10月号

                                   10月コスモス


  10月号                                                       
      
    
       
          

◎ 野外学習会の最終案内(10月22日実施)
今年度の野外学習会は参加希望者が多く、一部の方にはご希望に応じる事が出来ず、
誠に申し訳ございません。ご理解とご協力をお願いします。
参加は現状53名です。

参加取消の場合は10月16日(金)午後6時までに連絡をお願いします。これ以降(当日を含む)のキャンセルは費用の全部または一部を負担して頂きます。
  (連絡先: 会長 増田 保武) 
≪見学場所≫
見学場所等の詳細は8月の会報に掲載してありますのでご覧下さい。
(戦艦「三笠」/横須賀軍港めぐり/北朝鮮工作船)なお、天候等により変更になる場合もございます。予めご承知おき下さい。
時間割は当日参加者に配布いたします。

≪下記ご注意ください≫ 
注意事項3


◎ 9月19日(土)学習会の要旨                         
 岩城先生4
 
 日 時:9月19日(土) 13:30~15:30                             
 場 所:東京経済大学 2号館 B301教室  
 テーマ:「案外知らない“終の棲家さがし”の真実」                                          
 講 師:岩城 隆就
(有料老人ホーム代表、 社会福祉士・介護支援専門員)
 出席者:134名(会員:男性86名、女性:33名 
  非会員:男性7名、女性8名)

【講演要旨】

 私は、練馬区の豊島園の近くにあります「シルバーヴィラ向山(こうやま)」と「アプランドル向山」の二つの施設を運営しております。現在都内には約700の有料老人ホームがありますが、私どもは開業後34年、3番目に旧い草分け的存在です。入居者募集の広告はこれまで行ったことがなく、口コミだけで満室を続けております。これまでに7組の親子二代のご利用もありますし、将来の入居を申込中のお子様もいらっしゃいます。ご家族が「自分も入りたい」と感じていただけるのはありがたいことと感じています。

 さて、老人ホームというと皆さまはどれも「終の棲家」と思われるかもしれませんが、実は「終の棲家」は案外少なく一歩前、二歩前の施設が多いものです。でも謳い文句は「終の棲家」です。ここがややこしいところです。今日お集まりの皆さまは、会場に続くあの坂道を登って来られる体力があるわけですから、私から申し上げれば、皆さまには「終の棲家」はまだ存在すらしていないことになります。ここを理解され、あとで「臍(ほぞ)を噛む」ことがないように、今日はお話しさせていただきます。

平均余命と償却期間・・・人生は思うほど短くない
 わが国の高齢者は3千万人を超え、その内、要介護の支援が必要な方は550万人というのが現状です。実は、平均寿命がこの65年間に約20歳以上も伸びているのです。
平均寿命
 ※1950年から65年間で女性は約24年男性は約20年伸びています。、 
 
 一方、健康寿命は2010年の場合、女性は73.62歳、男性は70.62歳と、平均寿命とは9~13年の差があり、これが病気や要介護の期間であるのです。結構長く、厄介です。
1950年当時は定年が55歳でしたから「老後」は概して短いものでした。その頃は、食事が摂れず水分だけになってしまうと、4週間ほどで逝ってしまわれたものです。

 平均寿命の他に平均余命というものがあります(厚労省の「簡易生命表」として公開されています)。
これは当該年齢でどれだけ更に生きているかの平均値を意味しています。0歳の人の平均余命が平均寿命です。75歳の平均余命は、女性で15.4年、男性で11.7年となります。これは現在75歳の女性100人の内、半数の50人が90歳(15年後)を超えることを意味しています。更に日本人は現在も一日5時間寿命が伸びています。これは5年で1歳寿命が伸びていることを意味します。人生は本当に長いのです。

 一方、有料老人ホームの入居一時金の償却期間はほとんどの施設で5~6年しかありません(入居一時金を設定する都内440施設の内、75歳入居での償却期間6年以下が83%に達します)。これは平均余命と償却期間の設定が大きく乖離しているわけで、人生の長さに対応した有料老人ホームが大変少ないことを意味します。然しながら、どの有料老人ホームも「終身」契約と謳っているため「亡くなるまでずっと面倒を看てもらえるなら、返戻金の有無は大きな問題ではない」と考えてしまいがちなのです。
ここが盲点であり「臍を噛む」ところです。

 基本的に「入居一時金」=「前払家賃」となります。従いまして、償却期間を過ぎると、その入居者は「お客様」でなく「居候」と見做されかねません。償却期間を越えた入居者A様を退出させ、新規B様に入れ替えることが出来れば、再び「入居一時金」を手にできます。その施設の採算がギリギリであれば、その誘惑は抗し難くなります。具体的には、「当ホームの介護能力を超えた」、「他のお客様に危害を加えた」、などの理由を挙げられます。実際に追い出され、当ホームに再入居されたお客様がいらっしゃいます。
 今は採算に余裕があるとしても、運営期間が長くなるにしたがい、必然的に「居候」が増えて行きますので、結果は同じです。「居候」が3割を超えるようになれば、施設運営そのものが困難になります。従い、施設維持のためには追い出さざる得なくなるのです。つまり、こうした有料老人ホームでの契約条件は、およそ経済的合理性に欠けていることになります。ご自身の平均余命よりも短い償却期間での入居契約には、こうしたリスクを十分ご留意ください。
 因みに、平均余命をいずれも上回る償却期間を契約条件としている施設は、全国でも当社以外に例を見ておりません。まことに残念なことですが・・・
                                      老人ホーム10

人生は往(い)って復(かえ)ってくるもの
 新生児は寝返りも打てません、所謂“寝たきり”状態です。食事も最初は“流動食(母乳)”、やがて“きざみ食(離乳食)”、そしてやっと“普通食”となります。1歳頃から歩くようになりますが、心許ないので移動時は“車椅子(乳母車)”でした。また、最初の2年ぐらいは“オムツ”生活でした。これが成長です。老化とはこの逆コースです。
皆さまは、今の状態がズーと続くと思いがちですが、そうはなりません。往った道は必ず復るものです。その意味で私たちは“0歳”に向かって下り坂を歩んでいるのです。

 では、皆さまは“0歳”に対して今は何歳でしょうか? これは知力でなく体力の話です。“中学生”ですか? “小学生”ですか?
いま“中学生”と思われた方は、これから“小学生”~“幼稚園児”~“保育園児”~“乳児”の時代を順番に迎えることになります。それぞれの“通学”期間は人それぞれですが、必ず通過します。“中学生”で中学校に通うあなたが“幼稚園児”時代となった時、今のまま中学校に通えるでしょうか。恐らく無理です。机・イスの大きさ、階段の踏込も違います。
いま“中学生”以上の皆さまが老人ホームを選ばれるとき、どうしても今のご自分に相応しい施設つまり“中学校”を選んでしまいがちです。それは「今良いホーム」ですが、「明日良いホーム」とはならないのです。

 8ⅿほど先のトイレを想像してください。今の歩幅なら10歩程度で行けますが、これが10~20㎝の歩幅となったら何歩で辿り着けるでしょうか? やっと辿り着いた時には、恐らく用は済んでいることでしょう。つまりその時代には8ⅿ先のトイレは存在しないのと同義となります。全く違う次元の世界になります。歩幅とともに生活圏そのものが変わることを認識しなければいけません。
私の考えでは、「終の棲家」とは学齢期前の方が住まう場所です。「シルバーヴィラ向山」は「終の棲家」ですが、「アプランドル向山」は“小学生”の施設、つまり「終の棲家」の一歩手前と考えています。
老人ホーム2

良い施設の見分け方
 ここまで、施設選びには“今後の人生の長さvs償却期間”そして“歩幅縮小がもたらす生活圏の変化”を考慮する必要をお話しましたが、それ以外の観点における施設の良し悪しの見分けは結構難しいものです。それはご自身の判断基準が出来ていないからです。比較検討のための“基準点”を持つには最低でも10施設以上見て歩く必要があります。でも現実にはなかなかそうも行きませんので、簡単なポイントをお話しします。

 まず、施設長の人柄を見てください。施設の雰囲気は施設長で決まります。金正恩が施設長の場合と、マザーテレサが施設長の場合を想像いただければ判り易いと思います。
 次に、お客さまの顔色や目の輝きを見て下さい。目線が下であれば、その施設では自己表現を躊躇わせているのだと分かります。抑圧的でお奨めできません。更に、お客様ご家族の話を聞ければ、なお良いでしょう。
なお、紹介業者は報酬の良い施設から奨めると承知ください。すべての紹介業者は、ある一社を除き、施設側から成功報酬の形で報酬を受け取ります。(注:当社はそうした業者と契約しておりませんので、紹介業者のリストには当社は含まれていません)

男と女の違い・・・男性のための安全保障政策
この仕事を始めてから気付いたのですが、
①ご夫婦入居の場合、男性はシッカリ、女性は要介護のケースが多い。
②男性が要介護等で単独入居の場合、奥様はご自宅に居られるケースが多い。
③女性が要介護等で単独入居の場合、独身か未亡人であるケースがほとんど。

 これはどうした訳かといろいろ考えました。考え抜いた末の結論は、男性は奥様を「所有物」視する傾向にあり、女性は夫を「白馬の騎士」と見る傾向にあることでした。男性は奥様がたとえ認知症になられても手放すことが出来ず他人に委ねません。一方、女性は優生な子孫を残すと云う命題を負っているため「白馬の騎士」に憧れるわけです。この「白馬」が気付いたら「ロバ」になっていたとしたら、女性は「あらっ」となるのですね。つまり「愛」ではなく「生理」の問題です。

 「終の棲家」がまだまだずっと先の皆さまには、これからも長いご夫婦二人の生活が続きます。これまでは、外で働く夫を妻が支えてきました。この関係を定年後も続けて良い訳がありません。男性の多くは「炊事・家事」を女性に依存しています。自立の要件にはこの生活技術も含まれます。つまり多くの男性は、対外的には自立して見えますが、人間としては依存状態にあると云えます。この依存状態は安全保障政策上かなり問題です。この微妙なバランスが崩れるとパニックになりかねません。こうしたストレスは認知症に直結します。今日から炊事を始めましょう。冷蔵庫に何が残っていたかを思い出し、その素材から何を作るかを考えるのは、かなり創造的な作業です。認知症予防にはうってつけなのです。

                     岩城先生講演4

【質疑応答】

質問1 老人ホームの入居者同士の人間関係は難しいと聞いていますが、どうなんでしょうか。

答え: 先ず、他人のことが気なるというのは相当レベルが高いと思います。認知度が下がってくると他人が気になりません。人間関係には相性があり、能力の差もありますが、基本的には一つの社会を作りますので、どのような社会を作るかがその施設で変わります。これは実学の世界でそのために私どもがいます。人間関係がうまく廻るようにいたしますし、マネジメントとして捉えています。趣味とかを見ながら相性の良さそうな組み合わせをするよう頑張って足を合わせていきます。

質問2 償却期間の説明がありました。自分の余命と償却期間の線を捜すのは容易ではないと思っています。施設検討の際に具体的な目安としての金額でもあれば教えてください。

答え: 値段には大きな幅があります。私のところは都内では下から25%位で30万円を切ります。高いところでは100万円を超えています(月当たり)。私のところより廉いのは問題と思います。私どものような個人経営とは違って企業の場合は、利益率を上げる事も一つの使命にしていて高額になります。この業界は6割を人件費が占めており労働集約型です。自助努力をするしかないのかなとは思いますが、人件費への工夫と、お世話に代わり得る、人に優しい技術革新も必要とは思っています。(文責:渡辺 義廣)

                               猫月見
                                  (挿絵:河野平八郎会員)                         
«俳句募集» 
会報1月号に皆様の俳句を掲載し、ともに賑やかに新年を迎えたいと思います。
心得のある方も、そうでない方も、これを機に自作の句をお寄せください。
お寄せくださった句は全部ご紹介します。そのため
ひとり2句までに限らせていただきます。
締め切りは12月20日、テーマは自由です。
ご投稿をお待ちしています。                       
なお、短歌については別の号でご案内します。                  

    

◎ 会員の声 【その1】


三笠とテキサス平和公園                              飯山 常成
軍艦三笠3

 アメリカはテキサス州、その州都オースティンより西方約80マイルに位置するフレデリックスバーグという地に太平洋戦争博物館がある。そして、その博物館に隣接して平和公園と呼ばれる日本庭園があり、その由来に、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を全滅させて世界中に勇名を馳せた東郷平八郎と太平洋戦争の米海軍提督であったチェスター・ニミッツとの友情があることはあまり知られていない。今から、もう20年も前に、私はテキサス・ヒューストンに住んでいたが、同地を尋ねたことがきっかけで初めて知ることとなった。10月には野外学習行事として記念艦「三笠」を訪問すると知り、この機会に日米双方の海軍提督の友情と三笠とにまつわる話をしてみたい。

 フレデリックスバーグは、19世紀中葉、ドイツからテキサスに移住した人々が作った町。1960年代に蒸気船スタイルのホテルを改造してニミッツ提督記念太平洋戦争博物館となった。この3階建ての博物館には、太平洋戦争の局面ごとの写真、資料類、航空機、戦車、銃砲等が展示されているが、変わったものとしては、真珠湾攻撃の際に捕獲された日本海軍の超小型特殊潜航艇の展示がある。敷地の奥にThe Japanese Garden of Peaceと名付けられた禅寺の石庭の趣を有する日本庭園があり、今日もなお美しく維持、管理されている。この庭園はニミッツ提督と東郷元帥の友情に由来している。公園すぐ左手に東郷元帥の書斎のレプリカがある。もみじとクロマツはカルフォルニアから運び込み、石庭の石には苔が生えるように工夫された。白砂は太平洋を表し、その上の石は太平洋の島々を表している。この時代を離れた両者は如何なる関わり合いを有していたのだろうか。
                                       東郷元帥 
 1905年、日本海海戦で東郷がバルチック艦隊を撃滅して世界の注目を集めたその年、ニミッツは海軍士官学校を卒業し、幹部候補生として軍艦オハイオに乗船し最初の外遊地として日本に赴いた。そして、他の5人の幹部候補生とともに対露戦勝記念パーティに招待され、日本軍が旅順で捕獲したロシア製シャンパンを飲んでいた時、たまたま東郷がニミッツ達の方に歩いてきた機会を逃さず、ニミッツは立ち上がり、全員を代表して暫しの歓談を申し入れた。東郷はこれに快諾し、およそ10分間話をしてくれた。東郷は7年間英国留学をしていたのでクイーンズ・イングリッシュを話した(以上は、ニミッツの手記に基づく)。これが二人の出会いである。東郷は青年ニミッツの心に深い印象を残し、以後も互いに交流を続けたという。1934年の東郷元帥の国葬の際には、ニミッツは米アジア艦隊の旗艦オーガスタの艦長として国葬に参加した。その後、ニミッツは米太平洋艦隊司令長官として日本と戦うこととなったのは歴史の皮肉である。日本に攻撃の手が伸びたとき、皇居への攻撃は絶対に行ってはならないと厳命したとも伝えられている。1945年、ミズリー号艦上で日本の降伏文書調印の前日、ニミッツは横須賀にある日本海海戦の旗艦三笠を訪れた。三笠は荒れていた。

 極東委員会では、ソ連代表が三笠を廃棄すべきと強く主張したが、米国はこれに反対。横須賀は米国の占領下にあったため、ソ連も手を出せず、三笠は廃棄を免れた。その後三笠は民間に払い下げられたが、業者によって米軍相手の風俗営業の場となってしまった。東郷長官室はキャバレー・トウゴーとなり、秋山真之のいた参謀長室はカフェになったという。敗戦の虚脱状態にあった当時の人々には荒廃に目を向ける余裕はなかった。こうした状況を嘆き、ニミッツは1958年、文芸春秋の随筆欄に「三笠と私」という寄稿をした。

 次第に日本人の間にも三笠保存の動きが盛り上がり、保存運動が本格化された。ニミッツは、原稿料とポケットマネー2万円を保存基金として寄付、更に米海軍に働きかけて横須賀にあった廃艦一隻を日本に譲渡し、スクラップとして得た約3千万円を三笠復元基金の一部に充てた。かくして、1961年5月、三笠の復元完成式が行われた。因みに、ニミッツは東郷神社の再建にも協力している。

 さて、冒頭のテキサスの戦争博物館に隣接する平和庭園の誕生に至る経緯に簡単に触れたい。ジョンソン大統領は、フレデリックスバーグ直ぐ近くの出身で、しかも嘗てニミッツの指揮下で海軍にいた関係で米国建国200年(1976年)の記念として公園を作るアイデアを思いついた。当時の米海軍提督は海上自衛隊に働きかけ、直ちに日本側でプロジェクト実施のための準備委員会が設置され、民間より多額の寄付が集められた。日本の庭師6人が現地の人と一緒になり2か月かけて平和公園が完成された。かくて、米国建国200年を記念するその年に日米友好親善の証として公園はニミッツ博物館に寄贈された。最後に、庭園の入り口にあるメッセージ要旨を紹介しよう。

「この庭園は、ニミッツ提督と東郷提督が等しく望んだ日米親善と世界平和を祈念して日本の国民から米国の国民に贈られたものである。」



◎会員の声 【その2】

武蔵野インディアン                                  上原 祥孝

 この三浦朱門の異色作は戦前、親の仕事で都心から移り住んだ多摩で、戦後の急開発に揺れる様を友を通じユーモアと差別性を混え表現し、現在、中央線沿線に住む人間に取っても、一昔、この辺りで、自分も少年時代に過ごしていた様な気分に浸らしてくれる。
1武蔵野

 15年前、仙台で勤めを終え、小金井に移り住み、東経大の欅友会の催しに参加させて頂き10年以上経ちますが、今年は一層魅力的な講座が多いように感じます。

 仙台に居た1995年、日経新聞に、地域に開かれた大学の週末一般公開講座として欅友会が紙面を広く取って紹介され、縁あればいつの日かとは思ったが、まさかお世話になろうとは。四国、高知県須崎市に生れ、高知商業高校を出て就職した企業の転勤は関西止りとはいかず、折しも盛んな組合運動と、隠れた“土佐のいごっそう性”も伴って左遷、リベンジの、重たいが挑み甲斐のある職業人生となる。

 振り返れば、地域ごとに四国、関西、中京、関東、東北と各々固有の人間性、商習慣、風物、歴史、芸能文化、代表する人物の姿などを多面的に味わう事が出き、仕事の苦労も良き思い出の中にある。特に、東北転勤と聞いた時は一瞬“出稼ぎの貧しい”イメージが浮かんだが、行って見てびっくり、皆んな明るく、伸びやかに暮らしているではないか。そして総じて堅実で素直さを感じた事でした。生き馬の目を抜くという関西圏とは大きく異なって。文化面では、自分の好きな美術、仏像、歴史遺産、能、神楽など、時に千年以上の歴史を持ち、みちのくの奥深いものが心の宝となっている。山形で復活した蝶採集が退職後の移住要素の一つとなり、家族の最適地を小金井市とし、落着くとともに早速自転車で東経大をたずねてみた。あの富塚さんと云う人はまだいるかねと窓口で尋ねると学長ですとの事だった。その後懇親会で親しくお話をさせて頂きました。若き日、夜学でマル経を習う中、買い求めた「現代の資本主義観」長洲一二・富塚文太郎共著は時代を捉え、今でもバイブルとして持っている。
                                       インディアン4

 現在、生活パターンは、午前、野川沿いの武蔵野公園での里山自然再生活動や関連する「景観畑」作り、国分寺崖線からの湧水沿いのホタルの再生活動などを続ける傍ら、午後は、小さい財布と相談しつつ、地元仲間との歌や小旅行の企画、参加などし、又、程良い距離にある三鷹、調布、府中の文学講座などは、どれも自転車で駆けつける。永らく住むインディアンの様でもあり、馬を自転車に乗り替え、忙しく追い駆ける様は妻にあきられつつ、どうにも止らない自嘲の姿である。



   特別企画  わたしの戦後70年 その4

 グラマン機の追撃を逃れて                             山本 昇  

 8月の初旬、茨城県阿字ヶ浦海岸、昼どきの日差しは滅法暑い! 突然砂丘の蔭からグラマンの機銃掃射だ、防空壕に逃げ込む矢先に左腕をかすめて弾は地中に埋没、切迫の間際で命は助かった! 夜間は艦砲射撃が数日続き戦況は激増。終戦の詔勅の拝聴は同所の航空技研の講堂で15歳であった。翌日任務を解かれ帰郷(府下三田村)の途へ、車窓から見る帝都の街は硝煙と化し地獄絵の様だ。
戦後復興は“先ずは建設だ”と想う!終戦後の混迷期5年間は家業に従事し建築家を志望、専門学校へ、設計事務所~建築・設備会社等で実務を重ね一級建築士の資格を取得、主に現場監督で住宅、病院、ホテル、空港、国内各地の大手工場、プラントの設計、海外プラント輸出、スーパーバイザー(比国バターン)等、出張や赴任で数多の業務で苦労もするが達成感は格別だ。家主は留守がち、母子家庭の様だと家内は言う。平和産業の復興に微力を尽くす企業戦士?、互いに激励と感謝。PCでの検索でバターンに45年前建設した建物が歴然と健在、大感動!生きてて良かった!

 私のお雛様はお米になった                            八代 はるよ 
 
 女の子にとってのお雛様はその年齢なりに思いを込めて3月3日のお節句を祝い楽しみます。しかし私の大切なお雛様は戦中の食糧難の時、母は私の了解を得てお米と交換したのです。小学生だった私はどの位の量のお米だったのか知りませんが。
それからは3月3日に近づくと折り紙で作ったり、色紙に色鉛筆で描いたりして祝っていました。やがて戦後、世の中も景気が良くなり、店頭に雛人形がかざられるようになり、雛人形の未練は忘れられず、立派な段飾り人形でなく、可愛いい出逢いの人形を求める事にしようと、旅の思い出や又友人のお祖母さんが郷里の人形を作ってくださった忘れられない感謝の人形。……今年久し振りに緋毛氈に全雛人形を披露すると50組余。箱から1組1組出す度に目を細め人形達は喜んでくれた。求めた時はいつも私自身気分が良い時の出逢いのご縁だった事かも。そして、私から離れたお雛様が沢山の人形を連れて来てくれたのかも、と思えた。今は私の唯一の宝物になっている。

  私の戦後70年                                  岡安 隆  
 
 昭和23年、三鷹の小学校に入学しました。木造の2階建ての校舎1棟、教室が足りず、1年、2年は1週ごとに早番、遅番のローテションでした。中学校の映画教室で「ビルマの竪琴」を鑑賞しました。ビルマの山野に日本兵の屍が累々とあり、ビルマの人々が弔っている光景を見た水島上等兵が日本に帰らずに、ビルマで、日本兵を弔うと決意した生き方に感動をしました。平成17年にあるグループが「ビルマの竪琴」を上映しました。赤紙で招集され、南方の戦場に送られ、屍となってカラスや野鳥の餌になり、つつかれている光景をみて、英霊を慰めたかったので翌年の8月15日靖国神社に参拝にいった。長蛇の列で、実に騒々しかった。翌年は8月16日に参拝をした。長蛇の列ではあったが前年の15日の騒々しさはなかった。靖国参拝を政治問題化することなく、赤紙で戦地に送られ、戦死した国民を国家が弔うべきだと痛感した。


《お知らせ》
ご愛読いただいている「わたしの戦後70年」の掲載は12月号で終了いたします。投稿の最終締め切り日11月20日です。奮ってご応募ください
                                  (編集担当者:大崎尚子)
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