12月号会報


           
      
                                 12月イラスト2
      
 

                                                                                 12月号会報                                             




「お願いとお知らせ」
  
◎来年の会費を納付されましたか 
                                   
継続会員の方々には11月中に申込書を兼ねた「郵便払込取扱票」をお届けしました。会費の払込みはお済みですか。
まだの方は、事務処理の都合上12月25日までに年会費2,000円を郵便局窓口で納付してください。
払込票を紛失された方は、郵便局の払込票で下の口座にお払い込みください。

  ◆口座記号…00180-0  ◆口座番号…740666  ◆加入者名…欅友会  

※通信欄に、①「継続」あるいは「新規」の別、②「年齢」(例…60代)
会報のメール配信にご協力いただける方は、是非メールアドレスをお書き添え下さい。
会では、入金確認の誤りを避ける視点から、郵便払込票による会費納付をお願いしています。

11月30日までの会費納付者数は、241名です。
   継続会員(男性/167名、女性/51名)、新会員(男性/18名、女性/5名)


◎欅友会の名札…紛失破損の場合

継続会員の方には本年ご使用いただいた名札を来年度も引き続き使用していただきますが、紛失破損の場合は再発行いたします。下記のお問合せ先までお知らせください。


◎原稿募集中

◆会報では1月号に掲載する俳句を募集しています。テーマは自由、おひとり2句まで。締切日は12月20日です。気軽にご参加ください。
                         俳句3

「会員の声」への投稿は常時受け付けます。原稿用紙5枚以内(文字数は2000字以内)でお願いします。文字数制限を大きく超える原稿は掲載できませんのでご了承ください。

     お問合せ先・原稿送付先:大崎尚子 




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇





◎2016年(平成28年)学習会スケジュール
12月会報シュケデュール表

                                 
★スケジュールは事情により変更、中止する場合があります。予めご了承ください。

○学習場所 東京経済大学の教室  4月以降の教室は決定次第お知らせします。                             
○各学習日とも土曜日 13:30~15:30
○下記の学習会は映画上映のため終了時間が1時間遅くなります。
      ★ 7月23日  13:30~16:30 




特別企画     わたしの戦後70年 その6(最終回)

12月会報B-29その2
                     12月会報昭和1
                                    12月会報サラリーマン2


 ―オペラ「人道の桜」を観て思う―               関塚 恵子   
 
 7月26日、早稲田大学大隈記念講堂公演の杉原千畝物語、オペラ「人道の桜」を観てきました。第二次世界大戦の最中、外交官杉原千畝は己の信念を貫き、多くの避難民に救いの手を差しのべました。その歴史は今や小中高生の知る所です。オペラは千畝の勇気ある決断、力強さ、優しさを巧みに表現、ピアノ伴奏、歌唱力、合唱も良く、何よりも真実に基づき、年月掛けての作曲、脚本、演出、監修による総合芸術が、聴く者の琴線に触れたと思います。「人道の桜」は今年葉桜の5月、リトアニアの首都ビリニュス国立劇場で世界初演、今回の凱旋帰国特別公演となりました。今から10数年前、杉原の人道精神を称えて、リトアニアに植えられた日本からの桜苗木が年々成長し、人々に安らぎを与えていると聞きます。生きようと必死で杉原に救いを求めた避難民と、リトアニアの地で懸命に咲く薄紅色の桜を重ね合わせた時、「2度と戦争はあってはならない」と思う1人です。

  私の戦後70年                        髙橋 和夫   
 私が敗戦を知ったのは9才、小学4年生の時であった。それから70年、日数にすると25,000日余り、色々な事が思い出される。特に、昭和20年8月15日昼の昭和天皇のいわゆる玉音放送は国立市の大学官舎で聞いた。当時のラジオ放送は音が不鮮明で内容がよくわからなかったが、放送が終わってからあるお母さんから「これからはどのような社会になるかわかりませんが、皆んな元気で生きて行きましょう」と言われた事が印象に残り、改めてこれからの行く末を心配したことを覚えている。それからは食糧不足、物資不足と両親は苦労の連続であったが、私は地元の中学・高校・大学と進学することができたのは、会社を定年退職してからの生活を含め、大変うれしく思っている。敗戦からの70年にわたり、日本は平和国家として戦争にまきこまれることなく現在に至った事を本当に有難く思っている。しかし、最近国会では安全保障関連法が成立しそうな段階にあり、今後日本が再び戦争に参加する事がないよう、国民全体で考える必要を痛感している。

  私の戦後七十年                         川越 尚子  

 昭和二十年三月、房総の空から真っ赤に燃えさかる北西の空を見たのは女学校三年生の時だった。もう東京には帰れないと恐怖に震えた記憶から七十年が過ぎ、純情だった少女も傘寿をすぎ、人生の終盤にさしかかった。
 復興の兆しが見え始めた三年後、東京に戻ることができた。ないもの尽くし貧乏のどん底暮らしで生きることに必死だったが、まわりも皆同じように再建に懸命だったと思う。
東京に戻れただけでもラッキーという時代であった。飢えていた勉学に励み、やがて結婚し三児の母になって、夫と二人で懸命に生き抜いてきた。 
 私が山を始めたのは十代の終り頃である。少ない時間とお金を何とかやりくりして男性に交じって山に向かった。結婚後は夫と二人で国内はもとより海外の山も十数回経験した。決して裕福とは言えない生活ではあったが充実していた。今は夫も逝き、一人で周囲の方々にやさしい手を差し伸べていただきながら自由に楽しく暮らしている。
   登山歴 半世紀過ぎ 老いを知る
 
  戦後70年の思い出                        西谷 清   

 昭和20年8月15日、西八王子にあった東京陸軍幼年学校生徒。終戦の詔勅は明瞭に聞きとれた。天皇の「五(ご)内為(だいため)ニ裂ク」の言葉に14歳の心が揺れた。復員に決まるが、家は4月末に空襲で全焼、両親の出身地の廣島に帰る。原爆死していた妹の葬式で初めて蓮如上人の経文を耳にする。「朝に紅顔ありて夕べに白骨となる」・・鮮烈な印象だった。転校先の中学が再開したが、原爆に焼け爛れた友人の顔は正視できなかった。
 生涯、海軍の技術者だった父を始め、約一年の間に四人の家族を失う。やっと入った旧制高校は一年で学制の切り替え。無謀にも東京の大学で学ぶことになったが、学資が足りず、「先に社会の方を変えたい」と学生運動に参加。原水爆実験禁止・破防法反対等に動くが、潮目の変化、生活の行き詰まりで永かった学生生活を終え「普通の」就職をめざすが容れられず、マネージメントサイドで漸く中小企業に入る。以後中小企業を転々、高度成長期にも世の歪みに苦しんだが、その間の見聞と人間関係は貴重だった。
 既に傘寿を過ぎるが、これからも一市民として平和への道を歩みたい。

  わたしの70年                          渡辺 義廣 
 
 「わたしの戦後70年」は、まさに私の年齢と一致している。その中で子や孫に残せる記憶と体験を戦後の混乱、復興期に絞って伝えたいと思う。
 戦後期は極めて不衛生で私の大事な人を疫痢で亡くしているし、身体検査では下着を着てない児とか耳が聞こえないとのことで先生が調べるとコルク栓のようになった耳くそが出てきたり、髪にDDTをかけられた真っ白な女子を見たりした。当時は紙芝居が楽しみだったが見るための水飴が買えず道の小石を口に入れ遠くからそれを見てたのを思い出す。一方当時はモノトーンの時代で同級生の女子の家に招かれ、真っ赤な緋毛氈のひな壇と色鮮やかな人形が忘れられない。これらはいずれもさげすみとか嫉妬の気持ちではなく、みんな大差ないし、大人も似たものとの感覚があって、イジメとか騙すこととはほど遠い、妙に一体感のあった時代であったなーと感じている。

  戦後70年目に想うこと                    中村 真知子 
 
 昭和20年4月に満州大連向陽国民学校に入学、8月15日終戦と同時に鉄筋3階建ての立派な学校から、汚い平屋建ての中国の小学校(公学堂)に移され、中国人部落を通っての通学は、追はぎ、石投げにあったり、ソ連兵が黒パンを投げて集まって来た子供達に機関銃を発砲し、逃げ回る子らをみて喜んでいる様が未だに脳裏から離れません。
 日本人への食べ物の流通がなくなり、売り食いで鳥の餌のコウリャン(紅梁)で飢えをしのぐあり様や、戦争が終わっている筈なのに、同級生の親たちは会合が有ると言って呼び出され、次々とソ連に連れて行かれたリ、ソ連兵の強盗、略奪、女性への暴行、狼藉や現地人の集団略奪ごとなどで、残された女、子供の日本人はどれだけ痛い目に遭い、目に余る事だらけでした。私の叔父も終戦間近に大連港で魚雷にやられ海の藻屑になり、その後の家庭は大変惨めなものになってしまいました。この悲惨な事実は、内地におられた方々に知って頂きたいことなのです。
 父は当時、輸送船乗りで何回もの沈没で九死に一生を得たお陰で、戦後私も教育を受けられ就職、結婚、子育て、老人介護を経て、あっという間に後期高齢者です。日本人の誇りを忘れず、親の恩や、今までいろいろな方に助けられたことに感謝しつつ、人に喜ばれることをモットーに生きて行きたいと思っています。

  私の戦後70年                          加藤 武夫 
 
 私は終戦の年、4歳でした。
その年の夏、桑名にB29により焼夷弾が落とされました。私は、母の背に負ぶさって防空壕に逃げ隠れたこと、北の空が真っ赤に燃えていたことを今もはっきりと覚えております。「私の戦後70年」は、この記憶から始まります。
終戦の年から十数年は、戦後の混乱と食料不足等により、生きるのに精一杯の時代でした。
 我が家は、私を含め兄弟姉妹5人が小学校中学校に通っていました。新聞、牛乳配達をして家計の足しにするのは当たり前、雨の日は、満足に傘も無く、破れた番傘をさし、穴の開いたズック靴を履いていた記憶があります。しかし、今にして思うと、春は一面に蓮華、菜の花が咲き乱れ、夏は蛍が飛び交い、鮎を追いかける清澄な川が流れていました。それこそ田舎の原風景、桃源郷の中で、貧しくも心豊かに過ごせた良き時代でもありました。
 学生時代を田舎で過ごし、高度経済成長時代のさきがけ、東京オリンピックが開催された昭和39年に東京に赴任しました。以降、正に日本の経済発展とともに働きに働いた時代でもありました。
昭和63年に昭和の時代が終わり、平成の時代に入りました。平成8年9月、55歳で定年退職し、第二の勤め先も平成18年5月、65歳で退き、完全に自由の身となり現在に至っております。終戦の年から61年、東京に出て42年が経過していました。その間、三島事件、日航機墜落事故、地下鉄サリン事件、東日本大震災にも遭遇しました。平成時代の始めにはバブル経済も崩壊、以降20年以上もの長きに不況が続いてきました。昨年頃から、漸く経済も明るさが見えてきたように思える状態ですが、経済の発展は、生活の豊かさ便利さをもたらしましたが、反面、豊かな自然を破壊してきました。私の故郷も高速道路が走り、蓮華、菜の花が咲き誇った田畑は、コンビナートと住宅に変わってしまいました。
 戦後70年、うち42年は過酷と言えば過酷なサラリーマン人生でしたが、総じて良き70年であったのではないかと思っています。日本は、この70年を契機として総決算し、次の30年後、戦後100年の節目に向けてより平和で成熟した国づくりを目指して欲しいと思います。
 私は、その節目を是非この目で確認したいと願っています。その時、私は104歳です。

                     12月挿絵1

       特別企画「わたしの戦後70年」は5月以降、全6回にわたり掲載しました。
       延べ35名の多くの方からご投稿をいただきました。
       投稿してくださった方、読んでくださった方に心からのお礼を申し上げます。








    12月会報崖線3

                                  (編集担当者:大崎尚子)

11月号


      
      
      
                                  11月紅葉3
         
                                                                                                                      
  11月号           
            
                                      
                                      
◎お知らせとお願い


              
①2016年の学習会スケジュール決定/会費納付のお願い                    

来年の学習会スケジュールが次ページの通り決定しましたので、会員募集を開始します。                        
会報を手配りまたは郵送でお受け取りの方には、「払込取扱票」を同封します。会報をメール受信されて
いる方には、同じものを手配りまたは郵送でお届けします。
払込取扱票は申込用紙を兼ねています。ご記入のうえ、郵便局で会費をお支払いください。年会費は2,000円です。手続きはそれで完了です。 

Eメールを利用できる方は、払込票にメールアドレスを記入して、会報お届け作業の簡略化にご協力ください。なお、記入された内容を本会の目的以外には使用いたしません。              
★諸準備の都合上、継続申込み手続きは12月25日(金)までに必ずお済ませください。



②【 俳句募集中!】

先月号でご案内いたしましたように、会報1月号で皆様の俳句をご紹介いたします。ふるって自作の句をお寄せください。
ご投稿いただいた句はすべて掲載します。そのためおひとり2句までに限らせていただきます。
締め切りは12月20日(日)、テーマは自由です。
大崎までお送りください。



③特集「わたしの戦後70年」は12月号掲載をもって終了いたします。

特集原稿の最終締切日は11月20日(金)です。ご投稿をお待ちしています。


 
軍艦三笠1


◎10/22野外学習会に参加して

 爽やかな秋晴れの下、参加者52名を乗せたバスが予定通り午前7時半国分寺駅前を出発した。今回のテーマは「日本の海を守る」。今年開通した首都高中央環状線経由横須賀へ。10時半に最初の目的地三笠公園に到着。日露戦争当時東郷平八郎率いる連合艦隊旗艦としてロシアのバルチック艦隊を迎撃した戦艦「三笠」を目の当たりにして、往時をしのぶことができた。市内セントラルホテルに移動し昼食。横須賀と言えば「海軍カレー」、これも明治の時代兵士の栄養の偏りを改善するため、日本人の口に合うよう作られて今日に至っている。現在も海上自衛隊は毎週金曜日にカレーライスを食べる習慣になっている。

                             横須賀5

 次に横須賀軍港めぐりクルーズへ。海上自衛隊と米海軍第7艦隊が基地として使用している。先日就役した空母「ロナルド・レーガン」は出航中で見られなかったが、空母に次ぐ大きさのヘリコプター搭載護衛艦や最新鋭のイージス艦、潜水艦等、まさに海の守りの要である艦船を水上から数多見学した。

横須賀8

 最後に横浜みなとみらい地区に移動し、海上保安庁の「工作船資料館」を訪れた。平成13年12月に発生した北朝鮮の工作船事件、自爆した工作船を引き揚げ生々しい姿で展示してある。拉致問題や尖閣問題を髣髴とさせる見学であった。隣接する横浜赤レンガ倉庫で皆さん思い思いの時間を過ごしていただき、予定よりは遅くなったが午後7時前に全員無事で国分寺に到着した。お疲れ様でした。 (山田 健)

                             横須賀6
                        

                    →集合写真は最終ページをごらんください。




◎2016年(平成28年)学習会スケジュール
11月会報2016年スケデュール

                                   
  ★スケジュールは事情により変更、中止する場合があります。予めご了承ください。

○学習場所 東京経済大学の教室  4月以降の教室は決定次第お知らせします。                              
○各学習日とも土曜日 13:30~15:30
○下記の学習会は映画上映のため終了時間が1時間遅くなります。
      ★ 7月23日  13:30~16:30 



◎アンケート集計結果  
  
欅友会は2015年度の学習会及び行事をすべて終了しました。会員の皆様のご協力に感謝いたします。
野外学習会を除く学習会参加者総計は1,721人、アンケートにご協力下さった方は899人、総出席者の半数以上の方が提出してくださったことになります。
提出率は前年より減りましたが、ご感想・ご意見を詳しく書かれる方が増えたため、記録にはうれしい悲鳴を上げました。皆様のご意見・ご要望等は役員会で採り上げ、次年度からの企画・運営に反映させてまいります。 
なお、全講座を休まずに出席された方は、(役員を除き)11名です。ご出席ありがとうございました。 
                  
〔2015年度学習会出席者数及びアンケート提出数〕

11月会報アンケート結果取り纏め





◎会員の声 

半農半Xという暮らし方                             宮澤 紘一 
                                                          

  塩見直紀氏の半農半X幸福論という記事を読んで、私もこの様な暮らしを多少しているとの思い上がりから共感しました。半農は家庭菜園、市民農園、ベランダや屋上菜園などでもよく、少しでも土や植物に触れる時間を持つ暮らしをすることが大事であると述べている点です。
 また半Xは得意なことや大好きなこと、生きがいなどで世に活かす生き方や社会が抱えているいろいろな課題の解決に、挑む活動をする生き方と理解しました。
農がなぜ大事なのか分からない人も多いと思いますが、私は人間が生きて行くためには「食べること」なしに活動はできません。したがって、如何に文明が先鋭化した科学や技術を駆使したとしても、人間の生命や生活を基本的に支えるものは「農」でしかないと思っています。
 社会的効用、身体的効用など農的福祉力と深く関わる働きがあり、「育てたり、加工したりする活動」は満足感や社会的アイデンティティを生み出すと聞きました。この様な「農」の効用から農家の方々は歳をとっても元気な方が多いように思っています。

<半農を始めるきっかけ>

 私が農に関わるきっかけとなったのはH9年頃だったと思いますが、松下電器(株)の高木善之氏の環境問題1日ワークショップに参加したことです。
地球の成り立ちから始まり、現在における環境問題の状況(オゾン層破壊、温暖化、森林破壊、酸性雨、海洋汚染、生物種の絶滅、人口爆発と貧困、環境と経済など)と提言を聞いた後で、みんなで話し合いをしました。

 この参加を機会に環境問題を自分で考え、少しでも関わり、何か貢献出来ないかを考えました。その結果、取組む課題を食料問題としました。要は自分で食べるものは、少しでも自分で作って食べるという本当に小さな小さな取り組みに決めました。このためにしたことは、庭の芝生を剥がして菜園にしたことです。芝生も植えてからだいぶ年月が経っていたので、根が地中深くまで伸びていて根を取り除くに大変でした。何しろ作業は単純ですが、時間が掛かりました。
 ただ只管無心に、根気よく土を掘り起こしては根を取り、それでもまだ地中に伸びている根を引っ張って抜きました。根を取っているときに、セミやカブトムシの幼虫などがずいぶんいることが分かりました。自然に触れる感覚を大事にしたいと思いました。

                         11月会報会員の声1
                                  (菜園)
 今私は小さな菜園を持っていますが、農作業は指図されることなく自分で計画を立て耕作し、元肥を施して種を撒く日を決めます。草取りや土寄せをして、成長するのをじっと気長に見守って育てて収穫します。この過程で台風などがくれば作物は倒れたりしますし、日照りの時は水をまいたりしないと枯れたりしますので自然との関わりを肌で感じます。
 孫が4歳になったので、この菜園の手伝いをさせて孫と触れ合うことをしています。孫に収穫した          

11月会報会員の声2(カリフラワー)

インゲンを入れ物に入れさせ、台所にいる家内まで持って行くなどの手伝いです。また紫色に熟してきたブルーベリーは、食べられるので摘んでいいことを教えたら、下から見上げてうまく探し摘んでくれます。その他にも草取りや枯葉拾いをやって見せたら、取ったり拾ったり手伝ってくれます。この手伝いをする中でミミズ、カエル、トカゲ、虫類などを見つけると、いろいろな学習ができます。

<半農が食事と健康を意識するきっかけに>                                   

 H14年の2月頃だったと思いますが、今は亡くなられていますが、久司道夫氏の「マクロビオテックス食事法」なる講演を聞き、食事構成を少し意識する様になりました。また「身土不二」という考え方から、自分が住んでいる近くの土地の季節のエネルギー(生命力)をたっぷり含んだ「旬」のものを食べると良いとのことから、家庭菜園をして良かったと思っています。

<私の半X活動ついて>

 私の半X活動は、いろいろなボランティア活動をすることで、地域に少しでも貢献することだと考えています。現在防災活動、公的福祉活動、自治会の取り纏め、老人クラブの取り纏め、介護予防活動や相談などを行なっています。
 ボランティア活動をして良かったと感じていることは、・いろいろな方々と出会い人脈が広がったこと。・学習する機会も増え視野が広がったと思うこと。・会員間の合意形成や調整及び資料作成と配布作業を通じてだいぶ要領よくできるようになったこと。・いろいろな経験と実績が多少自信となり、人間的にも成長したかな?と思っていることです。

 ボランティア活動して、非常に残念に思うことが一つあります。それは高齢者の方で怖い顔をしている人が多いことです。そういう方にはどうしても声掛けが遠慮がちになります。やはりニコニコしている笑顔の方は端から見ていても素敵に見えます。「和やかな笑顔の漂うところに、運命の女神はその慈愛の手を差しのべる」とありますから、私も注意していきたいと思います。


              11月会報(猫)
                   挿絵:河野平八郎会員  

 
                  
特別企画      わたしの戦後70年 その5



  私の戦後70年                              中島 美智子  

 戦後まもなく三鷹駅近くの古びた家々の中に、木の香りのする建物が建ち、皆の目を引いた。オルガンの音と共に賛美歌が流れていた。英語の聖書と賛美歌が貰えるよと聞き、ある日曜日ドアを開けた。 
金髪の女性の言語は分からなかった。それが私が聞いた初めての英語であった。キリスト教は理解できなかったが、英語に魅せられた。中学生の頃、私は将来数学をしようと思っていたが、いっぺんにアメリカファン、英語ファンになった。当時御成門にあったアメリカ文化センターで、フルブライト以外にも2,3の州に奨学金がある事を知る。個人面談も含む数回の試験を経て一枚の切符を私が頂ける事になった。7月1日横浜出帆の貨客船上に。ヴァンクーバーまでの15日の船旅と、ミシガン州への3日の大陸横断バスの一人旅。9月から翌年8月末までの厳しい丸一年の留学期間だった。半世紀を経て、今でも多くの友人との交流が続いている。 

  椰子の粉                             彌(や)吉(よし) 久  

 戦後の数年間、みんないつも“おなか”を空かせていた。飢えのための人格そう失も垣間みた。闇米に手を出さず、配給米だけで飢え死にした大学教授の話も聞いた。私は遊学中の一時期、広島で間借りして自炊していた。S23年頃、食糧配給に“砂糖”のこともあり、これは穀物に交換できた。ある時“椰子の実の粉”の配給を受けた。両手2杯ほどあったろうか? シメタと喜んだが、さて食べるには?粉に少し水を加えると、ドロッとはなったが全く粘り気がない。手持ちの僅かな味噌を鍋に仕立て、“椰子のドロリ”を流し込んだが、パーッと散ってしまう。2~3回やっても…。夢は泡と消え、さらなる空腹だけが残った。私は今でも食べ物を粗末に扱うことはできない。そして「食糧」と「水」と「エネルギー」の安定供給を案ぜずにはいられないのです。これは私たちの「生活スタイル」を考え直す問題でもありましょう。

  かつて国分寺の紅顔の少年、いま白頭の老人となりぬ           池田 茂雄  

 小学生(S26-32年)の大半を北多摩郡国分寺町多喜窪(現、泉町3丁目)で過す。近くを下河原線(現、武蔵野線の一部)が走り、その東に深い林に囲まれた広大な国鉄鉄道学園教習所(現、武蔵国分寺公園周辺)があった。母親に連れられ日用品を買いに行くには、中央線を跨ぎ、日立研究所の南の塀に沿って歩き、北口の商店街に出る。楽しみはチェリー文庫で「小学何年生」を買って貰う事だ。教習所はカブトムシを取ったりする遊びの基地。野川の湧き出る所で沢蟹を取るまでが遊びの範囲だった。がある時、駅の近くに行った、東の森に火の手が上るのを見る。木造二階建てが、火に煽られゴウゴウ燃え盛っている。東経大の寮です!(S31年)。同年、南口が出来、バスも走り便利になる。「三石堂」、洋食のビル「ヨネザワ」、さらばオババの「国分寺書店」・・・。平成元年、現在の姿の駅ビルが出来る。そして今、北口駅前の開発が進む。夢のようです、一瞬の。

  私の戦後70年(少年のとき)                       松田 眞  
 
 私は、終戦を小3で疎開先の叔母の家で単身で(約2年間)むかえ、翌年母と合流し父の中国からの復員、弟の誕生を経て、昭22年農地開放で不在地主(父の母親が在住)の父の実家に再び家族と離れ単身で移住し、旧長野市外の山村の小学校へ通学し、自作農として土地(山林含)の確保の目的を果たしました。家族4人揃って生活出来る様になったのは、小6(昭23)になってからでした。今から思うとあの異常ともいえる生活環境を不満も疑問もなく受け入れていたのは、世の中全体が食糧が不足し貧しく、同じ様な事が周囲でごく普通に起きていて、格差を感じなかったからでしょうか。
 この様な体験が、私の人生にどの様な影響をあたえたかわかりませんが、あれから約70年たった現在、平和で平穏な生活を満喫出来るのは、あの時のご褒美ともいえると思っています。

  私の小学校入学式の頃                      上村 享子(みちこ)  
 
 60数年前の私の小学校入学の頃は、戦争が終わって間もないので、街に出れば傷痍軍人が目に付き、浮浪児が居ました。とにかく物がないのです。ランドセルなどあるはずもなく、母が自分の帯をほどき、帯芯で手縫いで作り、赤いチューリップのアップリケをしてくれました。靴もなく殆どの子はゲタです。 
 杉並区立桃井第四小学校に入学。一年生は四クラスで二部式授業でした。テレビもゲームもなく、空き缶1つあれば近所の子供たちが集まり、缶ケリをして遊びました。クラスの誰かが雑誌を買ってもらうと、クラスの皆が廻し読みです。配給制で米の代わりにザラメが配給になったりしました。
 今と比べると貧しいですが周りも同じような生活です。いじめもなく、毎日楽しく遊び呆けていました。両親(教員)は給料が物価上昇に追いつかず、生活は大変だった様です。

  釜石の災害                                 鶴野 哲夫   

 三年前の東日本大震災で妻の生地岩手の釜石は大津波で甚大な損害を蒙ったが、昭和8年にも津波被害の洗礼を受けている。隣の遠野育ちの私にとって縁者も多数居り、看過できない土地である。70年前の中学2年の頃を思い出し、戦災と津波の街釜石の早期復興を願い当時のことに触れたい。
 釜石は昭和20年夏に本州唯一の艦砲射撃を2度も受けた。当時私は勤労奉仕、軍事教練に明け暮れる日々を過ごしていたが、校庭で遠雷のようなズドンズドンと不気味な音を耳にし、約40㎞先の釜石の艦砲射撃を知らされた。街は焦土と化し、富士製鉄の製鉄所の機能が破壊され、死者750余名を記録。今回の大震災は連日報道を耳目にしたが、過去の艦砲射撃の記事は目にしないように思う。人は年を経るにつれ災害を忘れる。釜石は大津波と艦砲射撃の街であることも知って頂きたい。



10月22日野外学習会写真2

野外学習会集合写真   記念艦「三笠」前にて




10月号

                                   10月コスモス


  10月号                                                       
      
    
       
          

◎ 野外学習会の最終案内(10月22日実施)
今年度の野外学習会は参加希望者が多く、一部の方にはご希望に応じる事が出来ず、
誠に申し訳ございません。ご理解とご協力をお願いします。
参加は現状53名です。

参加取消の場合は10月16日(金)午後6時までに連絡をお願いします。これ以降(当日を含む)のキャンセルは費用の全部または一部を負担して頂きます。
  (連絡先: 会長 増田 保武) 
≪見学場所≫
見学場所等の詳細は8月の会報に掲載してありますのでご覧下さい。
(戦艦「三笠」/横須賀軍港めぐり/北朝鮮工作船)なお、天候等により変更になる場合もございます。予めご承知おき下さい。
時間割は当日参加者に配布いたします。

≪下記ご注意ください≫ 
注意事項3


◎ 9月19日(土)学習会の要旨                         
 岩城先生4
 
 日 時:9月19日(土) 13:30~15:30                             
 場 所:東京経済大学 2号館 B301教室  
 テーマ:「案外知らない“終の棲家さがし”の真実」                                          
 講 師:岩城 隆就
(有料老人ホーム代表、 社会福祉士・介護支援専門員)
 出席者:134名(会員:男性86名、女性:33名 
  非会員:男性7名、女性8名)

【講演要旨】

 私は、練馬区の豊島園の近くにあります「シルバーヴィラ向山(こうやま)」と「アプランドル向山」の二つの施設を運営しております。現在都内には約700の有料老人ホームがありますが、私どもは開業後34年、3番目に旧い草分け的存在です。入居者募集の広告はこれまで行ったことがなく、口コミだけで満室を続けております。これまでに7組の親子二代のご利用もありますし、将来の入居を申込中のお子様もいらっしゃいます。ご家族が「自分も入りたい」と感じていただけるのはありがたいことと感じています。

 さて、老人ホームというと皆さまはどれも「終の棲家」と思われるかもしれませんが、実は「終の棲家」は案外少なく一歩前、二歩前の施設が多いものです。でも謳い文句は「終の棲家」です。ここがややこしいところです。今日お集まりの皆さまは、会場に続くあの坂道を登って来られる体力があるわけですから、私から申し上げれば、皆さまには「終の棲家」はまだ存在すらしていないことになります。ここを理解され、あとで「臍(ほぞ)を噛む」ことがないように、今日はお話しさせていただきます。

平均余命と償却期間・・・人生は思うほど短くない
 わが国の高齢者は3千万人を超え、その内、要介護の支援が必要な方は550万人というのが現状です。実は、平均寿命がこの65年間に約20歳以上も伸びているのです。
平均寿命
 ※1950年から65年間で女性は約24年男性は約20年伸びています。、 
 
 一方、健康寿命は2010年の場合、女性は73.62歳、男性は70.62歳と、平均寿命とは9~13年の差があり、これが病気や要介護の期間であるのです。結構長く、厄介です。
1950年当時は定年が55歳でしたから「老後」は概して短いものでした。その頃は、食事が摂れず水分だけになってしまうと、4週間ほどで逝ってしまわれたものです。

 平均寿命の他に平均余命というものがあります(厚労省の「簡易生命表」として公開されています)。
これは当該年齢でどれだけ更に生きているかの平均値を意味しています。0歳の人の平均余命が平均寿命です。75歳の平均余命は、女性で15.4年、男性で11.7年となります。これは現在75歳の女性100人の内、半数の50人が90歳(15年後)を超えることを意味しています。更に日本人は現在も一日5時間寿命が伸びています。これは5年で1歳寿命が伸びていることを意味します。人生は本当に長いのです。

 一方、有料老人ホームの入居一時金の償却期間はほとんどの施設で5~6年しかありません(入居一時金を設定する都内440施設の内、75歳入居での償却期間6年以下が83%に達します)。これは平均余命と償却期間の設定が大きく乖離しているわけで、人生の長さに対応した有料老人ホームが大変少ないことを意味します。然しながら、どの有料老人ホームも「終身」契約と謳っているため「亡くなるまでずっと面倒を看てもらえるなら、返戻金の有無は大きな問題ではない」と考えてしまいがちなのです。
ここが盲点であり「臍を噛む」ところです。

 基本的に「入居一時金」=「前払家賃」となります。従いまして、償却期間を過ぎると、その入居者は「お客様」でなく「居候」と見做されかねません。償却期間を越えた入居者A様を退出させ、新規B様に入れ替えることが出来れば、再び「入居一時金」を手にできます。その施設の採算がギリギリであれば、その誘惑は抗し難くなります。具体的には、「当ホームの介護能力を超えた」、「他のお客様に危害を加えた」、などの理由を挙げられます。実際に追い出され、当ホームに再入居されたお客様がいらっしゃいます。
 今は採算に余裕があるとしても、運営期間が長くなるにしたがい、必然的に「居候」が増えて行きますので、結果は同じです。「居候」が3割を超えるようになれば、施設運営そのものが困難になります。従い、施設維持のためには追い出さざる得なくなるのです。つまり、こうした有料老人ホームでの契約条件は、およそ経済的合理性に欠けていることになります。ご自身の平均余命よりも短い償却期間での入居契約には、こうしたリスクを十分ご留意ください。
 因みに、平均余命をいずれも上回る償却期間を契約条件としている施設は、全国でも当社以外に例を見ておりません。まことに残念なことですが・・・
                                      老人ホーム10

人生は往(い)って復(かえ)ってくるもの
 新生児は寝返りも打てません、所謂“寝たきり”状態です。食事も最初は“流動食(母乳)”、やがて“きざみ食(離乳食)”、そしてやっと“普通食”となります。1歳頃から歩くようになりますが、心許ないので移動時は“車椅子(乳母車)”でした。また、最初の2年ぐらいは“オムツ”生活でした。これが成長です。老化とはこの逆コースです。
皆さまは、今の状態がズーと続くと思いがちですが、そうはなりません。往った道は必ず復るものです。その意味で私たちは“0歳”に向かって下り坂を歩んでいるのです。

 では、皆さまは“0歳”に対して今は何歳でしょうか? これは知力でなく体力の話です。“中学生”ですか? “小学生”ですか?
いま“中学生”と思われた方は、これから“小学生”~“幼稚園児”~“保育園児”~“乳児”の時代を順番に迎えることになります。それぞれの“通学”期間は人それぞれですが、必ず通過します。“中学生”で中学校に通うあなたが“幼稚園児”時代となった時、今のまま中学校に通えるでしょうか。恐らく無理です。机・イスの大きさ、階段の踏込も違います。
いま“中学生”以上の皆さまが老人ホームを選ばれるとき、どうしても今のご自分に相応しい施設つまり“中学校”を選んでしまいがちです。それは「今良いホーム」ですが、「明日良いホーム」とはならないのです。

 8ⅿほど先のトイレを想像してください。今の歩幅なら10歩程度で行けますが、これが10~20㎝の歩幅となったら何歩で辿り着けるでしょうか? やっと辿り着いた時には、恐らく用は済んでいることでしょう。つまりその時代には8ⅿ先のトイレは存在しないのと同義となります。全く違う次元の世界になります。歩幅とともに生活圏そのものが変わることを認識しなければいけません。
私の考えでは、「終の棲家」とは学齢期前の方が住まう場所です。「シルバーヴィラ向山」は「終の棲家」ですが、「アプランドル向山」は“小学生”の施設、つまり「終の棲家」の一歩手前と考えています。
老人ホーム2

良い施設の見分け方
 ここまで、施設選びには“今後の人生の長さvs償却期間”そして“歩幅縮小がもたらす生活圏の変化”を考慮する必要をお話しましたが、それ以外の観点における施設の良し悪しの見分けは結構難しいものです。それはご自身の判断基準が出来ていないからです。比較検討のための“基準点”を持つには最低でも10施設以上見て歩く必要があります。でも現実にはなかなかそうも行きませんので、簡単なポイントをお話しします。

 まず、施設長の人柄を見てください。施設の雰囲気は施設長で決まります。金正恩が施設長の場合と、マザーテレサが施設長の場合を想像いただければ判り易いと思います。
 次に、お客さまの顔色や目の輝きを見て下さい。目線が下であれば、その施設では自己表現を躊躇わせているのだと分かります。抑圧的でお奨めできません。更に、お客様ご家族の話を聞ければ、なお良いでしょう。
なお、紹介業者は報酬の良い施設から奨めると承知ください。すべての紹介業者は、ある一社を除き、施設側から成功報酬の形で報酬を受け取ります。(注:当社はそうした業者と契約しておりませんので、紹介業者のリストには当社は含まれていません)

男と女の違い・・・男性のための安全保障政策
この仕事を始めてから気付いたのですが、
①ご夫婦入居の場合、男性はシッカリ、女性は要介護のケースが多い。
②男性が要介護等で単独入居の場合、奥様はご自宅に居られるケースが多い。
③女性が要介護等で単独入居の場合、独身か未亡人であるケースがほとんど。

 これはどうした訳かといろいろ考えました。考え抜いた末の結論は、男性は奥様を「所有物」視する傾向にあり、女性は夫を「白馬の騎士」と見る傾向にあることでした。男性は奥様がたとえ認知症になられても手放すことが出来ず他人に委ねません。一方、女性は優生な子孫を残すと云う命題を負っているため「白馬の騎士」に憧れるわけです。この「白馬」が気付いたら「ロバ」になっていたとしたら、女性は「あらっ」となるのですね。つまり「愛」ではなく「生理」の問題です。

 「終の棲家」がまだまだずっと先の皆さまには、これからも長いご夫婦二人の生活が続きます。これまでは、外で働く夫を妻が支えてきました。この関係を定年後も続けて良い訳がありません。男性の多くは「炊事・家事」を女性に依存しています。自立の要件にはこの生活技術も含まれます。つまり多くの男性は、対外的には自立して見えますが、人間としては依存状態にあると云えます。この依存状態は安全保障政策上かなり問題です。この微妙なバランスが崩れるとパニックになりかねません。こうしたストレスは認知症に直結します。今日から炊事を始めましょう。冷蔵庫に何が残っていたかを思い出し、その素材から何を作るかを考えるのは、かなり創造的な作業です。認知症予防にはうってつけなのです。

                     岩城先生講演4

【質疑応答】

質問1 老人ホームの入居者同士の人間関係は難しいと聞いていますが、どうなんでしょうか。

答え: 先ず、他人のことが気なるというのは相当レベルが高いと思います。認知度が下がってくると他人が気になりません。人間関係には相性があり、能力の差もありますが、基本的には一つの社会を作りますので、どのような社会を作るかがその施設で変わります。これは実学の世界でそのために私どもがいます。人間関係がうまく廻るようにいたしますし、マネジメントとして捉えています。趣味とかを見ながら相性の良さそうな組み合わせをするよう頑張って足を合わせていきます。

質問2 償却期間の説明がありました。自分の余命と償却期間の線を捜すのは容易ではないと思っています。施設検討の際に具体的な目安としての金額でもあれば教えてください。

答え: 値段には大きな幅があります。私のところは都内では下から25%位で30万円を切ります。高いところでは100万円を超えています(月当たり)。私のところより廉いのは問題と思います。私どものような個人経営とは違って企業の場合は、利益率を上げる事も一つの使命にしていて高額になります。この業界は6割を人件費が占めており労働集約型です。自助努力をするしかないのかなとは思いますが、人件費への工夫と、お世話に代わり得る、人に優しい技術革新も必要とは思っています。(文責:渡辺 義廣)

                               猫月見
                                  (挿絵:河野平八郎会員)                         
«俳句募集» 
会報1月号に皆様の俳句を掲載し、ともに賑やかに新年を迎えたいと思います。
心得のある方も、そうでない方も、これを機に自作の句をお寄せください。
お寄せくださった句は全部ご紹介します。そのため
ひとり2句までに限らせていただきます。
締め切りは12月20日、テーマは自由です。
ご投稿をお待ちしています。                       
なお、短歌については別の号でご案内します。                  

    

◎ 会員の声 【その1】


三笠とテキサス平和公園                              飯山 常成
軍艦三笠3

 アメリカはテキサス州、その州都オースティンより西方約80マイルに位置するフレデリックスバーグという地に太平洋戦争博物館がある。そして、その博物館に隣接して平和公園と呼ばれる日本庭園があり、その由来に、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を全滅させて世界中に勇名を馳せた東郷平八郎と太平洋戦争の米海軍提督であったチェスター・ニミッツとの友情があることはあまり知られていない。今から、もう20年も前に、私はテキサス・ヒューストンに住んでいたが、同地を尋ねたことがきっかけで初めて知ることとなった。10月には野外学習行事として記念艦「三笠」を訪問すると知り、この機会に日米双方の海軍提督の友情と三笠とにまつわる話をしてみたい。

 フレデリックスバーグは、19世紀中葉、ドイツからテキサスに移住した人々が作った町。1960年代に蒸気船スタイルのホテルを改造してニミッツ提督記念太平洋戦争博物館となった。この3階建ての博物館には、太平洋戦争の局面ごとの写真、資料類、航空機、戦車、銃砲等が展示されているが、変わったものとしては、真珠湾攻撃の際に捕獲された日本海軍の超小型特殊潜航艇の展示がある。敷地の奥にThe Japanese Garden of Peaceと名付けられた禅寺の石庭の趣を有する日本庭園があり、今日もなお美しく維持、管理されている。この庭園はニミッツ提督と東郷元帥の友情に由来している。公園すぐ左手に東郷元帥の書斎のレプリカがある。もみじとクロマツはカルフォルニアから運び込み、石庭の石には苔が生えるように工夫された。白砂は太平洋を表し、その上の石は太平洋の島々を表している。この時代を離れた両者は如何なる関わり合いを有していたのだろうか。
                                       東郷元帥 
 1905年、日本海海戦で東郷がバルチック艦隊を撃滅して世界の注目を集めたその年、ニミッツは海軍士官学校を卒業し、幹部候補生として軍艦オハイオに乗船し最初の外遊地として日本に赴いた。そして、他の5人の幹部候補生とともに対露戦勝記念パーティに招待され、日本軍が旅順で捕獲したロシア製シャンパンを飲んでいた時、たまたま東郷がニミッツ達の方に歩いてきた機会を逃さず、ニミッツは立ち上がり、全員を代表して暫しの歓談を申し入れた。東郷はこれに快諾し、およそ10分間話をしてくれた。東郷は7年間英国留学をしていたのでクイーンズ・イングリッシュを話した(以上は、ニミッツの手記に基づく)。これが二人の出会いである。東郷は青年ニミッツの心に深い印象を残し、以後も互いに交流を続けたという。1934年の東郷元帥の国葬の際には、ニミッツは米アジア艦隊の旗艦オーガスタの艦長として国葬に参加した。その後、ニミッツは米太平洋艦隊司令長官として日本と戦うこととなったのは歴史の皮肉である。日本に攻撃の手が伸びたとき、皇居への攻撃は絶対に行ってはならないと厳命したとも伝えられている。1945年、ミズリー号艦上で日本の降伏文書調印の前日、ニミッツは横須賀にある日本海海戦の旗艦三笠を訪れた。三笠は荒れていた。

 極東委員会では、ソ連代表が三笠を廃棄すべきと強く主張したが、米国はこれに反対。横須賀は米国の占領下にあったため、ソ連も手を出せず、三笠は廃棄を免れた。その後三笠は民間に払い下げられたが、業者によって米軍相手の風俗営業の場となってしまった。東郷長官室はキャバレー・トウゴーとなり、秋山真之のいた参謀長室はカフェになったという。敗戦の虚脱状態にあった当時の人々には荒廃に目を向ける余裕はなかった。こうした状況を嘆き、ニミッツは1958年、文芸春秋の随筆欄に「三笠と私」という寄稿をした。

 次第に日本人の間にも三笠保存の動きが盛り上がり、保存運動が本格化された。ニミッツは、原稿料とポケットマネー2万円を保存基金として寄付、更に米海軍に働きかけて横須賀にあった廃艦一隻を日本に譲渡し、スクラップとして得た約3千万円を三笠復元基金の一部に充てた。かくして、1961年5月、三笠の復元完成式が行われた。因みに、ニミッツは東郷神社の再建にも協力している。

 さて、冒頭のテキサスの戦争博物館に隣接する平和庭園の誕生に至る経緯に簡単に触れたい。ジョンソン大統領は、フレデリックスバーグ直ぐ近くの出身で、しかも嘗てニミッツの指揮下で海軍にいた関係で米国建国200年(1976年)の記念として公園を作るアイデアを思いついた。当時の米海軍提督は海上自衛隊に働きかけ、直ちに日本側でプロジェクト実施のための準備委員会が設置され、民間より多額の寄付が集められた。日本の庭師6人が現地の人と一緒になり2か月かけて平和公園が完成された。かくて、米国建国200年を記念するその年に日米友好親善の証として公園はニミッツ博物館に寄贈された。最後に、庭園の入り口にあるメッセージ要旨を紹介しよう。

「この庭園は、ニミッツ提督と東郷提督が等しく望んだ日米親善と世界平和を祈念して日本の国民から米国の国民に贈られたものである。」



◎会員の声 【その2】

武蔵野インディアン                                  上原 祥孝

 この三浦朱門の異色作は戦前、親の仕事で都心から移り住んだ多摩で、戦後の急開発に揺れる様を友を通じユーモアと差別性を混え表現し、現在、中央線沿線に住む人間に取っても、一昔、この辺りで、自分も少年時代に過ごしていた様な気分に浸らしてくれる。
1武蔵野

 15年前、仙台で勤めを終え、小金井に移り住み、東経大の欅友会の催しに参加させて頂き10年以上経ちますが、今年は一層魅力的な講座が多いように感じます。

 仙台に居た1995年、日経新聞に、地域に開かれた大学の週末一般公開講座として欅友会が紙面を広く取って紹介され、縁あればいつの日かとは思ったが、まさかお世話になろうとは。四国、高知県須崎市に生れ、高知商業高校を出て就職した企業の転勤は関西止りとはいかず、折しも盛んな組合運動と、隠れた“土佐のいごっそう性”も伴って左遷、リベンジの、重たいが挑み甲斐のある職業人生となる。

 振り返れば、地域ごとに四国、関西、中京、関東、東北と各々固有の人間性、商習慣、風物、歴史、芸能文化、代表する人物の姿などを多面的に味わう事が出き、仕事の苦労も良き思い出の中にある。特に、東北転勤と聞いた時は一瞬“出稼ぎの貧しい”イメージが浮かんだが、行って見てびっくり、皆んな明るく、伸びやかに暮らしているではないか。そして総じて堅実で素直さを感じた事でした。生き馬の目を抜くという関西圏とは大きく異なって。文化面では、自分の好きな美術、仏像、歴史遺産、能、神楽など、時に千年以上の歴史を持ち、みちのくの奥深いものが心の宝となっている。山形で復活した蝶採集が退職後の移住要素の一つとなり、家族の最適地を小金井市とし、落着くとともに早速自転車で東経大をたずねてみた。あの富塚さんと云う人はまだいるかねと窓口で尋ねると学長ですとの事だった。その後懇親会で親しくお話をさせて頂きました。若き日、夜学でマル経を習う中、買い求めた「現代の資本主義観」長洲一二・富塚文太郎共著は時代を捉え、今でもバイブルとして持っている。
                                       インディアン4

 現在、生活パターンは、午前、野川沿いの武蔵野公園での里山自然再生活動や関連する「景観畑」作り、国分寺崖線からの湧水沿いのホタルの再生活動などを続ける傍ら、午後は、小さい財布と相談しつつ、地元仲間との歌や小旅行の企画、参加などし、又、程良い距離にある三鷹、調布、府中の文学講座などは、どれも自転車で駆けつける。永らく住むインディアンの様でもあり、馬を自転車に乗り替え、忙しく追い駆ける様は妻にあきられつつ、どうにも止らない自嘲の姿である。



   特別企画  わたしの戦後70年 その4

 グラマン機の追撃を逃れて                             山本 昇  

 8月の初旬、茨城県阿字ヶ浦海岸、昼どきの日差しは滅法暑い! 突然砂丘の蔭からグラマンの機銃掃射だ、防空壕に逃げ込む矢先に左腕をかすめて弾は地中に埋没、切迫の間際で命は助かった! 夜間は艦砲射撃が数日続き戦況は激増。終戦の詔勅の拝聴は同所の航空技研の講堂で15歳であった。翌日任務を解かれ帰郷(府下三田村)の途へ、車窓から見る帝都の街は硝煙と化し地獄絵の様だ。
戦後復興は“先ずは建設だ”と想う!終戦後の混迷期5年間は家業に従事し建築家を志望、専門学校へ、設計事務所~建築・設備会社等で実務を重ね一級建築士の資格を取得、主に現場監督で住宅、病院、ホテル、空港、国内各地の大手工場、プラントの設計、海外プラント輸出、スーパーバイザー(比国バターン)等、出張や赴任で数多の業務で苦労もするが達成感は格別だ。家主は留守がち、母子家庭の様だと家内は言う。平和産業の復興に微力を尽くす企業戦士?、互いに激励と感謝。PCでの検索でバターンに45年前建設した建物が歴然と健在、大感動!生きてて良かった!

 私のお雛様はお米になった                            八代 はるよ 
 
 女の子にとってのお雛様はその年齢なりに思いを込めて3月3日のお節句を祝い楽しみます。しかし私の大切なお雛様は戦中の食糧難の時、母は私の了解を得てお米と交換したのです。小学生だった私はどの位の量のお米だったのか知りませんが。
それからは3月3日に近づくと折り紙で作ったり、色紙に色鉛筆で描いたりして祝っていました。やがて戦後、世の中も景気が良くなり、店頭に雛人形がかざられるようになり、雛人形の未練は忘れられず、立派な段飾り人形でなく、可愛いい出逢いの人形を求める事にしようと、旅の思い出や又友人のお祖母さんが郷里の人形を作ってくださった忘れられない感謝の人形。……今年久し振りに緋毛氈に全雛人形を披露すると50組余。箱から1組1組出す度に目を細め人形達は喜んでくれた。求めた時はいつも私自身気分が良い時の出逢いのご縁だった事かも。そして、私から離れたお雛様が沢山の人形を連れて来てくれたのかも、と思えた。今は私の唯一の宝物になっている。

  私の戦後70年                                  岡安 隆  
 
 昭和23年、三鷹の小学校に入学しました。木造の2階建ての校舎1棟、教室が足りず、1年、2年は1週ごとに早番、遅番のローテションでした。中学校の映画教室で「ビルマの竪琴」を鑑賞しました。ビルマの山野に日本兵の屍が累々とあり、ビルマの人々が弔っている光景を見た水島上等兵が日本に帰らずに、ビルマで、日本兵を弔うと決意した生き方に感動をしました。平成17年にあるグループが「ビルマの竪琴」を上映しました。赤紙で招集され、南方の戦場に送られ、屍となってカラスや野鳥の餌になり、つつかれている光景をみて、英霊を慰めたかったので翌年の8月15日靖国神社に参拝にいった。長蛇の列で、実に騒々しかった。翌年は8月16日に参拝をした。長蛇の列ではあったが前年の15日の騒々しさはなかった。靖国参拝を政治問題化することなく、赤紙で戦地に送られ、戦死した国民を国家が弔うべきだと痛感した。


《お知らせ》
ご愛読いただいている「わたしの戦後70年」の掲載は12月号で終了いたします。投稿の最終締め切り日11月20日です。奮ってご応募ください
                                  (編集担当者:大崎尚子)

8月号

                                     himawari2.jpg
 
 8月号


                                                                   
「お知らせ」
    
◎ 9月の学習会
 
―6月27日に休講になった講義を9月19日に行います―
 日  時:9月19日(土)13:30~15:30   
 場所:東京経済大学 2号館 B301号教室                                    
 テーマ:「案外知らない“終の棲家さがし”の真実」                                       
 講師:岩城 隆就氏(有料老人ホーム代表・社会福祉士)

(岩城 隆就氏のプロフィール)
1951年生まれ。北海道大学工学部卒業。三菱商事㈱に入社。英国駐在を含め17年間プラント輸出業務に従事。1991年同社を退職し、高齢者ホーム草創の礎である有料老人ホーム「シルバーヴィラ向山」を運営する㈱さんわに入社。1997年高齢者向け住宅「アプランドル向山」を開設。2000年同社代表取締役就任。特別養護老人ホーム「土支田創生苑」の設立にも携わり、2004年9月まで理事長を兼務。ほかに(社)福祉社会研究所理事も務める。介護支援専門員、社会福祉士。

◎ 野外学習会のご案内

今年の野外学習会を「日本の海を守る」をテーマに下記のとおり行います。我が国の海防の歴史は黒船来航をもって始まりますが、特筆されるべきは日露戦争時、東郷平八郎率いる連合艦隊がロシアバルチック艦隊を迎え撃った日本海海戦でしょう。まず横須賀に行きその時の旗艦「三笠」を見学し、横須賀軍港めぐり(クルーズ)で現在の海上自衛隊、米海軍の艦船を外観いたします。昼食には市内セントラルホテルで横須賀ならではの「海軍カレー」を味わっていただきます。その後横浜に移動し、海上保安庁の資料館を訪れます。ここには北朝鮮の「工作船」の実物が展示されています。

秋の一日、島国日本の海防について思いを馳せていただければ有意義かと思います。
奮ってご参加ください。尚、当日の案内、注意事項等は、10月の会報で再度お知らせいたします。

【実施内容】
1. 日  時:10月22日(木)午前7時30分国分寺出発(7時15分までに集合
2. 集合場所:国分寺駅南口正面通り「はやし屋文具店」前(「いずみ観光バス」)
3. 会  費:5,500円(交通費、入館料、乗船料、昼食代、保険料を含む)、当日徴収
4. 募集人員:50名

【訪問先・見学場所】
軍艦三笠1

1.記念艦「三笠」(神奈川県横須賀市「三笠公園内」)
戦艦「三笠」は明治35年3月英国ビッカース造船所で竣工した当時最新鋭の戦艦でありました。明治38年5月日露戦争さなか、東郷平八郎率いる連合艦隊旗艦として、ロシアバルチック艦隊を対馬沖で迎撃し大勝利をおさめました(日本海海戦)。直後に佐世保港内で事故により沈没しましたが、修理され現役復帰、さらに廃艦、米軍接収など様々な運命を経た後、昭和36年に現在地に復元展示されました。当日は東郷司令長官が指揮を執った最上艦橋など、当時の資料がご覧いただけます。

2.横須賀軍港めぐり(クルーズ)(三笠公園からバス10分)
横須賀港は現在海上自衛隊および米海軍(第7艦隊)が基地として使用しています。最新鋭設備を誇る「イージス艦」はじめ護衛艦、掃海艇、海洋観測艦、潜水艦など多くの艦船が母港または寄港地として停泊しています。どんな艦船が見学できるかは軍事機密なので当日にならないと分かりません。 

3.横浜海上保安庁「工作船資料館」(横須賀からバスで約1時間)
横浜みなとみらい地区に移動し、海上保安庁の北朝鮮工作船資料館を訪れ、その工作船の実物が展示してある資料館を見学していただきます。
そこは横浜赤レンガ倉庫街に隣接していますので、各自お茶をしていただいたりお土産を買ったりして横浜港を散策いただけます。

【参加の申し込み】 ≪例年通り電話による先着順受付とします≫ 
申込受付日時 受付担当 電話番号
8月29日(土)午前9時~正午 増田 保武 042-324-9174
① 入館料のシニア割引適用を申請するため、受付時年齢をお伺いいたします。
② 会員の受付を優先し、家族・友人等で参加を希望される場合は会員受付時にその旨申し出てください。会員受付後、空きがある場合は会員受付時の順番にて受付の可否を連絡します。

◎ 学習会要旨の修正

会報6月号(284号)に掲載した羽佐間正雄氏のご講演、「東京~東京へ―オリンピックの原点」の要旨の一部を『  』内の文言から   の文言に修正いたします。
①P.2/下から4行目~『幼年学校に行ったのですが』―→幼年学校を目指す学校に行ったのですが
②P.3/2~3行目『一人は君原健二さん、但し、メダルには及ばなかったです。もう一人は、宇佐美彰朗さんです。宇佐美さんは3回行ってメダルには及びませんでした。』―→君原健二さんはメダルを獲り、宇佐美彰朗さんはメダルに及びませんでした。
③P.4/9~10行目『出来ないことを知らず、録画を見ながら放送したことがありました。100mの競争を録画を見ながら放送し、放送時間は57秒(笑い)という時代がありました。』―→出来ないことを知らず、やむなく100mを架空の実況でやりました。その時間、57秒もかかっていたそうです。







◎7月11日(土) 学習会の要旨 
藤田先生4

 日 時:7月11日(土) 13:30~15:30                             
 場 所:東京経済大学 2号館 B301教室  
 テーマ:「3.11東日本大震災の教訓~日本のエネルギー政策
     を考える 第二弾」                                          
 講 師:藤田 和男先生
    (東京大学名誉教授、芝浦工業大学MOT大学院(元)教授、
     Geo3 REScue Forum代表
 出席者:167名(会員:男性123名、女性:38名、非会員:男性4名、女性2名)

【講演要旨】

3年前の2012年の3月、同じテーマで皆さんにお話ししましたが、今日はその後の変化も折り込んで新しい視点でお話しましょう。
2011年の3月11日の東日本大震災は想定外の大津波が福島第一原子力発電所を襲い、未曾有の放射能災害が起きました。あれから丸4年経った現在でも、その原発の廃炉や放射能汚染事故の終息の明確な見通しが立っていない状況です。原子力の安全神話がもろくも崩壊したポストフクシマの低炭素社会の構築を目指すわが国は、いかにして産業・社会の動力源であるエネルギーの安定供給を確保するのか喫緊の命題を皆さんと一緒に考えてみましょう。

1.石油の輸入量と価格の推移(1)わが国の原油の1日当たりの輸入量は1973年(第1次オイルショック):498万バレル(1バレル=159リットル)、1995年:458万バレル、2010年:369万バレル、2013年:362万バレルで震災後は増えていません。増えたのは液化天然ガスで震災後25%も増えました。(後述)
(2) 原油の価格はこの40年間で55倍(1972年1.96$/b⇒2012年2月最高値109.77$/b)となり、為替レートを換算($=360円⇒79円)すると11.8倍となります。
(3)21世紀に入り原油価格の乱高下が起きていますが、これは市場の余剰資金が原油の国際商品先物市場に流入したためです。原油価格の決定要因には本来的な需給関係から生じる価格変動(ファンダメンタル)と産油地等の政情やテロ紛争など先物市場から決まる要因(プレミアム)を加味して決まります。
                                    石油1

2.東日本大震災がもたらしたもの
2004年以来の原油価格の高騰により、エネルギー高価格時代の到来で、エネルギー供給側の選択肢が多様化している折に「2011年3.11東日本大震災&原発事故」が起きました。
 ⇒「日本のエネルギー戦略の抜本的再構築」と「需要者側である日本が省エネ・省資源・環境対策の
   技術革新(グリーン・イノベーション)を行うチャンス」が訪れたのです。

(1)第1次エネルギー国内総供給量と構成比(%)の変化
藤田先生1-1
  注:再生可能エネルギーには太陽光、風力、バイオマスの他廃棄物や廃材発電等を含む

 上記比率は総供給量であり、これから輸出量と備蓄在庫変動分を差し引くと国内供給量となります。
さらに第1次エネルギーをエネルギー変換して「最終エネルギー」にする際に約33.4%が変換ロスとして失います。ですからロスを除いた実際の「最終消費エネルギー」は66%です。実はこの変換ロスは化石燃料を変換する際に起こるロスでして、このロスを如何に少なくするかも大事な省エネ技術です。

(2)発電のためのエネルギー源
 2013年度の最終エネルギー消費量3.34億toeの内、発電に使われているエネルギーは26.4%を占めます。しかし大きなマーケットである電力消費量は第1次エネルギー総供給量の16.8%に過ぎないのです。
下の表はわが国の総発電量の発電源構成について震災前後で比較しました。
 藤田先生2-2
福島原発の事故により、発電の軸になっていた原子力が失われ、化石燃料の大幅な増加をもたらし、CO2の増加にもつながったことが確認されます。

(3)原子力エネルギーをどう見るか
げんしりょく2

 大震災時の民主党政権は2030年に「原発ゼロ」を宣言し、核廃棄物の処理問題もあり国民の何割かは「原発ゼロ」を妄信しましたが、もう一度原発のメリットとデメリットを冷静に考えるべきでしょう。
<メリット>  ・廃炉にかかる処理費用は別にして、発電コストが安価であることは明らか。
        ・ウラン核燃料は既に十分確保され、安定供給保証。国内エネルギーとも言える。
        ・徹底的な原子炉の排熱有効利用の余地がある。
         ⇒現状は海の温度上昇を招き、時に魚を殺している。
        ・日本の原発建設技術の向上と保守技術は、将来の技術輸出となりうる価値がある。
        ・発電量に対するCO2 排出量が化石燃料に比べて極めて低い。
<デメリット> ・放射能廃棄物処理の厳しい国内の現状と課題
        ・地震国である日本で、今後の事故時に放射能汚染の国民の不安が増幅!
         ⇒高レベル放射性廃棄物(使用済み核燃料から再利用するウランやプルトニュームを抽
         出したもの)は、今後国主導で処分を行う基本方針が閣議決定されたが、具体案は決
         まっていない。

3.大震災が引き起こした教訓(1)地球温暖化問題
IPCC(国連の気候変動に関する政府間パネル)によれば1870年(産業革命時代)の地球温暖化ガス(CO2やメタンガスなど)の濃度は280PPMだったが、今年3月の世界平均(40箇所で測定)のCO2濃度は400PPMに達していると(NOAA)が今年の5月に報告、警鐘を鳴らした。450PPMを超えると北極の氷がすべて解けるとも言われ危機的な状況にあるようです。
今年12月パリで開かれるCOP21では2020年以降の抜本的温暖化対策の国際的枠組みの合意が喫緊の国際問題となっています。

(2)世界の国別1次エネルギー消費量(2013年度) 世界全体の総消費量:127.3億toe

                          藤田先生3-3
 ①上位10カ国で65.6%を占めており、特にトップ5カ国の取組み姿勢が重大事となりました。
 ②エネルギーの内訳は紙面の都合上省略しますが
・石炭への依存度の高いのは中国(67.5%)、インド(54.5%)あり、浄化技術等が必須になる。
・再生エネルギーの比率の高いのはドイツ(9.14%)、ブラジル(4.65%)、で日本は6位で2%。

(3)日本のエネルギー基本計画の取組み
 低炭素社会を築くためのエネルギーの選択(Best Mix)が注目されるようになりました。
 日本で電力を発電する場合、1kwh発電するのに石炭火力ではCO2を975g排出するのに対し、石油火力742g、LNG608~519gを発生させ、太陽光53g等々で原子力は25~22gです。CO2排出量がかくも少ない原発の廃止は大きな痛手となるのです。だから代替の火力発電ではCO2排出量が比較的少ない天然ガスにシフトせざるを得ません。
経産省の最終計画案では2030年の電源構成で原発比率(20~22%)と再生エネルギー(22~24%)に構成比を引き上げ、温暖化ガスの排出量を2013年の13.95億トンから2030年に10.42億トンへ26%の削減を図る野心的な目標を年末のパリ会議で提案する予定です。

(4)化石燃料の輸入量のアップと支払金額の増加
 大震災以降 円高・原油高から 輸入量の増加・円安 (円安はアベノミクス)による支払い額の増加がひいては国際収支の悪化に繋がりました。
 ①原油は2005年以降上昇に転じ、2014年迄は100ドル/bがほぼ定着しつつありました。震災前の
2010年度は円高・原油高での中で国際収支の経常収支は18兆円、貿易収支は8兆円の黒字でした。
大震災直後の2011年度から貿易収支は赤字となり、円安の進行で経常収支も減り続け、13年度には1.47兆円まで落ち込みました。円安と化石燃料の輸入量の増加で13年度は11兆円の貿易赤字でしたが、14年度は年央からの原油価急落のお陰で赤字幅が4.45兆円減少し、6.57兆円にV字回復しました。
②これに対し天然ガスの価格はアメリカ、イギリスでは共に安定していますが、日本の輸入価格は安   
定せず、かつ高価格で推移しているのは日本の輸入価格の契約が石油価格スライドだからです。
 原発停止の影響を見ると、日本のLNGの輸入量を比較すると2010年度の7,056万トンに対し13年度は8,773万トンへ約1,700万トン(25%)も輸入量が増加しました。一方、平均CIF価格は2010年49,720円/トン(約 11.5$/MMBtu程度@88.81円/ドル)から 2013年には76,837円/トン
(約16$/MMBtu程度@98.65円/ドル)に54.5%値上がりしました。すなわち数量増しと値上がりのダブルパンチでわが国の年間LNG輸入金額が2010年の3兆4718億円から2013年には7兆568億円と2.0倍に急増したわけです。(増加額は約3兆5,850億円/3年間)
                )エネルギー)(天然ガス

4.ポスト福島の教訓:「天然ガスシフトの時流を拓く」ことと「グリーンイノベーション戦略」
日本のエネルギー消費量の構成比を(1次エネルギー消費シェアで)2013年の世界レベルに比較しますと石油44.1%(世界平均33.9%)、天然ガス22.2%(同23.7%)、原子力0.9%(同4.4%)で明らかに石油偏重です。CO2の排出量比で見ても石炭100とした場合、石油76、LPG71、LNG62~53とLNGが有利なのです。更に埋蔵量で見ても天然ガスはアジア・オセアニア地域の埋蔵量が豊富です。
原子力に対する世論の壁を乗り越える努力をする一方、天然ガスの比率を25%に引上げ、石油依存を35%に下げ、長期的視点で自然エネルギー・新エネルギーの開発に進むべきでしょう。

(1)天然ガスの世界の生産量は3.37兆㎥で、産出国で消費されるのが69.3%、商業生産量は30.7%に過ぎません。この内68.6%はパイプラインによる販売で、LNGによるタンカー貿易は31.4%、即ちLNGによる消費は世界の天然ガス消費量の9.7%に過ぎないシェアなのです。それなのになぜアジアにパイプラインが建設されなかったのでしょうか? エネルギー収支が悪い、高価なLNGによる天然ガス輸送を強いられたわが国はまんまと欧米の策略にはまったのではないかと私は思っておりました。日本はもっと早い段階からパイプラインによる輸入を考えるべきであったのです。

(2)グリーンイノベーションの推進として
  ①エネルギー供給サイドの低炭素化の推進:化石燃料のクリーン化や原子力発電の安全を旨とした
   技術力向上。将来的にはレアーアースに付帯するトリウムを燃料とする溶融塩炉原発の活用などを
   含め。
    ⇒一つの基地で化石燃料(石炭、石油、天然ガス)をミックスした「次世代型化石燃料総合ガス化
   転換ハブ構想」を提案したい。
  ②省エネルギー技術の向上とスマート・エネルギーのシステム化の推進を更に進める。
  ③長期的高度技術研究計画の下に再生可能エネルギーの活用:水力、太陽光や風力、地熱等に加え
    相対的にCO2の発生が帳消しとなるバイオマス燃料による発電などもあります。
    バイオマスは現代において地球上で植物が光合成で大気中のCO2を固定し成長した燃料であり、
    これに着火し空気中のO2が反応し燃焼することによりエネルギーを利用しCO2を排出していま
    す。 (これを“カーボンニュートラル”と言う)
  ④循環型・低炭素社会構築のためのシステム整備:環境先進モデル都市の設計・建設や国際排出権
    取引(ET)やクリーン開発メカニズム(CDM)、共同実施(JI)の活用整備、そして地政学
    (Geopolitics)に基づく国際援助(ODA)やASEANやTPP国際協調の推進 が必要です。

5.私が期待するエネルギーの将来像  今迄述べてきましたが2030年のエネルギーのベストミックスを纏めると次の様に考えます。
藤田先生4-4
このベストミックスを実現するために2030年までにわれわれがなすべき技術研究領域は
     ①化石燃料の安定供給とクリーン化・総合的高度利用
     ②天然ガスの利活用による交通運輸部門の燃料多様化…ガソリン・軽油に偏重しない。
     ③原子力利用の継続とその大前提となる安全・安心の確保
      ⇒核廃棄物等に対する研究を進める一方、他国が原子力発電を継続しているので、技術の
      蓄積を温存するのみならず、技術輸出の芽を残す必要がある。
     ④情報技術の更なる進化により、省エネの促進とグリーンイノベーション。
     ⑤再生可能エネルギーの技術革新とコストの更なる低減。
   
 あっと言う間に2時間過ぎてしまいました。私の話はここまでとしますが、更にご興味のある方は配布の資料をご覧下さい。字が細かくて読み難いと思いますが、虫眼鏡がお役に立つと思います。(笑い)
藤田先生風景2

<質疑応答=要点のみ>
Q.メタンハイドレード(MH)の状況はその後どうなっているか。

A.本件にはアラビア石油に勤務時代から通算20年以上関わり、国のMH評価検討会の座長も務めて来たので経過はよく承知しています。お尋ねされた様なアメリカの圧力で開発作業が遅れている事はありません。しかし水深1,000m、100気圧の海底を掘削・採取するのはたいへん困難な作業であり、多額の操業・設備資金も必要です。
わが国は「ちきゅう」と呼ばれる深海の掘削船(Drill ship)は所有していますが、海底掘削や海底坑井仕上げに使うサービス海底専用船(ROV)を持っていないので、研究の場合はアメリカの船を借り、試掘費用もかなりかかります。サンプルの分析や資源量評価、シミュレーションモデルなど技術的には日本は先端を走っていますが、生産テスト操業で解決すべき課題も多く、なかなか難しいです。今後はアメリカ、カナダ等との国際協力が必要と思います。

Q.原子力発電についてどの様に考えられるか。又、核廃棄物の処理についてどう考えるか

A.福島原発で発生した放射能事故は深刻であり、今後何をするにもこれを教訓として周到な準備で行わなければいけない。日本の原子力発電は発電エネルギーの約30%分を担っていたことを忘れてはならない。再生可能エネルギーがクリーンエネルギーであることは誰でもわかっているが、原発がもたらした大量の電力をどうやって賄えるのか? 霞を食べて人間は生きられない。太陽と北風のイソップ物語は現代には無益です。      
世界的にみると原子力発電はフランス、アメリカ、ロシアを追い中国、インド、韓国などでも増えていく現実を前に、今迄培ってきたわが国の原発の技術的な蓄積と操業経験をスパッと放り投げて良いものだろうかと思い2030年で一次エネルギー国内総供給量の5%の数値を上げた。発電構成ならば原発は10%程度となります。

Q.水素は無限にあり、エネルギー以外にも活用価値がある様に聞いているが、利用できないか。

A.既に燃料電池として活用され始めています。しかし物事はステップ・バイ・ステップが大事です。すぐに目新しいものに飛びつくのでなく、例えば現在進めている太陽光の利用を更にレベルアップする方が大事です。又、宇宙発電や巨大レンズの集光熱利用など太陽光の熱利用の模索も必要でしょう。                 
(文責:小笠原正文)




≪お知らせ≫=======================================
  *特別企画「わたしの戦後70年」は今月は休載します。        
  *会報9月号は夏休みのため休刊します。
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◎ 7月18日(土) 学習会の要旨
長谷川先生1

 日 時:7月18日(土) 13:30~16:30                             
 場 所:東京経済大学 2号館 B301教室  
 テーマ:「映画を読む会―真珠の耳飾りの少女」                                          
 講 師:長谷川 倫子先生(東京経済大学コミュニケーション学部教授)
 講 師:渡邉 尚先生
      (欅友会顧問・元東京経済大学教授・京都大学名誉教授)
 出席者:157名(会員:男性100名、女性:47名、
          非会員:男性2名、女性8名)


【Ⅰ】映画の紹介 

                        真珠の耳飾りの少女2
               
真珠の耳飾りの少女
長谷川 倫子
原作: トレイシー・シュヴァリエ Tracy Chevalier
原題: Girl with a Pearl Earring
監督: ピーター・ウエーバー Peter Webber
脚本: オリヴィア・へトリード Olivia Hetreed
配役:グリート:スカーレット・ヨハンソン Scarlett Johansson
     フェルメール:コリン・ファース Colin Firth
     ファン・ライフェン:トム・ウィルキンソン Tom Wilkinson
     ピーター:キリアン・マーフィー Cillian Murphy
     コルネーリア:アラキナ・マン Alakina Mann
     カタリーナ:エッシィ・デイヴィス Essie Davis
     マーリア:ジュデイ・パーフィット Judy Parfitt

 コミュニケーション学部でメデイア・コミュニケーション入門の講義をしている。今回の作品は受講している学生に、劇中に登場するカメラ・オブスキュラの実像を紹介するために鑑賞させたものである。私が担当しているこの学部向けの講義ではメデイアの歴史を解説しているが、絵画もその歴史的な流れの中で大事な一部を占めていることを理解してもらうために取り上げている。世界で最初の絵画はアルタミラの洞窟壁画だと言われ、絵画から写真へ、写真が動き映画へ、そしてテレビに繋がるという視覚メデイアの発展に絵画は重要な橋渡しの役割を担っている。

 今回の講義に登場するフェルメールは17世紀のオランダの画家で独特の世界観を持ち、世界の人を魅了し、日本でも人気のある画家の一人。この物語を書いたトレイシー・シュヴァリエはこの画家の「真珠の耳飾りの少女」に触発されて小説を書きあげ、この映画はその小説を映画化したものである。

 フェルメールは生涯オランダの古都デルフトで過ごし43歳で亡くなるまで30数点の作品を残した。当時市民国家となっていたオランダでは、画家のパトロンが従来の教会や王様から一般市民となり、ごく普通の市民まで絵画を購入するようになり、市民の日常的な姿が描かれた絵画がたくさん残されている。

フェルメールの絵画の特徴のひとつは青い色彩で、これには高価な顔料であるラピスラズリが用いられている。フェルメールは結婚して程なく裕福な義母の家に同居するようになり、当時、高価であったブルーの顔料―ウルトラマリーンブルーを義母の経済的支援を受けふんだんに使えるようになったと言われている。

もう一つは光の効果である。フェルメールの作品のスタイルは、そのほとんどが北向きの自宅のアトリエの左側の窓から差し込む光のなかに佇むうつむき加減の女性の一瞬を切り取ることで静謐な世界が作り出されている。「真珠の耳飾りの少女」の絵画には、それぞれの目と真珠の二箇所に白点が入れられていて、左上の窓から差し込むこの柔らかな光の効果が少女の魅力をましている。

当時を物語る興味深い装置もこの映画には登場する。日本から輸入した有田焼に感化されたものだと言われているデルフトのタイル。写真というメデイアに欠かせないカメラの前身とも言える装置であるカメラ・オブスキュラは当時の画家が外の風景を描くために使っていた。フェルメールが使っていた証拠はないが映画においては重要な場面にでてくる。このように細部までこだわることで17世紀のオランダがこの映画に再現されている。
 「真珠の耳飾りの少女」の絵画はオランダ、ハーグのマウリッツハイス美術館に所蔵されている。

【Ⅱ】「映画の解説」
 
17世紀オランダの天才画家フェルメールの一枚の肖像画に秘められた愛の物語をモチーフにした小説を映画化。少女の濡れた唇、憂いと情熱を湛えた瞳、今にも何かを語りかけてきそうな表情を浮かべた一枚の肖像画は3世紀以上の時を生き続けてきた。少女が女へと移り変わっていく瞬間の生の輝きを見事なまでキャンバスに封じ込めたこの絵画には、果たして、どういうドラマが存在したのか?その謎めいた背景を解き明かす名作と言える。

 舞台は、1665年、オランダのデルフト。ヒロインは、17歳のグリート。事故で失明した父に代わり家計を支えることになった彼女は、画家のフェルメールの家に住み込みの使用人として雇われた。子だくさんのフェルメール家で、一日中重労働に追われる毎日。
 そういうなかで、美的感覚の鋭さをフェルメールに認められたグリートは、絵の具の調合の仕事を任されるようになった。そして、狡猾な策略をめぐらせるパトロンのファン・ライフェン。彼の挑発に乗せられ、フェルメールは、グリートをモデルにした絵を描くことを決意する。      (文責:中村俊雄)

【Ⅲ】時代背景
渡邊先生2

16-17世紀という時代                                渡邉 尚

16-17世紀はオランダの黄金時代であり、この時代を短い時間で説明するのは極めて難しい。まとまりのない話に終わることになろうが、皆さん、すばらしい映画を堪能なさった後なので、腹ごなしにコーヒーでも一杯、のつもりで聞き流していただきたい。
まず、映画とつなげるために申しあげると、1650年ころデルフト、アムステルダム、ハーレムの小さな三角地域に700人の画工(画家は手工業者)がおり、年に7万枚を制作していた。黄金時代に制作された絵画の総数は数百万枚に上るだろうといわれている。絵画市場を支えたのは一般大衆であり、多くの画工は注文生産でなく、見込み生産で絵を描きまくった。絵画が大衆消費財になる社会は、どのようにして生まれたのか?

ところで、「コーヒー」は、オランダ語の「コフィ」から来ている。オランダ人がコーヒーを飲むようになったのは17世紀前半、したがって、出島の商館でオランダ人に接する日本人にもコーヒーを飲む機会があり、そのため「コフィ」が日本語にとりいれられた。
さて、先ほどから「オランダ」と呼んでいるが、正確には「ネーデルラント」である。ネーデルラントの一州「ホラント」をスペイン語・ポルトガル語で「オランダ」と呼び、これが日本語になった。新井白石は『西洋紀聞』(1709年)で「ヲゝランデヤ」、「ヲゝランド」と表記している。「オランダ」は江戸時代以来の由緒ある表記ということになる。とはいえ、ブリテンをイングランドと呼ぶのに似た便宜的用語法にすぎず、正確を期すためには「ホラント」と「ネーデルラント」を区別しなければならない。

資料の地図でお判りのように、ネーデルラントは南北に分かれる。北部が1581年に成立し、1795年まで存続した連合ネーデルラント共和国であり、これが今日のネーデルラント王国の原型である。南ネーデルラントとほぼ重なるのが、今日のベルギー王国である。また、16世紀のネーデルラントは海に浮かぶ島の集合の趣がある。これは何を意味するか。ネーデルラント人は中世から営々と干拓事業を重ね、少しずつ国土を拡げてきた。それはいまでも続いている。干拓地の排水用の風車はのどかな景観を生み出しているが、ネーデルラントの歴史は何よりも、恐るべき北海との闘争の歴史である。海岸に堤防を築き、守るためにワーテルスハップ(堤防共同体)を結成した地域住民が、一致団結して海と戦ってきた。「世界を創ったのは神だが、オランダを造ったのはオランダ人だ」という言葉があるほどで、ネーデルラントの水利土木技術は世界一である。
                                オランダ風車2

ネーデルラントの黄金時代は、1568年勃発の対スペイン独立戦争(八十年戦争)とともに始まる。これは同時に宗教戦争であり、また植民地争奪戦争でもあった。当時ネーデルラントを支配したスペイン国王のフェリペ二世はカトリック世界の守護者をもって任じ、宗教改革によりプロテスタントが増える一方のネーデルラントを弾圧するために、陸軍、海軍を次々に動員した。その資金は新大陸のメキシコからもたらされた大量の銀である。しかし、この宗教弾圧がやがて国力の衰退を招き、制海権を失ったスペインは世界帝国の座を失った。代わって海上覇権を握ったのが、新興のネーデルラントである。

とはいえ、ネーデルラントの黄金時代も長くは続かなかった。1648年ウェストファリア条約でスペインに独立を承認させ、名実ともに最強の海上帝国として国力が頂点に達したときに、衰退が始まった。レンブラントもフェルメールも破産して、貧窮のうちに死を迎えたことは、ネーデルラントの黄金時代の終りを告げるものであった。 
ところで、グリートが雇われたフェルメール家はカトリックであったが、当時のネーデルラントの政治的実権を握ったのは、プロテスタントのカルバン派であった。カルバン派にも強硬派と穏健派との内部対立があったが、総じてネーデルラントのカルバン派の特徴は、他宗派(メノー派、カトリック教徒、ユダヤ教徒等)に寛容だったことである。寛容、中庸、節制、勤勉の生活倫理が、身分差をこえて定着していたことも、注目に値する。
これと対照的なのが、ジャン・カルバンが直接統治したスイスのジュネーブである。かれの神権政治下で異端審問により、58人が処刑(多くは火あぶり)されたという。

それでは、小国ネーデルラントがなぜ大国スペインに勝てたのか?15・6世紀のスペインは現在のアメリカ合衆国に相当する超大国であったのだ。ここで、イギリスの経済学者ウィリアム・ペティ『政治算術』(1690)の分析を紹介しよう。かれは、連合ネーデルラント共和国のなかで最も強力なホラント、ゼーラント2州に焦点を合わせ、これとイングランド、フランスを比較する。人口規模はこの両州が100万人、イングランドが1000万人、フランスが1350万人であるとして、この最も小さいネーデルラントが両大国を経済力で凌駕した要因を次のように挙げている。

―良い位置にあった。ライン、マース、スヘルデ三大河の河口にあり、肥沃な土地に恵まれていた。
―水運の便がよく、海運業と貿易業が発達した。漁業も栄えた。とくにニシン(「北海の銀」)漁は東インド会社より利益が大きいといわれていた。
―カルバン派の生活倫理と信教の自由。

ペティが見落としたものに、北極海の捕鯨漁がある。捕鯨は燈油用鯨油の取得が目的であった。グリートが明るいカンテラ(「カンデラール」というオランダ語に由来)をかざして家の中を動きまわり、パトロンのファン・ライフェンを晩餐に迎える夜に外で煌々と篝火を焚き、豪華な宴席が蝋燭で光り輝く。当時、照明は贅沢の極みであり、高価な鯨油をふんだんに使えることは富の象徴であった。これが技術上は照明器具や光学器械(望遠鏡、顕微鏡、暗箱)の発展を促す一方で、絵画芸術で陰翳への感性を磨きあげ、レンブラントやフェルメールを生んだのも、うべなるかなと思われる。

黄金期のネーデルラントは、最初の近代的国民経済ともいわれ、また、世界史上、後にも先にもこれほど狭い地域に経済力が集中した例がないともいわれている。政治体制は7州の議会から送りこまれた議員が、外交、軍事の権限を持つ連邦議会(スターテンヘネラール)を構成し、各州議会では州内各市の参事会から送りこまれた議員が各市の利益を代表し、市参事会は上層市民が実権を握っていた。こうして各都市上層市民を基盤として下から積みあげる民主主義が、ネーデルラントの政治風土をいまなお刻印している。

黄金時代のネーデルラントを語るうえで欠かせないのが、東西両インド会社である。1602年設立の合同東インド会社(VOC)は、東洋全体を活動範囲としたが、とりわけ重要なのが「東インド」(現在のインドネシア)である。現在のネーデルラント王国とインドネシア共和国との面積比は1:45。ここを350年間にわたり徹底的に収奪したのだから、いかにネーデルラントが膨大な富を蓄積したかがお解りいただけるだろう。

映画との関連で重要なのは、VOCや西インド会社(WIC)からもたらされる、アジア・アフリカ・アメリカ産の植民地物産である。その代表例が染料、顔料である。鮮明で褪色しにくい青色(ラピス・ラーズリ=瑠璃)や赤色(コチニール)は植民地からもたらされた高価な染・顔料で、薬局で売られていた。八十年戦争の間1609~1621年まで休戦期間があったが、これが終わるとスペインとの海戦再開で植民地物産の価格が高騰したため、絵画が一斉に白黒になってしまったといわれている。植民地獲得はネーデルラントに絵画芸術の黄金時代をもたらす必要条件だったのだ。

東西両インド会社が植民地で重ねた言語に絶する暴虐な原住民支配は、国内における寛容とおよそ正反対である。たとえば東インド初代総督クーンが現地でまずやったことは、ジャカルタを焼き払い、オランダ風の都市バタビアを建設することであった。次いで各地で原住民から土地をとりあげ、胡椒、ナツメグ、丁子、コーヒー等の植民地物産の栽培を強制した。そのためどれほど多くの原住民が餓死したことか。カルバン派の行動にみられるヨーロッパ内外におけるあからさまな二重道徳は、理解を超えるものがある。

ともあれ、戦国時代にポルトガル、スペイン、ネーデルラントという西欧列強が次々に日本に触手を伸ばしたにも拘わらず、日本が植民地化されずに済んだのは、幕藩体制がこれに対抗できる軍事力を備えていたからにほかならない。
最後に、当時のネーデルラントの社会的特徴を挙げる。1)清潔好き、2)子供好き、3)初等教育の普及、4)身分差、性差が小さい。こう並べたてると、江戸時代とかなり似ているのが意外である。洋の東西に隔てられた異質の両国が対等の国交を持ったことは、世界史のなかで稀有な事象である。これまたネーデルラントの黄金時代を彩った色調であろう。

(質問)フェルメールの絵を見ると、女性が手紙を書いているものがあるが、当時、郵便制度はあったのか?

(回答)トゥルン&タクシス家が16世紀のうちに神聖ローマ帝国・ネーデルラント内の郵便事業を独占する認可を得て、17世紀には広域的な郵便馬車制度が成立していた。とはいえ、独立戦争期のネーデルラントで、これがどれほど機能していたか疑問である。また、デルフトのような一都市内における局地的な私信、小包の日常的流通の便宜を図る仕組みがあったに違いないが、実態は不詳である。


渡邉先生作成の年表
                16・17世紀という時代         欅友会学習会用27/07/17 渡邉 尚
渡邊先生年表9

7月号

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7月号  






 「お知らせ」                                    
      
◎7月の学習会【その1】
 日  時:7月11日(土)13:30~15:30   
 場所:東京経済大学 2号館 B301号教室                                    
 テーマ:「3.11東日本大震災の教訓~日本のエネルギー政策を考える 第二弾」 
                             
 講師:藤田 和男先生(東京大学名誉教授)
(藤田 和男先生のプロフィール)
1941年東京生まれ。1965年東大工学部資源開発工学科を卒業、アラビア石油に入社、30年勤務。
1969年から4年間テキサス大学石油工学大学院に留学し石油工学博士号(PhD)取得。1974年アラビア湾のカフジ油田に赴任、1984年中国渤海湾石油開発の現場、マレーシアの駐在代表など15年の海外赴任を経験する。1994年東京大学工学部教授に招聘される。大学院常務委員、専攻長(学科長)を歴任し、2003年退官。2003年4月より芝浦工業大学に新設されたMOT(技術経営)大学院の教授に就任、
2010年3月退任。
専門は石油・ガス油層工学、石油資源評価、地球環境・エネルギー概論、エネルギー経済データ分析、国際開発マネジメント、プロジェクト評価、エネルギージオポリティックスなど。

◎7月の学習会【その2】(映画を読む会)                               
 日時:7月18日(土)13:30~16:30……終了時間が1時間遅くなります                                  
 場所:東京経済大学 2号館 B301号教室 
 テーマ:映画を読む会『真珠の耳飾りの少女』 
                                      
 講師:長谷川 倫子先生(東京経済大学 コミュニケーション学部教授)                         
(長谷川 倫子先生のプロフィール)                                        
愛知県出身、上智大学文学部新聞学科卒、同大学大学院文学研究科修士課程修了。文学修士。                   
ハワイ大学マノア校大学院社会学専攻修士課程修了、社会学修士。上智大学大学院博士後期課程単位取得退学。2002年東京経済大学コミュニケーション学部助教授。2012年より教授。
研究分野はメディア・コミュニケーション、メディア史。
著書に現代のメディアとジャーナリズム8巻『メディアとジャーナリズム 21世紀への課題』第13章「情報バリアフリー社会に向けて」(ミネルヴァ書房、2009年、共著)ほか。論文に「 ザ・ビートルズとラジオ深夜放送-1960年代の中部日本放送を事例として- 」東京経済大学『コミュニケーション科学』第37号(2013年)ほか。



加藤一彦先生2

◎6月13日(土)学習会の要旨                           
 日時:6月13日(土) 13:30~15:30                             
 場所:東京経済大学 2号館 B301教室  
 テーマ:「憲法と国会―衆議院議員選挙制度改革の視座―」                                          
 講師:加藤 一彦先生(東京経済大学現代法学部教授)
 出席者:156名(会員:男性113名、女性:38名
          非会員:男性4名、女性1名)

【講演レジュメ】

憲法と国会ーー衆議院議員選挙制度改革の視座ーー
  
一、はじめに
・衆議院議員選挙制度の復習
・選挙の意味の再確認
・政治改革後の政治世界の変化

                                1衆議院議員選挙

二、衆議院議員選挙制度の歴史的展開
(1)旧憲法/貴衆両院制度(旧憲法33条)

・最初の衆議院議員選挙制度(1889年)
→定数300/小選挙区制。選挙権:25歳以上の男子+直接国税15円以上
           被選挙権:30歳以上。同じ
15円の意味:現在の金額で年俸億単位の収入。全国民の1.13%。
↓ 東京府の例)有権者数:5,715人(人口比 0.35%)
緩やかに改正されながら、男子普通選挙制度の導入へ

・男子普通選挙制度の確立(1925年)
定数466/中選挙区制。納税資格要件の廃止。
大正デモクラシィーの成果。
負の側面:①臣民の「義勇奉公の誠」と「国家国防の責」を尽くすため、「政治的責任の自覚及び普及」の徹底化。
     ②治安維持法の成立/社会主義者弾圧法としての役割
「第1条 国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」。

1927年(金融恐慌)1929年(世界恐慌)以降、日本政治の劣化。
・1932年/5.15事件犬養首相暗殺、「憲政の常道」の崩壊。
・1935年/天皇機関説事件(美濃部達吉教授への攻撃)。
・1936年/2.26事件。陸軍皇道派青年将校のクーデタ。
・1941年/太平洋戦争へ。
→日本政治の死亡

(2)敗戦後の改革
1945年8月14日:ポツダム宣言受諾
同10号「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ」。
・マッカーサー五大改革指令=①女性の解放、②労働者の団結権の保障、③教育の民主化、④秘密警察の廃止、⑤経済の民主化。

1945年12月17日/女性参政権の確立。翌年選挙実施。
1947年5月3日/日本国憲法施行
1947年3月21日/衆議院議員選挙法に基づく選挙実施。
       →戦後長く続く選挙制度の原型形成
 中選挙区制、普通選挙制度。
→55年体制の確立:憲法改正なしの自民党一党優位性の確立
         
(3)90年代の政治改革

1988年6月18日『朝日新聞』のスクープ記事
→リクルート事件/竹下内閣:昭和から平成へ。
竹下→宇野/第8次選挙制度審議会の設置→海部→宮沢内閣
1992年/東京佐川急便事件
1993年8月6日/細川連立政権誕生
1994年/政治改革関連4法成立:細川+河野トップ会談/土井議長の斡旋
!日本政治の変質化にとって決定的意味を持つ。

・中選挙区制の廃止/中選挙区悪玉論
・小選挙区比例代表並立制の導入
 有権者の選挙行為を首相選択と同一視する発想
→ウエスト・ミンスターモデル(イギリス型)
その後の展開は、当初の予定通り、オセロゲーム的状況

三、衆議院議員選挙制度の改革の必要性

(1)現在の衆議院議員選挙制度
総定数475:小選挙区/295、比例代表180(公選法4条1項)
小選挙区:1選挙区1名当選(相対多数)
比例代表:11ブロック制/拘束名簿式(但し、全員同順位という場合もある)。
ブロック定数:北海道8人、東北14人、北関東20人、南関東22人、東京都17人、北陸信越11人、東海21人、近畿29人、中国11人、四国6人、九州21人。
 
重複立候補は可能:小選挙区落選者が比例代表で当選しうる。
前回の例)沖縄の4選挙区:自民公認候補落選。
         比例復活/いわゆる「ゾンビ議員」

(2)改革の現在

小選挙区における1票の較差(×格差)訴訟
通説:較差は1対2以内。
現在、13選挙区が2倍以上(都市部)
                          日本国憲法1

裁判所の立場
・最高裁判所1976年判決/最重要の判例
①較差が存在すること、②合理的期間内に是正をしないこと
→この場合に限り「違憲判決」。但し、行訴法31条の援用「事情判決の法理」
              いわゆる「違憲有効判決」。

・2014年12月の衆議院議員選挙の判断
「0増5減」への評価
17件の高等裁判所の判断:違憲判決1、違憲状態判決12件、合憲判決4件。
年内に最高裁判所判決が出される予定/違憲状態判決か?
(3)衆議院自体の努力

衆議院選挙制度調査会の設置(2014年6月)
現在、改革案を模索中。各党の意見はまとまらず。おそらく失敗する。
では、どうするか?
→最高裁判所が「違憲無効判決」を下さない限り、改革は進まない。

国会議事堂2

四、小結ーー宿題としてーー
・憲法41条の規範意味:「全国民の代表」の捉え方。
 国会議員は、何を代表するのか?

・議会制民主主義が正常に機能するための条件とは何か。

・参議院の改革も同時並行的に考えよう。

・有権者18歳引き下げ法案、現在審議中。
→約240万人が新たに有権者に加わる。
 →高等学校の教科内容の変更を伴うはずである。
→20代の投票行動

【ブックリスト】
石川真澄/山口二郎『戦後政治史〔第3版〕』(岩波新書、2010年)
山口二郎『いまを生きるための政治学』(岩波書店、2013年)
宮本太郎・山口二郎『日本の政治を変える』(岩波書店、2015年)
後藤謙次『平成政治史1-3』(岩波書店、2014年/15年)
加藤一彦『議会政治の憲法学』(日本評論社、2009年)

                加藤一彦先生聴講3


  特別企画      わたしの戦後70年 その3

  戦後70年目の発見から想う                 神尾 龍三郎  
 『私達は丁度その時、沖縄への特攻機の出撃直前の現場に行き合わせたのだった。時刻は午後四時半頃であった。やがて軍の関係者が滑走路脇を一列に並んで見ている中を最初の一機が助走に入り、そのまま離陸して太平洋の方向へ飛び立って行った。二機目も飛び立って行った。こうして神尾幸夫少尉、M軍曹は出撃して行った』 以上は、2009年某誌に掲載された内容の一部。戦後70年目、漸く知る兄の最後の様子である。今年4月、PC上にこの文を発見した後、昂ぶる気持を抑え兄の記憶の糸をたぐってみた。 
 当時私は横浜に居住。14才離れた兄は家庭の事情で学生の頃から東京の親戚で生活。兄弟と言っても遠い存在で、面影は断片的にしか浮ばない。寧ろ戦後の混乱から父死亡の昭和31年を経て、私が社会人になるまでの苦難の時代を克服しえたのは、兄の軍人恩給のお陰と感謝の念がつのる。
 不思議な霊に導かれる現象を経験すると、兄が情報化時代を生き抜く術を発信してると想ってしまう。

  私の戦後70年                        川村 僖壹  
 紙数が限られているので印象の強い2点を記す。
①戦争のこと
 生れは、日本が真珠湾を攻撃した日の約半年前である。終戦間際の頃、空襲警報と防空壕に避難したことを憶えている。2つの防空壕の内部の様子なども。わずか4才になったばかりだったはず、戦争がいかにショッキングな大事件だったかと思わざるを得ない。忘れられないし、忘れてはならない。
②技術革新のこと
 小さな頃から文系が苦手で大学は工学部に進み、腕時計メーカーに就職した(1965年)。時計の高精度化などの研究開発に携わったが、この間ゼンマイ式の機械時計から電子式の水晶時計へと大きく変革した。その後プリンターの開発に移動し、ここでもインパクト式からインクジェット、レーザープリンタへと大きく変化した。
 時計とプリンターという小さな分野ではあるが、大きな技術革新の渦中で身をもって体験出来たことは、技術者冥利に尽きる。また、現在も非常勤だが、その線上にいる。初就職以来丁度50年になる。ただ、これらの技術は既に成熟期を迎えている。

  社会の一員としての自覚を                      天川 恒男   
 「スマホをおいて机に向おう」とは、某予備校の呼掛けです。ある大学の入学式で学長が「スマホをやめてコミュニケーションと自分で考える力を養おう」と挨拶されました。賛否両論が渦巻く中で、私はこれに賛成です。電車内や駅で、優先席で操作する若者は良く見かける風景です。走って駅のエレベーターに乗る者もおります。日本では「大人も漫画を読んでいる」と、驚いた外国人もいるとか。暗い昭和と明るい昭和を過ごしてきた世代は、車内の席に坐るな、階段を使えとか教えられてきました。エネルギー問題にしても、24時間営業のパチンコ店、駅で数多い自販機など見ると、浪費としか思えません。今こそ国民のひとりひとりが自覚し、日本の美風と伝統を活かし、世界の中の日本の存在価値を示す時がきている様に思えます。子供の時から家族制度の中で、培われた躾や伝統は、現代でも大切で、「日本の心を世界の中で活かす」ことになる、と思います。

  私の戦後70年                          三澤 博  
戦後が始まって間もない1949年11月25日、当時12才の私の身の上に起きた重大事件を“私の戦後70年史”の1ページとして披瀝いたします。
食糧難の時代でもあり、中学校で生徒たちが自前のおでんを食べたり甘酒を飲んだりするだけのバザを行うことになり、農家の子は、米を少し持ってくるようにとのことで、私は持って行きました。友達と甘酒を一口飲み、茶碗を置いて、顔を挙げた瞬間、右眼の最奥部に激痛が走りました。誰かが投げた、おでんの竹串が右眼のど真ん中に突き刺さったのです。
友達に伴われて行った保健室で、若い保健の先生が、これは失明だと言いました。眼科医院に行こうと、先生に伴われ校門を出たところで偶然に父親が通りかかり、3人で行ったのですが、この先生にも即刻失明を宣告されました。こんな訳で、12才から今日まで、丹下左膳でありますが、このことで何らかのハンディや不利を感じたことはありませんし、私の自分史の起点となっていると感じております。

  戦後70年を迎えて思い出すこと                  高根 佳子    
 戦争の想い出を話すのは気が重いが、楽しかった子供の時代が急に止まってしまい、自由は無く、あらゆる物が無くなり、食事すらまともに出来なかった。頻繁な空襲を避けて疎開するため、姉と一緒に東海道線で8時間もかけて豊橋で乗り換え、豊川の父の郷里に泊った時は、東京ではもう買えないとろろ芋と白いご飯を久し振りに食べることができ、近くの小川ではタニシも取れた。天竜川沿いの山の中での疎開生活は、水道もガスも無く、山の湧き水をバケツで運んだり、隣の農家から炊事用の薪を買ったり、ろくな野菜も取れず苦労が多かった。兄と一緒に貯金箱に貯めたお金は全てお国に献金させられた。
 昭和20年5月の空襲で焼けた渋谷の家の庭の防空壕には、大事な荷物を埋めて疎開したのだが、それが戦後のインフレの下での筍生活を支えてくれる貴重な資産になった。あれから70年、平和を守っているこの日本を大切にしたい。

  自分史                           小田切 豊雄  
 「自分史」ブームであり、「自分史の書き方」なる講座も花盛りと聞く。「自分史」と云う言葉の命名者は、東経大時代の恩師、色川大吉東経大名誉教授であることを文献で知った。
先生は89歳の現在もご壮健である。学生時代に先生の講座を受講したことも懐かしい。著書、『自分
史』・・「その理念と試み」の冒頭文で「個人史は、当人の“生きた証”である。・・」と“自分史の勧め”を説いている。私も戦中に生を受け71歳の今日まで健康な生活を送ってきた事に感謝し、8都府県に暮らした慌ただしかった44年間のサラリーマン時代を回顧しつつ、短文の日記を、長年書き続けている。平凡なささやかな人生であったが、私にとっては無限な想い出を秘めた喜怒哀感の貴重な足跡である。夫婦2人から2人の息子夫婦、孫3人の9人家族になった事に嬉しさを覚え、今日も日記帳に“個人史”をしたためている。後日、家族の誰かが、斜め読みでも目に留めてくれたら幸いである。
  
                                    7月号挿絵
                                      挿絵:小田切豊雄


  わたしの戦後70年                        天野 肇
 誕生から敗戦迄の16年間、徹底した皇民化教育と軍国主義で育った私の戦後70年は、飢餓やハイパーインフレとの戦いに加えて、全ての価値観を一から問い直す心の整理から始まった。占領下の大学生活も、勉強はそこそこに、何故あの愚かな戦争を続けたのか、あの惨禍を招いた責任は誰がどう取るのか、今後日本や自分自身の進むべき道は何か等を考え続ける日々だった。卒業後商社に就職したが、翌年肺を患い、二年間の療養を余儀なくされた。敗戦に次ぐ闘病は、大きな挫折感で私を苦しめたが、その後は当時の基幹産業だった鉄鋼の原料輸入に携わり、通算10年の海外勤務を含む43年間、無我夢中で走り続けた。65歳で退職し、地元のボランテイア活動や趣味で平穏な日々を楽しみ20年を超すが、敗戦で得た歴史的教訓を忘れたかに見える現政権の政策が、国力を過信して日本が犯した戦前の過誤を再び繰り返すリスクを予感させ、心休まる日の少ない昨今である。 

  私の、戦後70年                        山田 健   
 戦争を知らない♪「団塊世代」のしんがり。1949年に生まれた時から競争の激しい人生がスタート。幼なじみの思い出♪はカンけり、三角ベースにイナゴ取り。少年時代♪からやれ模擬試験、やれ塾通い。狭い門をかいくぐり大学へ。ツタの絡まる学生時代♪は学園紛争真っ只中。ノンポリはのんびりサークル活動と雀荘入り浸り。いつでも夢を♪見ていたら、青田刈りなどつゆ知らず、気が付けば就職戦線も閉幕間近。滑り込んだ先でも”成果主義”と名を変えた競争だ。老いてあくせくしないように早目にこんにちは赤ちゃん♪。定年退職後も年金やら社会保障やら、生涯圧迫が続く世代。社会に最大の貢献をした最大のお荷物。介護中の親父の歳になるまであと30年、ああ恍惚のブルース♪よ。時の流れに身をまかせ♪、うまくお陀仏するのも競争だろうか? 振り返れば金のかからない趣味と、かけがえのない友人だけ残った。新しい出会いも楽しみだ。まあいいか。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ 

特別企画「わたしの戦後70年」は5月号に始まり、好評の内に今月号で3回目の掲載になります。あわせて19名の方に登場いただきました。この企画は12月号まで続ける予定で、引き続き原稿募集中です。題名と名前を除いた本文が、原稿用紙1枚以内、または文字数400字以内でお願いします。
 まだ若いから戦後70年は語れないとおっしゃる方も、これまであなたが生きた時代と、その時々に考えられたことを書いてお送りください。お待ちしています。
  
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
 
  お詫びと訂正
  会報6月号(284号)の特別企画「わたしの戦後70年」に誤りがありました。
  6月号7ページ、古希以後 の文中、下から3行目、『某学会誌(月刊)の最終ゲラ構成を手伝って
  いる』は『某学会誌(月刊)の最終ゲラ校正を手伝っている』の誤りです。お詫びして訂正します。

                                   (編集責任者:大崎尚子)                      
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