6月号

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 6月号                  


 ご報告とお知らせ                                    
 
◎会員懇親会のご報告                            
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 開催日時:5月25日(土)15:50~17:10                               
 場  所:東京経済大学 葵陵会館内学生食堂                                        
 当日は、東京経済大学より堺憲一学長、手塚眞教授、岡本英男経済学部長、二瓶司広報課長、国分寺市より井澤邦夫市長、
松井敏夫教育長、学習会講師として羽佐間正雄元NHKアナウンサー、藤田和男東京大学名誉教授を来賓にお迎えして、会員懇親会が開催されました。
 顧問の渡邉尚先生をはじめ、会員79名が参加、東京経済大学アカペラサークルによるミニコンサートも行われて、盛大な会になりました。

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≪6月27日 学習会延期のお知らせ≫   
 6月27日(土)に予定している学習会「案外知らない“終の棲家さがし”の真実」は
 講師岩城先生が体調不良のため延期とし、改めて日程はご連絡することと致します。
6月27日は休講となりますので、お間違いのないようにお願いします。

   
◎6月の学習会のおしらせ
日 時:6月13日(土) 13:30~15:30                             
場 所:東京経済大学 2号館 B301教室                                 
テーマ:「憲法と国会―衆議院議員選挙制度改革を考える―」                                       
講 師:加藤 一彦先生(東京経済大学 現代法学部教授)
(先生のプロフィール)
1959年生まれ。獨協大学法学部法律学科卒業、同大学大学院法学研究科修士課程修了、明治大学大学院法学研究科博士課程単位取得。法学博士。1993年 東京経済大学に着任、現在に至る。
専攻:憲法学、議会制度論。著書に『政党の憲法理論』(有信堂弘文社、2003年)、『ドイツの憲法判例』(信山社、2003年、共著)、『新現在憲法入門』(法律文化社、2004年、共著)、『議会政治の憲法学』(日本評論社、2009年)など多数。


   
◎5月23日(土)学習会の要旨

日 時:2015年5月23日(土)13:30~15:30 
場 所:東京経済大学 1号館 A405教室
テーマ:「東京~東京へ―オリンピックの原点」 
講 師:羽佐間 正雄氏(元NHKアナウンサー)                               
出席者:175名(会員:男性125名、女性45名、           
         非会員:男性3名、女性2名) 
 
 羽佐間先生2
                               
【講演要旨】 
  今年84歳になります。本籍は東京ですが、父親の転勤で九州に生まれました。小学校の4年の夏休み、昭和16年に上京しました。隣の教室に徳田先生という体格の良い先生がおられました。やさしい先生でした。私は田舎育ちで、小学生の頃から詩吟をやっていました。その先生が陸軍病院に慰問に行くので、私に詩吟をやるのか?と言われ、やりますと答えました。私しかいなかったのです。

  田舎から出てきたものですから教室に入る時、上履きというものがあると初めて知りました。田舎じゃ季節を問わず裸足でしたから。 でも詩吟は私一人であると知って誇りに思いました。
お弁当はスチームがあって暖めていたのを都会はすげーと思いましたね。
校庭がコンクリートで、「狭かあ・・」と思いながらその当時はやったバトン投げを競争していた記憶があります。4年生ですが、自分だけが、端から端までノーバウンドで、遠投記録で名をあげたものです。兄は6年の転校生ですから、半年くらいしかいなかったのですが、弟は2年生から入っております。女の子が田舎と違いこんなに綺麗な子がいたのかと吃驚しました。

 その当時、母親はお前は戦争に行ってお国のために死ねばよい、といった時代でした。入学の後、幼年学校を目指す学校に行ったのですが、白金小学校から3名でして、私と行った3人の内の一人が中村孝太郎という関東軍司令官、陸軍大将の息子でした。もう一人は鈴木君と言って靖国神社の宮司の息子だったと聞きました。
                                     
                                      オリンピックイメージ3

 さて、最初にお話ししておかないといけないのですが、マラソンの五輪に日本から、3回出た方が2人います。一人は君原健二さんはメダルを獲り、宇佐美さんはメダルには及びませんでした。この方が健康の為に、著述、講演活動をされています。以前にこの方にお会いした時、言われた言葉です。それは歩きましょう。できるだけ真っ直ぐ歩く、その時、足の5本の指で地をキャッチする、これを意識してくださいね。
私も大地を掴んでやっています。これを忘れないでメモしてください。できれば真っ直ぐ歩く、東京では大抵、相手が避けてくれますから(笑い)、これを習慣として身に付けて下さい。

東京オリンピック1

 昭和39年のオリンピック会場に足をはこんだ方、テレビで観戦された方はどのくらいいますか?(聴講者の反応)(笑い)その前、昭和15年に東京オリンピックは決まっておりました。戦火で怪しくなり中止になりました。戦前の開催はできなくなり、昭和39年はアジアに初めて来たオリンピックが東京でした。それを契機に、東名高速、新幹線が開通し、第三京浜も開通し、オリンピックを契機に景気も上がっていくことになりました。

 5年後のオリンピックは楽しみですね。もし、私が生きていれば89歳で、100m競争のラジオの実況をやってみたいなあと言いましたら、いいですね?と無責任なディレクターですね。(笑い)できれば89歳の時に、やってみたいな、夢です。
ここにありますオリンピックの原点は一点にあらず、時代時代により、あるに違いない。そうであれば皆さんにも幾つかの原点があるに違いないと思っております。

 最初に日本人が出たオリンピックは、ご存じですか? 1912年スウェーデンのストックホルムで開催されたオリンピックの時なのですね。選手2名、役員2名、出場した選手はマラソンの金栗四三さん、これが絶対優勝だと言われて出ていつた。それに短距離、当時、東大の選手の三島弥彦さんが出ていった。金栗さんは途中棄権、三島さんは大差で敗れた。
金メダル第一号は、昭和3年、アムステルダムで織田幹雄さんの三段跳びです。今回、取り壊されますが神宮外苑の国立競技場の第4コーナーに15.21mのポールが立つています。織田さんの記録にちなんだポールです。新しい競技場が出来る時、あの記念ポールも残して欲しいと思います。

 女性選手の参加はいつごろからでしょうか? アムステルダムで女子が参加したのが初めてです。当時の女子の短距離は100m、その次は800mしかなかったのですね。
人見絹枝さんが100mにメダルを取れなかった。そこで人見さんは800mに出たいと言った。監督はじめ、織田さんも止めるように諭した。最終的には本人の熱意に監督が同意したが、当日、監督から、本来100mの選手の人見さんがスタート後、ひたはしりを抑えるため、各コーナーに人を配して、セーブするように声を枯らした。人見さんもその指示にしたがい、前半を抑えに抑え、最後の50mを疾走し、2位に入った経緯があります。この人見さんはその後、毎日新聞の記者になり、24歳で亡くなりました。
女子が最初に金メダルをとった第一号は前畑秀子さんの平泳ぎです。前畑さんの金メダルを有名にしたのが実況中継でした。前畑さんは亡くなる直前まで子供達に水泳教室を主宰されていました。

                  前畑4

 私がNHKに入局し、最初に配属されたのが山口県の防府支局でした。その時、先輩からこれを聞いてみるように言われたのが先輩アナウンサー、河西三省さんの実況中継を録音した大きな円盤でした。
河西さんは飛び込んだ前畑さんが水中から浮き上がってから、前畑がんばれと言い続けました。当時、ベルリン在住の日本人が立ち上がり、レースが見えない状況で、前畑頑張れの連呼と、あと5メーターをしばらく言い続け、ゴールのコールはありません。(笑い)

 人見絹枝さんは100m競争で敗れ800mに出場して活躍した人、これこそ大和撫子、サッカーの女子チームで国歌を歌わない人が大和撫子と言えるでしょうか? 競技が始まる前に先進国でも後進国でもいずれの国家でも国歌を歌います。ところが日本の女子サッカーチームが国歌を歌わない、こんなことがあり得るでしょうか? 学校でも教えていないのですね。これで良いのでしょうか? いかなる場所でも国歌を歌えるようになって初めて大和撫子と言えるのでないでしょうか? 前畑ガンバレと連呼した生中継は、昭和 11年のベルリンオリンピックです。

 昭和7年のロスオリンピックの実況中継でアナウンサーを派遣したのですね。海外の事情、事前に契約金を支払わないと生放送が出来ないことを知らず、やむなく100mを架空の実況でやりました。、放送時間は57秒もかかっていたそうです。。

オリンピックイメージ1

 歴史は進み、昭和23年ロンドンオリンピックが開かれました。これが、第二次世界大戦が終了し、初めてのオリンピックでした。
その頃、日本は敗戦国ですが、オリンピックに是非出たい。当時、水泳にとんでもない選手が現れました。古橋広之進、橋爪四郎の2人です。向うところ敵なし、オリンピックに出してもらいたい、でも出られなかった。
それならばと、日本の流儀でロンドンオリンピックに合わせ、日本で水泳の試合をおこなった。ただし、時差があります。古橋、橋爪が競り合って、古橋1位、橋爪2位の結果を踏まえ、ロンドンオリンピックの結果を待つことになった。当時の通信状況から待つこと待つこと。でも溜飲を下げる。大差で問題にしない決着でした。

 そのあと、アメリカのエール大学の全米選手権に古橋、橋爪を呼ぼうではないかということになったが派遣する費用も大変、その折り、ハワイの2世、カリフォルニア在住者からの募金がありこの2人を筆頭に日本選手を派遣。この2人はぶっちぎりの優勝で米国民を驚かせた。まさに快挙でした。
この2人に会いたいとのことでアメリカの生理学者が訪日、2人にインタビューした。この生理学者が2人の栄養摂取量、練習量などを聞き、このままでは二人の命は3年も持たないと言われた。それを聞いた古橋広之進は生理学者の前に進み出て「先生のカロリー計算のなかに精神力と言う項目はないのですか?」と問い、その生理学者は一言も答えきれなかった。

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 週刊現代で昭和に活躍した人を3名選んでくださいという問いに、私は一名は古橋広之進、もう一名は山下泰裕、もう一名は王貞治を選びました。
古橋広之進の活躍ぶりは既に紹介の通りです。山下はロスのオリンピックで負傷しながら金メダルを勝ち取った選手です。フランス選手との戦いで負傷、決勝はエジプトのラシュワンと言う大男です。その時、エジプトの監督は日本人であった。その日本人監督からラシュワンに決勝に当たっての指示があった。「山下は負傷している、自分から仕掛けてくることはしないだろう。お前は開始後、60秒は動くな」と言われた。人間の弱さからか大男は監督の指示に従わず、立ち合い即、動いた。待っていた山下に返され、敗北することになります。
王さんのソフトバンク監督時、面談したおり、大手術を終えて復帰した彼は、「もう尋常な体ではありませんから、これからは昨日を還りみず、明日を思わず、日々今に生きることを考えます」と決意を明かした。流石ですね。本当に身に沁みて体に入ってきましたね。

 親と子、監督と選手の結び付きのなかで親不孝者を見たことがありません。昭和39年の東京オリンピックの第一号は重量挙げの三宅義信です。当時日本のJOCは日本チームを鼓舞するため、通常、後半に演技する種目を前にもってきた。
三宅義信はオリンピック開始1ケ月前から眠れなくなった。一計を講じて、会場に向かう前前夜に一睡もせず、試合前日に眠る作戦を立てた。そのお蔭もあり、試合前日はよく眠れ、会場に向かう。試合に行く過程で他の選手も眠れていないはず、ステージに上がったおり、胸を張り堂々と入場し、真暗い会場の5列目に両親の顔が見えた時、母親が霊になり飛んできて母親が一喝し、「負けるわけがない」と叱責。金メダルを取ることが出来た。

羽佐間先生4

【質疑応答】
1)羽佐間先生のアナウンサー時代の成功談、失敗談を聞かせください。
失敗の連続です。記憶に残る実況は、東京オリンピックで朝9時に放送席に座り、夜10時15分に放送を終了した、棒高跳びの競技です。棒高飛びの米国の選手が14回続いていた継続勝利に向かい、最後に飛び超え優勝してきたことを実況中継したこと。

2)5年先東京オリンピックのメダル数は?
メダルより諸外国との交流での新しい出会いを楽しみにしています。  (文責:赤池秀夫)




≪アンケートの質問から≫
Q:会費も手ごろで出席も自由で参加しやすいが、年の前半(2月~7月)しかやらないのは何故でしょうか。出来れば1月~12月のレンジでやって貰えればと思う。勿論4月~3月でもかまわないですが。

A:東京経済大学と国分寺市は共催で9月下旬から12月中旬まで7回の土曜日に市民大学を開催しています。この市民大学講座を受講した皆さんから、市民大学講座の閉鎖期間中も引き続き勉強会を継続したいとの声が上がり、自主的に結成された学習会が欅友会です。従って、市民大学講座開催中は学習会を行いません。9月からは市民大学講座を受講してください。募集は9月の国分寺市報などに掲載されます。または、東京経済大学 広報課までお問い合わせください。(広報課:1号館1階 ☎:042-328-7768)

                        6月ねこ
                               挿絵:河野平八郎会員


  特別企画      わたしの戦後70年 その2

◎わたしの戦後70年                          内古閑 徹  

 戦後70年の節目を考えるとき、私は敗戦までの14年の人生を無視できない。14年間これが生きがいと教えられた日本国の正義が一挙に崩壊し盡くされた衝撃は、戦後70年の今も決して忘れられない。
その自分が70年前には想像すらしていなかった今の生活は、感謝しながら年寄りを過ごしている。敗戦時の混濁とした凄まじい世相の中を、家族友人に支えられ乘り越えられた。180度転換した日本は平和憲法を与えられ、民主主義を謳歌して今日に至った。
我が国はひたすら米国の核の傘の下で、国内の繁栄に目配りした為、戦前の近隣二国に対する歴史教育が欠如した。これから2020年に向け、マスコミは拍車をかけて一途猪突猛進するだろう。それからこそが、私の14年の轍を踏むことなく、戦後70年で築き上げた若者の叡智で、真に自立した日本を存續させることを切望する。

 ◎ 終わらない戦争                        大場 俊昭  

 敗戦国日本の貧しい時代に、私は少年期を過ごした。米の凶作なども重なり、食べるものがまったく不足していた。配給パンと米国から支援された脱脂粉乳で命をつないでいた。
いつの頃か、生まれ育った小さな街に進駐軍がやってきた。子供たちは米兵に付いて回った。当時としては贅沢品であるチューインガムやチョコレートがもらえるからである。
周りでは、当時の日本には似つかわしくない派手な服装と化粧をしたお姉さんたちが、米兵と腕を組んで闊歩していた。その後、小学校には金髪や肌の黒い子供たちが増えた。
進駐軍が撤退した。ラッキーな女性は娘と共に米国に渡った。幸福に暮らしていると風の便りで知った。同級生の姉たちは子供と共に捨てられた。雇用救済などある筈がない。
従軍慰安婦が騒がれて久しい。終戦前の話である。軍が関与したか詳しくは知らないが、日本人の名誉が傷つけられている。慰安婦は、いまだに戦後のけじめを付けてくれない。
   
 ◎思い出の品、学びのあと                    小倉 和代  

 姉と二つ違いの兄、その六歳下の末っ子の私、ともに戦後を生き、今は回想の中でしか会えぬ二人ながら、ただ懐かしさだけが去来する。東京にも戦火が及ぶ頃、独り両親の故郷へ疎開し、その時兄は同じ教科書を手元に置き、東京と疎開先との手紙のやり取りで家庭教師をしてくれた。
小学校を終え、女学校受験で東京に戻った日、あの東京大空襲で家は焼失、止む無く受かった女学校から転校した故郷群馬の学校の校舎も、まさに終戦の日の前夜、焼け落ちたという不幸に見舞われて、私の戦後は始まった。お寺の本堂での授業、廃屋になっていた工場跡の仮校舎での勉学、六三三制の改革により、中学高校での卒業をして後、東京に戻りやっと家族全員での生活が戻ってきた経緯がある。
後年、仕事を終え退職後スペイン旅行をしたのが切っ掛けでスペイン語のクラスに席を置いている。実家の兄の本棚から失敬してきた参考書、折に触れ開いてみる、そこここに彼の勉学のあと、もう教えを乞うことも叶わずそれらを見る度思い出の中に心遊ばせる。

  ◎家族の戦後                          上原 祥孝   
 
 昭和15年生れで、玉音放送も知らない。歴史の先生だった父も翌年、公務の怪我から破傷風を病み、無念の中、世を去る。父の日記に戦況の悪化と空腹、子供と遊んだ様や兄や妹が腎臓を病み、私の中耳炎等で家中が大変等とあり、母との出会いから始まり、短いが生きた声が語る。
明治期、祖父が築いた土佐刃物「上原商店」は通信販売で儲け、ブリ大敷網への金融等で富を築いたが、長男の夭折等で没落。
父は養子であった。義祖母と病弱の母と4人の幼児はわずかに残った財産で戦後を生き延びた。私共兄弟は母子家庭奨学資金や育英資金で社会に出た。
妹は教師となり家庭を持ったが腎臓病で先年亡くなり、栄達した兄も腎臓で苦しんでいる。子や孫のいる私も少年の頃、病弱で情けなかったが、憲法に守られた幸せな時代を生きてきたとも云える。親以前の人々の精一杯造った政治の結果でもある。絶えず歴史を振り返りつつ、政治を他人任せにしてはならない。

  ◎蒸気機関車から新幹線へ                    丸嶋 一休  

 3月14日の北陸新幹線開業のフィーバーぶりは、かつて新幹線車両の設計、検査修繕に携わった私としては大きな喜びである。
私が鉄道に採用された昭和23年頃は蒸気機関車が主役であった。その後、その座はエネルギー効率のいい電車にとって代わられた。
とは言うものの、新幹線計画が始まった昭和35年頃は、モータリゼーションの台頭と鉄道事業斜陽論が相まって、世間では新幹線反対論が根強かった。鉄道に造詣が深い作家・阿川弘之氏が言い出された「四バカ論=世に四バカあり。万里の長城、ピラミッド、戦艦大和に新幹線。いまさら時代遅れの大建造物を作っても無用の長物。建設資金返済に苦しむだけだ」は反対派に大いに受けた。
鉄道技術のリーダーを自任していたフランスやドイツでさえ日本の新幹線計画を白い目で見ていた。
ところが開業後の発展ぶりはご承知のとおり。来年は北海道まで延伸され、国を挙げてその技術を世界に売り込みを図る昨今である。

  ◎古希以後                             宮原 昰中  

 古希を迎え、つづいて生涯最終の定年退職をし、これから「毎日が日曜日」というとき、小平市で「グーテンタークの会」を立ち上げようとしている人々の仲間に入れてもらった。爾来今年で9年目を迎えるが、いつのまにか企画の中心を担うことになっていることに気がついた。でもあと2年間、せめて10周年までは続けたいと思っている。会は月2回、外部講師による講演で勉強しているが、この先生選びがなかなか大変である。
還暦以後、特段の運動もしていないので、体力維持のため、バス・エレベータ・エスカレータには乗らないで歩くことを続けている。更に出不精にならないよう、出来る丈多くのイベントに参加し、250回/年で頑張っている。一方、ボケ防止のため、30年前から読書に力を入れていて、目標は飽くまでも高く、毎日1冊だが、当然未達である。又7年前からだが、某学会誌(月刊)の最終ゲラ構成を手伝っている。
こうすればPPKになれると信じている。(甘いか?)

  ◎戦後に失ったもの、得たものと日本の未来          黒住 精二   

 戦後 70年で日本が得たものは、連合国、米国の占領政策のもとで得た復興と飛躍的経済発展です。失ったものは古代より築いてきた良き日本と日本人の心です。21世紀になり、日本は軍事力の支配する無政府状態の国際社会や、国内の大震災、原発事故に翻弄され、暴力に頼らない力により日本の生存を図るべく、教育、啓蒙により日本の心の豊かさを取り戻し、人財(人材)育成により、"日本国家の品格と日本人の品格を確保" することが肝要と気付きました。日本の国家の品格と日本人の品格は「武士道の精神」と「神道のこころ」を勉強、実践することで形成できると言えます。参考には藤原正彦氏の「国家の品格」、 新渡戸稲造の「武士道」、 葉室頼昭の「神道のこころ」があります。
一方、京都大学附属研究所「こころの未来研究センター」では、本来の日本人のこころの豊かさ、良さを再認識するのに大変役立ちます。ひたすら平和、安全とお題目を唱えるだけでは、家庭や社会、日本国家の平和と発展は期待できないなと思う。 



引き続き、「わたし戦後70年」の原稿を募集します。題名と名前を除いた本文が、原稿用紙1枚以内、または文字数400字以内でお願いします。
締め切りは7月末日です。


◎15年(平成27年)の学習会スケジュール 
学習会スケデュール6月修正3
                                               
 ★スケジュールは事情により変更、中止する場合があります。予めご了承ください。                   
  ○学習場所 東京経済大学の教室               
  ○各学習日とも土曜日 13:30~15:30                                          
  ○下記の学習は時間帯が異なります。                   
         7月18日  13:30~16:30    
                              
                                                      
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