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4月号

                             4月会報さくら1
 
                                                                                                             
                                           
4月会報    



ご報告とお知らせ

◎ 3月19日会員総会のご報告

学習会の終了後、3時45分より会員総会が開催されました。
ご出席くださった70余名の方、ご協力に感謝いたします。
本年は2015年度の事業報告、決算報告、および、2016年の事業計画(案)、予算(案)など、1号議案から6号議案までお諮りしましたところ、全ての議案につき原案通り可決されました。
資料は上記学習会に出席された方にはお渡し済みですが、必要な方は4月9日、または4月16日の学習会の受付にお申し出ください。


◎ 5月21日 会員懇親会のお知らせ 

5月21日(土)の学習会終了後、葵陵会館内学生食堂で 会員懇親会を開催します。
4月9日と16日の学習会で出席申込を受け付けます。参加費は3,000円です。

欅友会では会員の親睦と交流の場として毎年5月に会員懇親会を開催しています。
会員同士のみ ならず学長や講師の先生方とも言葉を交わせる好機ですから、
なるべく多くの方に参加していただきたく、担当役員を中心に現在準備中です。
ゲストの方々との楽しい会話のほかに、軽いお食事、お酒、スイーツをご用意し、
アトラクションにはヴァイオリン演奏を予定しています。

3月19日の学習会出席者には案内チラシをお配りしました。詳細については4月の学習会及び
会報5月号でご案内いたします。5月21日学習会終了後の予定は空けておいてください。




◎4月の学習会のお知らせ 

【その1】                                            
日 時:4月9日(土)13:30~15:30                                        
場 所:東京経済大学 2号館 B301教室                                     
テーマ:「安全保障と集団的自衛権-平和のための戦争論」                                
講 師:植木 千可子 先生 (早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授) 

(講師のプロフィール)   

上智大学外国語学部卒業。上智大学国際関係学研究科修士課程修了。2006年、マサチューセッツ工科大学政治学研究科博士課程修了。政治学博士。学位論文 ”The Rise of ‘China Threat’ Arguments” により、Lucian Pye Award 受賞。
朝日新聞記者(1983-1991)、北京大学客員研究員(1998)、防衛省防衛研究所主任研究官(2000-2007)などを経て、2007年より早稲田大学アジア太平洋研究科准教授、教授。マサチューセッツ工科大学国際研究センター安全保障プログラム客員研究員(2012-現在)。専門分野は政治学、国際関係論、安全保障論、東アジアの国際関係と安全保障、日米中関係。編著書に『北東アジアの「永い平和」』(勁草書房2012年)、『平和のための戦争論-集団的自衛権は何をもたらすのか?』(ちくま新書2015年)など多数。

【その2】                                                 
日 時:4月16日(土)13:30~15:30
場 所:東京経済大学 2号館 B301教室                                 
テーマ:「思いがけない日本美術史」                               
講 師:黒田 泰三 先生 (明治神宮宝物展示新施設開設準備室長・元 出光美術館理事) 

(講師のプロフィール)                                             

1954年福岡県生まれ。1978年九州大学文学部哲学科美学美術史専攻卒業。2008年「狩野光信の時代」で九州大学文学博士。同年、第6回徳川賞(徳川記念財団主催)を受賞。同年出光美術館学芸員となり、学芸部長、理事を経て本年3月退職。現在は明治神宮で宝物展示新施設開設の準備にあたっている。専門は日本近世絵画史。近年の主な研究テーマは、桃山時代の狩野派と長谷川等伯、文人画家田能村竹田、伴大納言絵巻など。九州大学、東京芸術大学、女子美術大学、日本女子大学などで教鞭を執る。
著書に『思いがけない日本美術史』(祥伝社新書2015年)、『もっと知りたい長谷川等伯 生涯と作品』(東京美術アート2010年)、『狩野光信の時代』(中央公論美術出版2007年)、『思いっきり味わいつくす伴大納言絵巻』小学館2002年)など多数。


「東京経済大学図書館利用カード」申請と更新について

図書館からの要請で、会員の図書館利用カード申請期間を年2回に限ることになりました。
第一期:3月1日~4月30日まで、第二期:9月1日~10月31日までとし、この期間以外には受け付けていただけません。
利用ご希望の方は4月中に申請してください。
なお、利用カードは年度毎の更新制です。昨年登録された方は、4月中に更新されない場合は無効となり、第二期申込期間までお待ちいただくことになります。ご注意ください。


「伊藤伴さんエベレスト再挑戦に募金」のご報告

昨年、日本人最年少でエベレスト登頂を目指した伊藤伴さん(東京経済大学経営学部2年)は2015年
4月25日ネパール大地震に襲われたためエベレスト登頂を断念しました。帰国後学業に復帰しましたが、「大学生のうちにエベレストの頂上に立ちたい」という思いでエベレスト再挑戦を決めました。欅友会では大学広報課の要請を受けて3月19日の学習会の受付に募金箱を設置いたしましたところ、皆様からの募金が25,300円集まりました。即日、東京経済大学寄付金口座に振込みしたことをご報告します。                    




《短歌募集》-------------------------------------------
                            4月会報短歌
                               (挿絵:小田切豊雄会員)

短歌募集の企画を会報3月号でお知らせいたしましたところ、すでに数名の方からご投稿いただいております。親しみやすく楽しい歌壇にしたいと思いますので、どなたさまも気軽にご参加ください。
締め切りは4月末日です。
投稿はひとり2首まで、テーマは自由です。4月9日、4月16日の学習会の受付へ提出いただくか、あるいは8ページの連絡先までお送りください。ご投稿をお待ちしています。                  

                            



◎3月19日学習会の要旨  

4月会報福永先生3

日 時:2016年3月19日(土)13:30~15:30 
場 所:東京経済大学 2号館 B301教室
テーマ:「邪馬台国は九州にあった」
講 師:福永 晋三 先生(東京都立第五商業高等学校教師)                               
出席者:200名(会員:男性137名、女性48名
        非会員:男性10名、女性5名)                                   

【講演要旨】

一、倭歌が解き明かす古代史

次の倭歌から古代史の追究が始まった。
                                4月会報邪馬台国1

8 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
   ※冒頭の数字は万葉集の歌番号

 冒頭の「ニギタ津」を福岡県鞍手町にある「新北」津であると発表した。数年かかって次の図に逢着した。

古遠賀湾が弥生期~古墳期に存在していた。これが万葉集に云う「淡海」であり、記紀に云う「近つ淡海」であることを明らかにした。
 「ニギタ津」歌が神功皇后の作であると解明し、神功皇后紀を解読。続いて、神武天皇紀を解読し、更に、応神・仁徳と解読を続ける中で、さらに、次の万葉歌を解明した。

近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本安孫人麻呂の作る歌

29 玉手次畝火の山の 橿原の日知の宮ゆ 阿礼座しし神の尽 樛の木の弥継ぎ嗣ぎに 天の下知らしめしける 天満つ倭を置き 青丹よし平山越えて 何方を思ほしけめか 天離る夷には有れど 石走る淡海の国の 楽浪の大津の宮に 天の下知らしめしけむ 天皇の神の命の 大宮は此処と聞けども 大殿は此処と言へども 霞立ち春日か霧れる 夏草か繁くなりぬる 百磯城の大宮処見れば淋しも 

 反 歌

30 楽浪の 思賀の辛碕 幸くあれど 大宮人の 船待ちかねつ
31 ささなみの 比良の大わだ よどむとも 昔の人に 会はむと思へや

「淡海の国」が古遠賀湾なら、「畝火山」も「橿原の日知の宮」(神武の即位した橿原宮)も「天満つ倭」も歴代天皇も「百磯城の大宮処」も、すべて古遠賀湾とその周辺にあったことになる。
神功紀を歴史事実と認めるなら、右の歌に詠まれた「大宮人」「昔の人」は、神功皇后の軍に追い詰められ、「淡海」に入水した「忍熊王」その人である。この忍熊王は日本武尊の孫であり、三種の神器、特に「草薙の太刀」と共に入水自殺したらしい。
倭国=豊国を滅ぼした神功皇后にはどうしても大王位の象徴たる三種の神器を入手する必要があった。紀武内宿祢が忍熊王の屍を兵士に命じて探させる。次の歌が日本書紀に残されている。

是に、其の屍を探れども得ず。然して後に、日数て菟道(うぢ)河に出づ。武内宿禰、亦歌ひて曰く、
淡海の海 齋多の濟(わたり)に 潜く鳥 田上過ぎて 菟道に捕へつ  

 ここに、神功が倭国を武力併合したとする「倭国易姓革命」論を私は建てた。敦賀の気比の宮を発した神功が「倭国=やまとのくに」を滅ぼしたのである。ヤマトの国は今日の豊前国(旧・豊国)にあったのである。


二、中国史書と国内史料の「倭(やまと)国」及び年表

『論衡』「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)、「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)、「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇 第二六)

『漢書』地理志「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」(燕地)、「會稽海外有東鯷人分爲二十餘國」(呉地)
 
倭人は、周(紀元前1046頃~紀元前256年)の初めから鬯草を献上していた。漢書地理志には倭人の国百余国と東鯷人の国に二十余国が日本列島上にあったと記す。神功皇后は、後のこの東鯷国から出て倭国を併合したと考えられる。

A.D.57 倭奴国王(天孫本紀に云う天香語山命か)、漢光武帝に遣使。金印を受く。
後漢書曰、倭在朝(鮮)東南大海中、依山島居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使譯通漢於者州餘國、稱王、其大倭王治邦臺。
樂浪郡儌、去其國万二千里。甚地大較在會稽東。与朱雀・儋耳相近。(謝承後漢書)

日本史の教科書に採られる『後漢書』は五世紀成立の『范曄後漢書』を指す。
正しくは、①謝承後漢書(250頃)、②三国志(285)、③范曄後漢書(432)の成立順になる。

107 倭面上国王帥升、後漢の安帝に生口(食肉用奴隷)160人を献ず。
後漢書曰安帝永初元年、有倭面上國王師升至。桓・遷之間、倭國大乱、更相攻伐、歴年無主。有一女子名曰卑弥呼、死更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑弥呼宗女臺與、年十三爲王、國中遂定。其國官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲、次曰奴佳鞮之也。(謝承後漢書)

121 辛酉年の春正月の庚辰朔に、天皇、橿原宮に於いて帝位に即きたまふ。(日本書紀 神武天皇紀)
神武即位。倭奴(いぬ)国滅び邪馬台(やまと)国成立。
天地開闢、神代已終。神武天皇揺鋒端、平中国、令撥威奴邪神、政九州。(求菩提山縁起)
4月会報邪馬台国2

139 皇子神渟名川耳尊、手研耳命大王を弑し、大王位を奪う。「太歳己卯」
146~189 桓・霊の間、倭国大乱。(謝承・范曄後漢書)
200(196~220 建安年間)卑弥呼共立か。(魏志韓伝・倭人伝、日本書紀 神功皇后紀)

230 将軍衛温・諸葛直を遣はし、甲士万人を率ゐて海に浮び、夷州(推定狗奴国)
および亶州(推定東鯷国)を求む。(三国志呉書「孫権伝」黄竜二年)
この直後に、三角縁神獣鏡が出現する。
238 景初二年六月、邪馬臺國の女王(にして神武の後継者たる)卑弥呼、魏の帯方郡に大夫難升米等を遣はす。(魏志)
240 正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣はし、詔書印綬を奉り倭國に詣しむ。(魏志) 魏使、邪馬台国に至る。

魏略曰、從帶方至倭、循海岸水行、暦韓國、到拘耶韓國、七十餘里、始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑拘、副曰卑奴。無良田、南北市糴。南渡海、至一支國、置官至對同。方可三百里。又渡海、千餘里至末盧國、人善捕魚、能浮沒水取之。東南五百里、至伊都國、戸万餘、置曰爾支、副曰洩溪觚柄渠觚。其國王皆統屬王女也。

東南して奴国に至る、百里なり。東に行きて不弥国に至る、百里なり。南して邪馬壱国に至る。女王の都する所なり。(魏志倭人伝)


歩と里の概念  孝徳紀 「五十戸を里とす」
周 歩(ふたあし)=1.35m 里(五十歩)=67.5m
秦 歩(ふたあし)=1.35m 里(三百歩)=405m
魏 歩(ひとあし)=0.24m 里(三百歩)= 72m
尺(新字源) =22.5㎝ 晏子「六尺に満たず」1.35m弱 御者「八尺の大男」1.8m

247 邪馬台国狗奴国と交戦。
正始八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯・烏越等詣郡說相攻擊狀遣塞曹掾史張政等、因齎詔書・黃幢、拜假難升米為檄告之。(魏志倭人伝)
248 卑彌呼以死、大作冢。徑百餘步。
卑弥呼死去。墓の後円部の直径は140m~150m、日本最最大級の前方後円墳のはず。

          4月会報邪馬台国3


三、神功征西と倭国易姓革命

四世紀後半、遂に東鯷国が挙兵した。すでに饒速日尊の本流と融合したと推測される東の三角縁神獣鏡圏を形成する強国が、征西を開始した。気比の宮を発した神功天皇(神功皇后)は、海人族を従え、但馬・播磨の国を南下、瀬戸内海に出る。吉備の鬼の城の温羅(うら)を滅ぼし、西進する。

牛窓でも新羅の王子を退治し、遂に穴門豊浦宮(赤間神宮および隣の亀山八幡社)を落し入城。邪馬台国の王の一人、岡県主の祖熊鰐(くまわに)が帰順。続いて伊都いつ県主の祖五十迹手(いとて)が帰順。淡海の大津の宮(豊津町)を滅ぼし、御所ヶ谷(神籠石、旧京都郡、現行橋市)に拠る忍熊王を殲滅。遠賀の地で物部氏を招集し、ニギタ津(鞍手町新北)を出航。筑紫末羅県(宗像大社・宮地岳神社周辺)の勝門比売を滅ぼす。

美奈宜神社や平塚川添遺跡などに拠った羽白熊鷲を殲滅。筑後川を渡って三潴を攻撃、桜桃沈輪(ゆすらちんりん)を滅ぼす。女山(ぞやま)神籠石に拠る田油津(たぶらつ)姫を討伐。豊・筑・火の三国(三韓)を征伐する。邪馬台国滅亡。369年、水沼の皇都を建設。筑後遷都が行われた。

歌869 帯日売神の命の鮎釣ると御立しせりし石を誰見き

① 仁徳天皇五十四年に肥前水上桜桃沈輪(ゆすらちんりん)発起し、異国へ内通し、悪徒を集め諸所乱妨。
② 同帝五十五年(366)十二月、勅命に随ひ、藤大臣難波高津宮を出て、同年同月廿四日筑後塚崎葦連館に御下着在す。帝名残をしみ、老臣は寔に天に候ては月也と仰せられしより、後代高良宮を月神と云ふ。
③ 沈輪御退治の御評議遊ばされ、其の時葦連云はく、沈輪は三方河池を構へ、一方は口なり。我一度攻むるといへとも兵卒を討つとも沈輪を見ず、然れども遁るべき地なし、之に依りて随兵を責めて之を問はば、水中をくくると云ふ、今朝賊増兵し勢十倍すと云ふ。④ 大臣秘計をめぐらし、同帝五十六年正月七日、朝賊残らず退治し給ふ。
⑤ 夜に入りて沈輪行衛しれず、大臣四方に命じ大池を囲み、棒を以て其の岸を打ち、松明を照らし鉾を以て水中を探り、沈輪遁るる処なく、棒を奪取、葦連目当てに打って掛かる。用意の刃を抜いて沈輪の首を打ち落とし給ふ。其の首虚空に舞い上がる、大臣八目矢を持って討ち落とし、茅を集め焼き給ふ。是鬼会の始めと云ふ。其の後筑紫安穏なり。 

『久留米市史』第七巻吉山旧記(抜粋)より抄録、番号・読み下し・傍線は福永講師。

                              4月会報邪馬台国4

歌4261 大王は神にし座せば水鳥の集く水沼を皇都となしつ 
邪馬台国(豊国)は、三角縁神獣鏡圏の国から出た神功天皇に滅ぼされた。神功は紀武内宿祢(藤大臣)と婚姻し、筑後国水沼に皇都を建て、紀氏王権(=倭の五王とその前後)が成立した。武の次の「哲」が筑紫君磐井に当たるようである。豊国の継体天皇と争って敗れ、王権は豊国に戻る。壬申の乱後、大和王朝は今日の奈良県に遷都する。


【質疑応答】
4月会報福永先生風景1

Q1:4~5日前の新聞で読んだのですが、上田正昭先生が従来の帰化人と言う表現を渡来人と言い換えられましたが、これはなぜですか。
A1:確かに渡来人と言い換えられたのは上田先生ですね。そのきっかけは出雲地方から発掘された遺跡からでた銅剣、銅鉾を見てその文化の担い手を日本書記の言う帰化人ではなく渡来系の人々であろうと考えたからです。なお、弥生期に戸籍制度はなく、帰化人という表現はそぐわない。

Q2:縄文時代は1万年以上続きましたが、弥生時代は600年くらいですね。時代の長さが大きく違いますが。
A2:縄文人は長きに亘り日々苦労しながら生活をしていました。ところが弥生期になり渡来系弥生人によって水稲耕作が始まり、豊葦原瑞穂の国が出来るなど革命的な変化をもたらし、生活を一変させました。

Q3:本論とは関係ありませんが、サッカーで八咫烏は勝利の神様とされています。なぜでしょうか。
A3:神武天皇の東征を手伝った道案内人が八咫烏一族でした。そしてそのお陰で神武天皇は勝利しました。だから八咫烏は勝利のシンボルマークです。

Q4:奈良に行ったとき八咫烏神社がありました。
A4:天武、持統天皇時代にヤマト王朝は100年かけて九州から奈良に移りました。わたしは、九州時代をオールドヤマト、奈良時代をニューヤマトと呼んでおります。
同時に寺社なども奈良、京都、大阪に運ばれています。  
         
                  4月会報邪馬台国5

                                      (文責:飯沼直躬)





◎会員の声

「昔、読んだ新聞記事の記憶」から
                                 上原 祥孝 

4月会報会員の声1
写真:京都府八幡市で「松花堂」を発見、再興した吉井勇

少年の頃のある日、育った郷土の高知新聞に“吉井勇”と云う人がかつて住んだ、土佐を懐かしいと云って訪れたという写真記事を記憶していた。社会に出てから、先ず地元勤務となり、営業で山間部まで二輪車で定期訪問していたが、ある時、彼が傷心を癒したという「渓鬼荘」と名付け隠棲したかやぶきの粗末な庵を見つけ出した。

そこは平家の落人伝説の残る深い谷に在り、脱け殻の中に酒好きだったという歌人の姿と、
その頃の歌「さびしければ御在所山の山櫻 咲く日もいとど待たれぬるかな」に思いを馳せた事でした。

去年の秋のこと、歴史文学散歩で田町駅から三田、高輪、品川をご案内した時、ぜひ高輪に育ったという勇のよすがをと求めたが、瀟洒な土地柄の佇まいは残るも、拠るべなかった。ひもとけば、維新の功により伯爵となった旧薩摩藩士の祖父吉井友実、父幸三(貴族院議員)の長男に生れ、幼少期、鎌倉材木座で育つ。

「寝ころべば青き芝生ぞ忘れかね いとけなき日の高輪の家」

次に特に好きな歌
「夏はきぬ相模の海の南風に わが瞳燃ゆわがこころ燃ゆ」は口ずさめば心昂る。

東京府立一中に入るも落第、日本学園に移るが肋膜炎で入院中「新詩社」の同人となり「明星」に
投稿、白秋と共に世に出る。早稲田文学部中退後、耽美派の拠点「パンの会」を白秋、木下杢太郎、石井柏亭らと結成、翌年森鴎外らと「スバル」を創刊、啄木らと編集にあたった。

1915年祇園を詠んだ甘美な「祇園歌集」を刊行、「ゴンドラの唄」を作詩して名声を博し、明治、大正、昭和と永く活躍した。最初の妻徳子は柳原白蓮の兄、伯爵柳原義光の次女で所謂不良華族事件を起こす。
勇は離婚し昭和8年~12年まで約3年、土佐の上韮生(かみにろう)(旧物部村)の猪野々(いのの)「渓鬼荘」に隠棲、人間修行の日々を過ごしたという。

                                4月会報会員の声2 
                大正5年「ゴンドラの唄」の松井須磨子を載せた竹下夢二のポスター


「うらうらと日の照りわたる大土佐の 七つの郡夏立ちにけり」

その後、高知市の鏡川のほとりに移り、国松孝子と再婚。晩年は祇園に住み谷崎潤一郎らと交流し、歌会始選者、日本芸術院会員となる。 「かにかくに祇園はこひし寝るときも 枕の下を水の流るる」は有名で「祇園歌人」「伯爵歌人」とも云われたが、昭和35年75才で世を去る。

「人の世にふたたびあらわぬわかき日の 宴のあとを秋の風ふく」を残して。





◎2016年(平成28年)学習会スケジュール
2016年スケデュール(4月会報)

                            
  ★スケジュールは事情により変更、中止する場合があります。予めご了承ください。

○学習場所 東京経済大学の教室  4月以降の教室は決定次第お知らせします。                              
○各学習日とも土曜日 13:30~15:30
○下記の学習会は映画上映のため終了時間が1時間遅くなります。
      ★ 7月23日  13:30~16:30 
   
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