など
   を含め。
    ⇒一つの基地で化石燃料(石炭、石油、天然ガス)をミックスした「次世代型化石燃料総合ガス化
   転換ハブ構想」を提案したい。
  ②省エネルギー技術の向上とスマート・エネルギーのシステム化の推進を更に進める。
  ③長期的高度技術研究計画の下に再生可能エネルギーの活用:水力、太陽光や風力、地熱等に加え
   相対的にCO2の発生が帳消しとなるバイオマス燃料による発電などもあります。
   バイオマスは現代において地球上で植物が光合成で大気中のCO2を固定し成長した燃料であり、
   これに着火し空気中のO2が反応し燃焼することによりエネルギーを利用しCO2を排出していま
   す。(これを“カーボンニュートラル”と言う)
  ④循環型・低炭素社会構築のためのシステム整備:環境先進モデル都市の設計・建設や
   国際排出権取引(ET)やクリーン開発メカニズム(CDM)、共同実施(JI)の活用整備、そして
   地政学(Geopolitics)に基づく国際援助(ODA)やASEANやTPP国際協調の推進 が必要です

5.私が期待するエネルギーの将来像  今迄述べてきましたが2030年のエネルギーのベストミックスを纏めると次の様に考えます。
藤田先生4-4
このベストミックスを実現するために2030年までにわれわれがなすべき技術研究領域は
     ①化石燃料の安定供給とクリーン化・総合的高度利用
     ②天然ガスの利活用による交通運輸部門の燃料多様化…ガソリン・軽油に偏重しない。
     ③原子力利用の継続とその大前提となる安全・安心の確保
      ⇒核廃棄物等に対する研究を進める一方、他国が原子力発電を継続しているので、技術の蓄積
      を温存するのみならず、技術輸出の芽を残す必要がある。
     ④情報技術の更なる進化により、省エネの促進とグリーンイノベーション。
     ⑤再生可能エネルギーの技術革新とコストの更なる低減。
   
 あっと言う間に2時間過ぎてしまいました。私の話はここまでとしますが、更にご興味のある方は配布の資料をご覧下さい。字が細かくて読み難いと思いますが、虫眼鏡がお役に立つと思います。(笑い)
藤田先生風景2

<質疑応答=要点のみ>
Q.メタンハイドレード(MH)の状況はその後どうなっているか。

A.本件にはアラビア石油に勤務時代から通算20年以上関わり、国のMH評価検討会の座長も務めて来たので経過はよく承知しています。お尋ねされた様なアメリカの圧力で開発作業が遅れている事はありません。しかし水深1,000m、100気圧の海底を掘削・採取するのはたいへん困難な作業であり、多額の操業・設備資金も必要です。
わが国は「ちきゅう」と呼ばれる深海の掘削船(Drill ship)は所有していますが、海底掘削や海底坑井仕上げに使うサービス海底専用船(ROV)を持っていないので、研究の場合はアメリカの船を借り、試掘費用もかなりかかります。サンプルの分析や資源量評価、シミュレーションモデルなど技術的には日本は先端を走っていますが、生産テスト操業で解決すべき課題も多く、なかなか難しいです。今後はアメリカ、カナダ等との国際協力が必要と思います。

Q.原子力発電についてどの様に考えられるか。又、核廃棄物の処理についてどう考えるか

A.福島原発で発生した放射能事故は深刻であり、今後何をするにもこれを教訓として周到な準備で行わなければいけない。日本の原子力発電は発電エネルギーの約30%分を担っていたことを忘れてはならない。再生可能エネルギーがクリーンエネルギーであることは誰でもわかっているが、原発がもたらした大量の電力をどうやって賄えるのか? 霞を食べて人間は生きられない。太陽と北風のイソップ物語は現代には無益です。      
世界的にみると原子力発電はフランス、アメリカ、ロシアを追い中国、インド、韓国などでも増えていく現実を前に、今迄培ってきたわが国の原発の技術的な蓄積と操業経験をスパッと放り投げて良いものだろうかと思い2030年で一次エネルギー国内総供給量の5%の数値を上げた。発電構成ならば原発は10%程度となります。

Q.水素は無限にあり、エネルギー以外にも活用価値がある様に聞いているが、利用できないか。

A.既に燃料電池として活用され始めています。しかし物事はステップ・バイ・ステップが大事です。すぐに目新しいものに飛びつくのでなく、例えば現在進めている太陽光の利用を更にレベルアップする方が大事です。又、宇宙発電や巨大レンズの集光熱利用など太陽光の熱利用の模索も必要でしょう。                 
(文責:小笠原正文)

6月学習会要旨

加藤一彦先生2

◎6月13日(土)学習会の要旨                           
 日時:6月13日(土) 13:30~15:30                             
 場所:東京経済大学 2号館 B301教室  
 テーマ:「憲法と国会―衆議院議員選挙制度改革の視座―」                                          
 講師:加藤 一彦先生(東京経済大学現代法学部教授)
 出席者:156名(会員:男性113名、女性:38名
          非会員:男性4名、女性1名)

【講演レジュメ】

憲法と国会ーー衆議院議員選挙制度改革の視座ーー
  
一、はじめに
・衆議院議員選挙制度の復習
・選挙の意味の再確認
・政治改革後の政治世界の変化

                                1衆議院議員選挙

二、衆議院議員選挙制度の歴史的展開
(1)旧憲法/貴衆両院制度(旧憲法33条)

・最初の衆議院議員選挙制度(1889年)
→定数300/小選挙区制。選挙権:25歳以上の男子+直接国税15円以上
           被選挙権:30歳以上。同じ
15円の意味:現在の金額で年俸億単位の収入。全国民の1.13%。
↓ 東京府の例)有権者数:5,715人(人口比 0.35%)
緩やかに改正されながら、男子普通選挙制度の導入へ

・男子普通選挙制度の確立(1925年)
定数466/中選挙区制。納税資格要件の廃止。
大正デモクラシィーの成果。
負の側面:①臣民の「義勇奉公の誠」と「国家国防の責」を尽くすため、「政治的責任の自覚及び普及」の徹底化。
     ②治安維持法の成立/社会主義者弾圧法としての役割
「第1条 国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」。

1927年(金融恐慌)1929年(世界恐慌)以降、日本政治の劣化。
・1932年/5.15事件犬養首相暗殺、「憲政の常道」の崩壊。
・1935年/天皇機関説事件(美濃部達吉教授への攻撃)。
・1936年/2.26事件。陸軍皇道派青年将校のクーデタ。
・1941年/太平洋戦争へ。
→日本政治の死亡

(2)敗戦後の改革
1945年8月14日:ポツダム宣言受諾
同10号「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ」。
・マッカーサー五大改革指令=①女性の解放、②労働者の団結権の保障、③教育の民主化、④秘密警察の廃止、⑤経済の民主化。

1945年12月17日/女性参政権の確立。翌年選挙実施。
1947年5月3日/日本国憲法施行
1947年3月21日/衆議院議員選挙法に基づく選挙実施。
       →戦後長く続く選挙制度の原型形成
 中選挙区制、普通選挙制度。
→55年体制の確立:憲法改正なしの自民党一党優位性の確立
         
(3)90年代の政治改革

1988年6月18日『朝日新聞』のスクープ記事
→リクルート事件/竹下内閣:昭和から平成へ。
竹下→宇野/第8次選挙制度審議会の設置→海部→宮沢内閣
1992年/東京佐川急便事件
1993年8月6日/細川連立政権誕生
1994年/政治改革関連4法成立:細川+河野トップ会談/土井議長の斡旋
!日本政治の変質化にとって決定的意味を持つ。

・中選挙区制の廃止/中選挙区悪玉論
・小選挙区比例代表並立制の導入
 有権者の選挙行為を首相選択と同一視する発想
→ウエスト・ミンスターモデル(イギリス型)
その後の展開は、当初の予定通り、オセロゲーム的状況

三、衆議院議員選挙制度の改革の必要性

(1)現在の衆議院議員選挙制度
総定数475:小選挙区/295、比例代表180(公選法4条1項)
小選挙区:1選挙区1名当選(相対多数)
比例代表:11ブロック制/拘束名簿式(但し、全員同順位という場合もある)。
ブロック定数:北海道8人、東北14人、北関東20人、南関東22人、東京都17人、北陸信越11人、東海21人、近畿29人、中国11人、四国6人、九州21人。
 
重複立候補は可能:小選挙区落選者が比例代表で当選しうる。
前回の例)沖縄の4選挙区:自民公認候補落選。
         比例復活/いわゆる「ゾンビ議員」

(2)改革の現在

小選挙区における1票の較差(×格差)訴訟
通説:較差は1対2以内。
現在、13選挙区が2倍以上(都市部)
                          日本国憲法1

裁判所の立場
・最高裁判所1976年判決/最重要の判例
①較差が存在すること、②合理的期間内に是正をしないこと
→この場合に限り「違憲判決」。但し、行訴法31条の援用「事情判決の法理」
              いわゆる「違憲有効判決」。

・2014年12月の衆議院議員選挙の判断
「0増5減」への評価
17件の高等裁判所の判断:違憲判決1、違憲状態判決12件、合憲判決4件。
年内に最高裁判所判決が出される予定/違憲状態判決か?
(3)衆議院自体の努力

衆議院選挙制度調査会の設置(2014年6月)
現在、改革案を模索中。各党の意見はまとまらず。おそらく失敗する。
では、どうするか?
→最高裁判所が「違憲無効判決」を下さない限り、改革は進まない。

国会議事堂2

四、小結ーー宿題としてーー
・憲法41条の規範意味:「全国民の代表」の捉え方。
 国会議員は、何を代表するのか?

・議会制民主主義が正常に機能するための条件とは何か。

・参議院の改革も同時並行的に考えよう。

・有権者18歳引き下げ法案、現在審議中。
→約240万人が新たに有権者に加わる。
 →高等学校の教科内容の変更を伴うはずである。
→20代の投票行動

【ブックリスト】
石川真澄/山口二郎『戦後政治史〔第3版〕』(岩波新書、2010年)
山口二郎『いまを生きるための政治学』(岩波書店、2013年)
宮本太郎・山口二郎『日本の政治を変える』(岩波書店、2015年)
後藤謙次『平成政治史1-3』(岩波書店、2014年/15年)
加藤一彦『議会政治の憲法学』(日本評論社、2009年)

                加藤一彦先生聴講3

学習会要旨

◎5月23日(土)学習会の要旨

日 時:2015年5月23日(土)13:30~15:30 
場 所:東京経済大学 1号館 A405教室
テーマ:「東京~東京へ―オリンピックの原点」 
講 師:羽佐間 正雄氏(元NHKアナウンサー)                               
出席者:175名(会員:男性125名、女性45名、           
         非会員:男性3名、女性2名) 
 
 羽佐間先生2
                               
【講演要旨】 
  今年84歳になります。本籍は東京ですが、父親の転勤で九州に生まれました。小学校の4年の夏休み、昭和16年に上京しました。隣の教室に徳田先生という体格の良い先生がおられました。やさしい先生でした。私は田舎育ちで、小学生の頃から詩吟をやっていました。その先生が陸軍病院に慰問に行くので、私に詩吟をやるのか?と言われ、やりますと答えました。私しかいなかったのです。

  田舎から出てきたものですから教室に入る時、上履きというものがあると初めて知りました。田舎じゃ季節を問わず裸足でしたから。 でも詩吟は私一人であると知って誇りに思いました。
お弁当はスチームがあって暖めていたのを都会はすげーと思いましたね。
校庭がコンクリートで、「狭かあ・・」と思いながらその当時はやったバトン投げを競争していた記憶があります。4年生ですが、自分だけが、端から端までノーバウンドで、遠投記録で名をあげたものです。兄は6年の転校生ですから、半年くらいしかいなかったのですが、弟は2年生から入っております。女の子が田舎と違いこんなに綺麗な子がいたのかと吃驚しました。

 その当時、母親はお前は戦争に行ってお国のために死ねばよい、といった時代でした。入学の後、幼年学校を目指す学校に行ったのですが、白金小学校から3名でして、私と行った3人の内の一人が中村孝太郎という関東軍司令官、陸軍大将の息子でした。もう一人は鈴木君と言って靖国神社の宮司の息子だったと聞きました。
                                     
                                      オリンピックイメージ3

 さて、最初にお話ししておかないといけないのですが、マラソンの五輪に日本から、3回出た方が2人います。一人は君原健二さんはメダルを獲り、宇佐美彰朗さんはメダルには及びませんでした。この方が健康の為に、著述、講演活動をされています。以前にこの方にお会いした時、言われた言葉です。それは歩きましょう。できるだけ真っ直ぐ歩く、その時、足の5本の指で地をキャッチする、これを意識してくださいね。
私も大地を掴んでやっています。これを忘れないでメモしてください。できれば真っ直ぐ歩く、東京では大抵、相手が避けてくれますから(笑い)、これを習慣として身に付けて下さい。

東京オリンピック1

 昭和39年のオリンピック会場に足をはこんだ方、テレビで観戦された方はどのくらいいますか?(聴講者の反応)(笑い)その前、昭和15年に東京オリンピックは決まっておりました。戦火で怪しくなり中止になりました。戦前の開催はできなくなり、昭和39年はアジアに初めて来たオリンピックが東京でした。それを契機に、東名高速、新幹線が開通し、第三京浜も開通し、オリンピックを契機に景気も上がっていくことになりました。

 5年後のオリンピックは楽しみですね。もし、私が生きていれば89歳で、100m競争のラジオの実況をやってみたいなあと言いましたら、いいですね?と無責任なディレクターですね。(笑い)できれば89歳の時に、やってみたいな、夢です。
ここにありますオリンピックの原点は一点にあらず、時代時代により、あるに違いない。そうであれば皆さんにも幾つかの原点があるに違いないと思っております。

 最初に日本人が出たオリンピックは、ご存じですか? 1912年スウェーデンのストックホルムで開催されたオリンピックの時なのですね。選手2名、役員2名、出場した選手はマラソンの金栗四三さん、これが絶対優勝だと言われて出ていつた。それに短距離、当時、東大の選手の三島弥彦さんが出ていった。金栗さんは途中棄権、三島さんは大差で敗れた。
金メダル第一号は、昭和3年、アムステルダムで織田幹雄さんの三段跳びです。今回、取り壊されますが神宮外苑の国立競技場の第4コーナーに15.21mのポールが立つています。織田さんの記録にちなんだポールです。新しい競技場が出来る時、あの記念ポールも残して欲しいと思います。

 女性選手の参加はいつごろからでしょうか? アムステルダムで女子が参加したのが初めてです。当時の女子の短距離は100m、その次は800mしかなかったのですね。
人見絹枝さんが100mにメダルを取れなかった。そこで人見さんは800mに出たいと言った。監督はじめ、織田さんも止めるように諭した。最終的には本人の熱意に監督が同意したが、当日、監督から、本来100mの選手の人見さんがスタート後、ひたはしりを抑えるため、各コーナーに人を配して、セーブするように声を枯らした。人見さんもその指示にしたがい、前半を抑えに抑え、最後の50mを疾走し、2位に入った経緯があります。この人見さんはその後、毎日新聞の記者になり、24歳で亡くなりました。
女子が最初に金メダルをとった第一号は前畑秀子さんの平泳ぎです。前畑さんの金メダルを有名にしたのが実況中継でした。前畑さんは亡くなる直前まで子供達に水泳教室を主宰されていました。

                  前畑4

 私がNHKに入局し、最初に配属されたのが山口県の防府支局でした。その時、先輩からこれを聞いてみるように言われたのが先輩アナウンサー、河西三省さんの実況中継を録音した大きな円盤でした。
河西さんは飛び込んだ前畑さんが水中から浮き上がってから、前畑がんばれと言い続けました。当時、ベルリン在住の日本人が立ち上がり、レースが見えない状況で、前畑頑張れの連呼と、あと5メーターをしばらく言い続け、ゴールのコールはありません。(笑い)

 人見絹枝さんは100m競争で敗れ800mに出場して活躍した人、これこそ大和撫子、サッカーの女子チームで国歌を歌わない人が大和撫子と言えるでしょうか? 競技が始まる前に先進国でも後進国でもいずれの国家でも国歌を歌います。ところが日本の女子サッカーチームが国歌を歌わない、こんなことがあり得るでしょうか? 学校でも教えていないのですね。これで良いのでしょうか? いかなる場所でも国歌を歌えるようになって初めて大和撫子と言えるのでないでしょうか? 前畑ガンバレと連呼した生中継は、昭和 11年のベルリンオリンピックです。

 昭和7年のロスオリンピックの実況中継でアナウンサーを派遣したのですね。海外の事情、事前に契約金を支払わないと生放送が出来ないことを知らず、やむなく100mを架空の実況でやりました。その時間はは57秒もかかっていたそうです。

オリンピックイメージ1

 歴史は進み、昭和23年ロンドンオリンピックが開かれました。これが、第二次世界大戦が終了し、初めてのオリンピックでした。
その頃、日本は敗戦国ですが、オリンピックに是非出たい。当時、水泳にとんでもない選手が現れました。古橋広之進、橋爪四郎の2人です。向うところ敵なし、オリンピックに出してもらいたい、でも出られなかった。
それならばと、日本の流儀でロンドンオリンピックに合わせ、日本で水泳の試合をおこなった。ただし、時差があります。古橋、橋爪が競り合って、古橋1位、橋爪2位の結果を踏まえ、ロンドンオリンピックの結果を待つことになった。当時の通信状況から待つこと待つこと。でも溜飲を下げる。大差で問題にしない決着でした。

 そのあと、アメリカのエール大学の全米選手権に古橋、橋爪を呼ぼうではないかということになったが派遣する費用も大変、その折り、ハワイの2世、カリフォルニア在住者からの募金がありこの2人を筆頭に日本選手を派遣。この2人はぶっちぎりの優勝で米国民を驚かせた。まさに快挙でした。
この2人に会いたいとのことでアメリカの生理学者が訪日、2人にインタビューした。この生理学者が2人の栄養摂取量、練習量などを聞き、このままでは二人の命は3年も持たないと言われた。それを聞いた古橋広之進は生理学者の前に進み出て「先生のカロリー計算のなかに精神力と言う項目はないのですか?」と問い、その生理学者は一言も答えきれなかった。

                                      オリンピックイメージ2

 週刊現代で昭和に活躍した人を3名選んでくださいという問いに、私は一名は古橋広之進、もう一名は山下泰裕、もう一名は王貞治を選びました。
古橋広之進の活躍ぶりは既に紹介の通りです。山下はロスのオリンピックで負傷しながら金メダルを勝ち取った選手です。フランス選手との戦いで負傷、決勝はエジプトのラシュワンと言う大男です。その時、エジプトの監督は日本人であった。その日本人監督からラシュワンに決勝に当たっての指示があった。「山下は負傷している、自分から仕掛けてくることはしないだろう。お前は開始後、60秒は動くな」と言われた。人間の弱さからか大男は監督の指示に従わず、立ち合い即、動いた。待っていた山下に返され、敗北することになります。
王さんのソフトバンク監督時、面談したおり、大手術を終えて復帰した彼は、「もう尋常な体ではありませんから、これからは昨日を還りみず、明日を思わず、日々今に生きることを考えます」と決意を明かした。流石ですね。本当に身に沁みて体に入ってきましたね。

 親と子、監督と選手の結び付きのなかで親不孝者を見たことがありません。昭和39年の東京オリンピックの第一号は重量挙げの三宅義信です。当時日本のJOCは日本チームを鼓舞するため、通常、後半に演技する種目を前にもってきた。
三宅義信はオリンピック開始1ケ月前から眠れなくなった。一計を講じて、会場に向かう前前夜に一睡もせず、試合前日に眠る作戦を立てた。そのお蔭もあり、試合前日はよく眠れ、会場に向かう。試合に行く過程で他の選手も眠れていないはず、ステージに上がったおり、胸を張り堂々と入場し、真暗い会場の5列目に両親の顔が見えた時、母親が霊になり飛んできて母親が一喝し、「負けるわけがない」と叱責。金メダルを取ることが出来た。

羽佐間先生4

【質疑応答】
1)羽佐間先生のアナウンサー時代の成功談、失敗談を聞かせください。
失敗の連続です。記憶に残る実況は、東京オリンピックで朝9時に放送席に座り、夜10時15分に放送を終了した、棒高跳びの競技です。棒高飛びの米国の選手が14回続いていた継続勝利に向かい、最後に飛び超え優勝してきたことを実況中継したこと。

2)5年先東京オリンピックのメダル数は?
メダルより諸外国との交流での新しい出会いを楽しみにしています。  (文責:赤池秀夫)




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