12月号会報


           
      
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「お願いとお知らせ」
  
◎来年の会費を納付されましたか 
                                   
継続会員の方々には11月中に申込書を兼ねた「郵便払込取扱票」をお届けしました。会費の払込みはお済みですか。
まだの方は、事務処理の都合上12月25日までに年会費2,000円を郵便局窓口で納付してください。
払込票を紛失された方は、郵便局の払込票で下の口座にお払い込みください。

  ◆口座記号…00180-0  ◆口座番号…740666  ◆加入者名…欅友会  

※通信欄に、①「継続」あるいは「新規」の別、②「年齢」(例…60代)
会報のメール配信にご協力いただける方は、是非メールアドレスをお書き添え下さい。
会では、入金確認の誤りを避ける視点から、郵便払込票による会費納付をお願いしています。

11月30日までの会費納付者数は、241名です。
   継続会員(男性/167名、女性/51名)、新会員(男性/18名、女性/5名)


◎欅友会の名札…紛失破損の場合

継続会員の方には本年ご使用いただいた名札を来年度も引き続き使用していただきますが、紛失破損の場合は再発行いたします。下記のお問合せ先までお知らせください。


◎原稿募集中

◆会報では1月号に掲載する俳句を募集しています。テーマは自由、おひとり2句まで。締切日は12月20日です。気軽にご参加ください。
                         俳句3

「会員の声」への投稿は常時受け付けます。原稿用紙5枚以内(文字数は2000字以内)でお願いします。文字数制限を大きく超える原稿は掲載できませんのでご了承ください。

     お問合せ先・原稿送付先:大崎尚子 




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◎2016年(平成28年)学習会スケジュール
12月会報シュケデュール表

                                 
★スケジュールは事情により変更、中止する場合があります。予めご了承ください。

○学習場所 東京経済大学の教室  4月以降の教室は決定次第お知らせします。                             
○各学習日とも土曜日 13:30~15:30
○下記の学習会は映画上映のため終了時間が1時間遅くなります。
      ★ 7月23日  13:30~16:30 




特別企画     わたしの戦後70年 その6(最終回)

12月会報B-29その2
                     12月会報昭和1
                                    12月会報サラリーマン2


 ―オペラ「人道の桜」を観て思う―               関塚 恵子   
 
 7月26日、早稲田大学大隈記念講堂公演の杉原千畝物語、オペラ「人道の桜」を観てきました。第二次世界大戦の最中、外交官杉原千畝は己の信念を貫き、多くの避難民に救いの手を差しのべました。その歴史は今や小中高生の知る所です。オペラは千畝の勇気ある決断、力強さ、優しさを巧みに表現、ピアノ伴奏、歌唱力、合唱も良く、何よりも真実に基づき、年月掛けての作曲、脚本、演出、監修による総合芸術が、聴く者の琴線に触れたと思います。「人道の桜」は今年葉桜の5月、リトアニアの首都ビリニュス国立劇場で世界初演、今回の凱旋帰国特別公演となりました。今から10数年前、杉原の人道精神を称えて、リトアニアに植えられた日本からの桜苗木が年々成長し、人々に安らぎを与えていると聞きます。生きようと必死で杉原に救いを求めた避難民と、リトアニアの地で懸命に咲く薄紅色の桜を重ね合わせた時、「2度と戦争はあってはならない」と思う1人です。

  私の戦後70年                        髙橋 和夫   
 私が敗戦を知ったのは9才、小学4年生の時であった。それから70年、日数にすると25,000日余り、色々な事が思い出される。特に、昭和20年8月15日昼の昭和天皇のいわゆる玉音放送は国立市の大学官舎で聞いた。当時のラジオ放送は音が不鮮明で内容がよくわからなかったが、放送が終わってからあるお母さんから「これからはどのような社会になるかわかりませんが、皆んな元気で生きて行きましょう」と言われた事が印象に残り、改めてこれからの行く末を心配したことを覚えている。それからは食糧不足、物資不足と両親は苦労の連続であったが、私は地元の中学・高校・大学と進学することができたのは、会社を定年退職してからの生活を含め、大変うれしく思っている。敗戦からの70年にわたり、日本は平和国家として戦争にまきこまれることなく現在に至った事を本当に有難く思っている。しかし、最近国会では安全保障関連法が成立しそうな段階にあり、今後日本が再び戦争に参加する事がないよう、国民全体で考える必要を痛感している。

  私の戦後七十年                         川越 尚子  

 昭和二十年三月、房総の空から真っ赤に燃えさかる北西の空を見たのは女学校三年生の時だった。もう東京には帰れないと恐怖に震えた記憶から七十年が過ぎ、純情だった少女も傘寿をすぎ、人生の終盤にさしかかった。
 復興の兆しが見え始めた三年後、東京に戻ることができた。ないもの尽くし貧乏のどん底暮らしで生きることに必死だったが、まわりも皆同じように再建に懸命だったと思う。
東京に戻れただけでもラッキーという時代であった。飢えていた勉学に励み、やがて結婚し三児の母になって、夫と二人で懸命に生き抜いてきた。 
 私が山を始めたのは十代の終り頃である。少ない時間とお金を何とかやりくりして男性に交じって山に向かった。結婚後は夫と二人で国内はもとより海外の山も十数回経験した。決して裕福とは言えない生活ではあったが充実していた。今は夫も逝き、一人で周囲の方々にやさしい手を差し伸べていただきながら自由に楽しく暮らしている。
   登山歴 半世紀過ぎ 老いを知る
 
  戦後70年の思い出                        西谷 清   

 昭和20年8月15日、西八王子にあった東京陸軍幼年学校生徒。終戦の詔勅は明瞭に聞きとれた。天皇の「五(ご)内為(だいため)ニ裂ク」の言葉に14歳の心が揺れた。復員に決まるが、家は4月末に空襲で全焼、両親の出身地の廣島に帰る。原爆死していた妹の葬式で初めて蓮如上人の経文を耳にする。「朝に紅顔ありて夕べに白骨となる」・・鮮烈な印象だった。転校先の中学が再開したが、原爆に焼け爛れた友人の顔は正視できなかった。
 生涯、海軍の技術者だった父を始め、約一年の間に四人の家族を失う。やっと入った旧制高校は一年で学制の切り替え。無謀にも東京の大学で学ぶことになったが、学資が足りず、「先に社会の方を変えたい」と学生運動に参加。原水爆実験禁止・破防法反対等に動くが、潮目の変化、生活の行き詰まりで永かった学生生活を終え「普通の」就職をめざすが容れられず、マネージメントサイドで漸く中小企業に入る。以後中小企業を転々、高度成長期にも世の歪みに苦しんだが、その間の見聞と人間関係は貴重だった。
 既に傘寿を過ぎるが、これからも一市民として平和への道を歩みたい。

  わたしの70年                          渡辺 義廣 
 
 「わたしの戦後70年」は、まさに私の年齢と一致している。その中で子や孫に残せる記憶と体験を戦後の混乱、復興期に絞って伝えたいと思う。
 戦後期は極めて不衛生で私の大事な人を疫痢で亡くしているし、身体検査では下着を着てない児とか耳が聞こえないとのことで先生が調べるとコルク栓のようになった耳くそが出てきたり、髪にDDTをかけられた真っ白な女子を見たりした。当時は紙芝居が楽しみだったが見るための水飴が買えず道の小石を口に入れ遠くからそれを見てたのを思い出す。一方当時はモノトーンの時代で同級生の女子の家に招かれ、真っ赤な緋毛氈のひな壇と色鮮やかな人形が忘れられない。これらはいずれもさげすみとか嫉妬の気持ちではなく、みんな大差ないし、大人も似たものとの感覚があって、イジメとか騙すこととはほど遠い、妙に一体感のあった時代であったなーと感じている。

  戦後70年目に想うこと                    中村 真知子 
 
 昭和20年4月に満州大連向陽国民学校に入学、8月15日終戦と同時に鉄筋3階建ての立派な学校から、汚い平屋建ての中国の小学校(公学堂)に移され、中国人部落を通っての通学は、追はぎ、石投げにあったり、ソ連兵が黒パンを投げて集まって来た子供達に機関銃を発砲し、逃げ回る子らをみて喜んでいる様が未だに脳裏から離れません。
 日本人への食べ物の流通がなくなり、売り食いで鳥の餌のコウリャン(紅梁)で飢えをしのぐあり様や、戦争が終わっている筈なのに、同級生の親たちは会合が有ると言って呼び出され、次々とソ連に連れて行かれたリ、ソ連兵の強盗、略奪、女性への暴行、狼藉や現地人の集団略奪ごとなどで、残された女、子供の日本人はどれだけ痛い目に遭い、目に余る事だらけでした。私の叔父も終戦間近に大連港で魚雷にやられ海の藻屑になり、その後の家庭は大変惨めなものになってしまいました。この悲惨な事実は、内地におられた方々に知って頂きたいことなのです。
 父は当時、輸送船乗りで何回もの沈没で九死に一生を得たお陰で、戦後私も教育を受けられ就職、結婚、子育て、老人介護を経て、あっという間に後期高齢者です。日本人の誇りを忘れず、親の恩や、今までいろいろな方に助けられたことに感謝しつつ、人に喜ばれることをモットーに生きて行きたいと思っています。

  私の戦後70年                          加藤 武夫 
 
 私は終戦の年、4歳でした。
その年の夏、桑名にB29により焼夷弾が落とされました。私は、母の背に負ぶさって防空壕に逃げ隠れたこと、北の空が真っ赤に燃えていたことを今もはっきりと覚えております。「私の戦後70年」は、この記憶から始まります。
終戦の年から十数年は、戦後の混乱と食料不足等により、生きるのに精一杯の時代でした。
 我が家は、私を含め兄弟姉妹5人が小学校中学校に通っていました。新聞、牛乳配達をして家計の足しにするのは当たり前、雨の日は、満足に傘も無く、破れた番傘をさし、穴の開いたズック靴を履いていた記憶があります。しかし、今にして思うと、春は一面に蓮華、菜の花が咲き乱れ、夏は蛍が飛び交い、鮎を追いかける清澄な川が流れていました。それこそ田舎の原風景、桃源郷の中で、貧しくも心豊かに過ごせた良き時代でもありました。
 学生時代を田舎で過ごし、高度経済成長時代のさきがけ、東京オリンピックが開催された昭和39年に東京に赴任しました。以降、正に日本の経済発展とともに働きに働いた時代でもありました。
昭和63年に昭和の時代が終わり、平成の時代に入りました。平成8年9月、55歳で定年退職し、第二の勤め先も平成18年5月、65歳で退き、完全に自由の身となり現在に至っております。終戦の年から61年、東京に出て42年が経過していました。その間、三島事件、日航機墜落事故、地下鉄サリン事件、東日本大震災にも遭遇しました。平成時代の始めにはバブル経済も崩壊、以降20年以上もの長きに不況が続いてきました。昨年頃から、漸く経済も明るさが見えてきたように思える状態ですが、経済の発展は、生活の豊かさ便利さをもたらしましたが、反面、豊かな自然を破壊してきました。私の故郷も高速道路が走り、蓮華、菜の花が咲き誇った田畑は、コンビナートと住宅に変わってしまいました。
 戦後70年、うち42年は過酷と言えば過酷なサラリーマン人生でしたが、総じて良き70年であったのではないかと思っています。日本は、この70年を契機として総決算し、次の30年後、戦後100年の節目に向けてより平和で成熟した国づくりを目指して欲しいと思います。
 私は、その節目を是非この目で確認したいと願っています。その時、私は104歳です。

                     12月挿絵1

       特別企画「わたしの戦後70年」は5月以降、全6回にわたり掲載しました。
       延べ35名の多くの方からご投稿をいただきました。
       投稿してくださった方、読んでくださった方に心からのお礼を申し上げます。








    12月会報崖線3

                                  (編集担当者:大崎尚子)
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