7月号

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7月号  






 「お知らせ」                                    
      
◎7月の学習会【その1】
 日  時:7月11日(土)13:30~15:30   
 場所:東京経済大学 2号館 B301号教室                                    
 テーマ:「3.11東日本大震災の教訓~日本のエネルギー政策を考える 第二弾」 
                             
 講師:藤田 和男先生(東京大学名誉教授)
(藤田 和男先生のプロフィール)
1941年東京生まれ。1965年東大工学部資源開発工学科を卒業、アラビア石油に入社、30年勤務。
1969年から4年間テキサス大学石油工学大学院に留学し石油工学博士号(PhD)取得。1974年アラビア湾のカフジ油田に赴任、1984年中国渤海湾石油開発の現場、マレーシアの駐在代表など15年の海外赴任を経験する。1994年東京大学工学部教授に招聘される。大学院常務委員、専攻長(学科長)を歴任し、2003年退官。2003年4月より芝浦工業大学に新設されたMOT(技術経営)大学院の教授に就任、
2010年3月退任。
専門は石油・ガス油層工学、石油資源評価、地球環境・エネルギー概論、エネルギー経済データ分析、国際開発マネジメント、プロジェクト評価、エネルギージオポリティックスなど。

◎7月の学習会【その2】(映画を読む会)                               
 日時:7月18日(土)13:30~16:30……終了時間が1時間遅くなります                                  
 場所:東京経済大学 2号館 B301号教室 
 テーマ:映画を読む会『真珠の耳飾りの少女』 
                                      
 講師:長谷川 倫子先生(東京経済大学 コミュニケーション学部教授)                         
(長谷川 倫子先生のプロフィール)                                        
愛知県出身、上智大学文学部新聞学科卒、同大学大学院文学研究科修士課程修了。文学修士。                   
ハワイ大学マノア校大学院社会学専攻修士課程修了、社会学修士。上智大学大学院博士後期課程単位取得退学。2002年東京経済大学コミュニケーション学部助教授。2012年より教授。
研究分野はメディア・コミュニケーション、メディア史。
著書に現代のメディアとジャーナリズム8巻『メディアとジャーナリズム 21世紀への課題』第13章「情報バリアフリー社会に向けて」(ミネルヴァ書房、2009年、共著)ほか。論文に「 ザ・ビートルズとラジオ深夜放送-1960年代の中部日本放送を事例として- 」東京経済大学『コミュニケーション科学』第37号(2013年)ほか。



加藤一彦先生2

◎6月13日(土)学習会の要旨                           
 日時:6月13日(土) 13:30~15:30                             
 場所:東京経済大学 2号館 B301教室  
 テーマ:「憲法と国会―衆議院議員選挙制度改革の視座―」                                          
 講師:加藤 一彦先生(東京経済大学現代法学部教授)
 出席者:156名(会員:男性113名、女性:38名
          非会員:男性4名、女性1名)

【講演レジュメ】

憲法と国会ーー衆議院議員選挙制度改革の視座ーー
  
一、はじめに
・衆議院議員選挙制度の復習
・選挙の意味の再確認
・政治改革後の政治世界の変化

                                1衆議院議員選挙

二、衆議院議員選挙制度の歴史的展開
(1)旧憲法/貴衆両院制度(旧憲法33条)

・最初の衆議院議員選挙制度(1889年)
→定数300/小選挙区制。選挙権:25歳以上の男子+直接国税15円以上
           被選挙権:30歳以上。同じ
15円の意味:現在の金額で年俸億単位の収入。全国民の1.13%。
↓ 東京府の例)有権者数:5,715人(人口比 0.35%)
緩やかに改正されながら、男子普通選挙制度の導入へ

・男子普通選挙制度の確立(1925年)
定数466/中選挙区制。納税資格要件の廃止。
大正デモクラシィーの成果。
負の側面:①臣民の「義勇奉公の誠」と「国家国防の責」を尽くすため、「政治的責任の自覚及び普及」の徹底化。
     ②治安維持法の成立/社会主義者弾圧法としての役割
「第1条 国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」。

1927年(金融恐慌)1929年(世界恐慌)以降、日本政治の劣化。
・1932年/5.15事件犬養首相暗殺、「憲政の常道」の崩壊。
・1935年/天皇機関説事件(美濃部達吉教授への攻撃)。
・1936年/2.26事件。陸軍皇道派青年将校のクーデタ。
・1941年/太平洋戦争へ。
→日本政治の死亡

(2)敗戦後の改革
1945年8月14日:ポツダム宣言受諾
同10号「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ」。
・マッカーサー五大改革指令=①女性の解放、②労働者の団結権の保障、③教育の民主化、④秘密警察の廃止、⑤経済の民主化。

1945年12月17日/女性参政権の確立。翌年選挙実施。
1947年5月3日/日本国憲法施行
1947年3月21日/衆議院議員選挙法に基づく選挙実施。
       →戦後長く続く選挙制度の原型形成
 中選挙区制、普通選挙制度。
→55年体制の確立:憲法改正なしの自民党一党優位性の確立
         
(3)90年代の政治改革

1988年6月18日『朝日新聞』のスクープ記事
→リクルート事件/竹下内閣:昭和から平成へ。
竹下→宇野/第8次選挙制度審議会の設置→海部→宮沢内閣
1992年/東京佐川急便事件
1993年8月6日/細川連立政権誕生
1994年/政治改革関連4法成立:細川+河野トップ会談/土井議長の斡旋
!日本政治の変質化にとって決定的意味を持つ。

・中選挙区制の廃止/中選挙区悪玉論
・小選挙区比例代表並立制の導入
 有権者の選挙行為を首相選択と同一視する発想
→ウエスト・ミンスターモデル(イギリス型)
その後の展開は、当初の予定通り、オセロゲーム的状況

三、衆議院議員選挙制度の改革の必要性

(1)現在の衆議院議員選挙制度
総定数475:小選挙区/295、比例代表180(公選法4条1項)
小選挙区:1選挙区1名当選(相対多数)
比例代表:11ブロック制/拘束名簿式(但し、全員同順位という場合もある)。
ブロック定数:北海道8人、東北14人、北関東20人、南関東22人、東京都17人、北陸信越11人、東海21人、近畿29人、中国11人、四国6人、九州21人。
 
重複立候補は可能:小選挙区落選者が比例代表で当選しうる。
前回の例)沖縄の4選挙区:自民公認候補落選。
         比例復活/いわゆる「ゾンビ議員」

(2)改革の現在

小選挙区における1票の較差(×格差)訴訟
通説:較差は1対2以内。
現在、13選挙区が2倍以上(都市部)
                          日本国憲法1

裁判所の立場
・最高裁判所1976年判決/最重要の判例
①較差が存在すること、②合理的期間内に是正をしないこと
→この場合に限り「違憲判決」。但し、行訴法31条の援用「事情判決の法理」
              いわゆる「違憲有効判決」。

・2014年12月の衆議院議員選挙の判断
「0増5減」への評価
17件の高等裁判所の判断:違憲判決1、違憲状態判決12件、合憲判決4件。
年内に最高裁判所判決が出される予定/違憲状態判決か?
(3)衆議院自体の努力

衆議院選挙制度調査会の設置(2014年6月)
現在、改革案を模索中。各党の意見はまとまらず。おそらく失敗する。
では、どうするか?
→最高裁判所が「違憲無効判決」を下さない限り、改革は進まない。

国会議事堂2

四、小結ーー宿題としてーー
・憲法41条の規範意味:「全国民の代表」の捉え方。
 国会議員は、何を代表するのか?

・議会制民主主義が正常に機能するための条件とは何か。

・参議院の改革も同時並行的に考えよう。

・有権者18歳引き下げ法案、現在審議中。
→約240万人が新たに有権者に加わる。
 →高等学校の教科内容の変更を伴うはずである。
→20代の投票行動

【ブックリスト】
石川真澄/山口二郎『戦後政治史〔第3版〕』(岩波新書、2010年)
山口二郎『いまを生きるための政治学』(岩波書店、2013年)
宮本太郎・山口二郎『日本の政治を変える』(岩波書店、2015年)
後藤謙次『平成政治史1-3』(岩波書店、2014年/15年)
加藤一彦『議会政治の憲法学』(日本評論社、2009年)

                加藤一彦先生聴講3


  特別企画      わたしの戦後70年 その3

  戦後70年目の発見から想う                 神尾 龍三郎  
 『私達は丁度その時、沖縄への特攻機の出撃直前の現場に行き合わせたのだった。時刻は午後四時半頃であった。やがて軍の関係者が滑走路脇を一列に並んで見ている中を最初の一機が助走に入り、そのまま離陸して太平洋の方向へ飛び立って行った。二機目も飛び立って行った。こうして神尾幸夫少尉、M軍曹は出撃して行った』 以上は、2009年某誌に掲載された内容の一部。戦後70年目、漸く知る兄の最後の様子である。今年4月、PC上にこの文を発見した後、昂ぶる気持を抑え兄の記憶の糸をたぐってみた。 
 当時私は横浜に居住。14才離れた兄は家庭の事情で学生の頃から東京の親戚で生活。兄弟と言っても遠い存在で、面影は断片的にしか浮ばない。寧ろ戦後の混乱から父死亡の昭和31年を経て、私が社会人になるまでの苦難の時代を克服しえたのは、兄の軍人恩給のお陰と感謝の念がつのる。
 不思議な霊に導かれる現象を経験すると、兄が情報化時代を生き抜く術を発信してると想ってしまう。

  私の戦後70年                        川村 僖壹  
 紙数が限られているので印象の強い2点を記す。
①戦争のこと
 生れは、日本が真珠湾を攻撃した日の約半年前である。終戦間際の頃、空襲警報と防空壕に避難したことを憶えている。2つの防空壕の内部の様子なども。わずか4才になったばかりだったはず、戦争がいかにショッキングな大事件だったかと思わざるを得ない。忘れられないし、忘れてはならない。
②技術革新のこと
 小さな頃から文系が苦手で大学は工学部に進み、腕時計メーカーに就職した(1965年)。時計の高精度化などの研究開発に携わったが、この間ゼンマイ式の機械時計から電子式の水晶時計へと大きく変革した。その後プリンターの開発に移動し、ここでもインパクト式からインクジェット、レーザープリンタへと大きく変化した。
 時計とプリンターという小さな分野ではあるが、大きな技術革新の渦中で身をもって体験出来たことは、技術者冥利に尽きる。また、現在も非常勤だが、その線上にいる。初就職以来丁度50年になる。ただ、これらの技術は既に成熟期を迎えている。

  社会の一員としての自覚を                      天川 恒男   
 「スマホをおいて机に向おう」とは、某予備校の呼掛けです。ある大学の入学式で学長が「スマホをやめてコミュニケーションと自分で考える力を養おう」と挨拶されました。賛否両論が渦巻く中で、私はこれに賛成です。電車内や駅で、優先席で操作する若者は良く見かける風景です。走って駅のエレベーターに乗る者もおります。日本では「大人も漫画を読んでいる」と、驚いた外国人もいるとか。暗い昭和と明るい昭和を過ごしてきた世代は、車内の席に坐るな、階段を使えとか教えられてきました。エネルギー問題にしても、24時間営業のパチンコ店、駅で数多い自販機など見ると、浪費としか思えません。今こそ国民のひとりひとりが自覚し、日本の美風と伝統を活かし、世界の中の日本の存在価値を示す時がきている様に思えます。子供の時から家族制度の中で、培われた躾や伝統は、現代でも大切で、「日本の心を世界の中で活かす」ことになる、と思います。

  私の戦後70年                          三澤 博  
戦後が始まって間もない1949年11月25日、当時12才の私の身の上に起きた重大事件を“私の戦後70年史”の1ページとして披瀝いたします。
食糧難の時代でもあり、中学校で生徒たちが自前のおでんを食べたり甘酒を飲んだりするだけのバザを行うことになり、農家の子は、米を少し持ってくるようにとのことで、私は持って行きました。友達と甘酒を一口飲み、茶碗を置いて、顔を挙げた瞬間、右眼の最奥部に激痛が走りました。誰かが投げた、おでんの竹串が右眼のど真ん中に突き刺さったのです。
友達に伴われて行った保健室で、若い保健の先生が、これは失明だと言いました。眼科医院に行こうと、先生に伴われ校門を出たところで偶然に父親が通りかかり、3人で行ったのですが、この先生にも即刻失明を宣告されました。こんな訳で、12才から今日まで、丹下左膳でありますが、このことで何らかのハンディや不利を感じたことはありませんし、私の自分史の起点となっていると感じております。

  戦後70年を迎えて思い出すこと                  高根 佳子    
 戦争の想い出を話すのは気が重いが、楽しかった子供の時代が急に止まってしまい、自由は無く、あらゆる物が無くなり、食事すらまともに出来なかった。頻繁な空襲を避けて疎開するため、姉と一緒に東海道線で8時間もかけて豊橋で乗り換え、豊川の父の郷里に泊った時は、東京ではもう買えないとろろ芋と白いご飯を久し振りに食べることができ、近くの小川ではタニシも取れた。天竜川沿いの山の中での疎開生活は、水道もガスも無く、山の湧き水をバケツで運んだり、隣の農家から炊事用の薪を買ったり、ろくな野菜も取れず苦労が多かった。兄と一緒に貯金箱に貯めたお金は全てお国に献金させられた。
 昭和20年5月の空襲で焼けた渋谷の家の庭の防空壕には、大事な荷物を埋めて疎開したのだが、それが戦後のインフレの下での筍生活を支えてくれる貴重な資産になった。あれから70年、平和を守っているこの日本を大切にしたい。

  自分史                           小田切 豊雄  
 「自分史」ブームであり、「自分史の書き方」なる講座も花盛りと聞く。「自分史」と云う言葉の命名者は、東経大時代の恩師、色川大吉東経大名誉教授であることを文献で知った。
先生は89歳の現在もご壮健である。学生時代に先生の講座を受講したことも懐かしい。著書、『自分
史』・・「その理念と試み」の冒頭文で「個人史は、当人の“生きた証”である。・・」と“自分史の勧め”を説いている。私も戦中に生を受け71歳の今日まで健康な生活を送ってきた事に感謝し、8都府県に暮らした慌ただしかった44年間のサラリーマン時代を回顧しつつ、短文の日記を、長年書き続けている。平凡なささやかな人生であったが、私にとっては無限な想い出を秘めた喜怒哀感の貴重な足跡である。夫婦2人から2人の息子夫婦、孫3人の9人家族になった事に嬉しさを覚え、今日も日記帳に“個人史”をしたためている。後日、家族の誰かが、斜め読みでも目に留めてくれたら幸いである。
  
                                    7月号挿絵
                                      挿絵:小田切豊雄


  わたしの戦後70年                        天野 肇
 誕生から敗戦迄の16年間、徹底した皇民化教育と軍国主義で育った私の戦後70年は、飢餓やハイパーインフレとの戦いに加えて、全ての価値観を一から問い直す心の整理から始まった。占領下の大学生活も、勉強はそこそこに、何故あの愚かな戦争を続けたのか、あの惨禍を招いた責任は誰がどう取るのか、今後日本や自分自身の進むべき道は何か等を考え続ける日々だった。卒業後商社に就職したが、翌年肺を患い、二年間の療養を余儀なくされた。敗戦に次ぐ闘病は、大きな挫折感で私を苦しめたが、その後は当時の基幹産業だった鉄鋼の原料輸入に携わり、通算10年の海外勤務を含む43年間、無我夢中で走り続けた。65歳で退職し、地元のボランテイア活動や趣味で平穏な日々を楽しみ20年を超すが、敗戦で得た歴史的教訓を忘れたかに見える現政権の政策が、国力を過信して日本が犯した戦前の過誤を再び繰り返すリスクを予感させ、心休まる日の少ない昨今である。 

  私の、戦後70年                        山田 健   
 戦争を知らない♪「団塊世代」のしんがり。1949年に生まれた時から競争の激しい人生がスタート。幼なじみの思い出♪はカンけり、三角ベースにイナゴ取り。少年時代♪からやれ模擬試験、やれ塾通い。狭い門をかいくぐり大学へ。ツタの絡まる学生時代♪は学園紛争真っ只中。ノンポリはのんびりサークル活動と雀荘入り浸り。いつでも夢を♪見ていたら、青田刈りなどつゆ知らず、気が付けば就職戦線も閉幕間近。滑り込んだ先でも”成果主義”と名を変えた競争だ。老いてあくせくしないように早目にこんにちは赤ちゃん♪。定年退職後も年金やら社会保障やら、生涯圧迫が続く世代。社会に最大の貢献をした最大のお荷物。介護中の親父の歳になるまであと30年、ああ恍惚のブルース♪よ。時の流れに身をまかせ♪、うまくお陀仏するのも競争だろうか? 振り返れば金のかからない趣味と、かけがえのない友人だけ残った。新しい出会いも楽しみだ。まあいいか。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ 

特別企画「わたしの戦後70年」は5月号に始まり、好評の内に今月号で3回目の掲載になります。あわせて19名の方に登場いただきました。この企画は12月号まで続ける予定で、引き続き原稿募集中です。題名と名前を除いた本文が、原稿用紙1枚以内、または文字数400字以内でお願いします。
 まだ若いから戦後70年は語れないとおっしゃる方も、これまであなたが生きた時代と、その時々に考えられたことを書いてお送りください。お待ちしています。
  
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
 
  お詫びと訂正
  会報6月号(284号)の特別企画「わたしの戦後70年」に誤りがありました。
  6月号7ページ、古希以後 の文中、下から3行目、『某学会誌(月刊)の最終ゲラ構成を手伝って
  いる』は『某学会誌(月刊)の最終ゲラ校正を手伝っている』の誤りです。お詫びして訂正します。

                                   (編集責任者:大崎尚子)                      
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