11月号


      
      
      
                                  11月紅葉3
         
                                                                                                                      
  11月号           
            
                                      
                                      
◎お知らせとお願い


              
①2016年の学習会スケジュール決定/会費納付のお願い                    

来年の学習会スケジュールが次ページの通り決定しましたので、会員募集を開始します。                        
会報を手配りまたは郵送でお受け取りの方には、「払込取扱票」を同封します。会報をメール受信されて
いる方には、同じものを手配りまたは郵送でお届けします。
払込取扱票は申込用紙を兼ねています。ご記入のうえ、郵便局で会費をお支払いください。年会費は2,000円です。手続きはそれで完了です。 

Eメールを利用できる方は、払込票にメールアドレスを記入して、会報お届け作業の簡略化にご協力ください。なお、記入された内容を本会の目的以外には使用いたしません。              
★諸準備の都合上、継続申込み手続きは12月25日(金)までに必ずお済ませください。



②【 俳句募集中!】

先月号でご案内いたしましたように、会報1月号で皆様の俳句をご紹介いたします。ふるって自作の句をお寄せください。
ご投稿いただいた句はすべて掲載します。そのためおひとり2句までに限らせていただきます。
締め切りは12月20日(日)、テーマは自由です。
大崎までお送りください。



③特集「わたしの戦後70年」は12月号掲載をもって終了いたします。

特集原稿の最終締切日は11月20日(金)です。ご投稿をお待ちしています。


 
軍艦三笠1


◎10/22野外学習会に参加して

 爽やかな秋晴れの下、参加者52名を乗せたバスが予定通り午前7時半国分寺駅前を出発した。今回のテーマは「日本の海を守る」。今年開通した首都高中央環状線経由横須賀へ。10時半に最初の目的地三笠公園に到着。日露戦争当時東郷平八郎率いる連合艦隊旗艦としてロシアのバルチック艦隊を迎撃した戦艦「三笠」を目の当たりにして、往時をしのぶことができた。市内セントラルホテルに移動し昼食。横須賀と言えば「海軍カレー」、これも明治の時代兵士の栄養の偏りを改善するため、日本人の口に合うよう作られて今日に至っている。現在も海上自衛隊は毎週金曜日にカレーライスを食べる習慣になっている。

                             横須賀5

 次に横須賀軍港めぐりクルーズへ。海上自衛隊と米海軍第7艦隊が基地として使用している。先日就役した空母「ロナルド・レーガン」は出航中で見られなかったが、空母に次ぐ大きさのヘリコプター搭載護衛艦や最新鋭のイージス艦、潜水艦等、まさに海の守りの要である艦船を水上から数多見学した。

横須賀8

 最後に横浜みなとみらい地区に移動し、海上保安庁の「工作船資料館」を訪れた。平成13年12月に発生した北朝鮮の工作船事件、自爆した工作船を引き揚げ生々しい姿で展示してある。拉致問題や尖閣問題を髣髴とさせる見学であった。隣接する横浜赤レンガ倉庫で皆さん思い思いの時間を過ごしていただき、予定よりは遅くなったが午後7時前に全員無事で国分寺に到着した。お疲れ様でした。 (山田 健)

                             横須賀6
                        

                    →集合写真は最終ページをごらんください。




◎2016年(平成28年)学習会スケジュール
11月会報2016年スケデュール

                                   
  ★スケジュールは事情により変更、中止する場合があります。予めご了承ください。

○学習場所 東京経済大学の教室  4月以降の教室は決定次第お知らせします。                              
○各学習日とも土曜日 13:30~15:30
○下記の学習会は映画上映のため終了時間が1時間遅くなります。
      ★ 7月23日  13:30~16:30 



◎アンケート集計結果  
  
欅友会は2015年度の学習会及び行事をすべて終了しました。会員の皆様のご協力に感謝いたします。
野外学習会を除く学習会参加者総計は1,721人、アンケートにご協力下さった方は899人、総出席者の半数以上の方が提出してくださったことになります。
提出率は前年より減りましたが、ご感想・ご意見を詳しく書かれる方が増えたため、記録にはうれしい悲鳴を上げました。皆様のご意見・ご要望等は役員会で採り上げ、次年度からの企画・運営に反映させてまいります。 
なお、全講座を休まずに出席された方は、(役員を除き)11名です。ご出席ありがとうございました。 
                  
〔2015年度学習会出席者数及びアンケート提出数〕

11月会報アンケート結果取り纏め





◎会員の声 

半農半Xという暮らし方                             宮澤 紘一 
                                                          

  塩見直紀氏の半農半X幸福論という記事を読んで、私もこの様な暮らしを多少しているとの思い上がりから共感しました。半農は家庭菜園、市民農園、ベランダや屋上菜園などでもよく、少しでも土や植物に触れる時間を持つ暮らしをすることが大事であると述べている点です。
 また半Xは得意なことや大好きなこと、生きがいなどで世に活かす生き方や社会が抱えているいろいろな課題の解決に、挑む活動をする生き方と理解しました。
農がなぜ大事なのか分からない人も多いと思いますが、私は人間が生きて行くためには「食べること」なしに活動はできません。したがって、如何に文明が先鋭化した科学や技術を駆使したとしても、人間の生命や生活を基本的に支えるものは「農」でしかないと思っています。
 社会的効用、身体的効用など農的福祉力と深く関わる働きがあり、「育てたり、加工したりする活動」は満足感や社会的アイデンティティを生み出すと聞きました。この様な「農」の効用から農家の方々は歳をとっても元気な方が多いように思っています。

<半農を始めるきっかけ>

 私が農に関わるきっかけとなったのはH9年頃だったと思いますが、松下電器(株)の高木善之氏の環境問題1日ワークショップに参加したことです。
地球の成り立ちから始まり、現在における環境問題の状況(オゾン層破壊、温暖化、森林破壊、酸性雨、海洋汚染、生物種の絶滅、人口爆発と貧困、環境と経済など)と提言を聞いた後で、みんなで話し合いをしました。

 この参加を機会に環境問題を自分で考え、少しでも関わり、何か貢献出来ないかを考えました。その結果、取組む課題を食料問題としました。要は自分で食べるものは、少しでも自分で作って食べるという本当に小さな小さな取り組みに決めました。このためにしたことは、庭の芝生を剥がして菜園にしたことです。芝生も植えてからだいぶ年月が経っていたので、根が地中深くまで伸びていて根を取り除くに大変でした。何しろ作業は単純ですが、時間が掛かりました。
 ただ只管無心に、根気よく土を掘り起こしては根を取り、それでもまだ地中に伸びている根を引っ張って抜きました。根を取っているときに、セミやカブトムシの幼虫などがずいぶんいることが分かりました。自然に触れる感覚を大事にしたいと思いました。

                         11月会報会員の声1
                                  (菜園)
 今私は小さな菜園を持っていますが、農作業は指図されることなく自分で計画を立て耕作し、元肥を施して種を撒く日を決めます。草取りや土寄せをして、成長するのをじっと気長に見守って育てて収穫します。この過程で台風などがくれば作物は倒れたりしますし、日照りの時は水をまいたりしないと枯れたりしますので自然との関わりを肌で感じます。
 孫が4歳になったので、この菜園の手伝いをさせて孫と触れ合うことをしています。孫に収穫した          

11月会報会員の声2(カリフラワー)

インゲンを入れ物に入れさせ、台所にいる家内まで持って行くなどの手伝いです。また紫色に熟してきたブルーベリーは、食べられるので摘んでいいことを教えたら、下から見上げてうまく探し摘んでくれます。その他にも草取りや枯葉拾いをやって見せたら、取ったり拾ったり手伝ってくれます。この手伝いをする中でミミズ、カエル、トカゲ、虫類などを見つけると、いろいろな学習ができます。

<半農が食事と健康を意識するきっかけに>                                   

 H14年の2月頃だったと思いますが、今は亡くなられていますが、久司道夫氏の「マクロビオテックス食事法」なる講演を聞き、食事構成を少し意識する様になりました。また「身土不二」という考え方から、自分が住んでいる近くの土地の季節のエネルギー(生命力)をたっぷり含んだ「旬」のものを食べると良いとのことから、家庭菜園をして良かったと思っています。

<私の半X活動ついて>

 私の半X活動は、いろいろなボランティア活動をすることで、地域に少しでも貢献することだと考えています。現在防災活動、公的福祉活動、自治会の取り纏め、老人クラブの取り纏め、介護予防活動や相談などを行なっています。
 ボランティア活動をして良かったと感じていることは、・いろいろな方々と出会い人脈が広がったこと。・学習する機会も増え視野が広がったと思うこと。・会員間の合意形成や調整及び資料作成と配布作業を通じてだいぶ要領よくできるようになったこと。・いろいろな経験と実績が多少自信となり、人間的にも成長したかな?と思っていることです。

 ボランティア活動して、非常に残念に思うことが一つあります。それは高齢者の方で怖い顔をしている人が多いことです。そういう方にはどうしても声掛けが遠慮がちになります。やはりニコニコしている笑顔の方は端から見ていても素敵に見えます。「和やかな笑顔の漂うところに、運命の女神はその慈愛の手を差しのべる」とありますから、私も注意していきたいと思います。


              11月会報(猫)
                   挿絵:河野平八郎会員  

 
                  
特別企画      わたしの戦後70年 その5



  私の戦後70年                              中島 美智子  

 戦後まもなく三鷹駅近くの古びた家々の中に、木の香りのする建物が建ち、皆の目を引いた。オルガンの音と共に賛美歌が流れていた。英語の聖書と賛美歌が貰えるよと聞き、ある日曜日ドアを開けた。 
金髪の女性の言語は分からなかった。それが私が聞いた初めての英語であった。キリスト教は理解できなかったが、英語に魅せられた。中学生の頃、私は将来数学をしようと思っていたが、いっぺんにアメリカファン、英語ファンになった。当時御成門にあったアメリカ文化センターで、フルブライト以外にも2,3の州に奨学金がある事を知る。個人面談も含む数回の試験を経て一枚の切符を私が頂ける事になった。7月1日横浜出帆の貨客船上に。ヴァンクーバーまでの15日の船旅と、ミシガン州への3日の大陸横断バスの一人旅。9月から翌年8月末までの厳しい丸一年の留学期間だった。半世紀を経て、今でも多くの友人との交流が続いている。 

  椰子の粉                             彌(や)吉(よし) 久  

 戦後の数年間、みんないつも“おなか”を空かせていた。飢えのための人格そう失も垣間みた。闇米に手を出さず、配給米だけで飢え死にした大学教授の話も聞いた。私は遊学中の一時期、広島で間借りして自炊していた。S23年頃、食糧配給に“砂糖”のこともあり、これは穀物に交換できた。ある時“椰子の実の粉”の配給を受けた。両手2杯ほどあったろうか? シメタと喜んだが、さて食べるには?粉に少し水を加えると、ドロッとはなったが全く粘り気がない。手持ちの僅かな味噌を鍋に仕立て、“椰子のドロリ”を流し込んだが、パーッと散ってしまう。2~3回やっても…。夢は泡と消え、さらなる空腹だけが残った。私は今でも食べ物を粗末に扱うことはできない。そして「食糧」と「水」と「エネルギー」の安定供給を案ぜずにはいられないのです。これは私たちの「生活スタイル」を考え直す問題でもありましょう。

  かつて国分寺の紅顔の少年、いま白頭の老人となりぬ           池田 茂雄  

 小学生(S26-32年)の大半を北多摩郡国分寺町多喜窪(現、泉町3丁目)で過す。近くを下河原線(現、武蔵野線の一部)が走り、その東に深い林に囲まれた広大な国鉄鉄道学園教習所(現、武蔵国分寺公園周辺)があった。母親に連れられ日用品を買いに行くには、中央線を跨ぎ、日立研究所の南の塀に沿って歩き、北口の商店街に出る。楽しみはチェリー文庫で「小学何年生」を買って貰う事だ。教習所はカブトムシを取ったりする遊びの基地。野川の湧き出る所で沢蟹を取るまでが遊びの範囲だった。がある時、駅の近くに行った、東の森に火の手が上るのを見る。木造二階建てが、火に煽られゴウゴウ燃え盛っている。東経大の寮です!(S31年)。同年、南口が出来、バスも走り便利になる。「三石堂」、洋食のビル「ヨネザワ」、さらばオババの「国分寺書店」・・・。平成元年、現在の姿の駅ビルが出来る。そして今、北口駅前の開発が進む。夢のようです、一瞬の。

  私の戦後70年(少年のとき)                       松田 眞  
 
 私は、終戦を小3で疎開先の叔母の家で単身で(約2年間)むかえ、翌年母と合流し父の中国からの復員、弟の誕生を経て、昭22年農地開放で不在地主(父の母親が在住)の父の実家に再び家族と離れ単身で移住し、旧長野市外の山村の小学校へ通学し、自作農として土地(山林含)の確保の目的を果たしました。家族4人揃って生活出来る様になったのは、小6(昭23)になってからでした。今から思うとあの異常ともいえる生活環境を不満も疑問もなく受け入れていたのは、世の中全体が食糧が不足し貧しく、同じ様な事が周囲でごく普通に起きていて、格差を感じなかったからでしょうか。
 この様な体験が、私の人生にどの様な影響をあたえたかわかりませんが、あれから約70年たった現在、平和で平穏な生活を満喫出来るのは、あの時のご褒美ともいえると思っています。

  私の小学校入学式の頃                      上村 享子(みちこ)  
 
 60数年前の私の小学校入学の頃は、戦争が終わって間もないので、街に出れば傷痍軍人が目に付き、浮浪児が居ました。とにかく物がないのです。ランドセルなどあるはずもなく、母が自分の帯をほどき、帯芯で手縫いで作り、赤いチューリップのアップリケをしてくれました。靴もなく殆どの子はゲタです。 
 杉並区立桃井第四小学校に入学。一年生は四クラスで二部式授業でした。テレビもゲームもなく、空き缶1つあれば近所の子供たちが集まり、缶ケリをして遊びました。クラスの誰かが雑誌を買ってもらうと、クラスの皆が廻し読みです。配給制で米の代わりにザラメが配給になったりしました。
 今と比べると貧しいですが周りも同じような生活です。いじめもなく、毎日楽しく遊び呆けていました。両親(教員)は給料が物価上昇に追いつかず、生活は大変だった様です。

  釜石の災害                                 鶴野 哲夫   

 三年前の東日本大震災で妻の生地岩手の釜石は大津波で甚大な損害を蒙ったが、昭和8年にも津波被害の洗礼を受けている。隣の遠野育ちの私にとって縁者も多数居り、看過できない土地である。70年前の中学2年の頃を思い出し、戦災と津波の街釜石の早期復興を願い当時のことに触れたい。
 釜石は昭和20年夏に本州唯一の艦砲射撃を2度も受けた。当時私は勤労奉仕、軍事教練に明け暮れる日々を過ごしていたが、校庭で遠雷のようなズドンズドンと不気味な音を耳にし、約40㎞先の釜石の艦砲射撃を知らされた。街は焦土と化し、富士製鉄の製鉄所の機能が破壊され、死者750余名を記録。今回の大震災は連日報道を耳目にしたが、過去の艦砲射撃の記事は目にしないように思う。人は年を経るにつれ災害を忘れる。釜石は大津波と艦砲射撃の街であることも知って頂きたい。



10月22日野外学習会写真2

野外学習会集合写真   記念艦「三笠」前にて




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